2020年06月30日

電報送達紙用櫛型機械印

電報用機械印  札幌.jpg「郵便印」という概念は昔から「郵便逓送に関連して郵便物に押された印」とする考え方が一般的です。GANはこれは「狭義の郵便印」とし、「広義の郵便印」として、為替貯金印、電信電話印も加えることを提唱します。つまり、郵便印とは広義には郵便専用印、為替貯金印、電信電話印から成ります。

などという理屈はともかくとして、これまで「非郵便印」などとあたかも2級市民並みの不名誉な呼ばれ方で一括りにされてきた印の一つをお目に掛けます。左図は最近ネットで入手した、札幌局が配達した電報の送達紙です。右下部に大正13年5月17日C欄★3個、下部5本波線付き櫛型印(下図)が青黒色で押されています。電報用機械印  札幌-2.jpg

近年刊行された鳴美の『郵便消印百科事典』にも郵趣協会の『日本郵便印ハンドブック』にも採録されていませんが、載せないのは惜しい。浜松の消印研究家ですでに故人となられた池田進氏は自著『日本消印事典③ 櫛型日付印』(1972年)と『櫛型日付印詳説(下巻)』(1976年)で(恐らく初めて)発表しています。

舌状切込.jpg池田氏の調査によると、この日付印は逓信省工務局が試作した「電報送達紙自動封緘押印機」に取り付けられた印顆によるもので、大正10(1921)年ごろから昭和初期にかけて試用されました。宛名を表に送達紙を四つ折りし、上部に約1㎝の舌状切り込みを入れて折り込む(左図は送達紙右上部の舌状切り込みを折ったもの)と、確かに封緘したことになります。

電文を受信、印字した送達紙をこの機械に掛けると、自動的に押印した上で四つ折りし、切込封緘まで施されてすぐに配達できる形で出てきたのでしょう。波形線は郵便用の唐草印に似ていますが、データサイクル部が櫛型なのがユニークです。この点から平川式機械印に近い、と言うべきかも知れません。使用例が少ないのは試験結果が思わしくなかったことを示唆しているようです。

池田氏は横浜、名古屋(共にC欄★3個)、大阪中央、神戸中央局(共にC欄「電信局」)の印影を示し、他に京都中央局の使用もあるそうです。今回の札幌局は6局目の使用例となります。C欄表示形式に2種類あるのは、★3個は郵便局の電信課が、「電信局」は電信専用局が扱った区分を示すとGANは考えます。

櫛型電信機械印030623.jpg追記 】(2020.07.06) この記事に永富様からコメントを頂き、それがきっかけでこの印の試用告知(右図)が昭和3(1928)年6月23日付「逓信公報」に掲載されていたことを初めて知りました。告知によれば、他に少なくとも東京中央電信局、同局日本橋分室、神戸局でも使われたことが分かります。〈C欄★3個は(普通)郵便局、「電信局」は電信専用局の使用〉というGANの推測も確認がとれました。〈大正10(1921)年ごろから昭和初期にかけて試用〉という上記池田氏の記述は再検討の必要があるのかも知れません。

《電報送達紙自動封緘押印機についての説明は、池田氏の「機械式櫛型電信印」(静岡コレクターズクラブ機関誌『しずおか』1987年1月号所載)によりました。》
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2020年05月26日

満洲丸二型印に左書誤刻

王爺廟-1.jpg龍井村.jpg「満州国」郵政が初期に使った日本製の大型丸二印、いわゆる「満洲丸二型印」に左書きのエラー印が2局あることが分かりました。右に示す吉林省龍井村局()と興安省王爺廟局()のエンタイアです。共に最近のネットオークションで入手しました。

龍井村局印は満州国年号の康徳元年(1934年)10月10日です。横長(平体)ゴチック体の省名「吉林省」が右書き、局名「龍井村」は楷書体で左書き、つまり省名と局名が左右バラバラ書きです(下図の左)。当時の正書法は右書きなので、明らかに局名の方がエラー(誤刻)です。

丸二型印の「元年」は、康徳元年より3年前の大同元年(1931)ということも一応は考えられます。しかし、大同元年10月中はまだ中国郵政の旧印を流用中で、丸二型印の影もありませんでした。当時の情報によると、東京の築地活版所で新たな丸二型印の印顆が出来たのは31年10月末ごろです。現地への発送は11月以降、一斉に使用が始まったのは翌年(大同2年)1月1日からとなりました。

龍井村-2.jpg王爺廟-2.jpg一方の王爺廟局印(左図の右)は康徳2年11月27日で、ゴチック体の省名「興安」と局名「王爺廟」が共に左書きとなっているエラーです。しかも縦長(長体)フォント「王爺廟」3文字の配列が特異です。中央の「爺」だけが半文字分ぐらい下に沈み、垂直のまま外枠の円周に沿っています。

王爺廟局の丸二型印に左書きのものがあることは、既に織田三郎氏が「満州国の省名入り丸二型日付印について」(『関西郵趣』1978年9月号)で報告しています。単片上の一部局名だけが示されました。完全印影は今回が初めてのようで、省名、局名共のダブルエラーだったことが分かりました。

このようなエラー印は、受注した印判業者あるいは活字製作会社のまったくのうっかりミスでしょう。ことに初期は築地活版所で印顆の印枠と省名、日付活字を製造し、局名活字については水牛印材を満洲に送って現地で手彫りしたといいます。ゴチック体と楷書体、右書きと左書きが混じる龍井村局印にはそうした背景がありそうです。

王爺廟局の場合は同一業者が省名、局名活字の両方を同時に製作したはずです。となると、同時期の興安省で王爺廟以外の局ではどうだったでしょうか。省名だけ左書き印、省名・局名とも左書き印がもっと他にもあるかも知れません。
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2020年05月21日

切手でない「弾丸切手」

弾丸切手パンフ.jpg弾丸切手袋.jpg突然ですが、ここでクイズです。本当は切手じゃないのに郵便局で切手として売られたもの、なぁーんだ? 訳知り顔の郵趣家は「それは飛信逓送切手さ」と答えるかも知れません。しかし、明治初年の公用治安情報速達に使われた飛信逓送切手は郵便局で「売られ」てはいません。関係官庁に配布されたのでした。

クイズの正解は「弾丸切手」です。1942(昭和17)年6月8日に1枚2円の定額で発売されました。上の図は郵便局が配った弾丸切手推奨パンフレットと保管用の袋です。太平洋戦争開始からちょうど半年後のことなので、名前だけ聞いて、きっと銃砲弾を描いた切手だろうとか、兵器や軍需品の製造費に充てる寄付金付き切手ではないか、などと考えた人が多かったでしょう。

戦時貯金切手.jpgしかし、それも違います。「弾丸切手」は当局が付けた通称で、正式名称は「割増金附戦時郵便貯金切手」でした。では、二宮金次郎の10銭貯金切手と似たようなものかと思うと、実物(右図)を見れば分かるとおり、そもそも郵便や切手とは形も用途も無縁です。正体は「富くじ付き据置貯金クーポン券」とでも言うほかない、複雑にして奇怪極まる代物でした。割増金とは官庁だけの用語で、富くじ(宝くじ)の当籤賞金のことです。

中国との戦争に加え、英、米、蘭(想定ではソ連も)を相手に無謀な太平洋戦争を仕掛けたので、戦費は底なしでした。日本政府はGDP(国内総生産)の数年分もの赤字国債を発行して当面を糊塗しました。経済力無視の借金付け回しで、戦中・戦後のハイパーインフレは初めから承知でした。しかも戦争の帰趨と無関係に元金の償還期限は確実に迫ります。

政府は国民に国債を買うよう必死に呼びかけました。郵便の標語機械消印にまで「兵は戰線/我等は国債」「求めよ国債/銃後の力」などが氾濫しました。しかし、国債を買えるのは富裕層に限られるため、国民大衆の零細資金に目を向けます。政府は日本勧業銀行に「大東亜戦争報国債券」を発行させ、さらに低額で逓信省貯金局にも発行させたのが弾丸切手でした。共に無利子ですが「売り」は富くじ付き。射幸心を煽って資金をかき集める政策です。

据置貯金証書.jpg弾丸切手は42年6月から毎月1,000万円ずつ発売されました。抽選で毎回1等1,000円から4等2円までの賞金が当たります。92%がはずれ券となりますが、はずれ券5枚(額面合計10円)を郵便局で5年間無利子据置の「大東亜戦争特別据置貯金證書」(左図)に引き換えることができました。結局、弾丸切手とは5枚買って10円の定額据置貯金をするだけのものでした。

弾丸切手には据置貯金以外の使い道はありません。元金の償還や払戻はなく、据置貯金も申込み期限に遅れれば無効、4枚以下や発行時期が異なるものはいくら持ち合わせていても無効でした。貯金局には多数の購入者から使途への疑問や不満・苦情、改善意見などが寄せられていたようで、その一部の手紙や回答文案が国立公文書館に残されています。

そんな始末に負えない「クーポン券まがい」を、当局はなぜ「弾丸切手」と名付けたのか。説明する資料は見当たりません。GANが推測するに、富くじに「当たる」から「弾丸」、郵便局で売るので「切手」、というだけのこじつけでしょう。戦時下国民の愛国心を利用するだけして5年満期時にはインフレで無価値化、という底意も透けて見えます。低俗で姑息、しかも阿漕な官僚発想と言うほかありません。

恐らく弾丸切手はそれ自体で「自爆」してしまい、国債消化どころか売れ残り大失敗に終わったことでしょう。「弾丸切手がお国のため役立った」などという資料には、ついぞお目にかかったことがありません。行き場を失った多くの弾丸切手が80年近く経った今も、亡霊のようにネットなどの古物市場をさまよい続けています。
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2020年04月30日

泰緬鉄道部隊の軍事郵便

5805ビルマ.jpg5805タイ.jpg1957年の米コロンビア映画「戦場にかける橋」は泰緬(タイ・ビルマ)鉄道建設をヒントにしたフィクション娯楽作品です。白人優位・アジア人蔑視が露骨で、絵に描いたような「ハリウッドもの」ですが、日本でも大ヒットしたため、これを史実と思い込む残念な日本人もいます。南方切手の権威とされる土屋理義氏が典型で、「(泰緬鉄道とは)映画『戦場にかける橋』で有名になった鉄道である」などと自著『南方占領地切手のすべて』で堂々と「解説」しています。

歴史認識に弱い土屋氏がご存じなかっただけで、映画公開のずっと以前から日本軍が難工事の末に建設した戦略鉄道として、日泰関係史や戦史研究者らに注目されていました。イギリス、オランダなどの俘虜や現地労務者を使役して虐待や疫病で無数の死者を出し、戦時中から「死の鉄道」と連合国側に非難されて多くの戦犯処刑者を出したことでも有名でした。

GANは泰緬鉄道の建設や運営を軍事郵便など郵便史の上から示すことはできないかと関連アイテムを探求してきました。この作業で根本的に難しいのは、泰緬鉄道に関与した部隊の名称を示す史料さえ存在しないことです。戦犯追及を恐れた陸軍が敗戦直後に東京と現地ですべての泰緬鉄道関連資料を組織的に焼却し尽くしてしまったことが最大の原因です。

史料不足の中で唯一確かなことは、泰緬鉄道建設部隊として第2鉄道監部、鉄道第5聯隊、鉄道第9聯隊、第4特設鉄道隊から成る「南方軍鉄道隊」が編成された事実です。1943年2月に大本営が建設工期短縮を命令したのを受けて発足しました。南方総軍の命令による臨時の編合部隊で、正式な戦闘序列による部隊ではありません。鉄道隊を支援する多数の兵站・補給部隊も臨時配属されましたが、具体的な部隊名は断片的にしか分かっていません。

鉄道監部は複数の鉄道部隊を指揮するためだけの小規模な司令部組織で、他の3部隊が鉄道建設の直接実行部隊です。特設鉄道隊は鉄道省技師を中心に臨時編成された専門家集団で、路盤構築、橋梁建設などの高度な設計・施工に当たりました。鉄道の工区は国境で二分され、鉄9聯隊と4特鉄隊がタイ側、鉄5聯隊がビルマ側の担当となります。

泰緬鉄道は43年10月に全線開通し、その直後に南方軍鉄道隊は役目を終えて解隊されました。第2鉄道監部はインパール作戦準備のために鉄5聯隊を率いてビルマ方面軍隷下に転進します。完工した泰緬鉄道の管理運営は、タイ側を4特鉄隊がそのまま、ビルマ側を今度は鉄9聯隊が受け持ちました。両部隊は南方総軍の直轄下に戻ります。

前置きが長くなり過ぎましたが、ここからが本題です。鉄9聯隊の場合、42年6月から43年10月までは泰緬鉄道のタイ側建設部隊で、翌11月から敗戦後までビルマ側の管理部隊でした。つまり鉄9聯隊の軍事郵便なら、開戦直後のごく短期間を除くすべてが「泰緬鉄道のエンタイア」と言える、極めて分かりやすい部隊なのです。

上の画像で示した2通のはがきがその鉄9聯隊からで、共に戦地の夫から静岡で留守を守る妻に宛てた通信です。の発信アドレスは「泰派遣岡第5805部隊」で、書き込みによって昭和18(1943)年10月6日発 → 11月10日前後着と分かります。は「ビルマ派遣岡第5805部隊」からで、昭和19年4月1日発 → 5月27日着です。「5805」は鉄9聯隊を、また「岡」は南方総軍隷下・指揮下の部隊であることを意味します。

鉄9聯隊は泰緬鉄道完工に伴う上述の任務変更で、実際に43年11月27日にタイから国境を越えてビルマに入り、聯隊本部をタンビュザヤに置いたのでした(厚生省援護局編『鉄道部隊略歴』)。アドレスの変化が歴史上の事実に対応しています。2通のはがきはフィクションとは無縁の泰緬鉄道史の一齣を物語っています。
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2020年03月31日

塘沽停戦協定の駐屯部隊

馬蘭峪-1.jpg馬蘭峪-2.jpg日中戦争が始まる1年前、昭和11(1936)年8月24日に静岡・袋井局で引き受け、中国河北省馬蘭峪(ばらんこく)の部隊に宛てられた軍事郵便はがきです。裏面の中国印から河北省唐山局を8月28日に経由し、表面の着印で8月29日に馬蘭峪局に着いたことが分かります。

馬蘭峪とは聞き慣れない地名ですが、「馬蘭関」と記す資料もあるように、万里の長城の南壁に沿った関門の1つでした(下地図参照)。古北口と喜峰口の中間ぐらいに位置し、関門としては小規模なものだったようです。山海関や唐山、塘沽などの中都市に比べれば奥地の小集落に過ぎなかったと思われます。

塘沽停戦区域図.jpgそんな辺鄙な場所になぜ日本軍がいたのでしょうか。天津に司令部を置く日本の支那駐屯軍は北平(北京)-天津-山海関を結ぶ北寧鉄道沿線にしか駐屯できない取り決めだったので、それではありません。調べてみると、1933年に日中間で結ばれた塘沽停戦協定による関東軍からの派遣隊と分かりました。

関東軍は本来は「満州国」を守備する部隊です。万里の長城が中国との国境だったので、長城の南側(関内)に部隊を侵出させることはできません。しかし、関東軍はこの一帯を南京の中国国民政府から切り離して傀儡政権を建て、満州国を防衛する中立地帯とすることを目論んでいました。「華北分離工作」と呼ばれます。

それを初めて実行に移したのが1933年5月に発動した関内作戦でした。1月に始めた熱河平定作戦に乗じて関東軍の大部隊が長城の各関門から一挙に南下、侵攻します。北平(北京)や天津の陥落を恐れた中国側が停戦を申し入れ、5月31日に塘沽で関東軍との間に停戦協定が結ばれました。

勝ち誇る関東軍は中国側に強請して延慶と芦台を結ぶ停戦ラインの北方、長城線までの区域を「停戦地帯」に設定し、中国軍を停戦ライン南方に追いやりました。引き換えに関東軍も長城より北側(満州国内)に撤退したのですが、長城線確保のため長城南壁に沿った戦略的重要地点への駐屯を中国側に無理やり認めさせました。

長城南側の駐屯地名は停戦協定本文ではなく、協定の「善後申合せ」に付属する「了解事項」という秘密協定に書き込まれました。それが馬蘭峪を含む山海関、喜峰口、古北口など6地点です。関東軍・満州国が中国本土内に打ち込む侵略のクサビとなりました。満州国が領土外なのに山海関と古北口に堂々と郵便局を開設できたのは、このためです。

話が長くなりすぎましたが、馬蘭峪に日本軍が駐屯していたのにはこういう事情がありました。塘沽停戦協定は出先同士の現地協定という扱いで、本文は公表されませんでした。まして付属秘密協定は南京の国民政府にさえ報告されていません。この1通のはがきはそうした歴史の闇を暴く証拠物件となっています。

(この記事を書くに当たって、アジア歴史資料センター(JACAR)の「北支停戦協定ノ成立」「停戦協定善後処理ニ関スル北平会議々事録」を参照しました。)
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2020年03月29日

この郵便物は消毒済です

消毒済1.jpg消毒済_04.jpg貼られた切手を抹消してその郵便物を引き受けたことを示す通信日付印(消印)を代表に、パクボー印や停車場印、箱場印や川支印などは引っくるめて「郵便印」と呼ばれています。料金不足や航空など取扱種別を表す印、太平洋戦争中や米軍占領期の検閲印なども、むろん郵便印とするのが郵趣家の常識です。

非常に幅広く使われている「郵便印」ですが、では郵便印とは何か、どう定義されるかは、少し難しい問題を含んでいると、GANは考えます。例えば、官公署が受取人の際によく使われる受領印、監獄の看守や女子寮の舎監が押す検閲印なども郵便印なのか。これらは定義次第で郵便印としての当否が分かれます。

似た例として消毒印の問題があります。明治、大正時代がほとんどですが、「消毒」「消毒済」などの印が押された郵便物の存在が知られています。数十年も昔、「消印とエンタイヤ」の時代から報告されていました。郵便印と認識していた人たちが一定程度はいたはずですが、最近では郵趣界で取り上げられた例を見ません。

皇宮警察1.jpg皇宮警察3.jpg外国のケースでは、アメリカで2001年の同時多発テロ事件の直後に炭疽菌入り郵便物によるバイオテロ事件が起き、一定の郵便物を消毒して配達しました。細菌やウイルスの知見に乏しかった明治期の日本でも、コレラやペストなどの感染症が郵便物を介して広まるのではないかと恐れました。

右上の画像は水戸上町局で10月30日に引き受け、群馬県玉村に宛てた小判はがきです。はがきが紙幣寮銘であること、東京局の中継印が「一二」と読めることから明治12(1879)年の使用と確定できます。表面右中央部に「消毒済」の朱印があります。この印がどこで押されたかは不明です。

明治12年は全国でコレラが大流行した年でした。各地に次々と避病院(隔離病舎)が建てられ、大規模な消毒作業が行われたようです。これらに反対する農民が暴徒化して「コレラ一揆」まで起きたといいます。確定する資料は未見ですが、郵便の現業局所でも郵便物の消毒に当たっただろうと想像するに難くありません。

の封書は明治41(1908)年3月13日に沼津局で引き受けられ、裏面着印によれば京都荒神口局に翌14日に着いています。発信者は沼津御用邸、宛先は宮内省主殿(とのも)寮京都出張所です。封筒の左側中央部に二重丸型「皇宮警察/消毒」の大型朱印があり、出張所を警備する皇宮警察が消毒処置したことを示すとみられます。当時は衛生取締も警察の所管でした。
高輪御殿.jpg
これより前、明治35(1902)年に京浜地方でペストが発生し、数年間にわたって流行が続いたようです。ネズミを通じて伝染すると信じられ、駆除策として役所がネズミ捕獲を勧め、1匹5銭で買い上げたといいます。このペスト禍に関係すると考えられる記事が明治39年8月7日付「逓信公報」告知欄(右図)にありました。

東京・芝の高輪御殿宛ての郵便物は直接御殿には届けず、皇居内の宮内省消毒所に配達せよ、つまり芝局でなく麹町局に送れという指令です。当時の高輪御殿には明治天皇の皇女2人が住んでいました。皇室関係の到着郵便物はいったんすべて消毒所に回すよう宮内省の要請があり、逓信当局が特別措置をとったことが示唆されます。

話を振り出しに戻しますが、現在のGANの考えでは郵便印の定義は「郵便物の引受から配達に至る逓送中に押された、取扱に関わる一切の印章類」です。ここで示した2通の郵便物の消毒印も、名宛人が受け取った後に押された明確な証拠がない限り郵便印です。現今のコロナウイルス禍では郵便にも被害が拡大するのでしょうか。

消毒済-1.jpg[追記](2020.05.24) 本稿を書いたのは、今回のコロナウイルス禍との関連で「確かスペイン風邪の『消毒済』エンタイアがあったはず」と貧しいコレクションを探したのがきっかけでした。それはなく、代わりに出てきた2通のエンタイアをここに記載しました。ところがつい昨日、偶然開いたシベリア出兵の軍事郵便アルバム中に目指す「スペイン風邪もの」を見つけました。3点目の「消毒エンタイア」として追加してご紹介します(上図)。
消毒済-2.jpg
民間人旅行者が北樺太のアレクサンドロフスクから発信した絵はがきです。第50野戦局で大正11(1922)年8月7日に引き受けられ、東京の宮内省文書課長に宛てられています。文面などから、発信者はあるいは宮内省の高級官僚かも知れません。はがき右側空白部に角枠「消毒濟」朱印(左図)が押されています。東京に着いて押されたのでしょう。「消毒エンタイア」はやはり皇室・宮内省関係に目立ちます。

スペイン風邪は1918年から世界中に広まったインフルエンザの一種です。ウイルス起因のパンデミックという点で今回の新型コロナの「大先輩」に当たります。第1次大戦に参戦した米軍兵士がヨーロッパに持ち込んだのが発端とされ、日本では1921年7月まで3回にわたる大流行のピークがあって38万人が死んだそうです。

このはがきは国内での第3波が終わって1年後のものですが、次の流行への警戒は更に続いていたのでしょう。スペイン風邪防止のための消毒とみて間違いないと思います。
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2020年03月26日

国際軍事郵便なぜ無料?

Egypt-1.jpgEgypt-2.jpg最近のヤフオクで入手した、日中戦争期に華中に派遣された部隊からエジプトに宛てた軍事郵便です。中国や「満州国」宛ての軍事郵便はありふれていますが、第3国宛てはあまり目にしません。

この封書は中支派遣田村部隊から4月18日に発信され、三井物産アレクサンドリア支店の日本人に宛てられています。裏面にアレクサンドリア局の到着印が明瞭に押されていて、1940年6月13日に着いたことが分かります。恐らく門司局を経由し、西回り船便で2ヵ月がかりで逓送されたのでしょう。

封筒表面下部の機械印は中継印と思われますが、残念ながら読めません。スエズ、ポートサイド、カイロなどエジプト局の可能性もあります。その右の二重丸印は英語CENSUREDが読め、アラビア語もあるバイリンガル検閲印です。ナチスドイツがヨーロッパを席巻していた時代の雰囲気が感じられます。

ところで、国際郵便を軍事郵便で、しかも無料で出せたものでしょうか。規則に照らせば答えは「否」です。軍事郵便の根本法令である明治37年勅令第19号第6条は「条約ニ依リテ取扱フ郵便物ニハ、料金免除ヲ適用セス」との趣旨を規定しています。「条約」はUPU条約などを想定しているでしょう。

この規定によれば、野戦局に差し出された国際郵便でも、UPU料金(この封書には20銭)の切手が貼られていれば有効です。その場合は軍事郵便でなく普通郵便として、軍事郵便交換局と外国郵便交換局を経て逓送されました。実際、アメリカやドイツ宛ての野戦局引受有料便が数点知られています。

それではこの「軍事郵便」が無料で引き受けられたのはなぜでしょうか。野戦局員が法令に無知だったとしか言う他ありません。通信文から、発信者は外国語が堪能なため特別に召集された士官(あるいは徴用された軍属)のようです。そういう人が出すのだから問題あるまいと、野戦局員も誤認してしまったのかも知れません。

日露戦争期には高級軍人らの野戦局引受有料国際便カバーがかなり発表されています。しかし、日中戦争期の国際郵便は極めて稀です。時代が下るに連れて軍人の「視野」も低下した、などと考えるのは穿ち過ぎでしょうか。いずれにせよ無料扱いは(違則だったとしても)ユニークで、資料として貴重です。
posted by GANさん at 18:37| Comment(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする

2020年02月29日

恤兵繪葉書型録を作ろう

夜舟.jpg軍事郵便の収集をしていると、そのステーショナリー(はがき、封筒、便箋)にも自然と目が向きます。とくに逓信省が発行した軍事郵便はがきには昔から関心が持たれ、官製はがきの一部としてカタログ化されてきました。

しかし、逓信省製軍事郵便はがきは需要に対して供給力が圧倒的に不足していました。出征兵士は基本的には酒保(しゅほ=旧日本軍用語で、兵舎内や駐屯地に開設される日用品ショップ。米軍でいうPX)でわずかな給料を割いて自費で私製はがきを買い、家郷への通信に充てていました。

そんな実情に配慮したのでしょう。陸軍省は戦争のたび省内に臨時特設した恤兵部(じゅっぺいぶ)で国民からの寄金で「恤兵はがき」を製造し、兵士に配りました。これは日露戦争当時に始まり、満州事変からは数種を組合わせた絵はがきセット(右上は一例)を毎月発行するほど本格化しました。

恤兵部の「恤」は「憐れむ」という意味です。「苛酷な環境下で死をも賭して敵と戦う兵士」を憐れみ救い、慰め励ますという「上から目線」の組織でした。華北の一角に上がった戦火が大陸全土から東南アジア・太平洋にまで及ぶと、もう恤兵路線では100万人単位の需要に実務的に追いつけず、破綻し始めます。

銘版3.jpg日中戦争が始まった1937(昭和12)年に戦争経費の出納を一手に賄う機関として臨時陸軍東京経理部が特設されました。兵士への軍需品供給も任務となり、恤兵はがきの発行を始めます。軍需品供給部門が肥大化すると、陸軍需品本廠として1941(昭和16)年に経理部門から分離、独立し、恤兵はがきの発行も移りました。(は発行された恤兵絵はがきの銘版。上から恤兵部、東京経理部、需品本廠)

経理部も需品廠も恤兵部と併行して恤兵はがきの発行を続けていました。しかし、ただでさえ資材が決定的に不足する中で重複事業は不合理です。恤兵部は1943(昭和18)年、ついに恤兵はがきの発行から手を引きます。以後は敗戦まで需品廠だけが陸軍の恤兵はがきを製造・供給しました。

上記のような知見をGANが得たのは最近のことで、ネタ元は相変わらずJACAR(アジア歴史資料センター)です。この流れを踏まえた『恤兵繪葉書型録』を作ろうと考えています。満州事変以後に陸海軍当局・部隊と逓信官署が発行した膨大な量の恤兵絵はがきをすべて分類しようという壮大?な企てです。果たして完成までたどり着けるのか。あまり(≒ほとんど)期待せずお待ちください。
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2020年02月09日

日露開戦を伝える第一電

動員令.jpg明治37(1904)年2月5日午前7時20分、始業直後の筑前(福岡県)前原局は1本の電報(左図)を受信しました。午前5時55分に熊本局長から管内の各電信取扱局所長に一斉に流された至急局報、通信業務上のいわゆる「ウナ電」です。

電文は「動員(令)出た。今夜は特に注意方督励すべし」です。日露の開戦を明確に伝える内容に、「ついにきたか」と局員らの緊張は最高潮に達したでしょう。開戦となれば県内の小倉第12師団が第一陣部隊として送られることが、地元では半公然の秘密だったからです。

この2月5日という日は、前日の閣議により朝鮮に陸軍前原-3.jpgの先遣隊を送る命令が発せられた当日です。翌6日に12師団から抽出された歩兵4個大隊が佐世保を出港しました。9日に仁川上陸、京城(ソウル)に向けて進撃し、戦闘が開始されます。両国の宣戦布告は10日になりました。

当時の熊本局は九州一円と沖縄県の郵便・電信局所を監督する管理業務もしていました。実はロシアとの戦争を「予告」する熊本局からの電報は、1ヵ月も前の1月8日に始まっています。「動員令今にも発布せらるるやも知れず。(電信)取扱者一同、督励を要す」という至急局報でした。

この電報も、ロシアからの最後の妥協案が1月6日に届いて日本政府が「とうてい受け入れられない」と開戦決意を固めた直後に当たります。GANはこれら一連の電報群を近年のヤフオクで入手しました。日露開戦関係では熊本第6師団への動員発令や電信検閲関連など数通が含まれます。

戦争、とくに開戦の前後では迅速に軍隊を動員、派遣するため電信が最大、最速の連絡手段です。当時の政府や軍部などの当局者は戦争遂行手段としての電信を重要視し、密かな統制に注力していました。その実態は郵趣家でもある竹山恭二氏の『報道電報検閲秘史』(2004年)に明らかです。

管理者としての熊本局長は電信取扱局所長に対し、「(部下職員を)督励せよ」と繰り返し叱咤激励しています。こうして、各局の電信職員は期せずして全国民の中で真っ先に戦争情報を知る立場となっていました。
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2020年01月29日

旅順局で籠城2年の書状

captured mail.jpg帝政ロシアが支配する東清鉄道のスポンサー、露清銀行ポート・アーサー(後の旅順)支店からペテルブルグに宛てた書状です。裏面(右図)封じ目に内国料金の7コペーク紋章切手を貼り、1904年8月24日(日本の明治37年9月6日)にロシア旅順局で引き受けられています。近年のeBayで入手しました。

一見して素直なカバーに見えますが、ペテルブルグの到着印はなんと、1906年9captured mail5.jpg月11日(明治39年9月24日)です。通常なら2週間ほどで着くというのに、この書状はまるまる2年間をいったいどこでどう過ごしていたのでしょうか。

その釈明を裏面上部に貼られた封緘ラベルが果たしています。6行にも及ぶロシア語で「この書状は旅順の降伏により日本軍に押収されていたが、ロシア帝国対日使節団を通じてハバロフスク郵便電信局に引き渡され、名宛人に配達された」とあります。

読者各位がすでにご推察のとおり、これは日露戦争で輸送路が途絶して逓送がストップしていた「掩留=延滞カバー」です。しかも日本軍によって押収されたCaptured Mail(押収=捕獲郵便物)だというのです。ラベルはハバロフスク局でロシア軍当局が開封検閲し、再封のために貼ったのでしょう。積極的に「検閲した」と書かれてはいませんが、としたら、これは検閲カバーでもあります。

日本の第2軍は遼東半島南岸に上陸し、04年5月26日に旅順北方の要地・金州の攻略に成功しました。金州守備のロシア軍は追撃を絶つため東清鉄道南部支線の鉄橋を自ら破壊して撤退したので、ロシア軍の旅順要塞は名実ともに孤立します。ただし、当時はまだロシア太平洋艦隊が旅順港内で健在だったので、海路でのわずかな連絡があった可能性は残ります。

さらに乃木大将の第3軍による旅順攻囲完了は8月初旬のことでした。それから1ヵ月後に引き受けられた書状なので、他の郵便物と共に旅順局の地下倉庫にでも保管されたままとなったのでしょう。ロシア側は日本軍の攻撃に耐え抜いて勝利し、遠からず逓送が再開されると信じていたのかも知れません。実際には連絡遮断され籠城7ヵ月の末、05年1月2日に旅順要塞はついに陥落してしまいます。

時がさらに経った講和成立の翌年、日本軍との善後協議のため(恐らく旅順に)派遣されたロシア使節団にこれらの郵便物は引き渡されました。旅順局だけでの限られた期間ですから、郵便物は全体でもそう多くはない量だったはずです。海路ウラジオストク経由で沿海地方の中心地・ハバロフスクに送られ、ようやく逓送ルートに戻ったのだと思います。
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