2021年03月07日

義兵闘争鎮圧へ臨時派遣

大邱派遣隊発.jpg大邱派遣隊0.jpg日露戦争で適用されていた満州と朝鮮(韓国)での無料軍事郵便は戦後も長く続きました。廃止は1910(明治43)年のことです。

本来なら講和条約発効-部隊の撤退-軍事郵便廃止と進むべきはずでした。ところが、ロシアに代わって新たな敵、「義兵」が朝鮮で生まれました。日本軍の兵力は戦争中よりも増え、軍事郵便を続けざるを得なかったのです。

歴史用語としての義兵とは、外国の侵略に抵抗して武装蜂起した(官兵でない)朝鮮人民衆を言います。日露戦争後の日本統治に対する闘争がとくに有名で、鎮圧のため日本は撤退どころか新たな軍隊を増派しなければならなくなりました。の2点のはがきは、その派遣隊の司令部に発着したものです。

は全羅北道大邱の臨時韓国派遣隊司令部からの軍事郵便で、大邱局明治43(1910)年8月30日に引き受けられています。は逆に大邱の司令部に宛てた年賀状です。全羅南道の霊巌守備隊から菊1.5銭切手を貼って43年12月中に差し出されました。霊巌には大邱の臨時派遣歩兵第2聯隊から1個小隊が分遣されています。

同じ時期の同じ軍人なのに、なぜ8月は無料で12月は有料なのか--。43年11月末で無料軍事郵便が打ち切られ、軍事切手制度に切り替わったからです。12月1日以降は毎月2枚だけ無料で配られる軍事切手を使い、3通目からは有料となりました。従って、右のはがきは有料化された最初期使用例です。

日露戦争後、日本は韓国から外交と防衛権を奪って保護国とします。ところが、1907(明治40)年に「ハーグ密使事件」を起こした韓国皇帝を退位させ、さらに韓国軍隊を解散させると、朝鮮全土が憤激し旧兵士や農民らの義兵蜂起が相次ぎました。駐屯する韓国駐剳ちゅうさつ軍の1個師団だけでは対処できません。

日本から軍隊を逐次投入しても収まらず、ついに09年5月に臨時韓国派遣隊(渡辺水哉司令官)を送り込みました。派遣隊は歩兵2個聯隊を主力とする旅団規模で、義兵闘争が特に活発な南部の大邱に司令部を置きました。駐剳軍に協力して「南韓討伐作戦」と称する徹底的な焦土作戦を行いますが、義兵は衰えません。

派遣隊は1910(明治43)年の韓国併合で「臨時朝鮮派遣隊」と名称が変わります。無料軍事郵便が廃止されたのも、併合により「戦時は終結した」との建前論のためと考えられます。しかし、義兵闘争は併合で一段と燃えさかり、派遣隊に最大の活躍が求められました。大正初期までかかってようやく鎮圧には成功します。

派遣隊のその後はよく分かりません。1919(大正8)年、竜山に第20師団が創設されて韓国駐剳軍の後身・朝鮮軍の2個師団常駐態勢が完成します。そのさいに派遣隊は解隊、吸収されたとGANは考えていました。ところが最近、春川局大正9年5月の使用例を見つけました。臨時朝鮮派遣隊が廃止されたのはいつか、その時期を明記した資料は未見です。
                   ☆
この記事の作成に当たり、朝鮮駐剳軍司令部編『朝鮮駐剳軍歴史』(1909年)、海野福寿著『韓国併合』(1996年)を参考にしました。
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2021年02月13日

広州湾租借地から絵葉書

広州湾_1.jpg長いこと探していたフランス租借地・広州湾のエンタイアを最近入手することが出来ました。インドシナ専門の収友らも「よく知らない」と言い、かなりの稀品のはずとご満悦です。単に人気薄だけなのか知れませんが。

GANは収集テーマの一つが「日露戦争」で、2004年のJAPEX(全国切手展)に中間報告を出展しました。戦争の前史として「三国干渉」を意識し、ロシアの関東州、ドイツの膠州湾カバーは集めたのですが、フランス広州湾だけどうしても手に入りません。作品自体は幸い好評価を得たものの、「広州湾」はずっと心残りでした。

広州湾は中国広東省にあります。省都の広州(広東)とは無関係で、海南島に突き出た雷州半島の東側付け根の小さな湾です。1897年にフランス軍艦BAYARDバヤールが偶然寄航して広州湾_3.jpg良港と知り、軍隊を送って占領しました。2年後の1899年に一帯を租借する条約を清国と結び、仏領インドシナ連邦に組み入れます。

租借は領土の割譲に等しい行為ですが、清国にはそれを認めざるを得ないほどの「借り」がフランスにありました。日清戦争で日本が獲得した遼東半島を返還させた三国は清国に見返りを要求したのです。その結果、ロシアが関東州(旅順・大連)、ドイツが膠州湾(青島)、そしてフランスが清国から奪ったのがこの広州湾でした。

香港の先駆的な郵便史研究家・李頌平氏の名著『客郵外史』(1966年、中文)によると、フランスは1901年以降、租借地内の6カ所に郵便局を開設しました。そのうち西営(仏名FORT BAYARD)にはフランスが兵営と要塞を築き、赤坎(TCHEKAM)は商業の中心地でした。李氏は「広州湾の郵便印については系統的な記録がない(ため詳細は不明)」とし、最初期のタイプとしてTCHEKAM局1916年の印影を示しています。

広州湾_2.jpg今回入手した絵はがき(上図)は裏面にベトナム女性10C切手に4分加刷した広州湾の第2次普通切手が貼られています。1909年3月1日に仏中ハイブリッド印(左図)でKOUANG-TCHEOU-WAN広州湾局が引き受け、香港ビクトリア局を経て3月17日に東京・麹町のマミヤマ(籾山?)氏に届きました。発信者はフランス人で、通信内容は絵はがきの交換についてです。

この「広州湾局」タイプの日付印は李氏の本にはありません。局が存在した記述自体がなくロケーションは不明ですが、要塞や政庁が置かれた西営にあったと思われます。このはがきは広州湾租借地のエンタイア最古例となるかも知れません。ただし、『客郵外史』から半世紀以上が経ち、その間にGANだけ知らずに発表されている可能性は大いにあります。

フランスは当初、広州湾を英領香港並みに発展させる意気込みだったのですが、山が迫って交通不便のため失敗しました。軍事施設を建設したほかは格段の開発投資もせず、半ば放棄状態でズルズルと租借し続けたようです。1926(大正15)年段階で租借地のフランス人は225人でした。郵趣品を除き、まともな郵便使用例を見かけないのは当然かも知れません。

太平洋戦争中、日本はフランスのビシー政府と相互防衛協定を結んで1943(昭和18)年2月に広州湾を占領します。華南担当の第23軍が独立混成第23旅団の2個大隊を寸金橋(赤坎)などに派遣し、「雷州支隊」として駐屯しました。支隊の主力部隊は独立歩兵第128、129大隊と第70、248大隊でした。

雷州支隊の軍事郵便も探しているのですが、残念ながら未収です。広州湾租借地は戦後中国に返還されて広東省湛江市となり、現在では西営は霞山区、赤坎は赤坎区の名で市の中心になっているようです。
                  ☆
このはがきの仏文解読には沢株正始氏のお手を煩わせました。感謝します。

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2021年02月08日

樺太拓殖博記念絵はがき

樺太1.jpg樺太庁が発行した記念絵はがきと思われるセット(左図はそのうち1種)を近年のヤフオクで入手しました。島田健造氏の『日本記念絵葉書総図鑑』(2009年復刻版)には採録されていないので、新発見となる可能性があります。

樺太の風光や産業を撮影した写真版で、青色4種、セピア5種の計9枚ですが、樺太4.jpg青色1種が欠けていると思います。表面(宛名面=右図)には「郵便はがき」と英文「POST CARD」だけで、「〇〇記念」といった発行目的を示す表記はありません。裏面(絵面)に写真説明(後述)と並んで「樺太廳發行」と発行者名が印刷されています。

樺太1-2.jpgこの絵はがきはすべての絵面に櫛型印を模した「樺太/1.10.1/拓殖博覧会記念」の紫色スタンプが左図のように押されています。印刷したような鮮明印ですが、1枚ごとに押印位置や傾きが異なるので印刷ではないようです。樺太2-1.jpg

さらに、この紫色印の日付部分だけを隠すように黒色スタンプが再押印されています。(左図=上図の1枚だけはこの黒色スタンプの再押印漏れ)

「拓殖博覧会」は今日では死語ですが、戦前の大日本帝国時代には多用されました。各植民地での開発(拓殖)進展ぶりを内地(日本本土)国民に示して国威発揚を図る大がかりなイベントでした。内地からの移住促進も大きな目的だったはずです。呼び物は現地を再現するジオラマで、産出品の現物や風物写真の展示が中心でした。

これらから見て、この絵はがきは樺太庁が管内事情を広く紹介するために10種1組袋入りで発行したと思われます。大正元(1912)年10月1日から内地で開かれる拓殖博覧会の会場パビリオン内で発売する予定でした。ところが、印刷完了後にその趣旨の表示が欠けていることに気付きます。

刷り直しを避ける窮余の策として、スタンプの加捺でそれを補ったのだと思います。しかし、計算違いが起きます。用意した絵はがきは売り切れるどころか、逆に大量の売れ残りを出してしまいました。樺太庁は次に開かれる拓殖博での再利用を図ります。日付を巧みに消し、いつの拓殖博でも使えるようにしたのでしょう。

樺太3.jpgこの9種セットとは別に、1枚だけ単独で入手した紙厚の薄いものがあります(右図)。厚手の9種セットの方は紙厚0.3㎜ですが、薄手のこれは0.2㎜です。用紙を替えて2回の印刷が行われたことを意味します。

また、同図案を青色とセピアで刷ったものが2組ずつあり、どの図案も色違いの2色で印刷されたことを示唆しています。全貌は分からないものの、なかなかバラエティーの豊富なシリーズです。

樺太3-2.jpg樺太3-1.jpg薄手の絵はがきには紫色と茶色のスタンプが押されています。紫色印(右図の左)は厚手と同じ文言ですが、形式が丸二型類似です。茶色印(右図の右)も丸二型類似印ですが、日付は「2-4-21」で博覧会名に「明治紀念」が加わり、E欄部分には「大阪」と入っています。

これらから、大正2年4月に大阪で開かれた明治紀念拓殖博でこの絵はがきが再利用されたことが推測されます。先に示した二重スタンプで日付部分を抹消した絵はがきセットが大阪でも売られた可能性はありますが、断定は出来ません。

絵はがき9種に付けられている写真説明は次の通りです。
・樺太廳立豐原小學校運動會、樺太ノ森林、樺太畑地ノ開墾、樺太海馬島(以上青色)
・樺太廳立豐原小學校運動會、樺太ノ森林、樺太産蔬菜類、樺太漁場生鰊ノ貯藏、樺太農家
 ノ収穫(以上セピア)

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2021年01月28日

富士山季節局の42年活字

富士山42年2-1 .jpg季節局としての富士山局・富士山北局の印影変化にはなかなか面白いものがあります。毎シーズンの使用例を、せめて大正初期ぐらいまでは集めたいと思っているのですが、道半ばどころか、その遙か手前です。つい最近入手した1点で、小さいけど新しい発見がありました。

右図は明治42(1909)年7月21日に富士山局で引き受けられた青菊はがきです。日付印の年活字「42」が国内全局で使われる標準的なフォントとは全く異なる「異体字」なのに気がつきました。故・水野虎杖氏を信奉するGANとしては改めて水野教のバイブル『櫛型印の形態学』(1972-74年)に何か載っていないか当たってみましたが、直接関連する記述は見当たりません。

E5AF8CE5A3ABE5B1B142E5B9B42-220.jpgこの「42」年活字を隣の月、日活字と見比べます。フォント自体が日活字の「2」と全く違いますが、すぐ分かるのは、サイズが他の活字より一回り大きいことです。B欄を仕切る上下の桁につっかえるほど接するか、ほぼ接しています。こんなジャンボサイズな年活字は前代未聞です。以後の太平洋戦争混乱期でも見たことがありません。なぜ、このように特異な年活字か使われたのでしょうか。

これを見てすぐ思い浮かぶのが、樺太の軍政から民政へ移行直後の時期に使われた丸二型印、丸二型類似櫛型印の年号活字との関連です。かの水野尊師も前掲書に記録しておられます。しかし、調べてみると、これとは無関係なことがすぐ分かりました。樺太「42」年号活字もやや大型の非標準フォントですが、富士山局ほどまでサイズが大きくはありません。

樺太3.jpg樺太2.jpg右図は山下精一氏『樺太の郵便』(1978年)からの引用です。ノダサン局、トンナイチャ局の「42」はそれぞれ別々の「異体フォント」で、ノダサン局の方は丸二印の改造印のように見えます。しかし、どちらの活字も上下の桁からは十分に離れていることがはっきり分かり、富士山局とは異なるのです。

E5AF8CE5A3ABE5B1B142E5B9B42-2.jpg面白いことに、同じ富士山局42年印でも8月17日の日付印では年活字に標準型フォントが使われています。ジャンボ「42」活字はどうやらこの局でも開局直後だけの短期間使用だったようです。

明治42年夏山シーズンで、7月20日の開局日直前のことでした。富士山局を管理する御殿場局で、担当局員が約10ヵ月ぶりに倉庫から日付印箱を取り出し、ほこりを払って点検しました。すると、ナ、ナ、ナント、年活字の「42」がありません。

日付印で使う12個の月活字セットや31個の日活字セットは同じものを何年でも使えますが、年活字だけは毎年新調しなければなりません。翌年分を監督局の横浜局に支給申請しておくと、毎年12月初めに送られてくるのが通例でした。しかし、夏期以外は閉局している富士山局だけは「員数外」で、うっかり申請を出し忘れていたのです。

さあ、えらいことになった。年活字がなければ通信日付印の用をなさず、使えません。日付印は郵便局としての存在証明そのもので、下手すると開局もできません。局員は大あわてで横浜局に通報するのもそこそこに、町内のハンコ屋さんに走ります。渋る職人を拝み倒し、「42」活字を手彫りで即製してもらって何とか開局に間に合わせました‥‥。

‥‥といった「寸劇」が思い浮かびます。この筋書きなら、初体験の職人が「枠内に収まりゃいいんだろ」と目一杯のサイズで彫ったことも、横浜局から標準型の年活字がすぐ追送されて差し替えられただろうこともナットクです。季節局にありがちなドタバタ劇の「遺産」ではないかとGANは考えるのですが、果たして真相や、いかに。
posted by GANさん at 19:57| Comment(0) | 静岡県駿東郡 | 更新情報をチェックする

2021年01月13日

薄絹式肉汁浸出型丸一印

インク浸出印2.jpgかなり退色したりよごれがついて見栄えの悪い菊紐枠はがきですが、右下に押されている到着印「京都局明治32年1月27日ト便」は「インク浸透式」丸一印です。ヤフオクで落札し、きょう到着しました。

このインク浸透式丸一印は片山七三雄氏によって報告されました。一いちインクを付けず、中から出るインクだけで押印する仕組が「シヤチハタ印」に似るとして、この名で呼ばれます。1888(明治21)年に導入された丸一印ですが、近年最大のトピックスとなりました。

明治から昭和期にかけて活躍した郵趣家で逓信省の役人でもあった樋畑雪湖によると、1898(明治31)年に新潟県の沢田喜内が「肉池(スタンプ台)要らず」の日付印を発明しました。樋畑は大臣の直命で採用の可否を調べ、次のようにその経緯を説明しています(『日本郵便物特殊日附印史話 附押印肉と押印能率の研究』、1938年)。
構造は普通の手押日附印に異ならざるも印軸の中枢に薄めたる印刷インキを貯蔵し、それが活字の間隙を透して押印する度毎に適度に注出され印面にはインキを平均浸潤せしむる為めと之れを調和塩梅する役目として薄絹に耐久用の薬剤を塗布したものを覆ふてある。
丸一印は局名と一体となった金属製丸枠の下部半円内に、黄楊つげや水牛角製の日付活字3、4個を植字する構造です。印には棒状の取っ手(印軸)が付いています。沢田の発明は印面直上の印軸内にインクタンクを埋め込んだことでした。重力と押印時の衝撃によって活字の間のわずかなすき間からインク(肉汁)が滲み出て印面に補給します。

これだけでは印面全体に適量のインクが行き渡らないなど補給にムラが出ます。この問題を沢田は印面を薄絹で覆うことで解決しました。滲み出たインクは薄絹の繊維の糸目を通じて均等に伸びるというアイデアです。絹の耐久性に即座に疑問が出るところですが、「薬剤の塗布」で乗り切ったようです。どんな薬剤だったのかまでは分かりません。

押印作業をすべて人力に頼っていた当時としては、確かに作業効率の上がる画期的な発明と言えるでしょう。樋畑は上記の本の中で、ほかにも多数の機械化、省力化の試みがあったことを記しています。しかし、沢田の提案は採用されませんでした。インク補給を調整出来ず、実用に耐えられなかったからです。
郵便局の窓口或は鉄道郵便車の乗務員等をして実際に使用して見たが肉汁浸出の調節が素人には思ふ様に行かぬ所から結局採用不能となった
これら樋畑の記述を実際のエンタイア上に初めて見出したのが片山氏でした。このテスト印は記述どおり明治31年末期から32年にかけて試用され、京都、名古屋、横浜局や東京横浜間の鉄道印などで相次いで見つかっています。消印カタログが書き換えられ、日附印の構造や材質に調査が進められる契機となりました。インク浸透式2.jpg

初めに示したはがきの印を拡大して観察すると、規則的な絹の織り目が印象されていることが分かります(右図)。しかし、文字以外の本来は空白であるべき部分にまで絹目が一面に出て、さらには周辺や裏面のインク汚れも目立ちます。鮮明な黒白の印影を期待できない構造的欠陥であり、確かに採用は無理でした。

ところで、メーカーによると、インク浸透印(シヤチハタ印)の最大の特徴は、印面のスポンジ状多孔質ゴムにインクを含ませられることです。「浸透」とは印材の中にインクが「浸み込んでいる」こと、あるいは印面が絶えずインクに「浸っている」状態を意味します。この多孔質ゴムの製法が特許になっているようです。

対してこの丸一印ではインクは「浸透」せず、活字間のわずかな隙間から「漏れ出る」だけです。敢えて言えば「滲出しんしゅつ」で、「浸出」も同じです。このさいGANは調査官・樋畑に敬意を払って「薄絹式肉汁浸出型丸一印」の名称を提案します。略して「薄絹浸出印」、または「薄絹印」で十分ではないでしょうか。この印の特徴を端的に表せると思います。

posted by GANさん at 18:58| Comment(0) | 郵便印 | 更新情報をチェックする

2021年01月09日

台湾郵便受取所型櫛型印

大西門.jpg菊5銭2枚貼り封書を台湾の台南大西門郵便受取所が1908年(明治41)10月7日に引き受けた書留書状です。明治末期の台湾だけで使われた特異なタイプの日付印で引き受けられています。

台湾では民政(普通)郵便を本格的に開始した直後の1896(明治29)年9月から集配を扱う1-3等郵便局とは別に、無集配の「郵便受取所」が新設されました。丸一印時代は局種による表示形式の区別はなかったのですが、明治39(1906)年10月から櫛型印に切り替わると、郵便局と受取所とでは形式が明確に分かれました(台湾総督府明治39年訓令第48号、135号)。

受取所型櫛型印の上部は櫛型がなく水平2行書きです(左図)。この時期は櫛型印が日本本土、在外局、植民地を通じ相次いで導入されましたが、このような表示形式が定められたのは台湾だけです。性格の似る満州大稲埕支局2.jpg(関東都督府管内)の出張所では、出張所名をC欄で時刻帯に代えて表示する形式でした。

台湾の受取所でこのような表示形式が採用されたのは、それまで使っていた丸一印の名残かも知れません。丸一印の上部局所名が「臺湾/臺北大稲埕」(台北局大稲埕支局)といった表示形式(右図)だったからです。すると、すぐ思い浮かぶのが「丸一印の上部印体を櫛型印に流用してはいないか」という疑問です。形式上は全く同じなので、もっともと言えます。

しかし、これについては既に水野虎杖氏が顕微鏡的な観察も加えて考察し、次のように明快に否定しています。
(受取所櫛型印の)上部印はしかし、丸一印のそれの転用ではなく、櫛型印用の印材に彫られたもの、丸一印用ならばもっと小形。(『櫛型印の形態学序論』第4巻p.78f、1972年)
なお、水野氏はこれら台湾の丸一印と初期櫛型印の上部印体(AD欄)は木や角のような印材を使った手彫りで、彫刻者も同一であったという考えも提出しています。(上掲書p.82n)

非常に示唆に富んだ台湾の受取所型日付印でしたが、1911(明治44)年一杯で姿を消します。大正に入ってからの使用例はありません。廃止を定めた告示類があるはずと筆者は考え、台湾の法令を2年間ほどにわたって捜したのですが、見当たりません。結局分かったことは、印影形式は廃止しないまま、受取所制度自体がなくなった事実でした。

台湾総督府の明治44(1911)年告示第190号によると、「45年1月21日から郵便受取所を3等郵便局に改定する」「但し郵便集配事務は扱わない」とあります。以後の3等局は集配局と無集配局とが併存することになりました。内地で先行する3等局制度に合わせたようです。

この上部2行書き櫛型印は「受取所ニ用ウルモノ」と訓令で定められていました。受取所が郵便局に変わると日付印も郵便局が使う普通の「A欄局所名/D欄櫛型」に変わります。受取所用印を使うべき局所がなくなるので、この形式を廃止する告示類は無要だったのです。

追記 】(2021.01.13) 「鉄道郵便印の備忘録」ブログのオーナー様から台湾での櫛型印導入時期は「明治39年10月から」が正しい旨のご指摘をいただきました。GANは初め、総督府訓令第48号に基づいて「39年7月から」としていました。ご指摘によりその後に訓令第135号が出て導入時期が3ヵ月遅らされた事実を知りました。このため記事中の「7月から」を「10月から」に訂正しました。

調べてみると、JPSの『日本郵便印ハンドブック』も訓令第135号の存在を知らずにGANと同じ過ちをしていました。鳴美の『郵便消印百科事典』もほぼ同様ですが、櫛型印導入で廃止されたはずの丸一印が明治39年9月まで使われている事実を指摘し、実証的です。ご教示下さった「鉄道郵便印の備忘録」オーナー様に改めて感謝します。
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2020年12月31日

華北郵政総局の貯金通帳

華北貯金簿.jpg日中戦争期に日本軍占領下の北京で日本居留民が中華郵政に預金した郵便貯金通帳(右図)を最近のヤフオクで入手しました。

中華郵政で貯金(儲金)と為替(匯業)を管理する「儲金匯業局」が製造した「郵政儲金簿」です。草色の表紙の中央に中華民国を表す青天白日章が大きくあしらわれて印象的です。表紙の内部は8枚の用紙が綴じ込まれ、貯金約款などの2枚を除く6枚12ページが帳簿部分です。

第3ページ目には通帳を発行した北京西長安街局の局名印と共に丸二箱形の儲金専用日付印(左図)が押されています。華北貯金簿3.jpg「郵政儲金/三十一年十二月二日/北京西長安街」とあり、民国31年、つまり1942(昭和17)年に発行されたことが分かります。記入された名前から預金者は北京在住の日本人と思われます。

華北貯金簿2.jpg帳簿の記入形式は当時の日本の貯金通帳とはかなり異なっています。見開いた左右2ページにわたって横書きで出納をペン書きし、職員2人の確認印が押されています(右図)。金額の記入が日本のような押印でなく手書きなので、正確を期して別の職員が確認、証明するのでしょう。

発行当日の12月2日に中国聯合準備銀行券(聯銀券)で50元を預け入れて「存伍拾元」、翌1月8日に大部分の49元を払い戻して「提肆拾玖(49)元」と記入されています。これは「何かの時の用意として念のため通帳だけ作っておく」典型的なやり方です。聯銀券1元は日本の1円と同値とされていました。

北京を含む華北占領区には日本軍の主導で1938(昭和13)年8月15日に華北郵政総局が開設されました。南京から逃れて昆明に移動した国府郵政総局の地方機関という形式をとりながらも事実上は独立した存在です。それと明記はされていませんが、この通帳も「華北郵政総局の儲金簿」ということになります。

華北郵政総局.jpgこの儲金簿表紙の右上部には大型の紫色印(左図)が押され、不鮮明ながら辛うじて「建設華北 完成大東亜戦争儲金/華北郵政総局」と読めます。日本側の要求で41年末から続けていた貯蓄推進運動「大東亜戦争完遂貯金」の宣伝スタンプです。

日本郵政は「紀元2600年」や「シンガポール陥落」などのイベントを名分に絶えず貯蓄を呼びかけました。宣伝のため貯金通帳の表紙にシールやスタンプを押したその手法が、華北にもそっくり持ち込まれた形です。

ところで、華北占領区の中国主要局ではこのような国内郵政儲金のほか、日本郵政からの委託を受けて日本の貯金業務も扱っていました(本ブログ2016年12月14日「華北郵政に貯金を委託」参照)。この預金者が北京西長安街局でも扱っていた日本貯金でなく中華儲金を選んだ理由は不明ですが、使い方から見てスペア(予備)用だったのかも知れません。
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2020年12月16日

フロレス島現地印刷葉書

フロレス葉書2.jpg南方占領地切手の珍品・稀品といえば「フロレス暫定切手」が定番の一つですが、ひょんなことから手持ちの軍事郵便はがき(左図)がそのフロレス島の同じ印刷所製だったことが特定できました。

太平洋戦争中、南方に派遣された兵士が使った軍事郵便のステーショナリー(便箋、封筒、はがきなどの紙製文具)には日本内地製のもののほか、明らかに現地製らしいものを見かけます。GANは南方現地製はがきを料額印面部のデザインによって☆系、□系、ゼロ系(☆も□もない)の3系統に分類、整理しています。

先日、収友で旧蘭印地区占領切手専門家の増山三郎氏から「オランダの南方切手グループで青木好三氏の旧著を復刻する計画がある。青木本に載っているのと同じ軍事郵便はがきを持っていないか」と照会がありました。青木氏は既に故人ですが共通の収友で、やはり南方切手の専門家でした。

幸い増山氏の要望には応じることができ、その過程で思わぬ知見も得られました。青木氏の本とは、このブログの2017年11月10日の記事「バリックパパンの櫛型印」でもご紹介した『私録じゃがたら郵便/占領中の旧蘭印での郵便』です。青木氏はこの中でフロレス島暫定切手の製造状況を詳しく調べていました。

フロレス(フローレス)島とは、インドネシアのバリ島とチモール島の間にある小スンダ列島の1小島です。青木氏によると、島には戦前からカトリック教会付属のArnoldusアーノルド印刷所があり、ジャワ島より東では最大の規模でした。日本軍占領下で暫定切手を印刷したほか日本軍兵士用の軍事郵便はがきも印刷しました。

フロレス葉書_4.jpgその使用例が同書に掲載(右図)されていたのですが、これまでGANは見過ごしていました。今回の増山氏の件で私蔵の1点が掲載品と同じ、まさにこのアーノルド印刷所製と知りました。旧蘭印地区では現地製の多彩な軍事郵便はがきが使われています。今後の調査によっては、さらに他の「アーノルドはがき」を同定できるかも知れません。

に示したはがきは薄紅色のやや厚手用紙に赤褐色で活版印刷されています。平仮名活字がないので「はがき」を漢字で代用しているのが特徴です。発信アドレスの「セ32 セ12」は南ボルネオ・バリックパパン所在の第102海軍燃料廠を表しています。小スンダ列島は海軍の担当地区だったので、このはがきに陸軍使用例はないはずです。

南方現地製軍事郵便はがきは蘭印地区に限らずマライ・スマトラ、ビルマ、フィリピンなどの各地でいくつもの系統が確認できています。物資不足の内地事情を勘案した日本軍の「現地自活」策の一つでしょう。当時の日本内地では製造されていない特異な紙質、平仮名活字「はがき」の異様なフォントが最大の見分けポイントです。

日本軍占領地区で操業できた印刷所の数は限られていたはずです。今回をヒントに、南方現地製軍事郵便はがきの製造所を調べる意欲が湧いてきました。きっかけを与えてくれた増山氏に感謝!です。
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2020年12月07日

大演習部隊への特別配達

演習地配達改5).jpg日本陸軍は日露戦争前から日中戦争前までのほぼ毎年秋、「陸軍特別大演習」を実施していました。天皇が統裁したので演習地に臨時の大本営が仮設され、「特別大演習/大本営内」の櫛型印や特印が使用されたことで郵趣家にはよく知られています。

1913(大正2)年の大演習は11月12~18日に名古屋地方で実施され、第3、9、15、16師団が参加しました。右のはがきは演習地にいる京都第16師団に属する歩兵第9聯隊(大津)兵士に宛て、ごく少数で大津の兵営に残って留守を守っていた同僚兵士からの発信です。
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はがきは大津局で大正2年11月13日に引き受けられ、宛名は「名古屋郊外のどこそこ」といった地名ではなく、所属部隊の「歩兵第9聯隊」が書かれています。これだけだと差し出した大津兵営にそのまま配達されてしまいます。そこで、右肩に赤色鉛筆で「演習地配達」(左図)の書き込みがあり、これがミソです。

特別大演習に参加中の兵士に宛て郵便を出す際、アドレスはどう書いたら良いでしょうか。演習では地名も定かでない森林原野を数日間にわたって激しく移動展開するので、場所を指定しての配達は不可能です。アドレスは部隊名として部隊本部に一括して配達し、あとは部隊内で配る方法が採られました。

1912(大正元)年度の大演習が迫っていた10月22日、逓信省は公達第124号で「陸軍特別大演習参加部隊宛郵便物取扱手続」を定めました。郵便物には「演習地で配達」する旨の表示をする、これらの郵便物は所定の集中局に集める、集中局は聯隊規模ごとに区分して配達局に送る、などの内容です。軍事郵便の配達方式を参考にしたのでしょう。

これにより、「(大)演習地配達」表記のある郵便物は、法令上の根拠を持つ特別な取扱方法に拠っていたことが分かります。このような「演習地配達郵便」をGANはこの1913年度から1936(昭和11)年度までの数例で確認しています。
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2020年11月25日

神奈川平尾前郵便受付所

平尾前-1.jpg平尾前-2.jpgのはがきに押されている日付印は中央の日付欄に「.12.9.28」とあるだけで、局名も時刻もありません。上下の印体を入れ忘れた櫛型印のようにも見えます。いったいこれは櫛型印か、それとも櫛型がないから丸二印?

差出人の住所は「横浜東神奈川渡辺山」とあります。はがきが銘付き分銅であることから、関東大震災直後の大正12(1923)年9月28日に横浜市の東神奈川から発信されたことが分かります。この一帯は被災した神奈川局の受持区域でした。神奈川局が復旧して業務を再開し、このはがきを引き受けたのでしょうか。

関東大地震の直撃を受けた横浜市は家屋が軒並み倒壊し、続発した火災で全市が壊滅しました。横浜局と市内2等局の長者町、桜木、横浜駅前、神奈川の全局が一瞬にして機能を失ってしまいます。翌日から市内郵便システムの再建が始まりましたが、断片的な記録しかなく詳しい経緯は分かっていません。

信頼できる資料の一つ、「(公報)震災彙報いほう神奈川版」第1号(臨時震災救護事務局9月11日発行)によると、まず9日までに全市を網羅する8ヵ所にテント張りなどで郵便受付所が急設されています。はがきと書状だけ受け付け、東西2方向に区分して横浜港から軍艦など船で運び出しました。関東以北は東京の品川港へ、関西方面へは静岡県清水港向けでした。

8ヵ所の郵便受付所の一つに「神奈川平尾前」があります。神奈川局職員の独身寮と見られる「合宿所」が充てられました。「平尾前」は当時の横浜市神奈川町内の小字で横浜市域の北端部でした。現在の神奈川区平川町に当たり、JR東神奈川駅の500mほど西にある神奈川工高の場所になります。はがきの発信アドレスにある「渡辺山」も神奈川町の小字のようですが、当時の地図に見当たりません。

神奈川局が復旧したのは10月後半か11月初旬と見られ、C欄「★★★」の特異な日付印を使ったことが昔からよく報告されています。その前、9月から10月半ばぐらいの間に「平尾前郵便受付所」で使われたのが、この「丸二型様日付印」だとGANは考えています。似た使用例がこの地区で複数あることが根拠です。

ただし、神奈川局が意外に早く9月下旬には再開し、復旧局で最初に使ったのがこの日付印だった可能性も残ります。8ヵ所の郵便受付所がいつまで業務を続け、廃止されたのかを明かす資料がその後の「震災彙報神奈川版」も含めて見当たらないからです。

以下はGANの推測です。--神奈川局の廃墟から焼け残った日付印の印顆と数個の日付活字が見つかりました。最寄りの平尾前受付所でこの焼け残り印が活用されます。神奈川局の業務ではないので局名欄は空白とし、1日1回だけの発送なので時刻欄も不要でした。年活字「12」がないので、前に点のある月日活字「.12」で代用しました。

このような推測を重ね、最初に示したはがきは平尾前受付所で扱われた可能性が強いと考えられます。同じ時期に焼け残り日付印を回収して使った例は他に「横浜公園内郵便受付所」でも見られます。
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