2017年05月28日

飛信逓送タダじゃない

飛信逓送.jpg明治初期、公用緊急通信の急送手段として「飛信逓送」という制度がありました。郵便局というハードウエアを利用して書状を送達するので郵便の一部と考えられがちですが、GANは郵便の範疇には含まれない別制度と考えています。飛信逓送の性格を正面から論じたら興味深い大論文ができますが、ここは措いておきます。

ただ、性格論と関連する根本問題として、2点を問題提起しておきたいと思います。「飛信逓送は無料の軍事郵便」が「定説」とされていることです。直近では『ビジュアル日本切手カタログ 第4巻』(日本郵趣協会、2015年)にもそう書かれていますが、誤りです。飛信逓送は無料ではなく、軍事郵便でさえありませんでした。

飛信逓送は、特定の公用書状を「脚夫」(ランナー)が昼夜兼行で郵便局間を継ぎ送りし送達する制度です。利用は非常事態下の官庁(公用)に限られ、私用には使えませんでした。郵便切手は使わず、経由する郵便局ごとに「飛信逓送切手」が渡されて飛信書状であることを証明しました。

日本郵趣協会(JPS)は1974年に始まる『新日本切手カタログ』の時代から今日の『日本切手専門カタログ』(日専)まで飛信逓送切手を「その他の切手類」として取り上げてきました。前出の『ビジュアルカタログ』はその最新版ですが、飛信逓送切手について1ページを割いたコラム(上図)の中でこの制度を次のように紹介しています。
飛信逓送はこのような非常事態(士族反乱や農民一揆=筆者注)に際し、緊急の書状を逓送するために、1874年(明治7)に制定された無料の軍事郵便で、……
ところが実際には、この制度を利用できたのは正院(今日の「内閣」に相当)、外務省、内務省、大蔵省、工部省、司法省、宮内省、開拓使、陸・海軍省、各地鎮台・営所と各府県庁でした。陸・海軍省と鎮台・営所以外はすべて軍事と無関係で、むろん、軍隊の運用権はありません。

暴動などが起きた場合、まず鎮圧に当たる警察の指揮権は内務省にありました。どの国の政府でも、軍隊の治安出動は警察力で対応しきれなくなった場合に限られ、あくまで2次的な想定です。制度の利用者、実際の運用の両面から言って、この制度は軍事利用に限定されたものではなく、軍事郵便ではありません。

次に、飛信書状を運ぶ脚夫はその都度郵便部外者に依頼するため、脚夫賃を支払う必要がありました。これは手配した経由局で立て替え払いしておき、後日駅逓寮(郵便所管官庁、10年1月以降は「駅逓局」)に飛信逓送切手を提出して清算していました。つまり、利用のたびにコストが発生し、それを駅逓寮が負担する有料の制度です。

この駅逓寮負担は会計原則から言って不合理な処置でした。大蔵省の提議に基づいて、西南戦争のさ中の明治10年7月以降は「各廳ニ於テ飛信ヲ要シ候節、右逓送費ノ儀其廳經費中ヲ以支拂候儀ト相心得」よ、と通達されました(10年8月24日正院達第59号)。脚夫賃は陸・海軍省や内務省などの受益者負担と改められたのです。このように、飛信逓送が無料というのは全くの誤解です。

JPSは1974年に最新の郵趣研究成果を集大成した極めて意欲的な『日本切手百科事典』を刊行しました。その中で「飛信逓送切手」が詳説され、制度については次のように説明されています(p.209)。筆者は天野安治氏で、論拠は示されていません。
不平士族の反乱、農民一揆など明治初期の反政府暴動に対処するために制定された公用の無料軍事郵便で、……
我が国郵趣界最高権威のこの誤認記事から問題が始まりました。『新日本カタログ』は翌1975年版にさっそく天野説を取り入れ、「飛信逓送は公用の無料軍事郵便」と全面的に書き換えました。このカタログの74年版では「(飛信逓送は)公用郵便物の特別送達」と正しい説明でした。ここまで、「無料」と「軍事」はなかったのです。

『新日本カタログ』は『日専』に発展しましたが、以後えんえん40数年間、天野氏のこの記事は丸写し続けられました。最初の方で示した『ビジュアルカタログ』のコラム記事も、もちろんこれが祖型です。この間、JPSのカタログ筆者らが根拠となった天野氏記事を見直したり精査した形跡は全く見られません。

そもそもJPSが発行する近年のカタログ類には編集・出版上の定見がありません。目立つのは明らかな事実誤認や校閲上の単純ミスばかりです。コレクター仲間の評判が、はっきり言って、とても悪い。営業上の困難は理解できるのですが、一貫性を放棄して縦横無尽にブレまくったり権威に盲従して先人の遺産を食い潰す弁明にはなりません。飛信逓送「問題」は氷山の一角です。

創業理事長を務めた水原明窻氏亡き後、責任ある統括者、監修者がいないのが原因とGANは見ます。名目上の理事長や「責任者」が、あるいはいるのかも知れません。「水原氏並みに」とまでは言いません。少しは使命感と、わずかでも意欲の見える出版物を出してほしいものです。
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2017年05月27日

湯崗子分室エラー印

湯崗子分室.jpg本日届いたばかりのヤフオク落札品です。満洲屈指の温泉地として戦前日本人に愛された湯崗子温泉の絵葉書に「満洲国」の4次通常荷馬車2分切手が貼られ、鞍山郵政局湯崗子分室で康徳7(1940)年7月3日に引き受けられています。

湯崗子は夏季限定のいわゆる季節局(定期開設局)です。日本時代は出張所でしたが、康徳4(1937)年に満洲国に移譲のさいに分室に改定されました。委譲後の印影をGANは初めて見ました。

荒井国太郎氏や田中清氏らの各種報文などでもこの印影は紹介されていなかったと思います。穂坂尚徳氏の力作「『満洲国』の消印と使用状況」(『日本郵趣百科』1985年版所載)には詳細な分室一覧表がありますが、なぜか湯崗子分室は洩れています。しかし、移譲は間違いなく、康徳4年12月1日の交通部佈告第329号に掲載されています。

湯崗子出張所印.jpg湯崗子.jpg日本時代の日付印(左図の左)はA欄出張所名、D欄本局名だったのですが、満州国(左図の右)ではA欄本局名、D欄省名(奉天)で、分室名はE欄に表示されています。このE欄に分室名が入る「分室型」印はこれまでに数局が知られています。

湯崗子拡大.jpg湯崗子分室の印影で面白いことは、肝心の分室名が左書きのエラーになっていることです。D欄の上部三分の一ほどが出ていませんが、3文字中の左は「湯」、右は「子」です(右図)。どう見ても、その逆ではありません。C欄時刻が左書きなので、それに釣られてうっかり誤刻してしまったのかも知れません。
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2017年05月12日

懲りないニセ南洋印

サイパン兵站3.png昨秋、2016年10月2日の記事でテニアンの空中楼閣的なニセ消印について書きました。同じ偽作者が懲りもせずに今度も南洋サイパンのニセ消印を新作して、またヤフオクに出品しています。締め切りまで日がありますが、あまりにも悪質なので敢えて記します。

このニセ印も櫛型印を模していて、上部に「航空兵站」、下部に「サイパン」と左書き(!)で入り、日付は「18.10.17」。櫛型のようなデザインが最上部と日付の下部にあるのが珍妙です。前回テニアンと同じフォントの日付活字を使い回したチープ感あふれるゴム製で、ニセ印はバレバレです。

出品者は「商品詳細」として次のような説明を載せています(原文のママ)。
◆曾祖父が残してくれたものですが、これに付きましては、歴史的符号箇所もそこそこにあるのですが、現時においての言われ等、郵駿諸氏の御洞察を仰ぎたいところです。
◆さてさて、御了承の上、御入札願います。
この人の悲しむべき国語力の貧困ぶりについては、このさい措くとします。許しがたいのは曾祖父という3世代前の人のコレクションだという破廉恥なウソを堂々と書いていることです。「伝世品であり、従って真正品」と誤認を誘い、故人(たぶん)に責任転嫁する逃げ様が卑怯です。

「歴史的符号(日本語『符合』の誤り)箇所もそこそこにあるのです」もまた大ボラ。戦史でも郵便史でも歴史的事実にマッチする点は1つもありません。このようなハンコが使われた実例が他にあるとでも言うのでしょうか。あるなら、ぜひお示し願いたい。謝罪して拙ブログを廃止し、蟄居謹慎します。

こんな荒唐無稽な偽造印でも、ネット上では関心を寄せる記事が見られます。「もしかしたら何らかの事情があって現地調達した変種印かもしれない」などと訳知り顔の解説まで現れる始末です。ん? この書き込み、「もしかしたら」偽作者・出品者グループの自作自演だったかな。さもなくばサクラ・ヤラセの類か。ご用心を!
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2017年05月08日

郵政委譲で日満混貼り

奉天隅田町.jpg奉天から吉林に宛てた「満洲国」郵政の書留書状です。日本と全く同じ形式の櫛型印で奉天隅田町局が康徳4(1937=昭和12)年12月13日に引き受けています。

貼られているのは満洲国切手4枚で11.5分と、左から2番目だけ日本切手の5厘(1/2銭)です。これは書状料金4分と書留料金8分の合計額12分に相当します。分は銭と等価でした。料金の支払いに日満両国の切手を混ぜて貼った「混(こん)貼りカバー」ということになります。

満州で日本と中国あるいは満洲国の切手とが1枚のカバーに貼られる混貼り例としては「貼り替え」が知られていますが、それとは本質的に違います。貼り替えは日本切手と相手先切手とで料金を二重払いするものですが、このカバーは両国切手で合算した料金1回払いだけで済んでいます。

2週間足らず前の12月1日、日本は管理してきた満鉄付属地の行政権を満洲国に全面委譲したばかりでした。行政権には、もちろん郵政権も含まれます。日本側の全局は局舎も資器財も日本人職員も、局名まで含めた一切が満洲国郵政の「郵政局」として移管されました。奉天隅田町局もそうした1局です。

郵政権の委譲に当たり、郵政当局は民間手持ちの日本切手・官製はがきの有効期間を3ヵ月としました。日本切手は満洲国郵政になっても38年2月末まで有効で、3月から使えなくなるという移行措置でした。日本の切手やはがきなのに康徳年号の消印が押されたものを時に見るのは、このためです。

当然、両国の切手を混貼りした郵便物も期間内なら合法的でした。このカバーも恐らくは収集家か、そうでないにしても移行措置を意識した人が記念のために作ったのでしょう。「普通の民間人が商業的、無意識的に」混貼りした例は経験的にまず見ません。郵政権委譲を直接示す現物として、これもまあ貴重かと思います。
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2017年05月05日

モンテンルパへの特便

横山中将.jpg昭和28(1953)年6月12日に栃木局で引き受けた炭坑夫8円2枚貼りの、一見ありふれた印刷物書状です。ただ、宛先の「ヒリッピン モンテンルパ」が目を惹きます。

「モンテンルパ」とは、渡辺はま子の往年の大ヒット歌謡曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」で有名になったフィリピンの日本人戦犯収容所を指します。これは拘禁中の戦犯に宛てた「戦犯郵便」ともいうべき特殊なカバーです。

名宛人の横山静雄氏はフィリピンに派遣された第41軍司令官(中将)として、米軍のレイテ上陸から敗戦時までマニラ首都圏地区防衛の最高指揮官でした。戦後、米軍が開設したマニラ軍事法廷で、マニラ市街戦に多数の市民が巻き込まれ犠牲となった責任を問われました。1949年に死刑判決を受けましたが、未執行のまま4年経過していました。

この封書は「復員局法務調査課気付」でモンテンルパ収容所(正確にはマンティンルパ市にあるフィリピン共和国管理下のニュービリビット刑務所)の横山氏に宛てられています。200グラムの印刷物だと国際料金では25円が必要ですが、この書状は内国印刷物2倍重量料金の16円で済んでいます。

復員局は独立官庁ではなく、厚生省の一局でした。旧陸海軍省の後継官庁として軍人の復員や恩給、戦没者遺族の援護などの事務を取り扱い、現在でも厚生労働省社会・援護局として存続しています。復員局当時、軍事裁判や戦犯に関する事務は法務調査課が担当していました。

モンテンルパへの手紙の英文宛名書きが困難な人が多かったのか、あるいはフィリピンへの郵便輸送が不安定だったためでしょうか。この書状は復員局から定期便で一括して収容所に直送されたと考えられます。あるいは外交行嚢が利用されたかも知れません。収容者たちとの間に何らかの特別な送達ルートがあったことは確実です。

この封書の直後、最高位の軍人として受刑者代表になっていた横山氏ら死刑囚を含むフィリピン関係戦犯110人全員は幸いなことにキリノ大統領の特赦を受けました。減刑されて1953年7月22日に帰国し、東京の巣鴨刑務所で服役しました。この年の年末にさらに特赦があり、全員が釈放されて戦後8年ぶりで家族の元に帰ることが出来ました。

横山氏関係の郵便物は数十年前に段ボール数箱分が出回り、先輩収集家の青木四三雄氏が入手して大門会などで収友に分けてくれました。これもその内の1点ですが、このアドレスの郵便物は他にはなかったので、短期間使用だったのかも知れません。見るたびに青木氏の飄々として人懐っこい笑顔が浮かんできます。
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2017年04月30日

奉天城日本電信取扱所

奉天城.jpgまた電報の話が続きます。これは昭和4(1929)年に滋賀県の近江八幡から満州・奉天に宛てたものです。1週間ほど前、東京で開かれたスタンプショウのブースで購入しました。

宛先は「奉天小西関」とあります。恐らく奉天旧市街を取り囲む城壁の西側に開けられた大小2つの関門のうち小さい方を入った辺りの地域に当たるのでしょう。

右下部に押された配達日付印は「奉天城/日本電信取扱所 4.7.31」で、D欄に「満」が入っていません。カーボン紙でなく仮名タイプで印字されてもいるので「大正4年」はあり得ず、「昭和4年」です。

すると、昭和になっても満鉄線奉天駅から離れて日本局が存続していたのか、という疑問が出てきます。ワシントン会議の決議に基づいて、満鉄付属地外の日本局は1922(大正11)年末限りで全廃されたはずだからです。それとも、しぶとく生き延びた「秘密局」?

日本電信取扱所は単片上でD欄「満」タイプの印影が知られています。D欄櫛型タイプは、この電報のようなエンタイアはもちろん、印影さえ未発表とされていました(日本郵趣協会『日本郵便印ハンドブック』2007年)。しかも、なぜ「日本」なのか、「日本」が付かない普通の電信取扱所とはどこが違ったのか、など運営実態についての論考は出されていませんでした。

日本電信取扱所は1909(明治42)年1月13日に結ばれた日清電信協約に基づく特殊な独立の電信専業機関です。協約は日露戦争中に日本軍が開設した電信事業を整理し、満州の日清両国の電信網を接続させる目的でした。これにより日本の電信業務は満鉄付属地内だけに縮小し、奉天局の大西関、大北門出張所を含む付属地外9局所の電信業務が廃止されました。

その代償として、清国は6個所の清国電報局で構内の一室を日本側に提供し、日本の電信系に発着する和欧文電報に限定した取扱所の開設を認めました。清国局内に設けられた日本局だから局名に「日本」が入るのです。09年3月16日の奉天城、遼陽城、鉄嶺城を始め、長春城、営口旧市街、安東縣旧市街の各所が開設されました。

この事実は、関東都督府が監督官庁である外務省に4半期ごとに報告した政務状況報告書(「通信事務」の部)に断片的に現れます。6取扱所は在外局一斉撤退とは無関係に存続し、1933(昭和8)年に満州電電会社へ業務移管されました。開設地が中国人街の中だったので日本人はそう多くなく、配達された電報も少なかったはずと思われます。
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2017年04月29日

電報配達は軍事郵便で

石家荘-1.jpg日中戦争の初期、日本軍が占領していた河北省の要衝・石家荘に駐屯した主計(経理)士官に配達された電報です。

送達紙の右下部に応急調製されたらしい丸二型日付印「石家荘/電報局 13.6.11」(左書き)が押されています。昭和13(1938)年6月11日に受信・配達されたことを表します。

東京の中野野方町局で午前11時55分に受付けられ、石家荘で午后11時52分に受信されています。わずか半日で海を渡って大陸の戦地にまで届いた、とても早い電報と言えます。内容は弟か息子の進学・受験問題のようです。

届け先名がとても長いのも、この電報の特徴です。片仮名で64字もあり、本文27字の2倍をはるかに上回ります。漢字に直すと、「石家荘駐屯 北支派遣軍 下本部隊気付 海老名部隊 沢木部隊 主計少尉 笠原チヅル」です。「石家荘駐屯」以外は普通の軍事郵便アドレスと同じ表記法です。

送達紙は満州電電会社のもので、日付印に昭和年号が使われていることから、中国局ではなく日本軍が管理する電報局です。職員が撤退した中国電報局を接収し、満州電電に業務の再建・運営を委託したのでしょう。日本の軍人と在留民の邦文電報に限ったサービスだったと思われます。

石家荘-2.jpg石家荘-3.jpg日中間を結ぶ電信は、日中戦争の以前から芝罘−大連間、青島−佐世保間、上海−長崎間の海底電線3線が敷設されていました。この電信は内地から佐世保経由で青島に送られ、青島で軍用電信線に接続されて北京経由石家荘に送信されたようです。

配達に使われた封筒(左図)も残っていて、興味深いことに「市内軍事郵便」扱いになっています。部隊宛ては電報局で直接配達せず、軍事郵便に託す決まりだったのかも知れません。この電報局は軍事郵便を差し出す権限のある軍衙(軍事官庁)扱いだったことが分かります。

封筒の宛先は漢字で書かれています。片仮名で受信したのに漢字になっているのは、電報局に極秘扱いの部隊配置表が渡されていたからに違いありません。こうなると、表面に押されている検閲者の赤色認印「宮本」は、電報局の課長や主任ではなく、派遣されていた監督将校の可能性もあります。

結果として、この時期の石家荘電報局は限りなく「野戦電信局」に近い性格と言えそうです。38年8月以降、この局は日中合弁の華北電電会社に移管されて中国の石家荘電報電話局となります。満州電電が扱った華北電報は38年前半の短期間だけと考えられます。
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2017年04月28日

たった20日間の欧文印

寛城子-1.jpg寛城子-2.jpg中国天津からパリ宛てカバーです。菊10銭をTIENTSIN 2局1907(明治40)年10月10日の金属印で抹消して引き受けられています。天津2局とは、天津・紫竹林の日本領事館内に開設された天津局紫竹林出張所を表します。

到着印はありませんが、満州・寛城子日本局(所在地は孟家屯)の中継印が封筒裏面に押されています。「KUANCHENGTSU(寛城子)07年10月13日」の欧文黒色ゴム印です。天津から恐らく塘沽−大連間を航送されてわずか3日で到着しています。

日露戦争で日本はロシアに東清鉄道南部支線の南半分を割譲させ、南満州鉄道(満鉄)としました。さらに07年7月、ロシアと満州鉄道接続協約を結んで満鉄線北端の孟家屯駅から軌道を延伸し、ロシア側南端の寛城子駅に接する西寛城子駅を作ります(下の概念図参照)。

これにより、戦争で切断されていた南部支線がkuanchengtsu.JPG日露両線に分かれながらも再接続されました。ただし、ロシア側(東清鉄道)が広軌なのに対して日本側(満鉄線)は日本の列車が走れるよう狭軌に改築したので、双方の列車が互いに乗り入れることはできません。

鉄道の接続に伴って郵便交換も協定され、前年の敦賀−ウラジオストク間に続いて寛城子局とロシア鉄道郵便局との間でも交換が始まりました。実際の交換開始期日はこれまで不明だった(Swenson, I.S.J.P V61-N4, 2006)ようですが、GANの調査では07年10月1日からです。

外務省外交史料館が保管する資料から寛城子の日本領事館(分館?)07年10月1日発外務大臣宛て第60号電報が見つかりました。「万国郵便条約ニ拠ル東洋欧州間外国閉嚢郵便物ノ交換ハ当寛城子支局ニ於テモ取扱フコトヽナリ本日ヨリ事務ヲ開始セリ」とあります。

この資料のおかげで、「KUANCHENGTSU」という特異な綴りを持つ欧文印は日露郵便交換のために導入され、この日から使われたことが分かります。専ら欧州発着便の内の一部郵便物に押されたのでしょう。「閉嚢便を開けたのか」という疑問には、別に考えることにします。

guage2.jpgところが、寛城子局は交換開始直後の10月21日にまだ計画線だった吉林長春鉄道の起点となる長春駅の付属地に移転し、「長春局」と改称されます。長春市街地の北端部に当たり、寛城子駅に近くて日露郵便交換にも便利だったからでしょう。

これにより、郵便交換用の欧文印も新しく「CHANGCHUN(長春)-S」に変わりました。「S」はSTATION(駅)を表すとされます。「KUANCHENGTSU」印は10月1日から20日間使われただけで終わりました。櫛型欧文印としては最短命でしょう。

寛城子、孟家屯、長春各駅と寛城子、長春局のだいたいの位置関係を右図に示します。井上勇一氏『鉄道ゲージが変えた現代史』(中公新書)から引用させて頂き、一部改変しました。満鉄線が長春駅まで延長されると、東清鉄道はこの図のように長春駅北側に接して引込線ホームを作り、日露郵便交換もここに移りました。

これまでに見つかっている10点足らずのKUANCHENGTSU印はすべて欧州発着郵便物への中継印ばかりで引受印はありません。孟家屯は「ド」の付くような田舎集落で、国際郵便利用者はいなかったはずです。この印で切手を抹消して引受けられた郵便物は限りなくゼロに近いでしょう。特異な使われ方をして悲運に終わった郵便印です。
posted by GANさん at 03:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 満洲・関東州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月20日

4銭貼りは何のため?

莫干山.jpg第1次大戦中に旧ドイツ租借地を占領した日本軍野戦局から発信された絵はがきです。ヤフオクで昨年入手しました。

在外局用の菊4銭切手が貼られ、青島野戦局で大正6(1917)年8月11日に引き受けています。隣り合って中国印も押され、8月14日に天津府局が中継したことが分かります。この間は日本軍が占領していた山東鉄道(膠済鉄道)で運ばれたのでしょう。日中間に安定的な郵便交換が成立していたことを表しています。

菊や田沢の4銭貼りで欧文の宛先が書かれたはがきはよく見る例なので見過ごしがちですが、この宛先MOKANSHANがクセモノです。漢字で「莫干山」は中国浙江省杭州の西北方にある別荘地で外国局など全くない場所、つまりこれは中国国内発着の郵便なのです。

このはがきには問題点がいくつかありますが、最大の問題は中国内国郵便になぜ4銭というUPU料金が適用されているのか。日本の在外局から中国内地宛てなのに、日清郵便約定に基づく中国切手による料金分の「貼り替え」をしていないのも問題です。

当時の日本発中国宛てはがき料金は1.5銭でした。中国郵政の内国料金も1.5分で同額です。本来ならこのはがきも1.5銭で済みそうに思えますが、発信者は何のために余計な料金を支払ったのか−−。(ここはGANの勝手な都合で、誤って過払いしたのではない前提で話を進めます。)

実は、このはがきが発信される前の17年3月に、日本軍が占領した青島など旧ドイツ膠州湾租借地と山東鉄道地域について、日中間で郵便と電信の連絡交換協定が結ばれていました。正式なタイトルはとても長いのですが、俗に「日支山東通信連絡協定」と呼ばれます。

協定は全文わずか4条の簡単なもので、郵便事務は1905年のドイツ中国間郵便協定を当分は適用する、と定めています。これを現地でさらに具体化した協定として、17年10月に全5章、延べ36条の詳細な細則と付帯文書が締結され、翌11月1日から実施されました。

細則では旧租借地から中国内地宛ての郵便料金は「日本切手により日支間現行料金で」支払うことになりました(第1章第3条第1項)。これによれば、このはがきは1.5銭が正解ですが、発信されたのは細則の実施より2ヵ月以上前、まだドイツ料金が準用されていた微妙な時期です。

それではドイツ領時代の青島発中国内地宛て料金はいくらだったのか。日本と同じように、ドイツ内国料金並みの1.5プフェニヒ特別料金か、それともUPU料金の4(または5)プフェニヒだったのか。独中郵便協定には具体的な料金率が明示されていず、分かりません。

この問題は、今後ドイツの郵政資料を調査することにより、あるいは同時期の似たような使用例が出現することによって解決されるでしょう。それまでGANは、「ドイツ料金が暫定適用された短期間だけの希少な使用例」として大威張りすることにしています。もちろん、料金過納の可能性などは間違っても言いません。

ところで、第2の問題点、貼り替えがない理由は簡単です。独中協定で膠州湾租借地ドイツ局発中国内地宛て郵便物はドイツ切手のみで有効とされていたからです(第4条)。日中協定にも引き継がれたので、他の在中国日本局とは異なって山東の日本局だけは貼り替え不要となりました。

(この記事については、飯塚博正氏から多大なご教示を得ました。)
posted by GANさん at 15:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日中郵便交換 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月31日

幻の平海作戦第120局

F.P.O.120-2.jpgF.P.O.120-1.jpg「平海作戦」という、今では戦史でも触れられることのない作戦に動員された台湾の野戦局からのエンタイアです。この野戦局も当局資料から無視され「幻の野戦局」となっています。

日中戦争が全面的に拡大した1937(昭和12)年秋、中国国民政府(国府=蒋介石政権)は上海が攻略され、首都・南京も陥落必至となると、重慶に首都を移して徹底抗戦の構えを示しました。

逆に追い込まれた形の日本軍は、「蒋介石の継戦意欲を挫く」として、支援物資輸送の要の武漢(漢口、漢陽、武昌)と南方の入口、広東(広州)を抑える「援蒋ルート」遮断作戦を立案します。

ところが、日本軍兵力は武漢作戦までで手一杯で、広東の攻略、占領に回す余裕がありません。代替策として広東と漢口を結ぶ粤漢線鉄道沿線の1地点を占領して援蒋ルートを遮断する作戦が立てられました。それが広東省平海半島の小都市・平海を攻略する「平海作戦」だったのです。

この作戦軍として37年12月7日に第5軍が台湾の高雄で編成されました。軍司令官は古荘幹郎台湾軍司令官の兼務です。隷下に第11師団と台湾守備隊(当時は「重藤支隊」として大陸で作戦中)が配属され、高雄や屏東など台湾南部の港湾に集結を続けます。作戦発起(出撃)予定日は12月20日とされていました

まさにその時、日本軍が国際的な大問題を引き起こしてしまいます。12月12日に長江を航行中の中立国である米艦パネー号を爆沈、英艦レディバード号を砲撃してしまったのです。いずれも中国船と誤認しての攻撃でした。大本営はあわてふためき、国際非難をかわすため平海作戦の当面中止が発令されました。

作戦部隊は台湾南部で待機の態勢を維持したまま越年し、38(昭和13)年2月15日になって第5軍は編成解除(解散)されました。平海作戦は再興されませんでしたが、38年10月に改めて本格的な広東攻略作戦が行われることになります。そのため新たに第21軍が編成され、司令官に台湾軍司令官だった古荘幹郎中将がまたも任命されました。

120局1.jpg最初に示した封筒ですが、2月5日(年欠)に「今井部隊兵站本部付 第百二十野戦局」の局員が出身職場(東京・荒川局)の同僚に宛てて発信したものです。発信アドレスの野戦局名は赤色スタンプでも重ねて押されています。通信文が残っており、1月1日に第120(高雄)、121(屏東)、122(潮州)の3野戦局が開設され、「今は待機中」と記されています。右図は通信文の一部です。

「今井部隊」というのは分かりませんが、これら3局こそが第5軍の野戦局であることは間違いありません。作戦発起直前の部隊は通信封鎖されるのが普通なので、恐らく一般兵士の軍事郵便は禁止されていたでしょう。野戦局員という特殊な身分だったからこそ出せた通信と思います。

120局2.jpg左図の第120野戦局印は別の機会に入手した官白に押されているものです。第5軍戦闘序列の解除が下令された翌日の日付なので、野戦局閉鎖の記念押印と考えています。この日付印が押されたエンタイアは未発表で、今後も出現の見込は極めて薄いです。

平海作戦の野戦局については、関雅方氏『大東亜戦争(支那事変を含む)下の軍用郵便施設』を含め逓信当局の記録が全く存在しません。38年6月になって江蘇省徐州で120局が開設されましたが、こちらは半年前に高雄で開設された野戦局とは全く別の存在です。ただし両者の日付印は同じ特徴を持ち、台湾でのものが徐州で流用されたことが分かります。121、122局は平海作戦以外では開局されませんでした。

(本稿で平海作戦についての記述は主として井本熊男『支那事変作戦日誌』に拠りました。同書ではこの作戦名を単に「南支作戦」と表現しています。また、よく知られている満州の第5軍は平海作戦の第5軍とは全く無関係で、39年5月に関東軍隷下で新編成された部隊です)
posted by GANさん at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍事郵便(陸軍) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする