2019年05月12日

御大喪と御大典の臨時局

武蔵横山.jpg元号が代わるの代わったのというアベ政権脚本、テレビ局主演のバカ騒ぎもようやく一段落したようです。「天皇崩御を伴わない御世みよ代わり(=改元)だから盛り上がった」。コメンテータの賢しら顔を眺めて、前々回には両方で臨時局の開設があったことを思い出しました。

前々回、つまり大正から昭和への御世代わりは、1926年(大正15)12月25日のことでした。亡くなった大正天皇の葬儀(御大喪)は27年(昭和2)2月8日に東京で、践祚せんそした昭和天皇の即位礼(御大典)は28年11月10日に京都で行われました。

大正天皇の陵墓は東京府南多摩郡横山村(現在の八王子市長房町)に新造されました。当局は造営や式典準備、参列者の便宜のため27年1月23日に武蔵横山局を臨時開設し(図上)、2月15日限りで廃止しました。当時の浅川局の集配区管内で、今日の八王子横山町局とは全く無関係の局です。

武蔵横山局は2等局でしたが集配はせず、郵便物は窓口引受だけ扱いました。若干の官白が残されていますが、実逓便は聞いたこともありません。2月7、8日だけ東京、横浜との間に限定した速達取扱も行われました。もし、このエンタイアが世に出たら「超」が2、3個は付く大珍品でしょう。

京都御所内.jpg一方の御大典は大正天皇に続いて昭和天皇第2皇女の服喪があって少し遅れました。28年11月10日に京都市上京区の京都御所で即位礼、続いて14、15日に大嘗祭が行われています。このため御所内に11月1日から(図左)11月30日まで京都御所内局が臨時開設されました。

京都御所内局は武蔵横山局と同様に2等局で集配は扱いませんでした。開局期間中、京都市内、東京、神戸との間で速達も引き受けました。こちらは武蔵横山局のわずか2日間限りと異なり1ヵ月と比較的長いのですが、やはり速達便はまだ収集界に出現していないようです。

京都御所内局の官白はよく見る気がしますが、ほとんどは11月10日の大礼記念特印です。当時のコレクターの興味は今日と違い、大きくて華やかな特印の方にあったのかも知れません。わざわざ局を訪れても黒活印の押印を求めた人は少なかったようです。御大喪では特印は使用されませんでした。

両局の印影を比べると、時刻表示が武蔵横山局では午前0-9時のY3型なのに、京都御所内局は午前0-7時のY1型と異なっているのに気づきます。Y3型の時刻表示は午前9時から始まる3時間刻み、Y1型は午前7時からの1時間刻みです。この間に2時間刻みのY2型もあります。

これは武蔵横山局の集配を受け持つ浅川局が3等局なのに対し、京都御所内局の京都局は1等局と等級格差があるためかも知れません。つまり、その局自体は同じ2等局でも、臨時特設局の時間刻みは受け持ち集配局に倣ならうのではないかという推測です。

武蔵横山、京都御所内局ともに郵便以外に電報も扱いました。配達は局構内などごく狭い範囲だけと思われ、これらの局の日付印が押された電報送達紙の出現もまた絶望的です。為替・貯金業務は武蔵横山局では扱いましたが、京都御所内局では扱っていません。告示にはあるのですが、臨時陵墓局で為替を組んだり貯金する人など実際にいたのでしょうか。
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2019年04月21日

玉砕部隊に宛てたはがき

クェゼリン-2.jpg太平洋戦争中に南海の孤島や大陸奥地で敵軍に包囲され、援軍のないまま全滅した(当時は「玉砕」と美化して発表された)部隊は数知れません。そうとは知らない家郷から全滅部隊の兵士に宛てられた軍事郵便はどう取り扱われたでしょうか。一つの回答を与えるはがきがあります。

このはがき(左上図)は2銭楠公に1銭女工を加貼りして、昭和19年(1944)9月25日に埼玉県熊谷局で引き受けられた軍事郵便です。宛名の「ウ90」は南洋マーシャル群島クェゼリン環礁のクェゼリン島、「ウ50」は海軍の第61警備隊を表します。「うらら丸」は海軍省の『徴傭船舶名簿』によると、阿波国共同汽船会社の貨客船(407t)で、41年(昭和16)11月に海軍に徴用されました。

クェゼリン-1.jpg付箋があり、横須賀局軍事郵便課で「軍当局ノ指示ニ依リ返戻」と印刷されています(左下図)。結局このはがきは戦地には渡らず、熊谷-横須賀間を往復しただけに終わったわけですが、差出人は「軍当局ノ指示」とは何か、なぜ戻されてきたのか、理由が見当も付かなかったでしょう。

日本領土の最東部に当たるクェゼリン環礁には開戦以前から太平洋を進攻してくる(はずだった)米艦隊を迎え撃つ海軍の潜水艦基地などが建設されていました。実際、開戦劈頭のハワイ真珠湾攻撃に加わった第6艦隊の潜水艦部隊はここから出撃しています。

クェゼリンには基地施設を守るため海軍第61警備隊や、後になって陸軍も海上機動第一旅団、南洋第一支隊のそれぞれ一部を配置します。中部太平洋方面最前線の中枢基地として整備されていました。

米軍は44年1月下旬からクェゼリンに空襲と艦砲射撃を加え、2月2日から上陸を始めました。6日にクェゼリンと、同環礁内で飛行場のあるルオットの日本軍は全滅してしまいます。このはがきの宛名「うらら丸」は「44年1月30日沈没」と記録されています。61警備隊に所属していて、環礁内で米軍上陸直前の空襲を受けて撃沈されたのでしょう。

大本営は2月25日になって初めてクェゼリン、ルオットの陸海軍守備隊の「玉砕」を公表しました。一般国民もクェゼリンの兵士が全滅したことを知るわけですが、軍事郵便で「ウ90」と表示されるのがその場所とまではだれも知りません。知らないまま差し出されたこのはがきの宛先は、実は半年以上前に部隊が全滅してしまっていたクェゼリンだったのです。

これが日中戦争までだったら、「名宛人戦死」という付箋付きで戦地から返戻されていました。太平洋戦争で当局は「戦死」は国民の戦意高揚に有害と考えたようで、禁句でした。このはがきは、まして全滅部隊宛てなので、戦地に送るまでもなく軍事郵便交換局の横須賀局からそのまま戻されています。

この付箋は「名宛地ノ部隊玉砕セルニ依リ」と言わず、単に「軍当局ノ指示ニ依リ」としか説明していない点が不親切です。いかにも「大本営発表」で悪名高い軍部の独善的な秘密主義を表しています。名宛人がクェゼリンで戦死したと聞かされ、はがきが届かなかった真の理由を差出人が覚ったのは戦後になってのことだったと思われます。
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2019年03月31日

御殿場線鉄郵データ更新

御殿場線01.jpg御殿場線02.jpg静岡県駿東郡関係の鉄道郵便エンタイアを整理していて、更新データを持っていたことに気づきました。右図の楠公2銭はがきは「国府津沼津間 昭和17年(1942)8月17日 下り1便」の鉄郵印で引き受け、佐世保に宛てられています。

『てつゆう=梶原ノート=』(2014年、鳴美)で確認したところ、最新データは17年5月31日(下二)となっていました。わずかではありますが、2ヵ月半ほど更新することになります。もしかして、鉄郵専門家の間では既にもっと新しいデータが共有されていたのでしたら、ゴメンナサイですが。

発信者の住所「深良村震橋(ふからむら・ゆるぎはし)」は現在は裾野市の一部になっています。御殿場駅から1つ沼津寄りの佐野駅(現在の裾野駅)が最寄り駅なので、このはがきは佐野駅構内の郵便箱に投函されたのでしょう。佐野駅で下り列車の郵便車に乗務した郵便係員が取り集めて引き受け押印し、さらに沼津駅で下り神戸方面行き郵便車に積み替えられ運ばれたと考えられます。

御殿場線概念図.jpg『てつゆう=梶原ノート=』は国府津沼津間の鉄道郵便を東海道線の区間便としていますが、誤りです。この線路は熱海回りの東海道線ではなく、箱根山の裏(西)側に大回りする御殿場線だからです(左の概念図参照)。横須賀線や身延線などと同様に独立した鉄道郵便線路として扱われるべきです。

もっとも、この本の編集者の誤解にも「理解できる」点があるのです。東海道線は創業以来ずっと、国府津沼津間を御殿場回りするルートでした。が、1934年(昭和9)12月1日に箱根外輪山の南東部山裾に丹那トンネルが開通し、熱海経由の国府津沼津間が東海道本線に変更されました。哀れ、御殿場ルートはローカル「御殿場線」に転落してしまいます。

以上を踏まえてさらに『てつゆう=梶原ノート=』を見ると、不可解なデータが載っていました。国府津沼津間で最古の「昭和3年6月28日(上二)」という他に突出して早い日付があります。この時期は御殿場回りの東海道線しかなく、東海道線とすればこんな区間便は無用でした。「昭和13年」などの誤りではないでしょうか。

【追記】(2019.4.10) 「逓信公報」で調べたら、やはり昭和9年11月28日付の告知欄に「12月1日から御殿場線に国府津沼津間鉄道3等郵便線路を新設する」趣旨の記事が掲載されていました。国府津沼津間という鉄道郵便線路は東海道線のルート変更と同時に誕生したことが分かります。これで、「昭和3年」はあり得ないデータと断定できます。
posted by GANさん at 03:40| Comment(0) | 静岡県駿東郡 | 更新情報をチェックする

2019年02月06日

従軍記者が運ぶ軍事郵便

従軍記者内-戦表.jpg従軍記者内-戦裏.jpg日中戦争期の軍事郵便に新聞社や通信社名で「従軍記者托便」と印刷されたりスタンプが押されたりしたものを見ることがあります。

前線の兵士が書いた手紙を従軍記者がついでに運び出したのかと漠然と考えていました。しかし、最近になってもっとシステム的に奥があることに気づかされました。

上図は東京の大手フロアオークションで先月落札したはがきです。東京日々新聞(=東日、現在の毎日新聞)の「従軍記者托便」により故郷から戦地宛てでした。よくある従軍記者が前線から後方に運んだものとは逆です。この通信文面に次のように印刷されています。

従軍記者上海戦線.jpg 此のはがきは本社特派員が上海戦線へ持って行きます、
 十二月六日迄にお便り御書入れの上販売へ御届け下さい


東日は上海付近の戦地へ取材記者を派遣するに当たって、取材先の部隊の出身地である栃木県那須村(現在の那須町の一部)周辺の購読者にこのはがきを配ったのでしょう。この文面に「販売へ」とあるのは、東日新聞の販売店のことで、記入済みはがきをまとめて東京の本社に送ったと思われます。

那須村長以下の村の要人たちの連名で「武威高揚に感謝、奮闘を祈る」という趣旨がガリ版印刷されています。村役場の兵事係が村出身兵士一人一人の宛名を懸命に書き、印刷したのかも知れません。宛先の「山田常部隊」とは1938年当時華中で作戦中の宇都宮第22師団かと考えましたが、解明できませんでした。

このはがきには「郵便はがき」の表題はありますが、実際は郵便逓送でなく、記者が持ち運んだ東日の無料「会社便」でした。だから、切手貼付位置を示す枠や「軍事郵便」表示は不要で、印刷がありません。宛先も最初から特定されているため、「上海派遣」などの表記は不要だったのです。

従軍記者戦-内裏.jpg従軍記者戦-内表.jpg銃後と前線兵士を結ぶ東日のサービスはこれに留まりませんでした。記者は取材終了後、兵士から故郷への通信も預かって帰国しています。

上図のはがきとセットで作られた「帰り便」の軍事郵便はがきを右図に示します。前線の兵士の故郷宛て通信を従軍記者が運び出していますが、どこかで野戦局などに引き渡して郵便逓送されたのか、あるいは内地まで持ち帰って販売店から宛先に直接配達したのかは分かりません。

いずれにせよ、従軍記者が故郷と前線の間で双方向の通信を媒介していたことになります。取材以外にこんな負担まで抱え込んで、果たして十分な報道活動はできたのでしょうか。背景には大手新聞社間の激烈な部数獲得競争や軍部への阿りがあっただろうことが十分に想像できます。

[追記](2019.02.07)「通りすがり」さまから別記コメントを頂き、はがき宛先の「山田常部隊」とは宇都宮の歩兵第66聯隊と判明しました。「通りすがり」さまに感謝します。
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2019年01月27日

3セット型区別符の意味

イメージ-1.jpg2018年6月20日の当ブログで、海軍軍事郵便のアドレスとして使われる区別府に「3セット型」とも言うべき新タイプのあることを報告しました。区別符はふつう、片仮名「ウ、テ、イ、セ」の1文字+漢数字2文字を1セットとした2セットで所在地と部隊名を表しています。この他に1セット多い3セットのタイプも存在することが分かったのです。

前回は「呉局気付 セ45 セ41 ウ372」をご紹介しましたが、今回、新たに第2例目を発信(右上)・着信(右下)のセットで入手しました。誤記の疑いのない使用例が増えたことで、「3セット型」の意味と性格を確定することができたと思います。以下に続報としてお伝えします。

イメージ-2.jpg今回入手したアドレス表記は「横須賀局気付 ウ83 ウ84 ウ187」というものです。3セットある区別符を相対的位置によって「第1、2、3セット」と表現すると、次を表しています。(右図=第2セットがなぜ部隊名で、所在地名ではないかの説明は長くなるので省略します。)

 ・第1セット:ヤルート島イメージ
 ・第2セット:第10海軍郵便所第6派出所(部隊名)
 ・第3セット:横須賀鎮守府第6特別陸戦隊=横鎮6特陸

特別陸戦隊は海軍の陸上戦闘専門部隊で、各鎮守府に直属して機動的に行動します。定まった駐屯地がなく移動がひんぱんなので、他の海軍陸上部隊と違って所在地は常に流動的です。特別陸戦隊のアドレス表記は例外的なものが多く、収集家泣かせの常連です。

一方、厚生省の「恩給加算調書」によると、横鎮6特陸は1942年8月24日から43年2月15日までギルバート諸島(の内のタラワ環礁ベティオ島)に派遣されていたことが分かっています。この間、ギルバート諸島には海軍の郵便機関は未開設で、タラワに所在地区別符ウ66が指定されたのも42年10月からでした。

所在地区別符がないとき、そこにいる海軍部隊のアドレスはどう定めるでしょうか。最も近い既設の郵便所気付とするのが合理的です。当時、ギルバート諸島に直近の郵便所はヤルートの第10郵便所第6派出所(部隊区別符ウ84)でした。こうして、「タラワの横鎮6特陸」は「ウ84気付 ウ187」を得たはずです。

ところが、区別符によるアドレス表示法では「気付」は省略されるので、「ウ84」はグリーニッチの所在地区別符と見なされてしまいます。誤解されないように派出所所在地のヤルート島イメージを表す区別符「ウ83」を頭(第1セット)に付けたのでしょう。この3セット表示は「所在地区別符未設定期のアドレス表記」とすれば納得できるのです。

前回の「呉局気付 セ45」のケースは他からの転入部隊が所属する(上位の)部隊名を第2セットとして加えた例でした。共通して言えるのは、移動・転属部隊や区別符未設定地の部隊が、「気付」の意味で所属上位部隊や直近の郵便所の区別符を第2セットとして加えていることです。

「3セット型区別符」は海軍の郵便物取扱例規にも規定が終始ありませんでした。必要に迫られた現場の、いわば知恵の産物だったのかも知れません。
posted by GANさん at 03:18| Comment(0) | 軍事郵便(海軍) | 更新情報をチェックする

2018年12月24日

「郵便学者」の賀状論

内藤記事.jpg「年賀状、出しますか?」というタイミングよいタイトルで1ページ特集の記事が12月24日付『朝日新聞』に載っていました。

「年賀状を辞める『辞退宣言』が増えている」「年賀はがきの発行数は減少傾向」「お年玉くじの最初はミシンが特賞だった」など既に書き尽くされた事実をなぞっただけの陳腐な内容です。そのおざなり記事の締めくくりに「郵便学者 内藤陽介さん」のコメントを見つけ、注目しました。

2段見出し顔写真付きの大きな扱い(左図)で、記者が聞き取りした「談話」というより本人が直接寄稿した文章のように見えます。5つの段落ごとにGANなりの要約をすると、次のような構成です。

 1、通信手段が多様化しても年賀状はなくならない。
 2、義務的な年賀状が多く「水ぶくれ」状態だったのが今は解消に向かっている。
 3、年賀状は日本人の文化だが、文化は本来無駄の塊である。
 4、年賀状を出す人は尊重すべきであり、攻撃すべきではない。
 5、年賀状は気楽な文化として楽しめばよい。

どの段落の「見解」にも論拠らしいものがなく、段落間のつながりも見えません。要するに何を言いたいのか筋を追うのが困難です。強いて論旨があるとすれば、「年賀状は日本文化の一部なのだから、無駄のように見えても続けていこう」とでも言いたいのでしょうか。このどこに学問研究の成果が反映されているのか、と聞きたくなります。

郵便の学者を名乗る人がこの問題をどう解き明かしてくれるのだろう、とGANは関心を持ったのです。こういう肩書きで登場するのなら、150年近い郵便の歴史を踏まえて「郵便と現代」に切り込んでほしかった。歴史観がすっぽりと抜け落ちているのです。この程度なら、JR新橋駅前とかで勤め帰りのサラリーマンを何人かつかまえればすぐ作れそうです。

そもそも論で言うなら、「郵便学」とはどんな内容で、他の学問とどう関わり合っているのでしょうか。そういう学者がどれほどいて、過去にどんな業績が発表されているのでしょうか。ーーすべて「ナシ」。内藤氏の頭の中にしか存在しない「学問」だからです。『朝日』はそれを調べもせず、肩書きに釣られて見事に引っかかり、恥を天下に曝しました。

現在の日本に郵便切手や郵便制度について地道な専門研究で実績のある人は大勢います。しかし、生業でもない「学者」を名乗るような人は内藤氏を置いて他にありません。「郵便学者」はジョークだと内藤氏が言うのなら、無知な新聞の取材にそう明言すべきでした。以後はマスコミから声がかからず、商売に差し支えることになるかも知れませんが。
posted by GANさん at 14:42| Comment(0) | 雑観・雑評 | 更新情報をチェックする

2018年11月28日

35日間の軍事航空レート

41海軍1派.jpg1次昭和切手3種、計25銭貼りの軍事航空郵便はがきです。昭和17年(1942)5月5日に第41海軍軍用郵便所第1派出所(サイゴン)で引き受け、鳥取市に5月25日に着いています。最近のヤフオクで入手しました。

太平洋戦争開戦後、軍事郵便の公式取扱は42年1月15日から始まりました。軍事航空郵便は陸軍では当初から公用に限定して私用は扱わず、海軍は公用・私用とも取り扱いました。しかし、5月6日から航空郵便の全国的な取扱制限が始まると、海軍も私用航空を廃止(42年5月6日付海軍省通牒 官房第2749号)してしまいます。

この間に私用軍事航空料金が値上げされていました。4月1日の内国郵便料改定に合わせ、書状が30銭から50銭に、はがきは15銭から20銭になったのです。公用軍事航空は料金が無料なので、値上げとは無関係でした。

つまり、太平洋戦争中の有料軍事航空郵便は海軍の私用だけで、30銭/15銭レート時代が76日、50銭/20銭レート期はわずか35日間となります。ただし、中国・海南島などの海軍受命商社は例外で、42年5月以降も私用軍事航空の書状使用例数点が知られています。

このはがきは超短期間で終わった50銭/20銭レート期で、しかも私用航空廃止前日=最終日の使用例です。ただ、このはがきに実際に貼られている切手は25銭で、5銭余計です。これは日中戦争期以来長く続いてきた30銭/15銭レート期の類推から「はがきの航空料金は書状の半額」と思い込んでいて、誤認したためと考えられます。

差出人は特務艦「佐多」乗り組みの士官です。佐多は給油艦(タンカー)で、戦前は米サンペドロなどからの石油積み取りに当たっていました。この当時は、太平洋戦争の直接的な目的だったスマトラやボルネオ産石油の内地還送で華やかに活躍中でした。44年3月、佐多は米艦載機によりパラオで撃沈されています。
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2018年10月31日

間島出兵の短期間野戦局

第16野戦局.jpgシベリア出兵時の第16野戦局から発信された大正10年(1921)の年賀状です。読みにくい発信アドレスですが、浦潮(ウラジオ)派遣軍隷下の第13師団歩兵第58連隊第1大隊本部の兵士が「支那三岔口さんたこう」から発信しています。ごく最近のヤフオクで入手しました。

「シベリア出兵時」と書きましたが、実はこのはがきはシベリア出兵とは無関係の「間島出兵」の軍事郵便です。「間島」とは中国吉林省南東端で図們江(豆満江)を隔てて朝鮮咸鏡北道やロシア沿海州と接する国境地域を指し、現在の吉林省延辺朝鮮族自治州に相当します。

間島は日本の植民地を脱して独立を取り戻す朝鮮人ゲリラ部隊の根拠地になっていました。中朝露3国国境の接壌地帯という特殊性から、日本や中国官憲の統制が及びにくかったからです。その間島の中心地・琿春で1920年(大正9)10月2日に朝鮮人馬賊の一団が日本総領事館を襲撃して放火し、在留日本人数十人が殺傷される事件(琿春事件)が起きました。

植民地支配の動揺を恐れる日本政府と陸軍はただちに朝鮮軍に朝鮮独立ゲリラ弾圧のため間島への越境出兵を命じます。シベリア出兵中の浦潮派遣軍、満洲駐屯の関東軍も協力して部隊を派遣しました。10月初めから12月20日まで2ヵ月半ほどのこの軍事作戦が間島出兵と呼ばれます。

浦潮派遣軍は間島出兵に当たり、吉林省三岔口に11月7日から12月18日までの期間、第16野戦局を特設しました。三岔口は中東鉄道東端の綏芬河(ポグラニーチュナヤ)駅南方40キロにある山中の小集落です。さらに南方へ直線150キロの琿春への兵站・前進基地でした。

出兵の主力を担った朝鮮軍には軍事郵便が適用されず、野戦局は開設されていません。部隊からの郵便物は龍井村の間島局や豆満江を渡って朝鮮の慶源、会寧局に運ばれ、有料で扱われました。また関東軍は間島西部の奉天省東辺道地区を示威行軍しただけで、郵便とは無縁です。結局、間島出兵の野戦局は浦潮派遣軍第16局だけの短期開設に終わりました。

実はこのはがきの日付印「10年1月1日」には浦潮派遣軍の全部隊は既に間島全域から撤兵後で、三岔口には野戦局もありませんでした。第16局閉鎖の12月18日以前に差し出され、年賀状として特別取扱を受けて元旦の日付が「先付け」で押されたのです。野戦局が12月中に移動・閉鎖された場合の年賀状では、時にこのような例が起こります。
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2018年10月30日

ゴム製櫛型欧文印の試行

Yokohama 1905.jpg菊4銭を貼ってフランス・ラヴェジネに宛てた絵はがきです。横浜局1905年(明治38)11月23日の黒色欧文印で引き受けられています。ヤフオクで落札し、本日到着しました。

横浜局の櫛型欧文印は日本の欧文印の中では最もありふれた存在ですが、ここでは日付が問題です。櫛型印の使用開始は1906年1月1日からが常識なので、これは1ヵ月以上も早い使用例ということになります。どういうことでしょうか。

この当時、全国の郵便局では丸一型印(東京など一部の大都市の局では丸二型印)が使われていました。これらを改良し、局種や取扱時刻を明確にする形で新形式の日付印の採用が決まりました。円形の印影内に2個の櫛歯状の文様を含むことで「櫛型印」と呼ばれます。

通達上では05年6月20日の逓信省公達第369号で櫛型印22形式の導入が予告されています。続いて、同年11月15日に局種別・使用目的別に06年1月1日から段階的に交付する旨の通牒が出されました。「護謨ゴム欧文日附印は(06年)4月1日の見込」となっています。

Yokohama 1905-2.jpg実際、外国郵便交換局や準交換局、在外局などでのゴム製櫛型欧文印の使用例はいずれも06年4月以降に認められます。しかし05年中に使われた例外があり、横浜局で10月、東京局で12月からのゴム製欧文印の早期使用例が知られています。このはがきに押されたYOKOHAMA印もその一つで、年月日を表す数字に区切りのピリオドがないのが大きな特徴です(左図)。

公表より4、5ヵ月も早い使用は、初体験となるゴム製日付印の本格的導入に先がけての試行だったと見られます。外国郵便物の取扱量が国内最多の横浜、東京局で使って、使い勝手はどうか、どのように摩耗、破損するかなどを調べ、調達数の予測などをしたのでしょう。

実は櫛型印は05年に他でも2種類が使われています。日露戦争中に満洲で開設された軍用通信所の電信印と最初期の関釜連絡航路の船内局印です。これらはいずれも櫛型印としては小型で、硬質印でした。また、横浜、東京局は明治20年代後半に丸一型ゴム印を試用したことでも知られています。

丸一印時代まで印材の主流はずっと硬質印で、水牛角や柘植つげ材が多用されました。丸二印時代以降に研究が進み、櫛型印への形式変更を機に鋳鉄製硬質印とゴム印への全面切り替えが図られます。1910年2月前後の東京局でコルク製と言われる特異な彫刻型による欧文印を試用した例もありました。この時代は当局が日付印の印材に試行錯誤した時期と言えます。

欧文日付印は結局、鋳鉄印、ゴム印ともに一長一短があり、どちらが決定版ともなりませんでした。櫛型時代が終わり、三日月型を経て丸型印と形式が移り、インク浸透式が導入された今日でも両者の併用が続いています。
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2018年09月30日

アッツ米川部隊の通称号

北部83-表.jpg北部83-裏.jpg太平洋戦争の初期、日本軍は米領アリューシャン列島の一部を占領していました。その守備隊の「物語」は、アッツ島の「玉砕」やキスカ島からの奇跡的全員脱出という劇的展開で、今日の私たちにも涙させる強い魅力があります。

しかし、ここほど軍事郵便の収集家・研究者を泣かせる地域もまたありません。アリューシャン撤退後に関係部隊がすべて廃止や改編されたため、当時の部隊記号(通称号)を読み解く資料がまったく失われてしまいました。通称号は陸軍の軍事郵便アドレスとして必ず使われるで、解読できないと部隊名が分かりません。

そんな中で、いくつかあるアッツ部隊の通称号解明を1件だけですが増やすことができました。上図は最近GANが入手したはがきで、発信アドレスに「北海派遣 北部第八十三部隊気付」と書かれています。この通称号「北部83部隊」とは、アッツ守備隊の主力として戦い全滅した「北千島要塞歩兵隊」と分かったのです。

米川浩部隊長.jpg収友の大上養之助氏に頂いていた北方部隊関係資料の内の1冊、『はんの木-北千島戦友会誌』(1989)を最近読み返していて、たまたま気づきました。北千島要塞歩兵隊長だった米川浩中佐のご遺族が寄せた文章にアッツの米川中佐からのはがき(右図)が添えられ、そのアドレスが「北部第八十三部隊」と、上図のはがきと同じなのです。

隊長自身が記しているのですから、北部83部隊の正式名は「北千島要塞歩兵隊」以外にあり得ません。この部隊は1941年(昭和16)7月に札幌で編成され、9月に北千島の占守島別飛に派遣されて駐屯していました。42年10月にアリューシャン作戦に転用されてアッツを占領し、「米川部隊」と通称されました。

ところで、GANのはがきは米川部隊長からのものと少し異なり、「北部83部隊気付」と「気付」が付いています。これは何を意味するのでしょうか。ここでの「気付」は、歩兵隊本隊でなく、歩兵隊の「指揮下に配属された別の部隊」の意味で使われていると考えました。

通信文に「昨年の四月、北鮮の国境より帝都の防空設備の為八月迄出張、東京生活も僅かで又北の一線に飛び出した」「内地よりの便りは上陸以来六ヶ月になるのにまだ何の消息も耳に出来ません」などと書かれています。工兵関係の兵士が43年4月末か5月初めに発信したと推定できます。

公刊戦史『北東方面陸軍作戦<1>』によると、米川部隊への配属部隊はそう多くありません。これは北千島要塞歩兵隊に従ってアッツに進出した「第24要塞工兵隊ノ1小隊」でしょう。小隊長荒井善之助少尉以下、恐らく数十人の小部隊だったと思われます。部隊長の1枚のはがきをキーに、多くのことが分かりました。
posted by GANさん at 14:21| Comment(2) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする