2017年09月17日

神田『野戦局々名目録』

局名録01.jpg局名録02.jpg100年以上前の郵趣の大先輩がまとめた我が国初の軍事郵便研究書を最近のヤフオクで入手しました。1913年に神田柳吉氏が自家出版した『野戦局々名目録』です。存在は知られていましたが、実物が世に出たのは、少なくとも戦後は、初めてではないでしょうか。

これは小型の和本で、上質な和紙に活版印刷され紺色の平紐で綴じられています。判型はJIS規格以前の菊判の半裁というのでしょうか、15.6×11.5pでA6判とB6判の間です。表紙を除く本文15葉(30ページ)、うち2葉は挿絵です。奥付に「大正2年5月26日発行、発行者・神田柳吉」と記されています。

局名録03.jpg内容は日清・日露戦争と明治36年大演習で実際に使われた野戦局(艦船郵便所を含む)印の局名リストが主体です。附録として、日露戦争の野戦局で使われた朱色と紫色の色変わり印、記念印のリストもあります。日清戦争で20局、大演習の全6局、日露戦争では164局もの局名が挙げられています。

日露戦争の野戦局が全廃された1907年(明治40)からわずか6年後でこれだけの局種・局名を集めたとは、大きな驚きです。神田氏は他にも郵便日附印、記念日附印(特印)使用の公達、特設局開設告示、郵便税消印番号印(記番印)リスト等々を同じ体裁で続々と自家出版しました。日本郵便印・郵便史研究の偉大な先蹤者です。

印刷技術上の問題があったのか、この本には印影図が採録されていません。代わりに、軍名、日付、局名を2本の区画線で3段に区切って丸二型野戦局印を説明しています(上図左ページ)。神田氏は後にこの本の増補改訂版とも言うべき「野戦郵便局日附印形式及局名」を郵趣誌『郵楽』に連載(1916-7年)し、そこでふんだんに印影写真を載せました。

この本は神田氏の自家出版本の大部分を収めている郵政博物館資料センター(旧「逓博」)にもありません。吉田景保氏の労作『日本の郵趣文献目録』(1973年)にはタイトルなどが採録されていますが、どうも現物は見ていないようです。題名、編者名がやや不正確な上、消印大好き人間だった吉田氏が内容に一言も触れていないのはヘンだからです。

以上のようなわけで、この『野戦局々名目録』は単に稀覯本というだけでなく、GANにとっては先達の足跡をたどる上で欠かせない第一着の文献です。大事にしたいと思います。
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2017年09月15日

タイ回収領土の軍務知事

Chiengtung-1改.jpgChiengtung-2改.jpgeBayに出品された全文タイ語のカバーに柄にもなく手を出して落札、今日届きました。1文字も知らない外国語なので、次の第2−4項は出品者による説明を丸写ししたものです。

ビルマ領シャン地方南東部を第2次大戦中に隣国タイ軍が占領して開設した「統合旧領軍政府」の軍務知事に宛てたタイ軍の公用機密軍事郵便です。

封筒表面中央上部の楕円印は「機密」、角枠印は「至急」を表します。最上部左端のアラビア数字などは文書番号と発信日付ですが、タイ官庁の通常の形式と異なるため、解読できません。裏面はタイ国防省の「陸軍機密」専用シールで封緘されています。

このカバーには一切の郵便印がないことから陸軍のクーリエ(伝書使)によって配達されたと見られ、狭い意味での「郵便」ではありません。発信者はシャン地方に進出していた近くの陸軍官庁か部隊でしょう。国防省のある遠いバンコクから発信された書状なら、必ず郵便が利用されたはずだからです。

第2次大戦中のタイは日本軍制圧下で巧妙な二股外交を繰り広げていました。日本と軍事同盟を結んで連合国(英米側)に宣戦する一方、有力な王族や軍人・政治家グループがその連合国と密かに連絡を取って日本軍情報を流し、連合軍スパイの潜入を助けました。離反常ならぬタイの歓心を買うのに懸命な日本は、過去にフランスやイギリスに蚕食された失地回復の支援を図ります。

そのため、日本は占領下のマライ北部4州とビルマ領シャン2州をタイに割譲しました。2州とはケントン州とモンパン州で、サルウィン河(怒江)左岸のタイ領側にあります。タイ国軍の東北軍は1942年5月に日本軍のビルマ侵攻に合わせて2州を含むシャン地方南東部を占領しました。1943年8月20日にバンコクで日泰条約が調印され、2州は正式にタイ領土として承認されました。

Phin_Choonhavan.jpgタイは回収した旧領の2州に軍政を敷き、中心の町・ケントンKengtungに統合旧領軍政府を置いて統治しました。軍政府トップの軍務知事には東北軍の第3師団長だったピン・チューンハワンPhin Choonhavan将軍(右写真=英文Wikipediaより引用)が任命されました。後に元帥に昇進するタイ陸軍の実力者です。2州は戦後、マライ4州と共にタイから返還されて元に戻りました。

当時のケントン州やモンパン州は少数民族が居住する未開の山岳地帯でした。戦前でもビルマ郵政が有効に機能していたかどうか明らかではありません。まして戦時下での主権移動という大混乱期なので、郵便は事実上ないも同然だったでしょう。このカバーはそんな歴史的状況を後世に伝える得がたい史料となっています。
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2017年09月14日

満州国が軍人用はがき?

gg.png「偽満州国の軍事郵便はがき」という触れ込みで、怪しい櫛型印を押したブツが9月17日終了のヤフオクに出品されています。出品者の説明によると、通常はがきと同じ大きさの紙片の表に暗黄褐色で左図のように印刷されているそうです。

中央に大きく、交差させた歩兵銃の下に「軍人専用」の文字のある軍帽が白抜きで描かれ、この図案の上部に「満州帝国軍事明信片」、下部に「康徳十一年・新京」の文字があります。「明信片」は中国語で郵便はがきを、康徳11年は「満州国」年号で1944年を意味します。

裏面は白紙で、中央部に下図のような朱印1個だけが押印されているといいます(裏面全体の画像はありません)。一見して日本の関東逓信局が設置した鳳凰城局の大正5年(1916)か昭和5年(1930)の日付印のような形式をしています。

xx.pngところが、出品者はなぜかこれを「偽満洲国で発行されたはがきに中華民国25年の押印」と説明するのです。民国25年は1936年に相当します。満州国のはがきに日本局の日付印というのに、なぜ突然中華民国の年号が登場するのか。「25」や「1936」などという数字があるわけでもなく、根拠不明です。

仮に民国25年とすると、1936年に鳳凰城局の日付印を押した用紙を保存しておき、8年後に「軍事明信片」などの印刷をしたことになります。あり得ない時間の逆転です。恐らく出品者(=製作者?)は「康徳年号に14を加えると民国年号」と誤って思い込み、印刷の「康徳11年」に合わせたつもりなのでしょう。実際には、14を加えると民国年号になるのは昭和年号なのです。

ニセモノと断定できる決定的証拠は、A欄の「鳳」とD欄「満」が簡体字であることです。簡体字は戦後成立した新中国で1956年に中国人民の知的向上を図って採用された新字体です。日付印の「5」が大正でも昭和でも、あるいは民国や康徳年号であろうと、戦前にこの「鳳」「満」字体は決してあり得ません。また、明らかなゴム製印ですが、満州の和文印にゴム製は存在しません。

そもそも満州国でこんなヘンテコな「はがき」など発行された事実自体がありません。では、この空中楼閣的偽造品はだれが作ったのか。製作者の正体は「語るに落ちる」です。簡体字以外の字体の存在さえ知らない夜郎自大ぶり、特有の「偽満洲国」という表現。−−この2点から中国人、それも新中国で生まれ育ち歴史問題に全く無知な中国人の仕業であることが明らかです。

追記(2017.09.18) この品は9月17日夜の締め切りでしたが1人も入札がなく「不落」でした。しかし出品者(製作者?)は直後に臆面もなく再出品しています。ヤフオクには自動再出品のシステムがあるので、カモを待ってずっと繰り返すつもりなのでしょう。公開されている「悪い」評価のやりとりを見る限りでは、出品者はちょっとアブナイ人のようです。
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2017年08月31日

興亜院にも軍事郵便扱い

中国・青島の興亜院出張所から北京駐在の日本海軍武官に宛て、第3海軍軍用郵便所(青島)で昭和14年(1939)年5月1日に引き受けられた公用航空書状です。青島−北京間の軍用定期航空でひと飛びしたのでしょう。近年のヤフオクで入手しました。

興亜院表.jpg興亜院裏.jpg
発信者の「興亜院」は聞き慣れない名前ですが、れっきとした日本政府の機関です。中国の日本陸海軍占領地での軍政を一本化して政経、文化工作に当たり、日本官民による開発事業を統制するなどの目的で1938年12月に設立されました。総裁は首相、副総裁は陸、海、外、蔵の4大臣の兼任とされました。中国侵略を本格的に企画するための露骨な中央組織です。

興亜院は実務に当たる出先機関として、華北(北京)、蒙彊(張家口)、華中(上海)、厦門に連絡部を置き、さらに青島に華北連絡部の出張所を設けました。連絡部の主要職員はほとんどが陸海軍将校で、長官は中・少将クラスでした。陸軍と海軍の利権漁りの場ともなり、華北、蒙彊は陸軍が、華中、厦門と青島は海軍がポストを独占し、「縄張り」にしていました。

この書状については根本的な問題があります。職員の多くが軍人とは言え、トップに文民の首相を頂く一般官庁なのに、なぜ無料軍事郵便扱いだったのでしょうか。職員のほとんどがエリート将校だった陸・海軍省でさえ軍事郵便は適用されていません。この書状も中国郵政に託し、中国切手で料金を支払うべきものではなかったのでしょうか。

逓信当局は日中戦争から太平洋戦争の期間にかけて、いくつかの組織に限定して例外的に無料軍事郵便の適用を認めていました。この興亜院がその一つで、ほかに占領地の大公使館・領事館などの在外公館や船舶運営会なども適用を受けました。ただし無料軍事郵便は公用の場合に限られ、それぞれの組織の所属職員でも私用で差し出す郵便はやはり有料でした。

資料集.jpg興亜院に対していつからどのような条件で無料軍事郵便が適用されたか、明確な資料は見つかっていません。ただ、郵政省が戦後、『続逓信事業史』編纂の際に集めた資料の題目をまとめた『資料目録』の第1集に「興亜院及在支帝国大使館間発着公用郵便物ノ軍事郵便取扱ノ件」(昭和15年5月23日郵業第414号)という内牒のタイトル名だけが残されています(上図)。

この内牒の内容は伝わっていないので想像するほかありません。興亜院と在中国外交公館の公用郵便を軍事郵便として扱うことに関連した事項を逓信部内に通知したのでしょう。興亜院の発足から1年半が経っているので、この内牒によって軍事郵便適用が開始されたのではなく、すでに適用されている取り扱い方法の変更に関する通達ではないかと考えられます。

やがて太平洋戦争が始まると、植民地と占領地を担当する大東亜省が新たに誕生し、興亜院はこれに吸収併合されて消滅します。短期間とは言え興亜院の公用郵便が特別に軍事郵便扱いを受けていたことは、この官庁の軍事的、侵略的な性格を鮮やかに物語っています。
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2017年08月27日

リユースされた異型為替印

大谷櫛葉書.jpg樺太・大谷局で昭和18年(1943)10月6日に引き受けられた楠公はがきです。特異な発信アドレスに加えて検閲印もあり、一見して軍事郵便のようですが、有料の完全な内国第2種普通郵便です。

この大谷局日付印は特別珍しくもありませんが、形式が特異です。局名「樺太大谷」は明瞭なのに、その下(D欄)が空白で、本来入るべき櫛型がありません(下図-)。GANはこれまで活字挿入の不具合か、押印のさいの微妙な力加減かでこのようになったかと考えていました。最近になってこの疑問はとっくに「解明」されていたことに気付きました。

浜松の消印研究家で故人となられた池田進氏著『日本消印事典(3)』(1972年、萬趣会)の「樺太の消印」の項で、「C欄星3つ」型のバラエティとして、この異型印の印影が発表されていました(p.74)。池田氏は「大正7年ごろまで使われたと考えられる丸二型為替印の局名活字の再使用によるものである」と注記しています。

樺太では大正時代初期に独特の丸二型印が導入されました。郵便電信印では上部「樺太」で下部局名、為替貯金印では上部局名で下部為替貯金記号というタイプです。通常、これらの活字の配列は水平ですが、一部の局では局名が外円に沿って弧状のバラエティが使われました。郵便電信印で野田寒、為替貯金印では大谷の例(下図-中央)を池田氏は挙げています。

大谷無.jpg池田.jpg大谷櫛.jpg
つまり、大谷局では1940年前後に大正時代に使っていた為替貯金印を引っ張り出し、その下部印体だけを「C欄★3個」に差し替えて郵便用にリユース(再利用)した。上部は普通の櫛型印のA欄のように見えるが、本来が丸二型印なのでD欄などない−−というわけです。大谷局では正常な櫛型印(上図-)も併行して使っています。リユースの理由は、時局(戦争)による資材節約を理由とする時刻表示廃止、「★3個」型導入と関連がありそうです。

恒例の「蛇足」です。このはがきの「大谷郵便函11号ノ2」という発信アドレスは、1940年(昭和15)1月から使用が始まった特別な表記法です。前年5月に配置された樺太混成旅団の存在をソ連に対して秘匿するため、部隊名の代わりとして導入されました。上敷香、豊原、内路、気屯など数局の使用例が知られますが、部隊名を始め使用状況はまだ「解読」されていません。

もう一つ蛇足。池田氏は櫛型印について解説した『日本消印事典』第3巻をまず出版しましたが、他は未刊に終わりました。後に『櫛型日付印詳説』上・下巻(1975・76年、萬趣会)を出しましたが、この樺太丸二型印の異型バラエティについては言及していません。
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2017年08月25日

5倍遠回り、なぜ鉄道便に

駿河小山.jpg菊赤紫3銭貼りの書状を静岡県の小山局で明治37年(1904)10月20日ハ便で引き受け、山梨県の吉田局に翌21日ロ便で到着しています。最近のヤフオクで、駿東郡のカバーということで入手しました。平凡な郵便のはずでしたが、封の下部に東京行き上り鉄道郵便印が押されています。これは大問題です。

小山から逓送する場合、通常は隣の御殿場に送り出した後、須走を経て甲駿国境の籠坂峠を越え、谷村、大月方面に至る逓送路が利用出来ます。小山−御殿場−吉田間は50q足らずで、翌日配達か、便の連絡が非常によければ即日配達だって可能な距離です。(下図参照)

小山吉田間逓送路.png

これに対し、上り鉄道便に乗ったらこの書状は東京まで行ってしまいます。東京からは現在の中央線に積み替えて大月から運ぶほかありません。駿河小山−東京間、東京−大月間は共に100q以上あり、大月−吉田間を加えると合計250qの距離を逓送することになります。通常の御殿場経由ルートの5倍もの遠距離です。

ここで蛇足ながら、吉田、御殿場、須走(現在は小山町の一部)はいずれも富士登山道の登り口です。受取人は富士山信仰「冨士講」の御師(おし=神職兼登山ガイド兼宿泊所経営者)でした。

そもそも200qも余計な大回りをした挙げ句、翌日に平然と吉田に着くことなど出来るものでしょうか。それとも、この鉄郵印「東京静岡間/37年10月20日上り便」は一種の紛来印で、誤って郵便車に乗せられたのでしょうか。鉄郵係員が気付いて国府津駅あたりで降ろし、御殿場に逆送して通常ルートに乗った、という可能性もあります。

結論から言うと、東京回りは時間的に可能でした。収友の鉄道郵便専門家・児玉敏夫氏に貴重な当時の時刻表でご協力いただき、併せて「逓信公報」告知欄を日を追い調べたところ、行程時間は次のようになります。「東京静岡間」が1日上下1便ずつしかないので時間を確定できました。

10月20日 小山局−駿河小山駅−(官設東海道線)東京・静岡間上り便18:05−21:35新橋駅−東京局(泊)
10月21日 東京局−飯田町駅−(甲武鉄道)東京・八王子間下り1号便04:50−06:35八王子駅−(官設中央線)八王子・韮崎間下り1号便06:45−08:40大月駅−大月局−吉田局

アリバイ成立! この書状が東海道線と中央線を経由する東京大迂回ルートで逓送されたことが確実となりました。すると次の問題は、なぜ通常の御殿場−須走ルートでなく、「逆方向」で面倒な積み替えが何度も必要となる東京ルートが選択されたかです。「急がば廻れ」「距離は長くも時間は短い」の類いだったのでしょうか。

当時は須走局から御殿場局へ1日2回の持ち戻り便があり、御殿場局発が04:29と14:10でした。小山局の引受印「ハ便」は恐らく夕方の時間帯だったでしょうから、須走行き2号便には間に合わないかも知れません。機転を利かせた小山局員が「逆転の発想」で、これから到着する静岡発新橋行き郵便車に積み込んだ、というシナリオはあり得ます。

しかし、実を言うとこの判断もやや危うい。書状が仮に御殿場局まで送られて1泊するにしても、翌日の1号便で差し立てれば吉田には即日到着出来るはずだからです。

ただし、御殿場局への最終便も出た後だったら話は別です。やむなく小山局で1泊すると、翌日未明の非常に早い御殿場局1号便にも間に合わないかも知れない。御殿場局で2号便まで漫然と待たされると須走に夕方の15:42着となって、またもや1泊ともなりかねません。吉田へ着くのに3日掛かり、という最悪の場合も考えられるのです。

小山局のとった処置の当否は結局、「ハ便」の時間帯が実際に何時だったのかに依ります。今後の資料の発掘に期待しましょう。GANとしては、便数の少ない当時の田舎の局としてユーザーのため最善の配慮をした結果だったろうと理解しています。

蛇足ですが、この鉄道郵便印、丸一型東京静岡間の「37年10月20日上り便」は上・下便を通じて最古データを更新するもののようです。最新刊の『てつゆう=梶原ノート=』(2014年、鳴美)によると、最古は「38.7.17上り便」となっています。
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2017年08月15日

キスカ「熊」部隊を解明

熊2.jpg熊1.jpg先年、函館の古い収友、大上養之助さんに無理を言って、アリューシャン派遣部隊の貴重なエンタイアと資料類を譲って頂きました。おかげで、これまで厚生省資料などには漏れていた部隊通称番号を偶然にも解明することができました。

右図がそのエンタイアの1通です。発信アドレスは「小樽局気付 北海派遣 熊9237部隊 宇佐美隊」とあります。「北海派遣」は米領アリューシャン列島のアッツ、キスカ両島を占領・防衛するために派遣された陸軍部隊を意味します。小樽局はこの軍事郵便の交換局でした。「熊」はこの部隊を編成して送り出した「親元」の第7師団(旭川)を表します。

しかし、肝心の9237という部隊通称番号が分かりません。陸軍省編『陸軍部隊調査表』(1945)や最も信頼できる大内那翁逸編『旧帝国陸軍編制便覧』(1995)には9236まではありますが、9237から9240までは欠番となっています。これは、アッツ玉砕、キスカ撤退でアリューシャン完全放棄により解散した部隊と思われました。

終戦前に廃止された部隊は資料がなく、経歴を調べるのは至難の業です。あきらめていたところに大上さんから電話があって、あっさり解決してしまいました。「あの手紙を差し出した人の部隊の写真集だったんだね。中隊長の名前が一致したんで驚いたよ」。こちらはもっとビックリし、頂いた資料群をあわてて取り出し、見直しました。

確かに、『想い出の栄光 北魂 宇佐美隊』という大判の写真集(コピー)がありました。アッツ・キスカから北千島と転戦した穂積部隊宇佐美隊の大量の写真フィルムを戦友会が編集して1983年に刊行したものでした。「穂積部隊」とはアッツ攻略のため編成された北海支隊(穂積松年支隊長)の通称です。

支隊の主力は穂積少佐が大隊長として指揮する独立歩兵第301大隊で、1942年(昭和17)5月5日に第7師団で編成されました。「宇佐美隊」とはその大隊の第4中隊(宇佐美利治中隊長)の通称だったのです。さらに、書状の発信者である源光男氏は中隊幹部の軍曹だったことも写真集の記事から分かりました。

ここまでくれば、もう間違いありません。「9237部隊」とは「独立歩兵第301大隊」のことです。大隊はアッツ攻略後、42年9月にキスカに転進したため命拾いしました。43年7月末に「奇跡」とされるキスカ完全撤退に成功した後、大隊は北千島・幌筵島で復帰(解隊・廃止)し、大部分の隊員は新たに編成された千島第1守備隊(幌筵)に転属しています。

この書状はキスカから43年4、5月に発信されたと考えられます。「北海派遣」という派遣名は陸軍省内牒「陸亜密第347号」によって43年1月30日以降の使用が指定されました。また、アッツ・キスカとの連絡は、伊号第7潜水艦の5月4日アッツ入・出港を最後に途絶しています。書状表面に「7月4日着」の書き込みがあり、恐らく最後かそれに近い潜水艦便で運び出されたのでしょう。

念のためですが、「9237部隊」が大隊の上級部隊である「北海支隊」やその後身の「北海守備隊」を表すとは考えられません。「宇佐美隊」が中隊名であることが確定した以上、その前の「9237部隊」は中隊が所属する連隊なり大隊名でなければなりません。この場合は301大隊しかあり得ないのです。
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2017年07月31日

富士山局の開設はいつ?

富士山頂.jpg今から28年前の平成元年(1989)8月1日に富士山頂局は「開局80周年」と称する左図のような小型記念日付印を使いました。これによると、富士山頂局は80年前、つまり明治42年(1909)に開局したことになります。

ところが、これはトンデモな誤りで、実際の開局はこれより3年前の明治39年(1906)でした。丸一印や季節局・特設局・山岳局印などのコレクターにとってはごく常識的な話で、「明治42年」説など何の根拠もありません。

当時GANは東京にいて、この小型印が使われたことは知りませんでした。しかし、10年後の1999年には静岡県沼津市に移住していて、地元紙の「富士山頂局が開局90周年を祝ってイベントを催す」という記事を読んで仰天しました。富士山39年.png富士山頂局の管理は当時既に御殿場局から富士宮局に移っていたので、その担当者に電話しました。

G「今年は開局93年が正しい。90年とする根拠は何か」
局「郵便局の沿革録に明治42年開局と書いてある」
G「だったらそれが誤り。逓信公報に明治39年開局の告示(右図)がある」
局「調べる必要はない。郵政省が認めており、80年には小型印も使った」
G「自分自身の歴史を間違って、恥ずかしくないのか」
局「間違っていない。明治42年開局が郵政の公式見解だ」

郵政民営化の前だったとは言え、何とも傲慢で官僚体質丸出しの職員の言い分でした。GAN以外にも内外から疑問・抗議の声が出たはずですが、当局はすべてほっかぶりです。日本郵政となった2009年には、「開局100周年」イベントまでやったそうです。現代日本官僚の宿痾である歴史無視・軽視体質がそのまま表れています。

確認しておきますが、「富士山」局が開設されたのは明治39年7月30日のことです。富士山吉田口と須走口の登山道が合流する8合目の石積みの山室が局舎でした。登山口の山梨県吉田局が管理し、丸一型「甲斐/富士山」日付印が使われています。シーズン中だけ営業する、いわゆる「季節局」で、9月10日に閉鎖されました。

富士山局.jpg富士山局局長には吉田局長が兼任で発令されました。8月14日にこの局舎で開局記念祝賀会を開き、袋入り2枚組みの記念絵葉書(右図)まで発行しています。しかも祝賀会記念として、この富士山局印を朱色で押印しました。数少ない丸一色変わり印として人気の高い珍印となっています。ヒゲの豊かな顔写真を絵葉書に大きくあしらっているこの局長氏、なかなかの張り切り屋さんだったようです。

翌40年には富士山局は御殿場口頂上に移転して7月16日に開設され、8月31日に閉鎖されました。元の吉田・須走口8合目には同じ7月16日に別に「富士山北」局が新設されています。この年から日付印形式が櫛型に移行したので、富士山局の丸一型印は前年、39年の1回限りとなりました。

以後毎年シーズンになると、頂上に富士山局、8合目に富士山北局の2局が開設されました。太平洋戦争期の休止をはさんで戦後再開された富士山局は「富士山頂」局と改称されて今日まで続いています。富士山北局は1962年を最後に廃止されました。その代わり、1991年になって山梨県の有料道路「富士スバルライン」終点に「富士山五合目」簡易局が新設されています。

ところで、当局が祝う「明治42年」とは何だったのか。この年に富士山、富士山北両局の開設時期を毎年一定の7月20日−8月31日と定める告示が出ています。以後はいちいち開設・廃止を告示しなくなりました。逓信公報の読み方も知らない戦後官僚たちがこれを「富士山局の開設を確定した告示」と誤解した可能性が考えられます。
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2017年07月05日

病院船に託す日赤ルート

日赤02.jpg日赤01.jpgフィリピン(比島)に派遣された日本赤十字社の従軍看護婦に宛てた特別軍事航空往復はがきの返信です。つい最近のヤフオクで落札しました。

このはがきは航空料金往復無料の特別便で、軍属も利用できました。3銭レートで1944年(昭和19)5月12日に新潟・関山局が引き受けています。宛て先の「渡9766部隊」は第14軍に配属された第138兵站病院を表します。「317班」は医師・看護婦からなる日赤救護班チームの番号です。

はがきには、付箋をはがした形跡も「返戻」印や米軍押収印なども全くなく、キレイなものです。比島現地の名宛人に無事に届き、日本内地に持ち帰られたことを物語っています。

宛先のアドレス表記が類例を見ない特異さなのが目につきます。「横浜市山下町 日赤神奈川支部留置/比島派遣……」と書かれています。通常の軍事郵便アドレスは「派遣方面+部隊名」だけなのに、なぜ「日赤神奈川支部」と余計なものが付くのでしょうか。日赤独自のルートで確実に届けるためだった、とGANは考えます。

大戦末期の44年の段階では公用でもない限り、まして陸軍では航空便などまったく利用できなくなっていました。もちろん日赤が管理する航空機などもありません。しかし、敵国にも安全を保障された、氷川丸など一群の病院船がありました。運航権は陸海軍側ですが、スケジュールや乗務について、日赤は綿密な連絡協議を受けていたはずです。

となると、日赤が前線との通信にもこの希少で確実なルートを利用しない手はありません。病院船の連絡・発着港が横浜だったのでしょう。当時の日赤支部長は県知事が務めるのが慣例でした。これらの関係郵便物は神奈川県庁内の日赤支部に集められ、病院船の入港を待って搭載されたと考えられます。

通信文を読むと、「○○の由、一同喜こんでゐます」「南の国から母国迠遙かな波路一路平安なれ」などと書かれています。「○○」は「帰国」でしょう。当時はマリアナ方面で「絶対国防圏」が崩壊し、次は「比島決戦」必至として大本営で「捷1号作戦」が練られていました。激戦を前に、看護婦やタイピストなど女性軍属の優先帰国が配慮されたのかも知れません。

GANの推測に過ぎないこの「日赤ルート」は、まだ実証する資料がありません。しかし、この特異なアドレス表記は以上のような理解が最も合理的です。いずれにせよ、名宛て人は無事に帰国し、受け取っていたこのはがきを持ち帰ったと見られます。なお、本人が勤務していた第138兵站病院(飯田浩造病院長)は「レイテで玉砕」と記録されています。
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2017年06月30日

幌筵島の陸地測量部員

幌筵.jpg幌筵-2.jpg陸軍参謀本部の下部機関である陸地測量部の測量要員が1913年(大正2)に北千島北端の幌筵(ほろむしろ=パラムシル)島から発信した紫分銅はがきです。近年のネットオークションで入手しました。

ありがたいことに、現在ではこの陸地測量部員の行動が、かなりの程度解明できます。アジア歴史資料センター(JACAR)がネット上で公開している膨大な資料の中に、断片的ながら記録した文書が残されているからです。

明治末から大正時代にかけて、海軍は毎年春から夏に樺太や千島に軍艦を派遣してラッコなどの密猟を取り締まるかたわら、水路の測量や北洋情勢の調査などを続けていました。大正2年度は幌筵島沿海部の水路測量で、2等海防艦「大和」(初代、1,480トン)を派遣する計画でした。

これを知った陸軍も幌筵島の地形測量を計画、陸地測量部の技師らの便乗派遣を海軍側に申し入れて承認されました(大正2年3月24日付海軍次官発呉鎮長官・水路部長宛「千島国幌筵島測量ニ関シ軍艦便乗ノ件」)。陸地測量部の目的は、空白状態の北千島各島の地形を三角点測量し、縮尺5万分の1地形図などにまとめることでした。

「大和」は6月2日に根室に2回目の寄港をしたさい、陸地測量部チーム68人と60トンの測量器財をピックアップし便乗させました。8日に出港し、6月12日に幌筵島に入港して部員らを降ろし、6月15日には千島列島最北端、カムチャツカ半島と向き合う占守(しむしゅ)島に着きました。これを含め、9月下旬に任務を終えて帰投するまでの間に根室−占守島間を3往復しています。

このはがきの差出人は「地形科附」とありますから、2人の測量士を補佐する11人の測量手のうちの1人ではないかと思われます。幌筵到着3日後の6月15日に書かれた安着を知らせるはがきは幸便を待ちましたが、いっこうに北海道に向かう船が来ません。結局、一時帰航する「大和」に搭載されてようやく7月25日に根室に着きました。

北千島に日本人が入り、越冬施設も出来るのは北洋漁業が盛んになる大正中期以降のことです。この時代は郵便機関など影すら見えません。幸便に恵まれなかったこのはがきは、40日もが過ぎてから初めて根室局で正式に引き受けられました。千葉県の宛先に届いたのは7月末でしょう。1ヵ月半もの「超長旅」です。

海軍は「大和」乗員や便乗者宛ての郵便について、大正2年4月19日付「海軍公報」で、「5月1日以降は根室局に宛てるよう」指示しました。このはがきの発信アドレスもそれに従っています。実際に「大和」は4月7日に所属する呉軍港を出て根室を5月5日に出港、占守島に向かいました。根室局に溜まる「大和」宛て郵便物は幸便頼みだったでしょう。

これらの経緯から、このはがきは軍艦利用の海軍連絡ルートに乗った陸軍軍人の通信と分かります。北千島郵便史の前史を物語る得がたい資料と思います。
posted by GANさん at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍事行動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする