2018年09月30日

アッツ米川部隊の通称号

北部83-表.jpg北部83-裏.jpg太平洋戦争の初期、日本軍は米領アリューシャン列島の一部を占領していました。その守備隊の「物語」は、アッツ島の「玉砕」やキスカ島からの奇跡的全員脱出という劇的展開で、今日の私たちにも涙させる強い魅力があります。

しかし、ここほど軍事郵便の収集家・研究者を泣かせる地域もまたありません。アリューシャン撤退後に関係部隊がすべて廃止や改編されたため、当時の部隊記号(通称号)を読み解く資料がまったく失われてしまいました。通称号は陸軍の軍事郵便アドレスとして必ず使われるで、解読できないと部隊名が分かりません。

そんな中で、いくつかあるアッツ部隊の通称号解明を1件だけですが増やすことができました。左上図は最近GANが入手したはがきで、「北海派遣 北部第八十三部隊気付」の表記があります。この通称号「北部83部隊」とは、アッツ守備隊の主力として戦い全滅した「北千島要塞歩兵隊」と分かったのです。

米川浩部隊長.jpg収友の大上養之助氏に頂いていた北方部隊関係資料の内の1冊、『はんの木-北千島戦友会誌』(1989)をたまたま読み返しました。北千島要塞歩兵隊の隊長だった米川浩中佐のご遺族が寄せた文章にアッツの米川中佐からのはがき(右図)が添えられ、そのアドレスが「北部第八十三部隊」と、同じなことに気付きました。

隊長自身が記しているのですから、北部83部隊の正式名は「北千島要塞歩兵隊」以外にあり得ません。この部隊は1941年(昭和16)7月に札幌で編成され、9月に北千島の占守島別飛に派遣されました。アリューシャン作戦に転用されて42年10月にアッツを占領し、「米川部隊」と通称されました。

ところで、GANのはがきは米川隊長からのものとは異なり、「北部83部隊気付」と「気付」が余計に付いています。これは何を意味するのでしょうか。ここでの「気付」は、歩兵隊本隊でなく、歩兵隊の「指揮下に配属された別の部隊」の意味で使われていると考えました。

通信文に「昨年の四月、北鮮の国境より帝都の防空設備の為八月迄出張、東京生活も僅かで又北の一線に飛び出した」「内地よりの便りは上陸以来六ヶ月になるのにまだ何の消息も耳に出来ません」などと書かれています。工兵関係の兵士が43年4月末か5月初めに発信したと推定できます。

公刊戦史『北東方面陸軍作戦<1>』によると、米川部隊への配属部隊はそう多くありません。これは北千島要塞歩兵隊に従ってアッツに進出した「第24要塞工兵隊ノ1小隊」でしょう。小隊長荒井善之助少尉以下、恐らく数十人の小部隊だったと思われます。隊長の1枚のはがきをキーに、多くのことが分かりました。
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2018年09月27日

左書き櫛型印の出現時期

愛媛・中村.jpg山口.jpg新聞1面トップ記事の横見出しなど日本語を横書きする場合、「戦前=右書き、戦後=左書き」というのが現代では漠然とした常識です。郵便切手や郵便印にもこの「常識」はほぼ通用する、と考えられてきました。

郵便印(櫛型印)の場合、正確にはいつから、何を根拠として局名表記を左書きに変えたのか。必要があって郵便法令や参考書に当たり、意外な事実に気付きました。これについて従来の説明はいずれもおざなり、というよりほとんど触れられていないのです。

まず法令ですが、郵政省は1949年(昭和24)9月30日の告示第177号で、戦時・戦後期に大混乱した通信日付印の形式を櫛型印12、機械印5種類に整理し、図示しています。これにより、局名左書きで時刻入り(C欄県名や★入りを廃止)の「戦後型櫛型印」形式が10月1日から導入されました。

郵便印の専門書として最新刊の『日本郵便印ハンドブック』(2007年、日本郵趣協会)はこの告示177号を挙げて、単に「1949年から使用された」とあるだけです。『郵便消印百科事典』(2007年、鳴美)も「昭和24年から左書きの局名活字の配備が始まる」とし、早期使用例1点(中京局24.2.1)の存在を示すに止まっています。

愛媛・中村-1.jpg山口04.jpgところが、GANの知るところでは実態はもっと複雑です。右上のエンタイアで示すように、局名左書き印は告示のずっと以前から、少なくとも昭和22年(1947)1月に使われています(左図の左=愛媛・中村局)。県名の左書き印ならもっと早く、昭和21年(1946)10月の使用例があります(上図の右=山口局)。分類上では局名、県名とも左書き/右書きの組み合わせで4タイプを考える必要があるのです。

郵政省は局名を左書き表示に改めた理由を説明していません。郵趣協会や鳴美の本も同じで、根拠を求めた形跡すら見えません。GANの調査では常識的に考えられるような米軍占領下で欧米式にならって取り入れたのではありませんでした。戦前の1942年3月に文部省が主唱し、逓信省も含む主要官庁が賛同して決定された「横書統一案要綱」に淵源があります。

「国語ヲ横書ニスル場合ハ左横書ニ統一スルコト」と孔版手書きされた文部省作成の「要綱」原文が現在も国立公文書館に残されています。これが当時すぐに実行されなかった経緯は横道に逸れるので略します。左書き櫛型印の登場は、要綱の精神が敗戦を隔てて実施されていった1例と考えてよいと思います。いずれにせよこれを1949年から始まったように書いている郵趣協会や鳴美の本は事実誤認と言わざるを得ません。

日付印.jpg小包.jpg文部省の要綱案には参考資料として右横書きと左横書きが混在して紛らわしい実例8件が略図で添えられています。そのうち2件がなんと、郵便印でした。これは大変興味深く示唆的な事実です。その図版をご参考までにに掲げておきます。
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2018年08月31日

消印「活用」で墓穴掘る

観兵式-乃木希典 毛筆葉書 肉筆.pngまた乃木将軍のニセ「ご真筆」カバーに新顔が現れました。左図は8月30日締め切りのヤフオクに「陸軍大将乃木希典肉筆葉書」として出品されたはがきで、3,950円で落札されました。「将軍もの」としては破格の安値で、胡散臭さが匂いすぎたからかも知れません。

これは菊1.5銭切手を貼って牛込に宛てられた絵はがきで、東京局明治39年(1906)4月30日「明治卅七八年戦役陸軍凱旋観兵式紀年」の紫色記念印で引き受けられています。その下に押された局名不鮮明な丸一印は、無理すれば日付が「39年5月1日ロ便」と読め、到着印と見られます。

青山練兵場で行われた観兵式当日、東京市内の全1、2等局では局名表示を「東京」と統一したこの記念印を備え、原則として引き受けたすべての書状・はがきに押捺しました。到着印も含め、日付印の押印が不鮮明なのは珍しくもありません。これら2つとも真正の消印で、これだけだったら何の問題もないのです。

しかし、郵便史上の事実によって、たやすく偽造(変造)品と見破ることができます。この不鮮明な丸一印が到着印だとしたら、牛込局のものであるはずがありません。牛込局を含む東京市内の全1、2等局では5年も前に丸一印の使用を止め、39年1月1日から櫛型印に切り替えているからです。

凱旋観兵式.jpgたまたまGANのコレクションに牛込局の到着印として櫛型印が押された同じ日の使用例がありました。右図にその真正品を示します。左上の偽造品と較べて到着印の形式がまったく異なることをご確認ください。

恐らくニセはがきの方は元もと鉛筆で宛名が書かれていたのでしょう。他出先で急に思い付いた際などよくあることです。偽造者はそれを消しゴムで消し去り、ニセの宛名、文面、将軍サインを筆で上書きしたのだと思います。二つの消印を生かすため宛名を窮屈に右に片寄らせて書いているのが証拠です。

そもそも乃木将軍はこの観兵式には日露戦争に参加した「主役」の軍司令官として参列し、部下将兵を率いて明治天皇の閲兵を受けていたはずです。そんな日に「承ればご安産の由」などとのんきな出産祝いを書くでしょうか。4月30日に投函したのに「(5月)1日吉辰」と日付を遅らすのも不自然です。

GANの目から見れば「希典」のサイン自体が似せてはいますが本物と違います。将軍は消息文でこんな筆太の字は書きませんし、字間・行間もこんなにセコくキチキチには詰めずに本来は伸びやかな筆遣いです。

--議論の余地もある偽筆云々の問題は一応措くとしても、郵便史上のごく初歩的な知見がこんなはがきの存在を一も二もなく否定します。アイデアとしてはよかったのですが、偽造者の知識不足が災いして墓穴を掘った例を更に増やしただけとなりました。
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2018年08月29日

剱を見るは別山北峰に如ず

この夏は思い出に残る夏でした。没後50年の父の命日に仐寿の兄と北アルプスの立山に慰霊登山をしてきたからです。父は遭難死した大島亮吉と同時期の大学山岳部員で、登る機会のなかった剱岳に終生の憧れを抱いていました。立山は全ルートで剱を見て歩けるのです。

今のGANよりも若かった父の「荷物持ち」として、立山周辺には2度同行しました。「あの急な岩尾根が源次郎」「カニの横ばいがよく見えるぞ」「大きく切れてるのが三ノ窓。隣が小窓だな」。兵役時代の重いガンキョウ=双眼鏡で飽かず眺めていた姿が思い出されます。

今回は、後期高齢者もいいとこの2人パーティーなので、健常者の2倍の時間を見込んで行程を組みました。初日は立山黒部アルペンルート出発点の扇沢手前で高級ホテル泊まりです。新宿発最終夜行列車で通路に新聞紙を敷いて寝た学生時代の山行の対極。兄が「宿泊費は全部オレが持つ」とこの年して兄貴風を吹かせるので、乗らない手はないのです。

IMG_43582.jpg最大の難関は3日目、朝6時に一ノ越山荘を立って雄山(3,003m)へ300メートルの直登です。ただでさえフレイル(老年性筋力虚弱)なのに加えて狭心症が連発し、特効薬のニトロも効きません。最後の20メートルは見かねた兄がザックを持ってくれ、ゾンビ状態で頂上を踏みました(写真=中央GANの左は笠ヶ岳、右側が薬師岳の山塊)。

ガイドブックの3倍、3時間もかかりましたが、いずれにせよ想定内です。ここまで登ればあとは稜線散歩のはず。大汝山(3,015m)、富士ノ折立(2,998m)、真砂岳(2,861m)、別山(2,874m)と、山荘で用意してもらった弁当も開けずにへたり歩きました。別山と双耳峰で縦走路から少しはずれた北峰(2,880m)にたどり着いたのは午後1時のことです。

別山北峰からは眼下の剱沢雪渓を隔てて剱岳がフルオープンで真正面に迫ります。環境省にはナイショなのですが、実は剱と向き合う特徴的な形をした花崗岩の根元に父の分骨を埋納していました。前回は1988年だったので30年ぶりのお参りです。岩に水を打ち、故人の好物だった銀座清月堂の金鍔と水羊羹を供えて二人で手を合わせました。

一ノ越から奇跡的にクッキリ見えた槍・穂高や笠ヶ岳の遠望、別山北峰で雲の切れ間から一瞬見えた剱岳源次郎尾根、そして雪渓を残して神秘な緑青色を湛えた室堂平のミクリガ池が印象に残ります。雷鳥にも再度お目にかかれました。今後も再訪できるとは思えません。よい山行ができたことを、つくづく感謝しています。
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2018年07月31日

差出人に還付し倍額徴収


ダルニー未納-2.jpgダルニー付箋.jpg私製絵はがきですが、「清国ダルニー」という片仮名の宛名はともかく、「勅令違反」というような付箋(左図の右側)に驚かされます。意外と珍しい使用例かも知れません。

これは、日露戦争中に福岡県三井郡御井町から大連の碇泊場司令部付き軍医に宛てた軍事郵便です。切手を貼り忘れたまま投函されたので、久留米局ではがき表面に角枠「未納 徴収額 三(筆書)銭」の朱印を押して差出人に戻しています。消印がありませんが、1905年(明治38)春ごろの発信のようです。

これだけならよくある未納郵便に過ぎませんが、このはがきは軍事郵便ならではの特別取扱を受けていました。普通の未納・不足郵便物は宛先に配達し、受取人から料金(不足料金の倍額)を徴収します。しかし、戦地宛て(=有料)軍事郵便に限っては配達せず、差出人に還付して料金の倍額を徴収する規則でした。

それが付箋に筆書されている「勅令第19号第3条」です。この勅令は日露戦争の直前に制定された軍事郵便の最も基本的な法令です。戦地では野戦局員自身が直接受取人を捜すのは極めて困難で、受取人も現金を持ち合わせているとは限りません。互いに手間がかかり過ぎるので「発送せず還付」することになったのでしょう。

明治人は律儀ですから、料金の計算間違いはあっても全くの未納、まして戦地宛ての未納はごく稀だったでしょう。還付されても付箋をはがし、改めて切手を貼って再投函した例も多かったはずです。再投函も捨てられもせずに残ったこのはがきは、勅令第3条の適用を証明する貴重な存在と思います。

宛先の「ダルニー」は現代の大連(正確には中国旅大市の一部)です。帝政ロシアは東清鉄道の支線を大連湾に面した漁村「青泥窪(チンニワ)」に引き込み、商港を築いてダルニーと名付けました。日露戦争でこの地を占領した日本軍は1905年2月11日に大連と改称、このはがきはその改称前後の発信とみられます。
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2018年07月26日

カルトール印刷切手秘話

A.Kobayashi.JPG全日本切手展が開催中の7月21日に切手研究会の2017年度総会が東京・浅草の都立産業貿易センター台東館で開かれ、GANも参加してきました。

出席者18人。会計、会報編集、三井文庫などいつもの報告が坦々と続きました。その後の講演で、小林彰氏(写真の右端)の「日本郵便とISP(Cartor & Walsall)」が圧巻でした。

小林氏といえば、マダガスカル切手やフランス横浜局などの研究者・収集家として著名です。しかし、現在の立場はなんと、フランスの証券印刷会社カルトール(Cartor Security Printing)の日本代表だというのです。これには正直、ブッタマゲました。左下は小林氏の名刺。中央の実際に「全型目打」が施された大きな社名ロゴにがおしゃれです。

名刺表.jpgカルトール社は昨年、5円ニホンザル、30円キタキツネなど日本の普通切手5種を製造しました。従来の国立印刷局製同図案のグラビア印刷切手と比べ、オフセットで刷った同社切手の精巧な出来栄えが評判になっていることは、門外漢のGANにも聞こえていました。

日本のコレクターにとって、これまで「オフセット」は戦中・戦後の混乱期に製造された3次昭和や新昭和切手を思い起こさせ、粗悪切手の代名詞でした。そんな印象を逆転させたカルトールとは何か。GANは軽オフセット機で印刷屋を営んだ経験もあり、大きな興味です。

小林氏のお話は当事者ならではの「ここ限り」の秘話満載で、講演終了後も会員が取り囲み製造技術上の質問が絶えませんでした。記憶の限りで一部をご紹介します。

・日本郵政は郵便切手製造の単価低減、「ガラパゴス化」回避を図って国立印刷局、凸版印刷の国内2社以外の海外印刷会社にも2004年から入札参加を認めた。現在までに3社が資格を得ており、今後もこれら海外印刷の普通切手が出現する可能性がある。
 1、ISP(仏系カルトール社と英系ウォルソール社の持株会社、2004年)
 2、Enschede エンスケデ(オランダ、2013年)
 3、Philaposte フィラポスト(フランス、2015年)

・日本の普通切手は印刷局が独占製造してきたが、2016年に外国企業で初めてカルトールが受注し、17年度に1、5、50円と20、30円の2期に分けて納入。18年度も同額面を納入予定。同社の普通切手シェア4-5%。

・日本郵政の契約条件は「印刷様式はグラビアまたはオフセット印刷。オフセットの場合は350線以上」。コスト上の損益分岐点は2,000万枚で、以下ならオフセット、以上はグラビアが有利。カルトールはオフセット専門なので、450線で製版し、平台オフセット機で(枚葉紙に)刷った。650線まで精密化する技術がある。

・発注条件に「印刷局製を見本に、全く同じものを作れ」。ヨーロッパ式の削り取り式目打は使えず、日本独特の針穴穿孔式目打や日本とヨーロッパで色調が異なる印刷インクの調整などで苦心した。

・刷版(いわゆる「実用版」)は窓口シート2×2の4面掛けで、上2面と下2面は頭合わせ。刷版中央部にあったカラーマークは裁断すれば4面ともシート上部に残るので、カラーマークの下付きは存在しない。
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2018年06月20日

海軍区別符に新タイプ

防空隊.jpg海軍軍事郵便の区別符で、これまでに知られていない表記形式のあるはがきを最近のヤフオクで入手しました。

このはがきは「呉局気付 セ四五 セ四一 ウ三七二」というアドレスで発信されています。「呉局」はこの軍事郵便の交換局で、「セ四五」以下は海軍の郵便用区別符(暗号)です。区別符は戦域別に「ウ」「テ」「イ」「セ」の片仮名4文字のいずれかに漢数字2、3桁を組み合わせた文字列で1セットになります。

区別府は通常2セットを連続して表記し、第1セットで所在地名、第2セットで部隊名を表します。例外的に第3セットまで表記する場合もありますが、それは第2セットの部隊の出先である「支部」「出張所」「支隊」「分遣隊」など分・支の隊を表す場合に限られていました。
区別符.png
このアドレスの場合、「セ45(以下、漢数字はアラビア数字に置換)」はマカッサル、「セ41」は第23特別根拠地隊です。すると、第3セットの「ウ372」は根拠地隊の支隊でしょうか。ところが、所定のコードブックで解読すると、これは第123防空隊です。分・支の隊なら、片仮名は本隊と同じ「セ」でなければなりません。

このように、第3セット目が分・支の隊ではなく独立した別の部隊を表す例はこれまで発表されていず、「新発見」です。すると、すぐに問題が起きます。セレベス島マカッサルに所在する部隊はよいとして、なぜ部隊名が二つもあるのか。発信者は根拠地隊員か、それとも防空隊員か。

これは、パラオとかソロモンなど他地区(ウ戦域)にいた防空隊がバンダ海(セ戦域)のマカッサルに転進し、根拠地隊に編入されたケースだろうとGANは考えます。根拠地隊は陸軍で言えば独立混成旅団に相当する大きな部隊で、地上部隊の他にごく小規模ながら航空、艦船部隊までかかえていました。この防空隊もマカッサルに「流れ着き」、取り敢えず大部隊に身を寄せたのでしょう。

普通、このような場合のアドレスは「呉局気付 セ45 ウ372」として、「セ41」は表記しません。原則を破ってまで敢えて上位部隊名を入れたのは、他戦域からの小規模な転属部隊の常で郵便物が迷子になりがちだったからでしょう。本当は「セ41」に「気付」を付け加えたかったところ、地名符と混同の恐れがありこの形にしたと思われます。

分・支の隊でないにもかかわらず、発信アドレスを区別符3セットで表記するこのような使い方は、海軍の軍事郵便法規集にありません。この時期、この地域限りの極めて例外的な使用例だったはずです。
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2018年06月18日

局名ペン書きの弁事所印

永安屯-2.jpg永安屯-1.jpg1940年代初めの「満州国」で局名ペン書きの櫛型印が押されたカバーを見つけました。

右図の封筒は奉天北陵4分切手を貼って東安省密山県の永安屯開拓団月山村から山形県に宛て、康徳7年(1940=昭和15)3月21日に引き受けられた、ごくありふれた「開拓団郵便」です。しかし、印影が特異です。AD欄に当たる上部印体がなく、青黒インクのペンで「永安屯」と左書き(左下図)されています。

局名はなぜ手書きされたのか。局名活字が到着しなかったから、とは簡単に推測できます。しかし問題は「開設中の局なのに日付印が間に合わない」、その辺の事情でしょう。臨時開設か、あるいは局名改称直後だったのでしょうか。
永安屯-手書き.jpg
これについてはとても有益な論考が既に発表されていました。穂坂尚徳「満洲開拓移民と郵政機関」(『郵便史学』第5号所載、1975年)です。穂坂氏は満州国の郵便史と郵便切手の専門家&日中交流の達人として知られます。いつも笑顔で愛される昔からの仲間でしたが、残念ながら最近は郵趣から距離を置いておられるようです。

穂坂氏によると、1940年1月に開かれた満州国の開拓庁長会議で交通部郵政総局から開拓地郵政機関の積極整備方針が報告されました。内容は膨大なものですが、その中に「39年度中に開拓地32ヵ所、40年度中に61ヵ所に郵政弁事所の新設」が含まれていました。39年度の一つが「永安屯」だったのです。郵政弁事所は今日の日本の簡易局と同じ委託局でした。

この先はGANの推測です。拓務省第5次移住計画で1936年6月に入植した永安屯開拓団にも郵政弁事所が39年度末ギリギリの40年3月にようやく開設された、しかし弁事所の新設が短期・大量に集中しすぎて局名活字(上部印体)の調製が間に合わなかった、ついに郵便物1通ごとに局名を手書きするのやむなきに至った--、のではないでしょうか。
永安屯-3.jpg
半年ほど後に同じ永安屯開拓団から発信されたはがきをごく最近のヤフオクで入手しました。こちらには既に正規の日付印が押されています(右図)。上述した推測を裏付ける傍証の一つになるかも知れません。

この正規印について識者の教えを乞いたい2点があります。1つはD欄が省名「東安」でなく「赤○」のように見えますが、2字目が読めません。2つ目は永安屯は弁事所のはずなのに、なぜE欄「辨」字ではないのか。普通郵政局用日付印を使っています。これらにつきコメントなどでご教示いただければ幸いです。

黒臺.jpg信濃村.jpg[追記](2018.08.18)細沼茂様に下記コメント(記事の下、最終行の「Comment」をクリックしてご参照下さい)を頂きました。図版を扱う関係で、コメントへのお返事でなく「追記」として対応させていただきます。

細沼様ありがとうございました。ご教示頂いた通り、永安屯印のD欄は「黒臺」で間違いないと思います。念のため手持ちの日付印を確認したところ、「黒臺信濃村」弁事所はD欄に「黒台」と略字を使っていました。「黒臺」局は正字(旧体字)を使っており、まさに永安屯印のD欄と同じです。「黒」は漢数字の「四」の下に「赤」を置いたような独特の字体が使われていました。

この時期、永安屯は東安省密山県に属していました。この例などから、郵政局の日付印は一般的にD欄省名ですが、弁事所はD欄に管轄集配局名を表示していたようです。弁事所で使う日附印の下部印体(E、C欄)が何らかの事情で調製できない場合に郵政局用で代用し、それでもD欄が省名でなく管轄局名であることから弁事所と判別できるのでよしとしたのかも知れません(まったくの推測です)。

ちなみに、弁事所日付印の時刻刻みは「前0-12」と「后0-12」の2種類だけなので、1日4種類以上の時刻刻みのある郵政局日付印と区別出来るはずです。
posted by GANさん at 23:28| Comment(2) | 「満洲国」 | 更新情報をチェックする

2018年06月06日

南洋から「国内軍艦郵便」

沖島-12.jpgつい最近のヤフオクで奇妙な絵はがきを入手しました。南洋から発信されたことが明らかなのに内地局の消印が押されているのです。

左図がそれで、書き込みによると、軍艦「沖島」の参謀が2月4日にパラオから発信し、13日に神奈川局の機械印で引き受けられています。年号部分が不鮮明ですが、裏面(下図)ヤップ局風景印の日付から昭和12年(1937)と分かります。風景印の図案が絵はがきと同じ現地民族の集会所「アバイ」だったので記念押ししたようです。

沖島は5千トンと大型な新鋭敷設艦ですが、巡洋艦並みの性能がありました。36年12月に聯合艦隊直属で第12戦隊が新編制され、旗艦となります。戦隊には水上機母艦「神威」と駆逐艦「朝凪」「夕凪」が編入されました。

沖島-2.jpg12戦隊の任務は「南洋委任統治区域の警備」です。しかし実際は、来たるべき対米戦争に備え、軍備が禁止されてきた南洋群島を海軍基地化することが真の任務でした。

差し当たっては水陸飛行場や艦隊泊地用の適地を探る視察と兵要調査です。米国に知られるのを恐れ、戦隊の全行動は軍機とされました。

12戦隊の沖島以下4艦は37年1月28日、南洋群島、フィリピン、蘭印、ニューギニアに及ぶ初航海へ横須賀を出港します。日本でも稀な総合南方調査だったため、外務省、海軍軍令部、南洋駐在海軍武官らが身分を隠して同行しました。途上で日中戦争が勃発したため、秋までの予定を切り上げて急遽横須賀に7月13日に帰投しています。

海軍は通常、行動する艦船への連絡予定地を例えば「2月10日までに到着する郵便物宛先はサイパン」などと『海軍公報』に掲載しています。しかし、今回の12戦隊の出港後アドレス予定は異例にも「神奈川局気付」とだけされました(37年1月20日付『部内限 海軍公報』雑款)。行き先や目的は内部にさえ一切秘密にしたのです。

南洋定期航路のターミナルは常に横浜港です。南洋との郵便物集中局(=交換局)も当然、当初から横浜局でした。このため、艦船の郵便物アドレスが「横浜局気付」だと南洋で行動することが分かってしまいます。海軍省の要請で1935年(昭和10)7月、南洋への集中局は横浜港直近の神奈川局に変更されますが、この事実は外部には秘密でした。

詳しく調べたところ、アドレスを「神奈川局気付」とした艦船部隊の行動は5回だけありました。36年8月の第3航空戦隊、37年1月の第12戦隊(今回)、38年4月の測量艦「膠州」、40年1月と5月の第4艦隊で、すべて南洋での基地調査と設定のための秘密行動です。36-38年の郵便は有料ですが、40年の2回は無料軍事郵便として扱われています。

さて、前置きが長くなりすぎましたが、この絵はがきの逓送路を推定します。12戦隊ではこのはがきを含む乗員からの有料郵便物を一括して郵袋に納めて閉嚢とし、パラオ局に持ち込んだのでしょう。パラオ局は閉嚢のまま横浜行き最速の便船に搭載したはずです。横浜入港後、閉嚢はただちに神奈川局に運ばれて初めて開けられ、引受押印をしたと思われます。

この方法は、実は軍艦郵便(軍艦閉嚢)とまったく同じ取扱です。ただ、軍艦郵便の適用はUPU加盟の外国港に停泊中の日本艦船に限られます。12戦隊の郵便物は日本領土の南洋群島から発送した点で異なりますが、いわば「国内版の軍艦郵便」でした。軍機保持の必要から生まれたのですが、この時期の南洋でしか考えられない極めて稀なケースでしょう。

以上の逓送路と方法はすべてGANの推定に過ぎません。しかし、当時の軍事情勢と、現実に神奈川局の消印が押された郵便物が存在する事実とを考え合わせると、それほど大きな誤りがあるとは思えません。
posted by GANさん at 09:09| Comment(0) | 軍艦郵便 | 更新情報をチェックする

2018年05月31日

戦地発の「未納軍事郵便」

旅順未納-4.jpg旅順未納-1.jpg未納の軍事郵便。そんなものってあるのでしょうか。軍事郵便はもともと無料。タダなんだから、料金不足の未納なんて発生するわけがない!

それが、かなりレアな話ですが、日清戦争と北清事変ならあり得たのです。右図は日清戦争中の1895年(明治28)に戦地から発信した無料軍事郵便…のはずですが、「未納」印がペタペタと押され、確かに未納料金が徴収されています。数年前にヤフオクで入手したものです。

書き込みを見ると、発信地は「清国旅順口」で、発信者は「第6師団第24連隊 歩兵1等軍曹」。無料軍事郵便の条件は十分に満たしているように見えますが、封筒には「軍事郵便」の表示が見当たりません。代わって、左側上部に「先払」と書かれていて、これが曲者です。

この書状には野戦局印がなく、日本への輸送船に直接搭載されたようです。内地に着いて最初の揚陸地の福岡局で引き受けられ、明治28年3月6日の褐色丸一印と角枠「未納」印が押されました。同じ日に配達局の大川局で倍額料金の新小判4銭を貼って未納印で抹消しています。料金先払いは未納扱いで、受取人から倍額を徴収する規定でした。

日露戦争以降の軍事郵便は何通出しても無料となりましたが、それ以前の日清戦争と北清事変では厳しい発信通数制限がありました。下士官・兵卒が無料で差し出せるのは月に2通までです。それも、95年1月まではわずか1通だけでした。3通目以上は有料で、2銭切手を貼らなければなりませんでした。輸送船の回数や積載能力が少なかったからと考えられます。

通信文には「先日御送付に相成りし郵便切手なくなり、この先払を以て御無礼申上候也」とあります。「送ってもらった切手は使い切ってしまった。切手なしの料金先払いで出すが悪しからず」という趣旨です。この軍曹さんは野戦局で切手を買う2銭にもこと欠く貧乏状態だったようです。

当時の2銭を現在の郵便料金に相当する100円足らずの価値とすると、「わずかでも給料が出ていたはずなのに、なぜ」と考えてしまいます。「どうしても必要な通信だったら、同僚や上官に事情を話して借りればよかった」とも。いずれにせよ、戦地の兵士が郵便を先払で出すのは非常に稀なケースだったと言えるでしょう。

法令を厳密に当てはめると、この書状は軍事郵便でなく、単に戦地発信の「料金未納の第1種郵便」に過ぎません。しかし、軍事郵便差し出し資格を持つ人からの郵便なので、広義に解釈して軍事郵便と言えなくもありません。なお、北清事変ではこのようなケースはまだ報告されていません。
posted by GANさん at 22:40| Comment(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする