2018年06月20日

海軍区別符に新タイプ

防空隊.jpg海軍軍事郵便の区別符で、これまでに知られていない表記形式のあるはがきを最近のヤフオクで入手しました。

このはがきは「呉局気付 セ四五 セ四一 ウ三七二」というアドレスで発信されています。「呉局」はこの軍事郵便の交換局で、「セ四五」以下は海軍の郵便用区別符(暗号)です。区別符は戦域別に「ウ」「テ」「イ」「セ」の片仮名4文字のいずれかに漢数字2、3桁を組み合わせた文字列で1セットになります。

区別府は通常2セットを連続して表記し、第1セットで所在地名、第2セットで部隊名を表します。例外的に第3セットまで表記する場合もありますが、それは第2セットの部隊の出先である「支部」「出張所」「支隊」「分遣隊」など分・支の隊を表す場合に限られていました。
区別符.png
このアドレスの場合、「セ45(以下、漢数字はアラビア数字に置換)」はマカッサル、「セ41」は第23特別根拠地隊です。すると、第3セットの「ウ372」は根拠地隊の支隊でしょうか。ところが、所定のコードブックで解読すると、これは第123防空隊です。分・支の隊なら、片仮名は本隊と同じ「セ」でなければなりません。

このように、第3セット目が分・支の隊ではなく独立した別の部隊を表す例はこれまで発表されていず、「新発見」です。すると、すぐに問題が起きます。セレベス島マカッサルに所在する部隊はよいとして、なぜ部隊名が二つもあるのか。発信者は根拠地隊員か、それとも防空隊員か。

これは、パラオとかソロモンなど他地区(ウ戦域)にいた防空隊がバンダ海(セ戦域)のマカッサルに転進し、根拠地隊に編入されたケースだろうとGANは考えます。根拠地隊は陸軍で言えば独立混成旅団に相当する大きな部隊で、地上部隊の他にごく小規模ながら航空、艦船部隊までかかえていました。この防空隊もマカッサルに「流れ着き」、取り敢えず大部隊に身を寄せたのでしょう。

普通、このような場合のアドレスは「呉局気付 セ45 ウ372」として、「セ41」は表記しません。原則を破ってまで敢えて上位部隊名を入れたのは、他戦域からの小規模な転属部隊の常で郵便物が迷子になりがちだったからでしょう。本当は「セ41」に「気付」を付け加えたかったところ、地名符と混同の恐れがありこの形にしたと思われます。

分・支の隊でないにもかかわらず、発信アドレスを区別符3セットで表記するこのような使い方は、海軍の軍事郵便法規集にありません。この時期、この地域限りの極めて例外的な使用例だったはずです。
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2018年06月18日

局名ペン書きの弁事所印

永安屯-2.jpg永安屯-1.jpg1940年代初めの「満州国」で局名ペン書きの櫛型印が押されたカバーを見つけました。

右図の封筒は奉天北陵4分切手を貼って東安省密山県の永安屯開拓団月山村から山形県に宛て、康徳7年(1940=昭和15)3月21日に引き受けられた、ごくありふれた「開拓団郵便」です。しかし、印影が特異です。AD欄に当たる上部印体がなく、青黒インクのペンで「永安屯」と左書き(左下図)されています。

局名はなぜ手書きされたのか。局名活字が到着しなかったから、とは簡単に推測できます。しかし問題は「開設中の局なのに日付印が間に合わない」、その辺の事情でしょう。臨時開設か、あるいは局名改称直後だったのでしょうか。
永安屯-手書き.jpg
これについてはとても有益な論考が既に発表されていました。穂坂尚徳「満洲開拓移民と郵政機関」(『郵便史学』第5号所載、1975年)です。穂坂氏は満州国の郵便史と郵便切手の専門家&日中交流の達人として知られます。いつも笑顔で愛される昔からの仲間でしたが、残念ながら最近は郵趣から距離を置いておられるようです。

穂坂氏によると、1940年1月に開かれた満州国の開拓庁長会議で交通部郵政総局から開拓地郵政機関の積極整備方針が報告されました。内容は膨大なものですが、その中に「39年度中に開拓地32ヵ所、40年度中に61ヵ所に郵政弁事所の新設」が含まれていました。39年度の一つが「永安屯」だったのです。郵政弁事所は今日の日本の簡易局と同じ委託局でした。

この先はGANの推測です。拓務省第5次移住計画で1936年6月に入植した永安屯開拓団にも郵政弁事所が39年度末ギリギリの40年3月にようやく開設された、しかし弁事所の新設が短期・大量に集中しすぎて局名活字(上部印体)の調製が間に合わなかった、ついに郵便物1通ごとに局名を手書きするのやむなきに至った--、のではないでしょうか。
永安屯-3.jpg
半年ほど後に同じ永安屯開拓団から発信されたはがきをごく最近のヤフオクで入手しました。こちらには既に正規の日付印が押されています(右図)。上述した推測を裏付ける傍証の一つになるかも知れません。

この正規印について識者の教えを乞いたい2点があります。1つはD欄が省名「東安」でなく「赤○」のように見えますが、2字目が読めません。2つ目は永安屯は弁事所のはずなのに、なぜE欄「辨」字ではないのか。普通郵政局用日付印を使っています。これらにつきコメントなどでご教示いただければ幸いです。
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2018年06月06日

南洋から「国内軍艦郵便」

沖島-12.jpgつい最近のヤフオクで奇妙な絵はがきを入手しました。南洋から発信されたことが明らかなのに内地局の消印が押されているのです。

左図がそれで、書き込みによると、軍艦「沖島」の参謀が2月4日にパラオから発信し、13日に神奈川局の機械印で引き受けられています。年号部分が不鮮明ですが、裏面(下図)ヤップ局風景印の日付から昭和12年(1937)と分かります。風景印の図案が絵はがきと同じ現地民族の集会所「アバイ」だったので記念押ししたようです。

沖島は5千トンと大型な新鋭敷設艦ですが、巡洋艦並みの性能がありました。36年12月に聯合艦隊直属で第12戦隊が新編制され、旗艦となります。戦隊には水上機母艦「神威」と駆逐艦「朝凪」「夕凪」が編入されました。

沖島-2.jpg12戦隊の任務は「南洋委任統治区域の警備」です。しかし実際は、来たるべき対米戦争に備え、軍備が禁止されてきた南洋群島を海軍基地化することが真の任務でした。

差し当たっては水陸飛行場や艦隊泊地用の適地を探る視察と兵要調査です。米国に知られるのを恐れ、戦隊の全行動は軍機とされました。

12戦隊の沖島以下4艦は37年1月28日、南洋群島、フィリピン、蘭印、ニューギニアに及ぶ初航海へ横須賀を出港します。日本でも稀な総合南方調査だったため、外務省、海軍軍令部、南洋駐在海軍武官らが身分を隠して同行しました。途上で日中戦争が勃発したため、秋までの予定を切り上げて急遽横須賀に7月13日に帰投しています。

海軍は通常、行動する艦船への連絡予定地を例えば「2月10日までに到着する郵便物宛先はサイパン」などと『海軍公報』に掲載しています。しかし、今回の12戦隊の出港後アドレス予定は異例にも「神奈川局気付」とだけされました(37年1月20日付『部内限 海軍公報』雑款)。行き先や目的は内部にさえ一切秘密にしたのです。

南洋定期航路のターミナルは常に横浜港です。南洋との郵便物集中局(=交換局)も当然、当初から横浜局でした。このため、艦船の郵便物アドレスが「横浜局気付」だと南洋で行動することが分かってしまいます。海軍省の要請で1935年(昭和10)7月、南洋への集中局は横浜港直近の神奈川局に変更されますが、この事実は外部には秘密でした。

詳しく調べたところ、アドレスを「神奈川局気付」とした艦船部隊の行動は5回だけありました。36年8月の第3航空戦隊、37年1月の第12戦隊(今回)、38年4月の測量艦「膠州」、40年1月と5月の第4艦隊で、すべて南洋での基地調査と設定のための秘密行動です。36-38年の郵便は有料ですが、40年の2回は無料軍事郵便として扱われています。

さて、前置きが長くなりすぎましたが、この絵はがきの逓送路を推定します。12戦隊ではこのはがきを含む乗員からの有料郵便物を一括して郵袋に納めて閉嚢とし、パラオ局に持ち込んだのでしょう。パラオ局は閉嚢のまま横浜行き最速の便船に搭載したはずです。横浜入港後、閉嚢はただちに神奈川局に運ばれて初めて開けられ、引受押印をしたと思われます。

この方法は、実は軍艦郵便(軍艦閉嚢)とまったく同じ取扱です。ただ、軍艦郵便の適用はUPU加盟の外国港に停泊中の日本艦船に限られます。12戦隊の郵便物は日本領土の南洋群島から発送した点で異なりますが、いわば「国内版の軍艦郵便」でした。軍機保持の必要から生まれたのですが、この時期の南洋でしか考えられない極めて稀なケースでしょう。

以上の逓送路と方法はすべてGANの推定に過ぎません。しかし、当時の軍事情勢と、現実に神奈川局の消印が押された郵便物が存在する事実とを考え合わせると、それほど大きな誤りがあるとは思えません。
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2018年05月31日

戦地発の「未納軍事郵便」

旅順未納-4.jpg旅順未納-1.jpg未納の軍事郵便。そんなものってあるのでしょうか。軍事郵便はもともと無料。タダなんだから、料金不足の未納なんて発生するわけがない!

それが、かなりレアな話ですが、日清戦争と北清事変ならあり得たのです。右図は日清戦争中の1895年(明治28)に戦地から発信した無料軍事郵便…のはずですが、「未納」印がペタペタと押され、確かに未納料金が徴収されています。数年前にヤフオクで入手したものです。

書き込みを見ると、発信地は「清国旅順口」で、発信者は「第6師団第24連隊 歩兵1等軍曹」。無料軍事郵便の条件は十分に満たしているように見えますが、封筒には「軍事郵便」の表示が見当たりません。代わって、左側上部に「先払」と書かれていて、これが曲者です。

この書状には野戦局印がなく、日本への輸送船に直接搭載されたようです。内地に着いて最初の揚陸地の福岡局で引き受けられ、明治28年3月6日の褐色丸一印と角枠「未納」印が押されました。同じ日に配達局の大川局で倍額料金の新小判4銭を貼って未納印で抹消しています。料金先払いは未納扱いで、受取人から倍額を徴収する規定でした。

日露戦争以降の軍事郵便は何通出しても無料となりましたが、それ以前の日清戦争と北清事変では厳しい発信通数制限がありました。下士官・兵卒が無料で差し出せるのは月に2通までです。それも、95年1月まではわずか1通だけでした。3通目以上は有料で、2銭切手を貼らなければなりませんでした。輸送船の回数や積載能力が少なかったからと考えられます。

通信文には「先日御送付に相成りし郵便切手なくなり、この先払を以て御無礼申上候也」とあります。「送ってもらった切手は使い切ってしまった。切手なしの料金先払いで出すが悪しからず」という趣旨です。この軍曹さんは野戦局で切手を買う2銭にもこと欠く貧乏状態だったようです。

当時の2銭を現在の郵便料金に相当する100円足らずの価値とすると、「わずかでも給料が出ていたはずなのに、なぜ」と考えてしまいます。「どうしても必要な通信だったら、同僚や上官に事情を話して借りればよかった」とも。いずれにせよ、戦地の兵士が郵便を先払で出すのは非常に稀なケースだったと言えるでしょう。

法令を厳密に当てはめると、この書状は軍事郵便でなく、単に戦地発信の「料金未納の第1種郵便」に過ぎません。しかし、軍事郵便差し出し資格を持つ人からの郵便なので、広義に解釈して軍事郵便と言えなくもありません。なお、北清事変ではこのようなケースはまだ報告されていません。
posted by GANさん at 22:40| Comment(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする

2018年05月29日

特高検閲(?)のはがき

ヘルマン・ヘッカー.jpg昨日到着したばかりのヤフオクで落札した絵はがきです。一見して部隊検閲を受けただけのありふれた郵便ですが、二重検閲らしい点に注目しました。

この絵はがきは乃木3銭が貼られ、帯広局昭和19年(1944)9月16日に標語機械印で引き受けられています。裏面は札幌出身の水彩風景画家・繁野三郎が描いた北海道帝国大学のキャンパス風景です。

発信アドレスは帯広市の「北部軍経理部出張所気付 学徒隊第2中隊第4小隊」です。発信者は帯広の陸軍施設に勤労動員された北大学生のようです。

宛名は札幌市の戦時下では珍しい片仮名名前で「ヘルマン・ヘッカ」。わきに「独逸(ドイツ)人」と国籍が書かれています。ヘッカーは北大予科でドイツ語とフランス語を教えていた専任講師でした。

寺島.jpg発信アドレスの右端に角枠「検閲済」印が紫色で押され、枠内に「木村」の赤色認印があります。この検閲印の右隣に単独で紫色「寺島」認印が押されています。「寺島」印は角枠検閲印とは同じ紫色系でも色合いが異なり、別の場所で押されたことを示唆しています。

角枠検閲印は太平洋戦争直前から部隊・軍衙に課された部隊検閲印であることが形式から明らかです。それでは「寺島」印は何でしょう。部隊検閲を2人で行ったのでしょうか。

戦地発信の軍事郵便だと、部隊検閲が二重に行われた例は時に見ます。負け戦など戦況から軍機保持が特に必要な場合、検閲係下士官による通常の検閲に加えて将校がダブルチェックしました。しかし、このはがきの場合は日本国内での経理事務を扱うだけの軍事官庁で、しかも出先の地方機関です。特別重要で機微な軍機を扱ったとはとても思えません。

あるいは、ドイツ語で書かれた通信文の翻訳者がいて、その認印が押されているのでしょうか。墨の抹消部分が5ヵ所もあり、そうとも見えます。しかし、部隊内で翻訳が行われた場合はあくまでも検閲係が責任者なので、翻訳者が捺印することはあり得ません。

実は北大では開戦直後、特別高等警察(特高)によるでっち上げスパイ事件だったことが戦後になって分かる「レーン・宮沢事件」が起きていました。ヘッカーの同僚の米国人で英語の専任講師ハロルド・レーン夫妻が教え子の学生宮澤弘幸と共に逮捕され、軍機保護法違反で共に懲役15年という重刑判決を受けた冤罪事件です。

ヘッカー家とレーン家は北大構内の教員宿舎に隣同士で住み、2人で北大内に「心の会」という教師・学生の文化交流サークルを立ち上げて運営した中心人物でした。レーン最大の「同志」だったヘッカーは、ファシズム反対・ナチス嫌いの言動でも知られていました。同盟国のドイツ人として連座こそ免れたものの、特高の厳重な警戒・観察下に置かれました。

そうしたヘッカーに発着する郵便はすべて、特高の「要観察者名簿」つまりブラックリストに基づいて発信地か配達先の郵便局で秘密裏に検閲されていたはずです。となると、この「寺島」印は札幌局か帯広局に常駐していた特高の「検閲済」印ではないでしょうか。

戦前の特高が「要観察者」たちの郵便物を秘密検閲していたことは当局側の多くの断片的な資料から明らかです。しかし、その詳しい実態は不明で、検閲印や再封緘紙が使われるなどの「痕跡」はまだ全く知られていません。

ヘッカー宛てのこのはがきが特高による秘密検閲を受けていることまでは、極めて蓋然性の高い推測です。が、「寺島」印をそれに結びつける直接的な根拠はありません。特高の検閲印である可能性は五分五分とGANは見ます。将来、特高(及び憲兵隊)による郵便検閲の資料が発掘されて解明される日の来ることを期待します。

(本稿執筆に当たって上田誠吉『ある北大生の受難 国家秘密法の爪痕』(1987年)、逸見勝亮「宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件再考」(2010年)を参照しました。)
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2018年05月27日

北海道開拓使の青色電報

開拓使電報2.jpg最近東京であった大手フロアオークションで明治初期の北海道開拓使電報を落札しました。

明治12年(1879)7月25日に函館から発信された電信の送達紙で、福山電信分局が即日受信、配達しています。和紙の縦型用紙に福山分局の角型局印と二重丸型「検査済」割印がいずれも朱色で押されています。本州以南で使われた黒色でなく濃青色で印刷されている点が特異です。

当時、全国の電信事業は工部省の所管でした。しかし、北海道だけは北海道開拓使の専管地で、内務省や工部省などと同格の中央官庁である開拓使が行政を一手に握っていました。

東海道筋での郵便開始と同じ明治4年(1871)に工部省は早くも東京-青森間に電信線を設定する計画を立てました。工部電信線は3年後の明治7年10月に青森まで延伸されますが、これに合わせて開拓使も道内の電信線計画を進めました。

太政官達.jpg左図は壬申=明治5年6月28日に太政官(維新政府)が発した布令第133号です。箱館から東海岸回りの千歳経由で札幌までの電信線を開設し、将来は東京-青森線に接続させる構想を公表しています。

開拓使電信線は後に箱館-札幌線に加えて札幌-室蘭線も計画されました。両線は明治8年(1875)に開通し、3月20日に箱館、札幌、室蘭など7電信局を開設して「開拓使電信」が創業されました。福山もその時の1局です。

青森-函館間はこの頃デンマーク資本の大北電信会社が海底線を沈設して接続されました。東京から北海道までが電信で結ばれたことになります。

実は、北海道で開拓使電信が創業した3月20日は、先行した東京-長崎線の支線として小倉-熊本線が完工し、熊本電信局が開業したのと同じ日でした。東京を挟んで北海道から九州まで日本の電信の骨格線が1本に貫通した日本電信史のエポックを画す日だったのです。

この送達紙は刷色が青色であること以外は当時の工部電信(黒色)と全く同じ形式です。開拓使は電信運営技術を始め用紙の調達に至るまで工部省の基準に従ったのでしょう。今後の研究で、工部電信との実務面での運用の違いや独自印影などが分かれば面白いと思います。

福山は渡島半島西南端にあり、明治維新まで蝦夷地唯一の和人支配地だった松前藩の城下町でした。現在は松前町字福山で、町役場が置かれています。電文に「カスある。要るか。返(事せよ)」とあり、漁業関係の問屋同士の商談のようです。2回表れる「カス」とは、松前漬にも使われるカズノコのことでしょうか。

開拓使は「時限官庁」で廃止時期が定められていたため、開拓使の電信施設は工部省に全面移管されることになります。これにより明治15年(1882)3月20日付で函館、札幌、室蘭など全9局が工部省所管の電信分局に改定され、開拓使電信は7年間限りで幕を閉じました。

(本稿中の歴史的事実は、主として逓信省電務局編『帝国大日本電信沿革史』(1892年)に拠りました。)
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2018年05月18日

刑務所の収監者郵便検閲

橘刑務所-0.jpg「郵便物」の定義を「郵便システムを利用して輸送される信書や小型包装物」とした場合、その郵便物(書状・はがきや小包など)の状態が輸送中on routeか、輸送以前や輸送完了後かが問題となる場合があります。GANが特に強い関心を持つ郵便検閲も、その一つです。

左図は最近のヤフオクで入手した封書です。昭和12年(1937)5月31日に大阪中央局で引き受け、神戸市に宛てられています。表面左側中央部に黒紫色の「検閲済」ゴム印、右側下半部に角枠「昭和12年6月1日/第六三六号」(数字は手書き)と「昭和十二年六月四日」のいずれも紫色ゴム印があります。

これらの印が検閲を受けた記録らしいことは想像できます。だれがした、どういう検閲でしょうか。書状の宛先の「橘刑務所内」が手がかりです。正確には「神戸刑務所橘通出張所」といい、1941年に「神戸拘置所」と改称され現在も存続しています。名宛人はここの収監者(名前の姓を画像処理で消してあります)なのでしょう。

橘刑務所-2.jpg桜マーク.jpgそうすると、ゴム印が示す「6月1日」は刑務所が書状を受け付けた日、「6月4日」は検閲が済んだ日付と思われます。刑務所の事務当局者には収監者に書状受け取りを許可する権限はないはずで、この3日間は担当検事の検討期間だったのでしょう。通信文の第1行目右上部に検閲済みの朱印が押されています(右図)。5枚の単弁に10本の蕊が描かれた桜マークです(上図)。

「刑務所検閲の桜マーク」については以前から郵趣界でも興味を持たれ、発表が重ねられてきました。直近では裏田稔氏が「拘置所内の郵便検閲」(北海道第壹郵趣廼會會誌『郵趣記念日』第262号所載、1998年)として東京拘置所以下全国10ヵ所の刑務所、拘置所など行刑施設ごとの桜マークの形式区分を紹介しています。これに「橘刑務所」は含まれていず、もしかしたら今回が新発表かも知れません。

最初の問題に戻ります。この書状が刑務所到着後に行われた検閲も「郵便検閲」に入るのでしょうか。GANの考えは「郵便検閲とは言えない」です。名宛人からすれば受け取り前の郵便物を検閲された事実に違いはありません。しかし、書状が刑務所に配達された時点で郵便物としての輸送(逓送)は完了し、狭義の郵便物でなくなっているからです。

浦和高女2.jpgこれは郵便物到着の場合でしたが、逆に差し出しのケースでの典型例が女学生寮の「舎監検閲」です。戦前、女子学生の寮や寄宿舎には舎監という監督者がいて、寮生が発信する郵便物を投函前に検閲していました。検閲を経ない郵便発信は寮の規則で禁止され、許可済み郵便物に「舎監検」などといった印が押されました。左図はその一例で、浦和局昭和9年(1934)4月引受のはがきに浦和高女の「第一寮舎監検」朱印があります。

刑務所検閲が郵便ルートから降りた後の検閲なら舎監検閲はルートに乗る前の検閲で、共にオフルートoff routeでの検閲です。狭義の郵便物状態でないときの検閲という点で両者は同じ意味を持ち、郵便検閲とは言えません。つまり「郵便検閲」とは、郵便システム上の輸送ルートにある(=逓送中の)郵便物に対して行われる検閲をいうべきだとGANは考えます。

もちろん、これらの検閲も郵便に膚接し、郵便検閲を調査する上でも重要で興味深い存在であることに違いはありません。GANの真意は郵便検閲と非郵便検閲との境界を明確にすることにより、郵便史調査研究水準の向上を目指すところにあります。
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2018年04月30日

米検閲解除印に名古屋型

検閲解除印.jpg今月20日から東京で開かれたスタンプショウで、浜松の切手屋さんのブースに米占領軍検閲の検閲解除印が押されたはがきばかりの箱を見かけ、店頭に座り込んで時間を掛け点検(買うための調査です!)しました。

東海地方ばかり1千通ほどの検閲解除印のはがきを調べ、改めて確認できたことが3点あります。

 1、名古屋地区の検閲では、3種に細分できる丸型(円形)検閲解除印が併用されている
 2、うち1種は一見して分かる名古屋地区での検閲だけの特異なタイプである
 3、発信・到着のどちらの地区でも「検閲解除」処理が行われている

敗戦直後の日本に乗り込んだ米占領軍はまずマスコミと通信の検閲から占領行政を開始しました。総司令部(GHQ)で情報を担当する参謀第2部に属する民間情報部の外局として民間検閲局が開設され、その下部機関として45年10月1日に東京、大阪、福岡の各地区検閲局、翌年1月に名古屋分局が設けられて郵便検閲が実施されました。

米軍検閲では、逓送中の全郵便物の1割が無差別に抜き取られて検閲局に提出されました。検閲局は差出人や名宛てなどから簡単な判定をして「検閲すべき」郵便物をさらに2割選びます。残り8割は実際の検閲を解除releaseされて郵便ルートにそのまま戻されました。検閲を解除された郵便物に押されたのが検閲解除印です。

検閲解除印名古屋B型-4.jpgGANが今回確認できたとする「名古屋型検閲解除印」は上図に示したはがき下部に赤色で押されています。昭和22年(1947)9月6日に名古屋中局が引き受け、同じ愛知県内の犬山町に宛てたものです。この検閲解除印を拡大したものが左の図です。櫛型印でいうD、E欄に相当する位置に点「・」が入っているのが特徴です。このタイプの印色には赤のほか紫色もあります。

これを「名古屋型」と呼ぶ最大の根拠は、発信と着信が共に名古屋分局管内(愛知、三重、岐阜県)だけのはがきに押されていることです。この印のあるはがきは、東京や九州など他地区検閲局管内からの発信であっても必ず名古屋分局管内宛てであることも分かりました。これは検閲局提出郵便物の抜き取りが差出地だけでなく、到着地でも行われたことを意味します。この印が名古屋分局のものと確定したことによる三段論法的結論です。

この種の丸型検閲解除印は、既に森勝太郎氏(1955、74年)と裏田稔氏(1982年)が共に4タイプの存在を報告しています。「名古屋型」は第5タイプとなるはずです。GANはこれら各タイプを検閲局別に区別できると考えており、今回の名古屋型の同定はその仮説の明白な端緒になると思います。続きを読む
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2018年04月25日

仏印在留邦人の戦後第1信

在留邦人.jpg在留邦人-2.jpg日本敗戦後の仏印(インドシナ)で、英軍に抑留されていた日本の民間人が発信した第1信の俘虜郵便です。発信アドレスの「南部仏印派遣 印支軍気付/在留邦人」が特異です。最近のヤフオクで入手しました。

仏印駐屯日本軍の全部隊は南北2地区に分かれ、北緯16度以北はハノイで中国軍に、以南はサイゴンで仏軍に降伏しました。戦後の仏印日本軍のアドレスにわざわざ「南部」「北部」が区別して入れられるのはこのためです。ただし、仏軍は実際には進駐できず、代わって南部仏印は英軍が管理しました。

他の資料から、発信者は戦時中にビルマのラングーンに進出していた商社の幹部級社員だったことが分かっています。東南アジアで働いていた若い日本人男性は開戦後、現地召集されて日本軍の部隊に組み込まれる例が多かったのです。年輩者はそれを免れる代わりに軍に協力させられ、資源獲得などに働いていたと思われます。

ラングーンは英軍の攻撃で1945年(昭和20)5月初めに陥落しますが、その直前にビルマ方面軍司令部以下の各部隊は脱出しました。この商社マンもビルマから逃げ、バンコクを経てサイゴンあたりで敗戦を迎えたのでしょう。軍と一体で活動していたので、撤退でも部隊に同行し、さまざまな便宜を受けていたはずです。

このはがきは軍郵ステーショナリーを利用し軍事郵便としての部隊検閲も受けていますが、実際には英軍管理下の俘虜郵便です。民間人は本来、ジュネーブ条約による戦争捕虜の待遇は受けられません。郵便物を無料で発受できるのは捕虜の特権ですが、身分上は捕虜でないこの商社マンも、それまでのいきさつから俘虜郵便を利用できたのでしょう。

はがきの発信時期は分かりませんが、文面から1946年晩冬-春頃のようです。葉書表面左下にある紫色の米軍検閲印、いわゆる「金魚鉢」に日付の記入がないことからも、日本到着は46年前半までです。引揚援護庁編『引揚援護の記録』(1950年)によると、南部仏印からの引揚は46年4月16日に開始され、8月5日に完了しています。

敗戦後、南方占領地の軍人からの通信は俘虜郵便としてある程度存在しますが、民間人の通信となると、GANは未見でした。日本への民間郵便は船舶などの輸送手段が途絶し、郵便連絡は事実上不可能となったからです。このはがきは、軍とのコネが「活用」された特殊で希有な例と言えます。
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2018年03月31日

切手・消印なし罹災郵便

罹災郵便-02.jpg罹災郵便-01.jpg切手も消印も一切ない封筒ですが、これでも立派な第1種書状の郵便物です。1923年(大正12)9月の関東大震災の際に短期間認められた制度に基づいています。近年のヤフオクで入手しました。

関東大震災で壊滅状態となった東京、横浜両市では被災を免れた郵便局でも手持ちの郵便切手類はわずかしかありません。着の身着のままで逃げ出した被災者は言わずもがなです。被災者からの私製はがきと有封書状は無切手で受け付け、郵便料は受取人から徴収すればよいと逓信当局は柔軟に対処しました。

これが「罹災郵便」制度で、9月10日付「逓信公報」第1号外で逓信省令第58号として公表、即日実施されました。一部にある8日や9日開始説は誤りです。9月8日は計画が決まった日で、翌9日に省令公布の運びでしたが、逓信公報が2日以降発行不能でした。ようやく10日に手書き原稿を起こす形で応急復刊し、省令を掲載できたのです。旧逓信省保存の公報(製本済み)も公布日は手書き赤ペンで「10日」と直されています。

この書状は戒厳令によって横浜市の警備についていた軍隊から制度開始1週間後の9月16日に発信された罹災郵便です。横浜局は第一震で倒壊し焼失しましたが、9月9日までに横浜駅前、桜木町駅前、横浜公園内など8個所にテント張りの郵便受付所を仮設していました。切手も日付印も失い、受け付けた郵便物を東京や静岡方面へ送り出すだけの業務でした。

発信アドレスは「横浜市大岡町/千保警備隊/歩57ノ3」とあります。「歩57ノ3」とは歩兵第57連隊第3中隊を意味します。57連隊は第1師団歩兵第2旅団(旅団長:奥平少将)に属し、千葉県佐倉に駐屯していました。千保警備隊にはこの第3中隊がそのまま充てられたのでしょう。

神奈川県内の治安維持を武力で保つため、9月3日に戒厳命令が出されて相模川以東に神奈川警備隊、以西に小田原警備隊が設置されることになりました。神奈川警備隊司令官には歩兵第2旅団の奥平旅団長が任命され、即日、横浜駅北隣の神奈川駅北側にある高島山(青木町)に司令部を開設しました。

神奈川警備隊はさらに、横浜市内を桜木町駅付近で横浜港に入る大岡川で南北二分し、南部を57連隊の第1、2大隊が4日から、北部を9日にはるばる青森から駆け付けた第8師団歩兵第5連隊の第1、2大隊がそれぞれ警備に就きました。別に、藤沢・鎌倉方面の警備に5日から騎兵第15連隊が派遣されました。

アドレスにある「千保」は大岡町の小字で、鎌倉街道(現在の県道21号)と当時は予定線だった京浜急行本線が交差する現在の上大岡駅北口に当たります。鎌倉方面から横浜に入る南の関門として中隊規模の警備隊が配置されたのでしょう。通信文から発信者はこの第3中隊の中隊長(中尉)のようで、故郷の兄に近況報告しています。

8個所の郵便受付所の一つは被災した無集配3等局の横浜大岡町郵便局跡地にも設けられていました。この書状はそこで受け付けたに違いありません。封筒表面に赤ペンで「罹災郵便」と「◎郵税先払」、裏面に「切手無イカラ先払ヒ御免」「兵ノコシラヘテクレタ封筒デス」などと書かれ(上図)、発信事情をよく物語っています。

この当時、東海道線は不通のままで、海軍の軍艦が品川-江尻(清水港)間で貨客の臨時輸送に当たっていました。この書状もそれによって横浜港から運び出されたのでしょう。沼津以西なら通じていた東海道線で豊橋まで運ばれ、飯田線に積み替えて逓送されたと思われます。宛先の長野県下伊那郡市田村は現在の高森町で、下市田局が配達局でした。

もしこの書状に切手が貼られていたら、最初に通過した江尻局で引き受け・抹消したはずですが、無切手なので引受印は押されていません。封筒に未納印や付箋の跡などが見当たらないことから、あるいは配達した下市田局が「同情的配慮」をして3銭の不納料金を請求しなかったのかも知れません。
posted by GANさん at 20:54| Comment(0) | 関東大震災 | 更新情報をチェックする