2017年07月05日

病院船に託す日赤ルート

日赤02.jpg日赤01.jpgフィリピン(比島)に派遣された日本赤十字社の従軍看護婦に宛てた特別軍事航空往復はがきの返信です。つい最近のヤフオクで落札しました。

このはがきは航空料金往復無料の特別便で、軍属も利用できました。3銭レートで1944年(昭和19)5月12日に新潟・関山局が引き受けています。宛て先の「渡9766部隊」は第14軍に配属された第138兵站病院を表します。「317班」は医師・看護婦からなる日赤救護班チームの番号です。

はがきには、付箋をはがした形跡も「返戻」印や米軍押収印なども全くなく、キレイなものです。比島現地の名宛人に無事に届き、日本内地に持ち帰られたことを物語っています。

宛先のアドレス表記が類例を見ない特異さなのが目につきます。「横浜市山下町 日赤神奈川支部留置/比島派遣……」と書かれています。通常の軍事郵便アドレスは「派遣方面+部隊名」だけなのに、なぜ「日赤神奈川支部」と余計なものが付くのでしょうか。日赤独自のルートで確実に届けるためだった、とGANは考えます。

大戦末期の44年の段階では公用でもない限り、まして陸軍では航空便などまったく利用できなくなっていました。もちろん日赤が管理する航空機などもありません。しかし、敵国にも安全を保障された、氷川丸など一群の病院船がありました。運航権は陸海軍側ですが、スケジュールや乗務について、日赤は綿密な連絡協議を受けていたはずです。

となると、日赤が前線との通信にもこの希少で確実なルートを利用しない手はありません。病院船の連絡・発着港が横浜だったのでしょう。当時の日赤支部長は県知事が務めるのが慣例でした。これらの関係郵便物は神奈川県庁内の日赤支部に集められ、病院船の入港を待って搭載されたと考えられます。

通信文を読むと、「○○の由、一同喜こんでゐます」「南の国から母国迠遙かな波路一路平安なれ」などと書かれています。「○○」は「帰国」でしょう。当時はマリアナ方面で「絶対国防圏」が崩壊し、次は「比島決戦」必至として大本営で「捷1号作戦」が練られていました。激戦を前に、看護婦やタイピストなど女性軍属の優先帰国が配慮されたのかも知れません。

GANの推測に過ぎないこの「日赤ルート」は、まだ実証する資料がありません。しかし、この特異なアドレス表記は以上のような理解が最も合理的です。いずれにせよ、名宛て人は無事に帰国し、受け取っていたこのはがきを持ち帰ったと見られます。なお、本人が勤務していた第138兵站病院(飯田浩造病院長)は「レイテで玉砕」と記録されています。
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2017年06月30日

幌筵島の陸地測量部員

幌筵.jpg幌筵-2.jpg陸軍参謀本部の下部機関である陸地測量部の測量要員が1913年(大正2)に北千島北端の幌筵(ほろむしろ=パラムシル)島から発信した紫分銅はがきです。近年のネットオークションで入手しました。

ありがたいことに、現在ではこの陸地測量部員の行動が、かなりの程度解明できます。アジア歴史資料センター(JACAR)がネット上で公開している膨大な資料の中に、断片的ながら記録した文書が残されているからです。

明治末から大正時代にかけて、海軍は毎年春から夏に樺太や千島に軍艦を派遣してラッコなどの密猟を取り締まるかたわら、水路の測量や北洋情勢の調査などを続けていました。大正2年度は幌筵島沿海部の水路測量で、2等海防艦「大和」(初代、1,480トン)を派遣する計画でした。

これを知った陸軍も幌筵島の地形測量を計画、陸地測量部の技師らの便乗派遣を海軍側に申し入れて承認されました(大正2年3月24日付海軍次官発呉鎮長官・水路部長宛「千島国幌筵島測量ニ関シ軍艦便乗ノ件」)。陸地測量部の目的は、空白状態の北千島各島の地形を三角点測量し、縮尺5万分の1地形図などにまとめることでした。

「大和」は6月2日に根室に2回目の寄港をしたさい、陸地測量部チーム68人と60トンの測量器財をピックアップし便乗させました。8日に出港し、6月12日に幌筵島に入港して部員らを降ろし、6月15日には千島列島最北端、カムチャツカ半島と向き合う占守(しむしゅ)島に着きました。これを含め、9月下旬に任務を終えて帰投するまでの間に根室−占守島間を3往復しています。

このはがきの差出人は「地形科附」とありますから、2人の測量士を補佐する11人の測量手のうちの1人ではないかと思われます。幌筵到着3日後の6月15日に書かれた安着を知らせるはがきは幸便を待ちましたが、いっこうに北海道に向かう船が来ません。結局、一時帰航する「大和」に搭載されてようやく7月25日に根室に着きました。

北千島に日本人が入り、越冬施設も出来るのは北洋漁業が盛んになる大正中期以降のことです。この時代は郵便機関など影すら見えません。幸便に恵まれなかったこのはがきは、40日もが過ぎてから初めて根室局で正式に引き受けられました。千葉県の宛先に届いたのは7月末でしょう。1ヵ月半もの「超長旅」です。

海軍は「大和」乗員や便乗者宛ての郵便について、大正2年4月19日付「海軍公報」で、「5月1日以降は根室局に宛てるよう」指示しました。このはがきの発信アドレスもそれに従っています。実際に「大和」は4月7日に所属する呉軍港を出て根室を5月5日に出港、占守島に向かいました。根室局に溜まる「大和」宛て郵便物は幸便頼みだったでしょう。

これらの経緯から、このはがきは軍艦利用の海軍連絡ルートに乗った陸軍軍人の通信と分かります。北千島郵便史の前史を物語る得がたい資料と思います。
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2017年06月24日

山縣通局欧文印で電報配達

山縣通.jpg上海発大連宛ての欧文電報です。関東州の大連山縣通局がDAIREN/YAMAGATADORI欧文印で1931(昭和6)年10月15日に配達しています。関西のメールオークションで落札し、今日届きました。

この電報は全文5行のテレックス印字のような英数字からなり、第3、4行目が本文です。4桁のアラビア数字1組で漢字1文字を表す、一種の暗号です。従って、この電文は12文字の漢字(中国語)です。今日のパソコンならIMEソフトが自動で漢字変換してくれますが、当時は膨大な厚さの換字表を繰って「解読」していました。

話には聞いていましたが、実際に漢字を送った電報というのをGANは今回初めて見ました。第1行目は発信に関する情報と思います。日本の上海電信局で受け付けたと推定しますが、発信時刻などは全く読み取れません。第2行目は宛先のはずですが、大連のどこなのでしょう。「1000」だけで住所・氏名を特定できるのでしょうか。

最後の行の「10.30M」は午前10時半に受信したことを表すと考えると、その後の「0.」も不明です。電報上部の鉛筆書き「陳松生」は受取人、「201」のナンバリング印字は配達番号なのでしょうか。柳条湖事件の約1ヵ月後で満州事変が始まったばかりの時期だけに、電文内容も戦乱に関連する取引関係かも知れません。いずれにしても分からないことだらけの電報です。

YAMAGATA.jpg分からないと言えば、配達した大連山縣通局も分からない存在です。この特異な欧文印で早くから注目されていた局ですが、無集配局の分際でなぜ「分不相応な」印を使えたのでしょう。国際郵便物を窓口で受け付けたとしても、集配する大連局で「DAIREN」印を押せば済むことです。無集配局の欧文印は、当時として類例がなかったのではないでしょうか。

ただ、無集配局でも電報を配達した「根拠」なら分かります。この局の前身、大連局大桟橋出張所は1907(明治40)年6月の開設当初から、電報配達業務を指定された特別な局でした(『関東逓信三十年史』)。大連港利用の旅客や入港中船舶などへの便宜のためでしょう。1923(大正12)年7月に山縣通に面した大連取引所構内に移転・改称した以後もこの業務を維持しました。

それにしても、大連市内中心部に宛てた電報を大連局ではなく大連山縣通局がなぜ受信、配達しているのか−−。この辺の仕組みの解明が、この局の特殊性を理解する一つのカギとなりそうな気がします。
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2017年06月16日

岡山局引受「8」検閲印

OKAYAMA 8.jpg東郷5銭が貼られ、岡山局昭和18(1943)年7月10日引受の大阪府堺市宛て書状です。逓信省検閲を受け、下部に貼られた再封の検閲封緘紙が検閲印で割印されています。ヤフオク落札品で、今日到着しました。

検閲印はA欄「逓信省」、C欄「検閲済」の、よく見るタイプの検閲印のようですが、B欄はアラビア数字でただ「.8」とだけあるのが特異です。年月日を表示したが「年」と「日」活字が出ず、「月」活字だけが表れた、というのではありません。引受日から20日以上過ぎないと8月にはならず、矛盾するからです。

これは初めから「8」と表示するつもりだったと見るべきでしょう。数字の前に余計なピリオドが付いていますが、「8月」や「8日」活字で代用すると、こうなります。検閲印のローカルなバラエティーの中にはB欄アラビア数字2桁のものを名古屋逓信局管内などで見かけますが、1桁タイプはこれが初出と思います。

では、検閲局番号「8」とはどこか。GANの見立てでは広島局です。広島局は臨時通信取締令の適用当初から検閲司掌局に指定され、「第八」の検閲局番号を使いました。広島逓信局管内の広島、鳥取、島根、岡山、山口の5県で検閲を受けるべき郵便物は原則として広島局に集められ、検閲後は「第八」検閲印が押されました。ただし、国際郵便は下関局「第九」で検閲しています。

この書状は広島逓信局管内の発信で、時期も「第八」検閲印が使われた期間内です。アラビア数字「8」検閲印は何らかの事情があって、「第八」検閲印の代わりに臨時的に使われたのかも知れません。あるいは、単なる想像に過ぎませんが、広島局だけでなく岡山局でも検閲することになって、この検閲印が使われた、などということはないでしょうか。

岡山県内発信の検閲郵便物は非常に少なく、GANはまだ現物を見たことがありません。わずかに1点、名古屋の田中茂氏から「第八」検閲印押し「玉島局20年1月14日」のデータをお知らせ頂いたばかりです。今後、他のアラビア数字1桁の検閲印や岡山県発信の同時期の検閲郵便物の出現を待って、使用状況を解明したいと考えています。

追記(2017.06.18) この記事について田中茂氏からご連絡頂き、田中氏もアラビア数字1桁「.8」検閲印のエンタイアをお持ちで、しかも同氏から既にGANにご提供頂いていた検閲データ群の中に含まれていることを知りました。田中氏にお詫びと感謝を申し上げます。

田中氏データは「岡山局18年6月21日」でした。記事で紹介したエンタイアと同じ岡山局引受けで、しかもほぼ同時期の使用例です。「岡山局での臨時的な検閲を示すのではないか」とのGANの勝手な憶測を補強するように見え、意を強くしています。
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2017年06月08日

山海関事件の占領部隊

山海関02.jpg山海関01.jpg満州事変の末期に起きた「山海関事件」の当事者と思われる人物が事件直後に発信した軍事郵便はがきです。ヤフオクで落とし、今日届きました。

発信アドレスは「山海関警備隊本部に於て」ですが、裏面通信文に「天下第一関を三日占領接収、本夜帰錦予定なり」とあります。山海関に近い「満州国」錦州(錦縣)に駐屯していた部隊の幹部で、山海関占領に当たった後、帰営するという知らせでしょう。山海関警備隊は関東軍が占領地に新設した部隊です。

山海関は中国河北省の最北東端、万里長城が渤海湾に没する地点で長城南壁に接した交通の要衝です。1933(昭和8)年1月1日に日本の北支駐屯軍山海関守備隊と現地中国軍との間で小規模な軍事衝突が起きました。局地解決のつもりが満州国内から関東軍部隊が応援に駆けつける本格的戦闘に発展し、日本軍は海空からも攻撃を加えて1月3日に山海関を占領してしまいます。

この山海関事件は日本だけでなく国際社会に大きな衝撃を与えました。当時は国際聯盟から派遣されたリットン調査団が「満州事変は日本の侵略行動か」を現地調査し、報告書が提出される直前だったからです。中国東三省(いわゆる「満州」)にとどまらず本土の都市まで攻撃・占領する日本軍の侵略性が明らかとなりました。

事実、関東軍は事件直後の2月に熱河作戦を発動して熱河省全部を満州国の版図に組み込みます。続いて起こした関内作戦では一斉に長城線を越えて華北一帯に侵攻し、北平(北京)−天津を結ぶ線のすぐ手前まで迫りました。やむなく中国軍は5月31日に関東軍との間で塘沽停戦協定を結びます。中国が武力に屈服させられた形で満州事変が収束しました。

山海関事件は関東軍による満州支配を確実にさせ、日本政府や国際聯盟にさえあった宥和的な解決策を崩壊させる「最後の一撃」への引き金となりました。以後、日本は国際聯盟脱退−日中戦争−太平洋戦争−敗戦に至るレールに転がり込みます。このため、事件は突発でなく日本軍内部の謀略だったとする見方もあります。

山海関-L.jpg山海関-L2.jpg前置きが長すぎました。このはがきは満州国郵政の大型丸二印で大同2(1933)年1月19日に引き受けられています。「山海関」と入るべき印影下部は空欄のままです(左図の左)。入れ忘れたのでしょうか。突発的な開設に局名部の印材製作が間に合わず、空白のまま使用開始したとGANは見ます。

満州国は中国山海関郵局を接収して1月13日に山海関臨時郵局を開設しました。占領からわずか10日後のことです。外国領土内への開設可否の検討、その決定、要員・資材の手配、現地への送り込み、局舎の準備などと慌ただしい中、日付印だけ間に合ったとはとうてい思えません。予備の資器財は何とか回せても、局名印材は発注手続きをするのがやっと、が実情だったでしょう。

ところが、『切手趣味』第7巻第5号に藤堂太刀雄(戸田龍雄)氏が開局当日・大同2年1月13日印の官白を発表しています(上図の右)。しかし、情報を得てから満州国郵政当局に郵ョし、それが開局に間に合うよう現地に届くわけがありません。日付を遡って後日に作成した「記念押印」でしょう。やはり、実際には開設直後のこの局は局名なしの日付印を使っていたと思われます。

蛇足ですが、印影の「奉天省」はもちろん虚偽で、山海関は河北省にあります。満州国郵政は外国の行政地名を表示するわけにもいかないし、中国局と誤認・混同される恐れも生まれます。隣接する自国の行政地名で当面を糊塗したのでしょう。あるいは局名が空白なのも、「山海関」局としてよいかすぐには決められず、「表示出来なかった」が意外な真相だったりするかも知れません。

じっさい、1935年に中国と通郵協定を実施するさいに局名「山海関」は「南綏中」と改称されています。綏中は山海関近くの満州国内に実在する地名で、「綏中の南」を意味するバーチャル地名が考案されたのです。大型丸二印時代の似たケースとして「熱河省」の南綏中(古北口=河北省)、「興安省」の多倫(察哈爾省)があります。
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2017年06月03日

駿河にあった?三島駅

三島駅04.jpg菊1/2銭の田型ブロック上に丸一印。薄くて不鮮明ですが、辛うじて「駿河/三島驛 四十二年八月十一日(下部空)」と読めます。元もとの使用形態は不明ですが、切手貯金台紙からはがされたものかも知れません。関西の大手オークションでの落札品が今日届きました。

金沢駅や富山駅など北陸地方で見かける鉄道電信取扱所印のようにも見えますが、実はこれは「三島駅」という名称の郵便受取所の日付印です。明治35(1902)年2月1日に全国113個所で一斉開設された受取所の一つでした。1928(昭和3)年に「三島駅前局」と改称されていることから、駅構内ではなく駅前に設置されていたのでしょう。

三島駅02.jpgところで、三島と言えば伊豆国の「首府」だったはず。それがどうしてこの印影では「駿河」と表示されているのでしょうか? 当時の三島駅は現在新幹線が停車する三島市(旧伊豆国君澤郡三島町)ではなく、駿河国駿東郡長泉村(現在は長泉町)下土狩(しもとがり)にありました。三島じゃないのにビッグネームを僭称したわけです。

下土狩の三島駅と「伊豆の三島」、つまり旧東海道三島宿だった三島市街地との間は伊豆鉄道(後に駿豆鉄道)の路面電車が結んでいました。距離感からすると、この電車で30分近くかかったのではないでしょうか。現在は新旧の両三島駅間は廃線となり軌道は撤去されましたが、新三島駅の先は伊豆箱根鉄道となって修善寺まで運行されています。三島駅受取所の集配局の三島局はもちろん、三島市街の大中島にありました。

時刻表.jpgこの消印が押された1909(明治42)年8月現在の鉄道時刻表(博文館『鉄道汽船旅行案内』)の一部を左図に示します。鉄道郵便の専門家・児玉敏夫氏からご提供頂いたものです。東海道線が御殿場、山北回りで、三島駅は御殿場駅と沼津駅の間にあったことが分かります(現在の三島駅は次節のとおり熱海駅と沼津駅の間です)。

1934(昭和9)年に箱根山の下をくぐる丹那トンネルが貫通すると、東海道線は沼津から先が、「伊豆の三島」、熱海、小田原を経由する路線に替わります。新三島駅が三島町内で開業したため、旧三島駅は御殿場線下土狩駅と変わりました。同じ名称の「三島駅」でも、丹那開通の前と後とではまったくの別ものなのです。

かつての三島駅受取所は、現在も下土狩駅前広場の南東50mほどの場所で無集配の下土狩局として続いています。それなら所名も初めから「長泉受取所」とか「下土狩受取所」にしていれば良さそうなものを。しかし、逓信当局としてはあくまでも東海道線三島駅と結びついた郵便機関と考え、地元民のために開設する考えは薄かったのでしょう。

結局、「駿河/三島駅」という矛盾に満ちた丸一印は、「静岡・三島駅」と表示(たぶん)された櫛型印に切り替わる1910年まで8年近く続きました。この田型ブロックの印影は廃止4ヵ月前の使用例だったことになります。
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2017年05月31日

飛行はがきを被災者に撒く

日航-2.jpg分銅1.5銭はがきに「日本航空株式会社扱/飛行郵便」と76oもある大型紫印が押されています。1923(大正12)年の関東大震災の際、被災者支援のために日本航空会社が機上から散布したものです。ヤフオクで入手し、今日届きました。

日本航空は川西機械製作所などを経営する大阪の大実業家・川西清兵衛が1923年6月に設立した航空会社(キャリア)です。大阪・木津川河口に基地を置いて海軍から払い下げを受けた横廠式水上機5機で大阪−別府間の定期飛行を運営していました。俗に「川西系日本航空」と呼ばれ、今日の日航(JAL)とは全く関係ありません。

9月1日の大地震で京浜地方が壊滅し、一切の交通・通信が途絶すると、大阪朝日、大阪毎日の両新聞社は東京への取材記者の送り込みを策しました。両社とも日本航空に飛行を依頼、2日正午に横廠式2機が大阪を発ちます。途中1機が静岡県江尻(清水港)に不時着しましたが、もう1機は夕方に東京・品川沖に無事着水できました。

日本航空の両機はすぐ帰阪はせず、以後18日間にわたってボランティアで品川−江尻間を往復して被災者の郵便を空輸しました。飛行士の手記によると、大阪ではがきや鉛筆を買い集めて送らせ、東京市内各所に石油箱をポスト代わりに置いて郵便を集めました。江尻で応援の従業員と共に宛先を県別に分けて江尻郵便局に引き渡したといいます(小森郁雄『航空開拓秘話』所載)。

日航-1.jpgその間の9月6日、大阪から運んだ官製葉書1万枚を、多数の被災者が避難していた大森海岸上空で機上から散布しました。はがきには日本航空が無料の飛行郵便として運ぶことを示すスタンプがあらかじめ押されていました。無一物の被災者には大変感謝され、無名の関西の航空会社の名前も多少は広まったことでしょう。

このスタンプは封筒に押されたものも発表されているため、大森海岸散布の事前押印か、取り集め後の押印か、これまでは判定が不能でした。今回の未使用はがきの出現により、表面の右上部にまっすぐに押印されているはがきは「大森もの」と断定できることになりました。

その一例を左図に示します。散布の翌7日に大井からの発信で、日付印は不鮮明ながら「静岡・江尻 12年9月9日」と読めます。地理的には、東京湾奥の西岸に沿って品川の南が大井、そのさらに南が大森という関係になります。

このはがきでは宛先が「飛行郵便」の印を避けてその左側から書き出していることからも、印の方が先に押されていたことが明らかです。スタンプは大阪で複数個調製し、運行していた東海道線で社員がはがきと共に江尻に持ち運んだのでしょう。
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2017年05月28日

飛信逓送タダじゃない

飛信逓送.jpg明治初期、公用緊急通信の急送手段として「飛信逓送」という制度がありました。郵便局というハードウエアを利用して書状を送達するので郵便の一部と考えられがちですが、GANは郵便の範疇には含まれない別制度と考えています。飛信逓送の性格を正面から論じたら興味深い大論文ができますが、ここは措いておきます。

ただ、性格論と関連する根本問題として、2点を問題提起しておきたいと思います。「飛信逓送は無料の軍事郵便」が「定説」とされていることです。直近では『ビジュアル日本切手カタログ 第4巻』(日本郵趣協会、2015年)にもそう書かれていますが、誤りです。飛信逓送は無料ではなく、軍事郵便でさえありませんでした。

飛信逓送は、特定の公用書状を「脚夫」(ランナー)が昼夜兼行で郵便局間を継ぎ送りし送達する制度です。利用は非常事態下の官庁(公用)に限られ、私用には使えませんでした。郵便切手は使わず、経由する郵便局ごとに「飛信逓送切手」が渡されて飛信書状であることを証明しました。

日本郵趣協会(JPS)は1974年に始まる『新日本切手カタログ』の時代から今日の『日本切手専門カタログ』(日専)まで飛信逓送切手を「その他の切手類」として取り上げてきました。前出の『ビジュアルカタログ』はその最新版ですが、飛信逓送切手について1ページを割いたコラム(上図)の中でこの制度を次のように紹介しています。
飛信逓送はこのような非常事態(士族反乱や農民一揆=筆者注)に際し、緊急の書状を逓送するために、1874年(明治7)に制定された無料の軍事郵便で、……
ところが実際には、この制度を利用できたのは正院(今日の「内閣」に相当)、外務省、内務省、大蔵省、工部省、司法省、宮内省、開拓使、陸・海軍省、各地鎮台・営所と各府県庁でした。陸・海軍省と鎮台・営所以外はすべて軍事と無関係で、むろん、軍隊の運用権はありません。

暴動などが起きた場合、まず鎮圧に当たる警察の指揮権は内務省にありました。どの国の政府でも、軍隊の治安出動は警察力で対応しきれなくなった場合に限られ、あくまで2次的な想定です。制度の利用者、実際の運用の両面から言って、この制度は軍事利用に限定されたものではなく、軍事郵便ではありません。

次に、飛信書状を運ぶ脚夫はその都度郵便部外者に依頼するため、脚夫賃を支払う必要がありました。これは手配した経由局で立て替え払いしておき、後日駅逓寮(郵便所管官庁、10年1月以降は「駅逓局」)に飛信逓送切手を提出して清算していました。つまり、利用のたびにコストが発生し、それを駅逓寮が負担する有料の制度です。

この駅逓寮負担は会計原則から言って不合理な処置でした。大蔵省の提議に基づいて、西南戦争のさ中の明治10年7月以降は「各廳ニ於テ飛信ヲ要シ候節、右逓送費ノ儀其廳經費中ヲ以支拂候儀ト相心得」よ、と通達されました(10年8月24日正院達第59号)。脚夫賃は陸・海軍省や内務省などの受益者負担と改められたのです。このように、飛信逓送が無料というのは全くの誤解です。

JPSは1974年に最新の郵趣研究成果を集大成した極めて意欲的な『日本切手百科事典』を刊行しました。その中で「飛信逓送切手」が詳説され、制度について以下のような説明があります(p.209)。この論拠は示されていません。筆者として「天野安治」氏が明記されています。
不平士族の反乱、農民一揆など明治初期の反政府暴動に対処するために制定された公用の無料軍事郵便で、……
我が国郵趣界最高権威のこの誤認記事から問題が始まりました。『新日本カタログ』は翌1975年版にさっそく天野説を取り入れ、「飛信逓送は公用の無料軍事郵便」と全面的に書き換えます。このカタログの74年版では「(飛信逓送は)公用郵便物の特別送達」と正しい説明でした。ここまで、「無料」と「軍事」はなかったのです。

『新日本カタログ』はその後『日専』に発展しましたが、以後えんえん40数年間、天野氏のこの記事は丸写し続けられました。最初の方で示した『ビジュアルカタログ』のコラム記事も、もちろん天野氏記事が祖型です。この間、JPSのカタログ筆者らが根拠となった記事を見直したり精査した形跡は全く見られません。

そもそもJPSが発行する近年のカタログ類には編集・出版上の定見がありません。目立つのは明らかな事実誤認や校閲上の単純ミスばかりです。コレクター仲間の評判が、はっきり言って、とても悪い。営業上の困難は理解できるのですが、一貫性を放棄して縦横無尽にブレまくったり権威に盲従して先人の遺産を食い潰す弁明にはなりません。飛信逓送「問題」は氷山の一角です。

創業理事長を務めた水原明窻氏亡き後、責任ある統括者、監修者がいないのが原因とGANは見ます。名目上の理事長や「責任者」が、あるいはいるのかも知れません。「水原氏並みに」とまでは言いません。少しは使命感と、わずかでも意欲の見える出版物を出してほしいものです。
posted by GANさん at 13:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑観・雑評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月27日

湯崗子分室エラー印

湯崗子分室.jpg本日届いたばかりのヤフオク落札品です。満洲屈指の温泉地として戦前日本人に愛された湯崗子温泉の絵葉書に「満洲国」の4次通常荷馬車2分切手が貼られ、鞍山郵政局湯崗子分室で康徳7(1940)年7月3日に引き受けられています。

湯崗子は夏季限定のいわゆる季節局(定期開設局)です。日本時代は出張所でしたが、康徳4(1937)年に満洲国に移譲のさいに分室に改定されました。委譲後の印影をGANは初めて見ました。

荒井国太郎氏や田中清氏らの各種報文などでもこの印影は紹介されていなかったと思います。穂坂尚徳氏の力作「『満洲国』の消印と使用状況」(『日本郵趣百科』1985年版所載)には詳細な分室一覧表がありますが、なぜか湯崗子分室は洩れています。しかし、移譲は間違いなく、康徳4年12月1日の交通部佈告第329号に掲載されています。

湯崗子出張所印.jpg湯崗子.jpg日本時代の日付印(左図の左)はA欄出張所名、D欄本局名だったのですが、満州国(左図の右)ではA欄本局名、D欄省名(奉天)で、分室名はE欄に表示されています。このE欄に分室名が入る「分室型」印はこれまでに数局が知られています。

湯崗子拡大.jpg湯崗子分室の印影で面白いことは、肝心の分室名が左書きのエラーになっていることです。D欄の上部三分の一ほどが出ていませんが、3文字中の左は「湯」、右は「子」です(右図)。どう見ても、その逆ではありません。C欄時刻が左書きなので、それに釣られてうっかり誤刻してしまったのかも知れません。
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2017年05月12日

懲りないニセ南洋印

サイパン兵站3.png昨秋、2016年10月2日の記事でテニアンの空中楼閣的なニセ消印について書きました。同じ偽作者が懲りもせずに今度も南洋サイパンのニセ消印を新作して、またヤフオクに出品しています。締め切りまで日がありますが、あまりにも悪質なので敢えて記します。

このニセ印も櫛型印を模していて、上部に「航空兵站」、下部に「サイパン」と左書き(!)で入り、日付は「18.10.17」。櫛型のようなデザインが最上部と日付の下部にあるのが珍妙です。前回テニアンと同じフォントの日付活字を使い回したチープ感あふれるゴム製で、ニセ印はバレバレです。

出品者は「商品詳細」として次のような説明を載せています(原文のママ)。
◆曾祖父が残してくれたものですが、これに付きましては、歴史的符号箇所もそこそこにあるのですが、現時においての言われ等、郵駿諸氏の御洞察を仰ぎたいところです。
◆さてさて、御了承の上、御入札願います。
この人の悲しむべき国語力の貧困ぶりについては、このさい措くとします。許しがたいのは曾祖父という3世代前の人のコレクションだという破廉恥なウソを堂々と書いていることです。「伝世品であり、従って真正品」と誤認を誘い、故人(たぶん)に責任転嫁する逃げ様が卑怯です。

「歴史的符号(日本語『符合』の誤り)箇所もそこそこにあるのです」もまたホラ話。軍事史でも郵便史上でも歴史的事実にマッチする点など全くありません。このようなハンコが使われた実例が他にあるとでも言うのでしょうか。あるなら、ぜひお示し願いたい。謝罪して拙ブログを廃止し、蟄居謹慎いたします。

こんな荒唐無稽な偽造印でも、ネット上では関心を寄せる記事が見られます。「もしかしたら何らかの事情があって現地調達した変種印かもしれない」などと訳知り顔の解説まで現れる始末です。ん? この書き込み、「もしかしたら」偽作者・出品者グループの自作自演だったかな。さもなくばサクラ・ヤラセの類か。ご用心を!
posted by GANさん at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセモノ列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする