2017年03月27日

熱田丸が扱った軍艦郵便

金剛-2.jpg金剛-1.jpg日露戦争後の日本海軍のエース、初の超弩級巡洋戦艦「金剛」を受け取るため、1913(大正2)年に発注先の英国へ赴いた回航員の軍艦郵便のはがきです。つい最近のヤフオクで入手したばかりです。

このはがきは日本郵船の客船「熱田丸」の絵はがきで、菊紫色1.5銭切手に欧文ゴム印で「TSURUGA 10.5.13(敦賀局 大正2年5月10日)」が押されて引き受けられています。発信アドレスは「横浜局気付 軍艦金剛」です。紫色の角枠「軍艦郵便」印も敦賀局で押されたと見られます。

大正2年2月4日付の「海軍公報」には海軍省内の金剛回航員事務所を閉鎖し、以後の事務を日本郵船会社の熱田丸船内で扱うことと熱田丸の航路予定記事が載っています。同時に回航員への軍艦郵便を「横浜局気付 軍艦金剛」としたアドレスで開始することが告知されました。

「金剛」は当時、英ビッカース社が西海岸のバローにある造船所で建造中で、進水の寸前でした。副長の正木義太中佐(到着後、正式引き渡し直前の事故で交代)が全乗員の半数に当たる約600人の回航員を引率し、13年2月12日に横浜出港の熱田丸で英国に向かいました。

熱田丸はシンガポール、スエズ経由で4月9日、ロンドンに着きます。4月17日にバローに入港し、「金剛」に船体を横付けして回航員を移乗させました。試運転などの手続き完了後、「金剛」は8月16日にビッカース社から引き渡され、日本海軍の軍艦旗が掲げられました。

防衛省保存・アジア歴史資料センター公開の「金剛」回航関係資料により、このはがきの発信者は機関中尉で、文面からバロー到着直後の発信のようです。他の回航員の郵便物と共に閉嚢に収められてロンドン経由ヨーロッパからシベリア鉄道でウラジオストクまで運ばれ、日本海を敦賀に渡ったのでしょう。

「金剛」という軍艦は8月16日の正式引き渡し以前には存在しません。船体のあるバローには英国側との折衝や技術習得などに当たるため艦長の中野直枝大佐以下少数の要員が先発していました。しかし、こちらには軍艦郵便は適用されず、英国の郵便しか利用出来ませんでした。

軍艦郵便を適用された回航員は熱田丸が乗艦だったので、この軍艦郵便は軍艦ならぬ商船熱田丸が取扱いを指定されたと考えることもできます。商船が軍艦郵便を単に輸送しただけなら無数の例がありますが、「商船扱い軍艦郵便」が堂々と実施された例はあまり聞きません。

明治海軍は英国を初めヨーロッパ各国に何隻も軍艦を発注したり買収したりしています。これらの回航員は少数だったり海軍自身の軍艦で運ばれました。客船での大量派遣は「金剛」が初めてだったでしょう。35.6センチ連装砲4基、排水量27,500トンという大艦巨砲主義そのものの巨艦だったからこそのことでした。

「金剛」以降、主力艦はすべて国産化されたので、以後は回航員を大量派遣すること自体がなくなっていきます。結果として、商船熱田丸が扱ったこの軍艦郵便は極めて希少な使用例となりました。
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2017年03月23日

国籍を書かず還付処分

白系露人-1.jpg臨時郵便取締令スタートから半年足らずの1942(昭和17)年3月に東京から上海に宛てた封書です。

検閲で「相手の国籍が書いてない!」とチェックされ差出人戻し。国籍を書き加え、切手も貼り直して再投函し、やっと白系露人-2.jpgのこと配達された、戦時下ならではの涙ぐましい現物です。

米英を相手に乾坤一擲の戦争準備が着々と進んでいた41年10月4日、信書の検閲を合法化する臨時郵便取締令が施行されました。

取締令の細則で、郵便差出人は「自己又ハ受取人ガ日本人ニ非ザルトキハ」その国籍を明記するよう義務づけられていました(昭和16年逓信省令第108号)。

取締令の本来の目的は、戦争遂行上で致命的に重要な防衛情報が外国に漏れるのを防ぐことにありました。送・受信者が日本人かそうでないか、外国人だとしたら敵性国か友好国人か、は検閲上の重要なポイントだったのです。しかし、「国籍明記」など日本郵便史上で初めてのことです。初期はこうした「違反書状」が多発したことでしょう。

改めてこの封筒を詳しく検討すると、書状の送達をめぐって次のような経緯が浮かび上がってきます。このうち3〜6の過程が検閲体制下でなければ起きなかった「異常事態」です。結局、この書状は差出人と東京中郵の間を往復させられ、到着まで10日間近くを空費したことになります。

 1、昭和17年3月21日ごろ差出人の宝玲女史が赤坂局ポストに投函
 2、赤坂局で取集め、引受けて東京中央局に逓送
 3、中郵で検閲課に回り、検閲官が開封検閲
 4、検閲官が受取人の国籍記載漏れに気付き、封筒表面右下部に鉛筆で「国籍
   不書」と書込み、上部に付箋を貼付けて還付措置
 5、赤坂局を経て差出人に差し戻し
 6、差出人はめげずに、封筒左下部に「白系ロシア人」と万年筆で書込み、
   左上部に東郷4銭切手を再度貼り、還付付箋をはがして3月30日に再投函
 7、赤坂局で取集め、引受けて東京中央局、長崎局経由で上海に逓送
 8、上海局で4月10日に到着印を押し、受取人のRadbil夫人に配達

取締令下で外国郵便の差出は、切手は貼らずに添えて窓口に持ち込むのが原則ですが、「満洲国」と中国(日本軍占領地区)宛てに限りポスト投函が認められていました。窓口持ち込みだったら最初から国籍不記載を注意され、こんな騒ぎにはならなかったでしょう。両国は日本の「友邦」であり、日本人同士の通信が圧倒的に多かったための優遇策が仇となりました。

東京中郵で貼り付けた付箋は再投函のさいに剥がされ、残っていません。恐らくは「臨時郵便取締令ニ基ク左記ノ命令違反ニヨリ差出人戻シ 二重封筒/国籍記載漏レ/通信文手書」といった趣旨が印刷された外国郵便専用のものだったでしょう。「国籍記載漏レ」に○を付けるか、他の2項を抹消して使います。

二重封筒違反はありふれたものですが、「国籍記載漏れ」「通信文手書」は少なく、とくに後者の実例をGANはまだ見たことがありません。タイプライター打ちの文章の方が手書きを判読するよりは検閲の効率がよいということでしょうか。よく分からない規則です。
posted by GANさん at 03:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 郵便検閲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月21日

秘密局廃止後の郵便交換

会寧.jpg満州の朝鮮国境に近い間島地区の中心都市・龍井村(龍井市)から日本・東京宛ての中国ジャンクはがきです。

料額印面の1.5分にジャンク半分切手を加貼りした2分は当時の内国料金と同額です。中国・龍井村局が民国15(大正15=1926)年7月4日に引き受けています。名前から、発信者は間島で大多数を占める朝鮮人移住者のようです。

このはがきは中間地の和龍を経て翌5日に豆満江(図們江)を朝鮮側に渡りました。沿岸の朝鮮・会寧局に引き渡され、中継印の欧文「KAINEI」印が押されています。龍井村−会寧を1日間は、非常に効率の良い郵便交換を示します。その先は清津港などから日本海を新潟に送られたのでしょう。

会寧局が龍井村局との交換局となったのは1923(大正12)年1月1日のことでした。この日から新しい「日支郵便約定」が実施され、郵便交換が始まったからです。同様に、朝鮮・慶源局も中国・琿春局との交換局に指定されています。会寧、慶源両局の欧文印はこの日中郵便交換のために導入されたものです。

実は、龍井村−会寧間、琿春−慶源間の郵便ルートは日支郵便約定以前からありました。しかし、その時代は、朝鮮総督府逓信局が龍井村に間島局、琿春に慶源局分室を開設し、朝鮮逓信局の職員が国境を越えて郵便物を運んでいました。中国側の許可もなく中国領内に設けた秘密の郵便機関、逓送路でした。

中国には清朝末期から帝国主義列強の郵便局が多数開設されており、中国(中華民国)政府が強く抗議していました。中国の主張は第1次大戦後の新国際秩序を形成する1922年のワシントン会議で認められ、すべての在中国外国局の22年末までの撤廃が「決議第5号」として採択されました。

これにより、日本も秘密局を含む在中国局を廃止せざるを得ませんでした。ただし、日本は関東州と満鉄付属地の郵便局所は決議にある例外規定に該当すると主張して撤廃せずに残します。例外と認めない中国との間で対立し、解決しないまま1945年の敗戦まで引きずり続けました。

余談にわたりますが、「郵便学者」と自称する内藤陽介氏は『満州切手』(角川学芸出版、2006年)などで、中国内の外国郵便局撤退は九ヵ国条約で取り決められたと繰り返し述べています(同書p.98など)。しかし、条約にそのような文言は全くありません。しかも日本の批准は1925年なので時期も合わず、ダブルエラーです。

九ヵ国条約は以後の中国の主権尊重・機会均等をうたった一般的な精神規定であって、現況の具体的な実務の改善や問題解消を取り決めたものではありません。この「学者」さんは、わずか9条の条約本文にすら目も通さずに「学芸書」を書き上げる手の人だとGANはニラんでいます。

在中国局撤廃という新事態で実施されたのが日支郵便約定であり、それを受けた図們江を挟む2地点での中朝郵便交換でした。ただし、この交換の実態は資料不足でよく分かっていません。毎日欠かさず交換したのか、交換地点は川のどちら側か、あるいは、どちらかの局に相手側が出向いて持ち戻ったのか、などです。

会寧、慶源両局が中国側からの交換郵便物のすべてにこのような欧文印を押したのではないことも、残存エンタイアから明らかです。どういう郵便物に押し、それはいかなる割合となるか。これらも今後知りたい問題点です。
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2017年02月28日

鄭家屯事件の出動部隊

四平街2.jpgこの分銅はがきは1916(大正5)年夏に満州で起きた「鄭家屯事件」によって派遣された歩兵第41連隊第10中隊の兵士が発信しました。大正6年の年賀状として「四平街2」局で年賀特別取扱によって引き受けられています。

鄭家屯は満鉄本線の四平街駅から西北方へ約80キロも離れた東部内蒙古と呼ばれる地方の小都市です。16年8月13日に在留日本民間人が中国警官に暴行されるという小さなトラブルが事件の発端でした。

日本領事館警察の警官と日本軍守備隊の兵士が抗議して騒ぎになります。中国軍第27師と28師の大部隊によって守備隊の兵営が包囲され、戦闘の中で日本兵11人が戦死する大事件に発展してしまいました。

関東都督府(関東軍の前身)はただちに増援隊として公主嶺守備の歩兵41連隊から第3大隊を派遣しました。大隊は8月18日に鄭家屯に到着しますが、幸い事態は既に沈静化し、新たな衝突は起きませんでした。この事件では中国側(張作霖軍)が全面的に非を認めて解決したため、大隊は翌17年4月18日に公主嶺に帰還しました。

鄭家屯事件自体は偶発ですが、背景には蒙古の独立運動家パプチャップ(巴布扎布)が日本の「大陸浪人」川島浪速らと結託して挙兵した「満蒙独立運動」がありました。パプチャップ軍は当時、四平街北方の満鉄線郭家店駅付近まで進出、占領していました。鄭家屯の中国軍は、抗議に来た日本守備隊の兵士らをパプチャップ軍の襲撃と誤認して攻撃したようです。

日本は第1次大戦中、中国(袁世凱政権)に迫って悪名高い「21箇条要求」を承認させ、関連して1913年(大正2)10月、日本の借款で建設する「満蒙五鉄道協約」を結びます。その一つの「四平街−鄭家屯−洮南鉄道」計画線で、鄭家屯は重要な通過地点でした。

関東都督府は1914年10月以来、鄭家屯に中隊規模の守備隊を配置しています。満鉄沿線から遠く離れたこんな地点に、なぜ日本軍が進出できたのかは不明です。あるいは、この四洮鉄道計画との関連で、中国側実力者の張作霖と密約でも交わして認めさせていたのかも知れません。

話が後回しになってしまいましたが、このはがきの引受局「四平街2」とは、四平街局鄭家屯分室のことです。中国側には秘密のいわゆる「秘密局」で、鄭家屯事件から2ヵ月後の1916年10月20日に日本領事館内に開設されました。前後の事情から考え、この事件を機に軍隊の利用を主目的に開設されたことは間違いありません。

鄭家屯分室は増援部隊の撤退後も活動を続けますが、1922(大正11)年末の在中国局全面閉鎖のさいに撤廃されます。その間、毎月15回(隔日)という頻度で四平街本局との間で逓送が行われていました。ただ、取り扱う郵便物は軍隊や領事館宛てに限り、それ以外は中国局経由とされました。「四平街2」印が押された郵便物のほとんどが軍隊関係者なのはこのためと思われます。
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2017年02月25日

ラバウル海軍航空隊

204空.jpg銀翼連ねて、南の前線……などと歌っているとお年が知れてしまいますが、戦前世代にとって「ラバウル航空隊」の名はなかなかノスタルジックに響きます。このはがきはまさにその航空隊から差し出されました。ネットで落札し、今日手元に届いたばかりの新入品です。

はがきの発信アドレスは「横須賀局気付 第36海軍軍用郵便所気付 ウ105 ウ159 C」です(漢数字は洋数字に置換)。「ウ105」はラバウルを、「ウ159」は第204海軍航空隊を表します。Cは航空隊内部の区分記号でしょう。

つまり、このはがきは「在ラバウル第204航空隊第4分隊」の隊員が発信したものです。通信文面から、ラバウル進出直後の42年秋ごろに書かれたと推定されます。

「ウ」の前の2つの「気付」は郵便物を発受するために経由する郵便局名を表しています。横須賀局はラバウルを含む南東方面を受け持つ、海軍関係軍事郵便の大交換局でした。第36軍用郵便所はラバウルに開設されていました。

太平洋戦争中、ラバウルは日本海軍最大の前線航空基地でした。しかし、ラバウルを原駐基地とする航空隊は開設されていません。いくつもの航空隊が次々ラバウルに進出し、作戦ごとに出撃して消耗し、交替して還っていったのが実態です。「ラバウル海軍航空隊」という固有名詞を持つ部隊は存在しませんでした。

戦争中に編成された陸海軍の航空隊は数百もあるのに、なぜ海軍の「ラバウル航空隊」ばかりが有名で、歌にまでなったのか。日本映画社のニュース映画「南海決戦場」の好反響もありますが、GANとしてはとりあえず、「歌になったから有名になった」と身も蓋もない解釈を提示しておきます。

さて、くだんの第204航空隊ですが、これは1942(昭和17)年4月に木更津で編成された零戦、「ゼロ戦」と通称される艦上戦闘機による生粋の戦闘部隊でした。ガダルカナル戦が始まったばかりの8月21日に27機で陸上のラバウルに進出、隣のブーゲンビル島ブインをも基地としました。

以後、ガ島をめぐる長期間の航空消耗戦に耐え、ブーゲンビル島攻防戦、ニューギニア・ソロモン方面での航空全面反攻作戦の「い号作戦」などに活躍します。作戦終了後の43年4月、関係部隊の慰労・激励に向かう山本五十六聯合艦隊司令長官の乗る陸攻機の護衛に当たったのも204空でした。長官の機上戦死という海軍史に残る痛恨の悲劇の当事者です。

この部隊も44年初頭まで続いたラバウル航空決戦で消耗、疲弊しきって、ついに44年3月に現地で解隊されます。零戦隊として終始ラバウルにあって米機と渡り合い、守り抜いたエース部隊でした。204空こそ灰田勝彦の大ヒット歌謡でイメージされる「ラバウル航空隊」そのものと言えます。
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2017年02月23日

中国宛て国際料金最末期

天竜川丸.jpg大阪から中国(清国)上海に宛てた小判はがきです。U小判1銭切手が加貼りされ、大阪局で1898(明治31)年9月9日に引き受けて14日に上海に届いています。最近のヤフオクで入手しました。

1銭はがきは3ヵ月後の12月1日に菊(紐枠)はがきに切り替わりました。従ってこれは、小判はがきシリーズの外国宛て最終期使用例となります。

官製はがきに1銭切手が加貼りされていることに何となく異和感が感じられます。「中国宛ては内国と同額料金」という常識に反するように見えるからでしょう。

実はこのはがきは「同額常識」成立の直前、まだ中国宛てに国際料金が設定されていた時代の最末期使用例なのです。当時の中国(日本局所在地)宛て料金は書状5銭、はがき2銭でした。

逓信当局は外国郵便の規定全般を見直しており、1899(明治32)年1月1日から実施しました。その中で、中国宛て料金をこれまでの国際料金からはずし、内国料金と同額とします。このはがきがもし3ヵ月後に出されていたら1銭切手の加貼りは不要で、印面料額の1銭だけで上海に届いたはずでした。

この改定は、日清間通信の便宜を図り、朝鮮宛て料金がずっと内国並みだったのに合わせた、と説明されました。これは外国である中・朝両国を日本の郵便網の中に取り込む、通信主権の侵害でした。しかし、半植民地状態でU.P.U.(万国郵便連合)にも未加盟だった当時の清国からこの点での抗議はなかったようです。

中国側も後の1903(明治36)年に結んだ日清郵便仮約定で対日料金を日本と同額として日本の料金設定を追認しました。正確には、条文上で「清国から日本宛て料金は、日本の清国宛て料金以下にできない」という表現になっています(仮約定第2条第4号)。先にあげた「同額常識」はこうして完成しました。

ところで、はがきの宛て先をさらに詳しく読むと、「清国上海・日本郵船会社内/大阪商船会社天龍川丸」となっています。通信文面から、受取人はこの船の高級船員のようです。これも日中間郵便史上のエポックを記す点で、見逃せないアドレスです。

逓信省は日本の郵便網を中国沿岸部にとどまらず長江の奥深くまで拡張する意図がありました。そのため、大阪商船会社にこの年、98年1月から上海−漢口間に郵便船の運航を始めさせたばかりだったのです。そこに投入されたのがまさにこの天龍川丸と僚船の大井川丸の2隻でした。大阪商船には補助金年額9万円、保証金1万円という巨額の国費が交付されました。

初航の天龍川丸は98年1月4日に上海を出港し、延べ140人の乗客と貨物121個を運んで7日に漢口に着いています。復航は漢口8日発、上海に16日帰着でした(明治31年2月15日逓信省発海軍省宛「揚子江航路開始以降ノ状況報告」=アジア歴史資料センター公開資料=による)

この航路は4月からさらに上流の宜昌にまで延長され、強力なインフラとして長江沿岸に多数の日本局を開設する基礎を作りました。約7年後の明治37(1904)年12月15日付「逓信公報」告知によると、同日現在で上海のほか鎮江、蘇州、杭州、南京、漢口、太冶、武昌、長沙、沙市の各局所が開設(ほかに宜昌に秘密出張取扱)されています。
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2017年02月01日

大連局でない「大連」印

大連1.jpg支那字入り菊3銭切手が貼られ、「満・大連39.10.13」の日付印で抹消されている書状です。日露戦後の満州で明治39(1906)年9月に軍政廃止、民政移行によって開設された大連局が引き受けた最初期の郵便−−。

素直に見れば、だれでもそういう説明を付けたくなるところです。しかし、これは郵便史的には大きな間違いとなります。なぜか。

民政移管によって関東都督府が発足し、同時に郵便業務全般を管理する関東都督府郵便電信局が06年9月1日に大連で開設されます。従来の野戦局と電信専業の軍用通信所55局所は一律にその支局として改編され、再発足しました。

ところが、旧大連野戦局と大連通信所が統合されてできたのは都督府郵便電信局で、「大連支局」ではありませんでした。この封書が発信された10月13日の時点では「大連局」を名乗れる郵便局は存在していなかったのです(東大連支局は別の局所です)。

この間、大連市内での郵便事務を取り扱っていたのは都督府郵便電信局本局でした。正確には本局の中の通信課郵便掛の担当です。監督官庁が現業事務も兼務したことになります。そんな事情から、後に大連支局が正式に発足すると、通信課長(兼規画課長)の樋野得三が支局長も兼務しています。

これ自体は珍しいことではなく、さかのぼれば、郵便創業当初の「東京局」も駅逓寮の一部門(発着課)でした。満州と同時期で言えば、樺太でも樺太庁郵便電信局発足当時はコルサコフ(大泊)の郵便電信局本局がやはり現業も兼務しています。丸二型「樺太庁/郵便電信局」の日付印が使われたことでよく知られています。

樺太と違い満州では「大連支局」を仮想表示しましたが、やはりムリ筋です。いろいろな矛盾も露呈してきたのでしょう。3ヵ月以上も経った12月10日に、改めて独立現業局としての大連支局を正式に開設しました。郵便印も本局時代と同じものを使いました。従って、同じ「満・大連」櫛型印でも39年9月1日から12月9日までは本局(都督府郵便電信局通信課)の消印であり、大連局(大連支局)のものではない、が結論です。

本局.jpgこれに関連して、未解明の問題があります。正式な大連支局開設後に櫛型「満・大連本局」、丸二型「都督府局(朱色)」という単片上の印影の存在が知られています(左図)。前者は形式から明らかに通信日付印ですが、使用状況が分かりません。後者はどうも料金納付事務などの再確認印のようです。

『関東逓信三十年史』(満州逓信協会、1936年)には「管理事務に限り大連本局にて之を処理したるも……」という断片的な記述(pp.89-90)が見られます。郵便切手に日付印を押すような「管理事務」など果たしてあるのか。または、これらの印影はこの記事とはまったく無関係か。−−判断するにはまだ資料不足です。この印影の問題については後考に俟ちたいと思います。
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2017年01月31日

大阪−東京を4日で飛行

行違遅延1.jpg航空郵便の夜明け前、大正11(1922)年11月に航空普及を図る民間団体の帝国飛行協会が開催した「東京大阪間郵便飛行競技」で運ばれたはがきです。ネットオークションで落とし、つい数日前に到着しました。

この飛行競技の実施状況については園山精助氏の好著『日本航空郵便物語』(1986年)に詳しく載っています。以下、園山氏に全面的に依拠して記述します。

当時はまだ航空機による郵便物の定期輸送はありません。イベントとして開かれる各地での飛行大会などで試験的に委託輸送される程度の段階でした。

帝国飛行協会は郵便の大動脈である東京−大阪間で将来郵便の定期航空を構想していました。まず航空路を開拓し、確実・安定的に定期飛行するためのテストフライトとしてこの競技を企画したのです。郵便飛行を競うイベントは1919(大正8)年以来これが5回目で、最大で最後ともなりました。。

内容は、民間飛行士を募り、数日間にわたって東京・代々木練兵場と大阪・城東練兵場とを互いに発着して所定コース(東京−三島−豊橋−四日市−大阪)を無着陸で飛び、航路の確実さや速さを競う、というものです。14人の飛行士が自分の飛行機ごと、あるいは航空当局提供の機体を借りてエントリーしました。

競技は11月3日から11日の間に延べ7日、27回のフライトが実施されました。うち7回が不時着で、大部分は機体大破で終わっています。優勝者の飛行時間は上り3時間31分、下り2時間54分でした。全フライトを合計して大阪方面に3,612通、東京方面に6,420通の郵便物が輸送されました。

さて、このはがきですが、私製はがきに第2種料金として田沢1.5銭切手が貼られ、大阪天満局で11月4日夜の10−12時に引き受けられています。航空輸送による特別料金の加算はありません。はがき表面左端には赤インクで「飛行郵便」の書き込みがあり、郵便飛行競技に参加した郵便物であることを示しています。

ところが、このはがきは翌5日のフライトに間に合いませんでした。城東練兵場への引き渡し局である大阪中央局で「行違ノ為メ送達方遅延ス」の付箋が貼られ、5日午前10−11時の日付印が押されています。天満局か中央局のどちらかで取扱ミスがあったのでしょう。午前9時28分に出発した島田機に積み遅れてしまいました。

このはがきは練兵場で1日を空費して6日午前8時40分出発の安岡機に搭載されたはずです。災難はさらに続きました。安岡機は半ばも飛ばないうちに油送管が故障し、豊橋に不時着してしまったのです。安岡飛行士はやむなく搭載郵便物を豊橋局に引き渡し、このはがきも汽車便に仕立てられて東海道線を上ったと思われます。

結局、東京中央局への到着は7日早朝の午前0−7時となりました(あるいは6日深夜かも知れません)。それでも青山の名宛人に7日お昼前には配達されたはずです。大阪から足かけ4日がかりで届いた「飛行郵便」はがきは、さぞ驚かれたことでしょう。

−−1通のはがきに押された3個の日付印が以上のようなストーリーの存在を推定させています。日本で最初の飛行機が飛んでからわずか12年。機体製造も操縦技術もまだまだ手探りだった時代に、最速の手段で郵便輸送を試みた人たちの悪戦苦闘ぶりがしのばれます。
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2017年01月30日

懲りないニセ乃木書翰

fg1.png明治から昭和までの3代を通じて、乃木将軍は恐らく日本人が最も好きな軍人なのでしょう。「これでもか」とばかりにニセの乃木書翰が出現し、出回っています。ヤフオクでは出品が途切れる間がないと言っても過言ではありません。偽造封筒を添えたばかりに足が付いた最近の2例をご紹介します。

右図は北海道の古書店が入手したという「乃木書翰」です。共同通信が「乃木希典の直筆手紙発見」とさも大ニュースのような記事にして配信し、1月14日付日本経済新聞などに掲載されました。子息の戦死や後継者に関する、素人受けぴったりの「極めて興味深い」内容だそうですが、そちらは置いておきます。

封筒は菊10銭切手を貼って書留扱いとなっています。小さな荒れた写真しかないので引受印の局名などは不明です。将軍が自宅から出した真正の書翰はすべて赤坂局引受になっています。それなのにこの封筒の書留ラベルが「小石川」なのはおかしい。引受印の局名がもし「赤坂」ならニセは決定的です。

fg1a.pngここでは裏面の付箋をはがした跡にわざわざタイするように押されている消印に注目しました。無理した拡大図をに示します。一見してB欄日付部の桁線とD、E欄櫛型の痕跡すらないのが、まず異様です。

局名は「赤坂」とも「広島」とも読めそうな不鮮明さですが、日付活字の「43.7.8」だけはどうにか分かります。ところが、これが箸にも棒にもかからないフォントを使ったゴム製の不出来な偽造印なのです。

赤坂局にせよ広島局にせよ、櫛型印の時刻活字は数字の直前にピリオドを配置する「前点式」のはずですが、「8」の日活字の直前にピリオドはなく、月活字「7」との中間というあいまいな位置にあります。「7」の前のピリオドも同様です。数字活字に付属して一体となっているのではなく、異様に大きな「ピリオド活字」として独立していることが明らかです。

かくして、消印がニセモノ。→もし書翰がホンモノだったらニセ消印をわざわざ作ってニセ封筒まで添える必要はない。→故に、書翰もニセモノ、という三段論法でアウトになります。余計な封筒を偽造しなかったらこの書状はあいまいなまま通っていたかも知れません。「雉も鳴かずば撃たれまいに」の類いの話です。

fg2.png一方、左図は1月31日締め切りのヤフオクに「軍神乃木希典書簡封書軸装」として出品されているものです。両方の封筒の将軍自筆のサインにご注目下さい。同一人の手蹟なのに、これほど違うのはなぜか。両方とも同じ理屈で真っ赤なニセモノだからです。

こちらの封筒では表面の菊3銭切手が赤坂局の日付印で引き受けられています。着印がないところが不自然です。ところで、この極めて明瞭な引受印がまったくいけません。

に示すように、外郭リングが異常に太かったり、「赤坂」の局名活字に「太教科書体」という実在しない異様なフォントが使われているのが、まずダメです。C欄時間帯の「后0−8」はあり得ない刻みで、これは偽造印として致命的な証拠です。

fg2a.pngこの当時、赤坂局を含む東京市内局の時間帯刻みは1時間ごとでした。しかも、櫛型印にはX、Y、Z型の全形式を通じて「后0−8」などという荒っぽい刻みはありません。せいぜい「后0−3」(Y3型)、「后0−4」(Z型)があるぐらいです。

従ってこちらも、消印がニセモノ→封筒が偽造→故に書翰本体もニセモノ、という理屈を累積する結果となりました。もっとも、出品者は商品説明の中で「当方では肉筆の保証できますが、真筆の保証は致しかねます。」とわざわざ断っています。

これを「多少の良心はある」と解すべきなのか、あるいは偽造を承知の巧妙な逃げ口上か。いずれにせよ、2通の書翰は「乃木人気」が世紀を超えてなお盛んな証拠、とは言えそうです。
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2017年01月29日

満鉄駅の電信取扱所

五竜背1.jpg湯山城1.jpg高麗門1.jpg張臺子1.jpg萬家嶺1.jpg得利寺1.jpg五龍背、湯山城、高麗門、張臺子、萬家嶺、得利寺……。聞き慣れない局名ですが、これらは郵便印ではなく、満州の電信専業局所の一種、鉄道停車場電信取扱所の日付印です。大正5(1916)年7、8月ごろ南満州鉄道(満鉄)の支線、安奉線を利用した旅行者が各駅で記念押印したもののようです。

関東都督府通信管理局(関東逓信局の前身)は満鉄と協定を結び、明治42(1909)年8月1日から満鉄本社構内と遼陽、大連、奉天など主要12駅に電信取扱所を設置して公衆電報の取扱いを開始しました。(外務省外交史料館蔵『関東都督府政況報告並雑報』明治42年7−9月期による)

満鉄線路沿いに架設されている鉄道専用電信を一般電信線に接続して旅客の利用に供しました。専任職員は置かず、駅員の兼務です。内地で既に実施されている方式にならったものでした。その後も観光地の駅や安奉線の駅にも増設を続け、明治期末に取扱所は24駅に開設されていました。

満鉄構内.jpg大連駅.jpg鉄道停車場電信取扱所の開設当初、日付印はA欄「満」、C欄駅名という形式でした。満鉄構内と大連の印影が知られています(右図)。

この記事の最初に示したようなA欄駅名、C欄「電信取扱所」という形式には大正初年に切り替わったのでしょう。荒井国太郎氏の諸論考や穂坂尚徳氏の労作『在中国局の和文印』にもこの形式はなく、これまで未発表だったようです

これらの電信取扱所印は電報ョ信紙に貼られた料金相当切手の抹消印や駅構内限りで配達される電報送達紙に配達印として押されたはずです。しかし、いずれもエンタイアとしては未発表で、使用状況の実態は分かっていません。

この時期の満鉄駅委託の通信業務というと、もう一つ関連して未解明な問題があります。前記『政況報告』の明治41年1−3月期報告書によると、同年1月16日から「鉄道停車場郵便取扱所」なるものが開設されています。本線では臭水子、南関嶺、三十里堡、得利寺など13駅、安奉線では陳相、渾河、橋頭、孟家など12駅で、いずれも付近に郵便局のない不便地です。

「沿線居留民ノ増加ニ伴ヒ、之ガ(従来の鉄道郵便係員による)取扱ヲ拡張シ」、満鉄と交渉して駅員や一般民間人の便宜のためにこれら各駅で「郵便物ノ引受及留置交付ノ取扱ヲ為サシム」と記述されています。電信取扱所の設置以前に郵便取扱所という先行事例があったことになります。

この郵便取扱所が郵便物の引受に果たして独自の日付印を使ったのか、この種取扱いがいつまで続いたのか。−−詳細は不明で、新たな資料の発掘が望まれます。停車場郵便取扱所が扱った、例えば「臭水子駅留置」などと肩書きしたエンタイアもあるはずです。その出現も併せて将来に期待したいと思います。

訂正】この記事の第5段落末尾で「これまで未発表だったようです。」としたのは誤りだったので削除します。委細はこの記事のコメント欄をご参照下さい。
posted by GANさん at 22:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 満洲・関東州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月28日

関特演で動員の両師団

基.jpg奥.jpg「関特演」とは「関東軍特種演習」の略称です。1941(昭和16)年7月に始まった独ソ戦に便乗してソ連に侵攻する目的で満州の関東軍兵力を倍増した大動員をいいます。秘匿のため「演習」の名目が使われました。この侵攻計画は結局、独ソ戦が膠着に陥って中止されます。(本ブログ2016年5月31日付記事参照)

関特演で内地から2個師団が動員され、満州に派遣されました。この2枚のはがきは動員された第51師団(宇都宮)と第57師団(弘前)の兵士が故郷に宛てて発信したものです。最近のネットオークションで入手しました。共に「満洲国」の官葉が台はがきとして使われていますが、偶然です。

左のはがきの発信アドレスは「満州基第2805部隊」とあります。「基」は「通称符」と呼ばれる一種の暗号で51師団を、また「第2805部隊」は捜索第51連隊を表します。51師団は41年8月22日に満洲国西南部の綏中に着いた後、太平洋戦争開戦準備のため9月23日に華南に向け転進しています。満州に駐屯したこのわずか1ヵ月間に発信されたことが分かります。

右のはがきのアドレス「満州奥第7221部隊」の「奥」は57師団の、「第7221部隊」は野砲兵第57連隊の意味です。この師団は黒竜江を隔てたソ連北正面第一線の黒河周辺に配備されました。野砲57連隊の駐屯地は山神府でした。軍事郵便には珍しく「(昭和)16.9.30」と発信日付が明記されています。

アドレスの「基第2805部隊」や「奥第7221部隊」といった表記は陸軍用語で「通称号」と呼ばれ、正式な部隊名や部隊行動を秘匿するため太平洋戦争期に全面的に使われました。その軍事郵便での使用開始がこの関特演だとGANは考えています。つまり、これらのはがきは通称号使用例の第1号なのです。

関東軍は基本的には通称符を採用せず、「満州第○○部隊」と数字2、3桁の部隊番号だけで通しました。しかし、関特演で動員した部隊に限っては、いわば例外的に通称符を使いました。部隊名秘匿の度合いを強化したつもりだったと思われます。結果的に、関東軍の実際の軍事郵便で通称符が使われている例はわずかです。

動員された両師団はその後、大きく明暗を分けます。51師団はソ連侵攻計画中止によって華南に転用され、1年後に更にラバウルに再転用されます。ニューギニア戦線に向かった直後の43年3月に「ダンピールの悲劇」と呼ばれる輸送船団壊滅(ビスマルク海海戦)で大部分が海没し、生存者も悲惨な飢餓の中で敗走を重ねて全滅状態で敗戦を迎えました。

一方の57師団各部隊は山神府、泰安など黒竜江南岸に展開して平穏な駐屯を3年半続けた後、「本土決戦部隊」として45年4月に内地に転用されました。福岡県北岸で防衛陣地構築中、無傷のまま敗戦となります。満州駐屯を続けていたら、8月のソ連軍侵攻による第一撃で全滅を免れなかったでしょう。そのわずか4ヵ月前の離脱が命拾いになりました。
posted by GANさん at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍事行動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月26日

占領下アモイでの電報局

KULANGSU.jpg欧文電報の受取証兼電報料金受領証です。KULANGSU局1939年10月5日の日付印で上海宛て電報を発信したことが証明されています。つい最近の東京の大手オークションで入手しました。

KULANGSUとはどこか。台湾型の欧文印が押されていますが、もちろん台湾ではありません。その対岸に当たる中国福建省厦門(アモイ)の鼓浪嶼。受領証は鼓浪嶼電報局で発給したものです。

厦門は1841年のアヘン戦争で勝ったイギリスが上海などと共に開港させ、中国侵略の第一歩とした地として知られます。厦門自体が島ですが、鼓浪嶼は本島の南西部と狭い水道で隔てられた小島です。鼓浪嶼には日本を含む列強の共同租界や領事館が設置され、植民地的な隆盛を誇りました。

現地の福建南部語で鼓浪嶼を「コーロンスー」に近く発音することから、郵便地名としてはKULANGSU(クーランスー)の表記が定着しているようです。日本人は戦前から「コロンス」と呼んでいました。

ちなみに、1922(大正11)年末の在外局廃止時まで存続した厦門日本局はコロンスにあり、本島側には水仙宮分室が置かれました。日付印「AMOY」を使ったのはコロンス本局で、分室は「AMOY 2」を使って区別しました。分室の方は条約に基づかないで開設された、いわゆる秘密局です。

この受領証は上海宛て欧文電報をョ信したことを証明しており、料金は日本通貨で「1円25銭」と表示されています。発・受信人は共に「oversea」とあります。この語を含む企業など固有名詞の略称なのか、単に「海外」を表すのか、よく分かりません。上海は海外ではないので、あるいは前者が正しいのかも知れません。

日中戦争で日本海軍は厦門を東シナ海制圧拠点の一つとして重視しました。1938(昭和13)年5月10日に陸戦隊が占領し、特別根拠地隊を開設しています。陸軍は厦門占領には基本的に関与しませんでした。陸上「援蒋ルート」の封鎖は陸軍、沿岸部は海軍の役割だからです。

海軍は厦門地区の郵便・電信業務も接収し、厦門と関係の深い台湾総督府交通局逓信部に復旧を要請しました。台湾当局は要員を派遣して7月1日に厦門での郵便を再開させます。7月25日に厦門郵局を中国郵政に移管するまでの間は台湾局の出張事務という形式で取扱いました。郵便は基隆局、為替貯金には台北局の名義を使っています。

電信電話業務は郵便より早く、厦門電話局5月30日、厦門電報局6月11日、鼓浪嶼電報局は7月1日に再開しています。この電報受領証には左欄外に小さく「昭和十三年四月新民報社納」と印刷されています。台湾の新聞社で印刷させた最新の式紙を持ち込んで使ったと見られます。

郵便とは違って、厦門、鼓浪嶼の電信電話業務は終戦時まで海軍が管理を続けました。日本海軍が華南で台湾逓信当局と組んで復旧・再開させた電信電話事業は、ほかに広東と海口(海南島)でも同様に行っています。

上記の事実関係は、主として国立公文書館所蔵の旧郵政省文書のうち「南支皇軍占拠地ニ於ケル電政施設ノ概要」、「厦門通信施設ニ関スル件」によりました。いずれもアジア歴史資料センターを通じてネットで検索、ダウンロードできます。
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2016年12月14日

華北郵政に貯金を委託

北ほ02.jpg北ほ01.jpg
日本軍占領下の中国・青島郵局が在留日本人のためだけに特別に取り扱った貯金通帳です。最近の関西大手オークションで入手しました。

通帳は褐色大型で表紙に巨樹を描いた日本内地と同じ内閣印刷局製で、下関貯金支局が発行しています。貯金記号「北ほ」は華北郵政総局管内の青島郵局に口座があることを表します。預入人の住所は「青島欧陽路2号」と書かれています。

北ほ03.png受払を証する日付印も日本と同じ為替貯金用櫛型印で、A欄「青島」、C欄「北ほ」です。しかし、印色が極めて特殊で、通常の黒色ではなく朱色です。櫛型印時代では他に類例がありません。昭和18(1943)年4月1日から19年3月9日までほとんど毎月1回、1円ずつ預け入れられています。

中国局で中国人職員が扱っているのに、日付印の年号に民国年号(昭和18年=民国32年)を使わないのはなぜか。この通帳は日本逓信省が占領地の傀儡政権・中華民国臨時政府(北京)に業務委託をして1938(昭和13)年11月16日から始めた日本の郵便貯金だからです。

37年7月に日中戦争が始まると、日本軍は北京・天津地区を始め河北、山東省全域と山西、河南省の一部をたちまち占領しました。占領地に進出した日本人多数の「日本の郵便貯金に加入したい」という要望が理由とされます。中国郵政も儲匯(貯金・為替)業務を扱っていたので、二重制度になります。

ただ、上海にあった国民政府(蒋介石政権)郵政総局に対して、華北政権の華北郵政総局は半面独立・半面従属という態度でした。華北占領地で中国郵政に貯金すると、日本系貯金原資も国民政府の運営に委ねることになります。それを避ける思惑から、日本側は華北政権にこの我が侭な要求を受け入れさせた、という事情があったと思います。

38年10月19日に締結された逓信省と華北郵政総局との間の委託貯金基本協定書案が国立公文書館に残っています(「北支委託貯金 基本協定、細目打合、通知事項」)。

 1、北支記号通帳の預入・払戻事務を委託。貯金原簿は下関貯金支局で所管する。
 2、手続きは日本貯金法令に準拠。通帳・式紙類、法規文書は日本側が提供する。
 3、受払には華北流通の通貨を使い、通帳には日本通貨で金額表示する。
 4、華北通貨と日本通貨の交換レートは両者が協議して決定する。
 5、受払1口につき10銭の取扱手数料を華北側に支払う。
 6、日付印類は印影を日本側が提供し、華北側が調製。通帳には朱肉で押印する。
 7、利用者への責任は日本逓信省が負う。

この「北支委託貯金」の取扱局は当初は、北京(北い)、天津(北ろ)、済南(北は)、太原(北に)、青島(北ほ)、石家荘(北と)の6局だけでした。次第に増加し、5年後の43年11月1日現在では河北、山東、山西、河南、江蘇の各省で合計24局になっています(『大東亜為替貯金取扱局便覧』)。

協定書や前後の往復文書には「日付印は日本年号を使う」という取り決めはありません。しかし、利用者が原則として日本人に限られたことに加え、日付印の版下を日本側が用意したことからそうなったのでしょう。中国局で「昭和」年号の日付印を使用−−。通帳1通が日本の占領郵政を象徴していると思います。

関連して、華北占領地で日本郵政が中国側に委託した業務としては、他に口座間送金業務の郵便振替(1941年10月1日開始)があります。為替関係では事務委託はなく、通常・電信・小為替とも中国業務として日本業務との間で取り組まれました。


さらに蛇足を付け加えます。使用済みの行政書類は国立公文書館移管が法律で義務づけられています。が、実際には郵政省関係では貯金局が所管した為替貯金資料があるだけです。それだけでも大変ありがたいことですが、残存は何かの偶然で、意図した結果とはとても思えません。その証拠に、郵便行政の本流である郵務局作成の資料が公文書館にはゼロなのです。

旧逓信省は関東大震災で全焼し、すべての書類を失いました。それでも努力して収集・復元に努めた結果、震災前も含めてかなりの量の資料が現在の郵政博物館に保管されています。これに対し、戦中・戦後の80年間だけでも膨大な分量にのぼったはずの行政書類はすべて廃棄されてしまいました。戦後から現在に至る郵政官僚たちの無能(歴史認識の欠如)と国民に対する無責任を象徴しています。
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2016年12月08日

戦地の病院船へ電報

神戸丸送達紙.jpg日露戦争中の病院船「神戸丸」に収容されていた戦傷者に宛てた電報送達紙と、それを郵送した電報送達の専用封筒です。ごく最近のネットオークションで入手し、到着したばかりです。

神戸丸は日本郵船の貨客船(2,901トン)で、1940年代の日華連絡船とは同名異船です。日露開戦直前の1904(明治37)年1月に海軍省にチャーターされました。開戦と同時にジュネーブ条約に基づく病院船として、僚船西京丸と共にロシア側に通告されています。

聯合艦隊に付属船として編入され、特務艦隊に属しました。詳細な行動記録は見当神戸丸封.jpgたりませんが、単独で佐世保軍港と戦地との往復を繰り返していたようです。05年夏には陸軍の樺太攻略部隊輸送と支援のため編成された北遣艦隊に随伴したことが分かっています。

この電報ですが、明治37年11月9日に北見紋別局から発信されています。宛先アドレスは「在戦地 病院船神戸丸 第1病室」とあります。電文は「名誉ノ怪我、今ノ様子イカガ」です。発・受信者が同姓なので、親が我が子の戦傷を心配して一刻も早く症状を知ろうと打電したのかも知れません。

同日中に門司局に着信しましたが、神戸丸が門司港に入港しているわけではありません。ただちに専用封筒に「従門司郵便/電信局郵便(門司郵便電信局より郵便)」の印を押し、電信事務として「戦地」に郵送されました。

ところが、名宛人の負傷兵がこの電報を実際に手にしたのは12月11日でした。電報に本人による朱筆の書き込みがあることで分かります。この電報は神戸丸の行方を追跡して1ヵ月もかかってしまったようです。これでは電報としての用をなさず、郵便にしても結果は同じだった可能性があります。

封筒表面下部に12月10日の到着印が押されていますが、残念ながら不鮮明で局名が読めません。ただ、丸一印が使われているので、神戸丸はこの12月当時、「戦地」を後に朝鮮か内地の港湾に入港中だったと推定できます。大連や旅順など戦地の野戦局は丸二型印を使ったからです。

この電報で興味が持たれるのは、「戦地」宛てョ信を、紋別局はなぜ門司局に宛て送信したか、です。海軍関係で戦地との間の郵便なら、佐世保が交換局でした。電信の交換(中継)局は門司局と決まっていたのでしょうか。陸軍宛て電報だったら門司局は野戦局に郵送したのか。調べる余地はまだまだありそうです。
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2016年11月30日

保定出張取扱いの郵便

保定.jpg北京局明治42(1909)年8月2日の和文櫛型印で引き受けられたはがきです。この当時の在中国局は郵便物の引受けに「I.J.P.O.」の欧文印を使っていたので、和文印は異常な使用例と言えます。また、C欄が★3個で、さらに異常です。局内事務用印の誤使用でしょうか。

結論から先に言ってしまうと、これは誤用やエラー印ではありません。北京局員が保定で出張取扱いをしたさい、北京本局と区別するために使った専用の引受印だとGANは考えています。

発信者のアドレス「保定府」がキモなのです。在中国局では主に満州方面での「秘密局」の存在が知られていますが、この出張取扱いも一種の秘密局と言ってよいでしょう。

これを保定出張取扱いの郵便印とする根拠は、北京局のこの和文櫛型印で引受けられている郵便物が、ことごとく保定発信だからです。データとしては、このほかに(明治)39.8.7、39.9.12、39.10.24があります。つい最近も39.7.25の封書が東京で大手のフロアオークションに出品され、たいへん良いお値段で落札されました(GANも参戦してみごと敗れました)。

北清事変の収束後、日本逓信当局は保定に北京局職員を派遣して郵便、為替、貯金の出張取扱いを始めます。開始は明治35(1902)年10月21日で、当初は毎月1回の「随時」出張でした。これは11月28日公達第710号として逓信公報に掲載されましたが、中国側とは了解も通告もない「無断措置」でした。出張回数は後に月2回に倍増されています。

保定は北京から京漢線沿いに南方130qにある河北省では省都級の大都市です。当時、日本人が進出した事情については興味があるところですが、GANはまだ調べていず、よく分かりません。それにしても北京に比べればかなり少ないはずで、恐らく100人にも達しなかったのではないかと思います。

この点についてはヒントとなる資料があります。開設2年後の1904年12月に日露戦役記念の第1回絵葉書が発売されると、北京本局で350組を売ったのに対し、保定では50組を売っています(旧逓博所蔵「戦役記念絵葉書発売の件」)。単純計算で北京の7分の1の数の日本人が保定にいた可能性があります。

ところが1910(明治43)年2月に日清郵便約定(郵便交換協定)が締結されると、約定の上で規定できない保定での郵便取扱いは違法となってしまいました。そこで当局は4月から清国郵政が扱わない価格表記、代金引換、現金取立郵便だけに業務を大幅縮小します。当時毎月10回にまで増えていた出張回数も2回に戻しました。為替、貯金業務は継続しましたが、事実上の撤退と言えます。

さらに1912(明治45)年になって、「在留邦人減少のため」として5月以降は保定出張取扱いを正式に廃止します。これらはすべて、逓信公報には登載せず、各逓信管理局から郵便局長限りに配布する「内牒」で通知されました。結局、保定出張取扱いでの書状、はがきの引受けは02年10月−10年3月の7年半だけだったことになります。

これまで「秘密局」というと、領事館内の1部を郵便事務専用に使うような固定常駐施設ばかりが注目されてきました。保定のような実例が新たに分かってくると、他にもあった出張取扱いでも本局と区別できる表示がされていないか、気になります。

この保定にしても、櫛型印導入以前の4年間ほどの出張取扱いではどうしていたのか、使用状況がよく分かっていない丸一「北京」印の郵便使用はこれと関係はないか−−。気がりは増すばかりです。
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2016年11月22日

ニセモノ罹災、非常通信

44.png11.png11月22日夜締切りのヤフオクに関東大震災の「罹災通信」と台湾・霧社事件の「非常郵便」のニセモノが計4点(左図)出品されました。いずれもスタンプレスカバーで偽造品としては稚拙ですが、相場より1桁小さい額ですべて落札されました。

罹災通信は千住局大正12年9月11日印のはがきと神、33.png22.png田局9月13日印の封筒で共に同じ角枠黒色「罹災通信」印が押されています。

また、非常郵便は霧社局昭和5年12月12日印の絵はがきと同局11月15日印の封筒で、共に角枠赤色の「非常郵便」表示があります。「非常郵便」は印ではなく、角枠も含めペン書きです。

4点のうち千住の罹災通信は『JAPEX'93記念出版 関東大震災』掲載のエンタイア写真(p.23)を表裏共に模写したものです。ホンモノは「罹災通信」が赤橙色の孔版印刷ですが、こちらは黒印で「代用」しています。

ほかの3点は差出人が異なるのにすべて同一筆跡による同色(ブルーブラックか黒色、それと赤色)のペン字です。しかも封筒2通は、ステーショナリーとして同じもののようです。しかし、1点1点を遠目にすると、エンタイアとして良さそうには見えます。

千住印.pngこれら4点には不自然な「手書き」の多用が共通しています。日付印の外枠と日付活字の一部は実物印顆を流用しているようですが、局名、時刻帯を含むA・D欄(上部印体)、C・E欄(下部印体)すべてが手書きです(左図)。外枠と日付部の桁には墨入れもしています。年活字がないようで、「12」年は月日活字の流用、「5」年は手書きです。櫛歯まで手書きとはご苦労千万ですが、余りにも下手なのでバレバレです。

出品者は「身内の収集品です。ご自身の判断でご納得の上でのご入札を」と最初からエクスキューズを入れています。GANはさっそく日付印や筆跡について質問してみました。回答は「遺品整理品につき、正直詳しい入手経路など分かりかねます。」と確信犯お決まりの逃げ口上。後は何を質問しても頬被りのまま締切りに持ち込みました。

罹災通信や非常郵便の実際のコレクターはこれらに手を出さなかったでしょう。それでも落札した人は初心者でしょうか、はたまた、出品関係者か。いずれにせよ今回は質の低いforgery(模造品)でした。専門家をも欺いて横行する「空中楼閣的ニセモノ」よりはまだマシだったと言うべきかも知れません。
posted by GANさん at 23:35| Comment(3) | TrackBack(0) | 関東大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月17日

怪しいクラ線「鉄道郵便」

今年3月11日に「『泰緬鉄道郵便』の真実」と題する記事を載せたところ、意外に反響があることに驚きました。とても一般的とは言えないテーマなのに、本ブログでは珍しくほとんど毎日この記事が閲覧されています。意を強うして続編を記すことにしました。

泰緬鉄道郵便なるものが実在すると主張する南方専門家の人たちは、「クラ地峡横断鉄道(クラ線)でも泰緬鉄道と同じ性格の郵便が行われていた」と言っています。しかし、GANはこのクラ線の郵便も、泰緬鉄道郵便と同工異曲のニセモノと考えています。今回はそれについて考察します。

クラ線とは、マレー半島最狭部である南部タイのクラ地峡を東西に横断してタイ湾とアンダマン海とを直結する鉄道を言います。太平洋戦争中、日本軍がビルマへの軍需物資補給ルートとして泰緬鉄道と共に計画しました。1943年12月にタイ鉄道南部線のチュンポンを起点にカオファーチまで94キロを開通させています。

このクラ線で使われた郵便印として3種が発表されています。まず「クラ線/鉄道郵便」と表示された円形印と楕円形印で、共に西暦による欧米風の日付表示が異色です。それと「チュンポン/クラ線」と表示されて日本紀元(皇紀)の年号に月と日を手書きする、これも特異な二重丸印とがあります。

Kla.jpg
クラ線の郵便について日本語の文献としては、南方占領地切手の権威・土屋理義氏が『泰緬鉄道の「軍事郵便所」郵便』(日本郵趣協会、2005年)で言及しているだけのようです。土屋氏は11通のクラ線のエンタイアを実際に検証したとして、「クラ線/鉄道郵便」印について、次のように説明しています(上図は同書からの引用。クリックで鮮明な拡大図が得られます)。

−−「鉄道郵便」という表示から、チュンポン郵便所が扱う郵便は、為替送金や郵便貯金ではなく、鉄道郵便が主体であったと思われる。

短いにもかかわらずとても難解な文章です。その理由は筆者(土屋氏)の鉄道郵便についての根本的な認識不足、はっきり言うなら無知のせいだと思われます。強いて筆者の意図を忖度すればここは、「チュンポン郵便所は鉄道郵便局的な性格が強く、為替・貯金業務は扱わなかった。この消印がそれを示している」とでも言いたかったのでしょう。

「鉄道郵便」印とは、基本的に郵便車(室)に乗務する専業の鉄道郵便係員が車中で扱った郵便物であることを示すために使う日付印を指します。そして、車中取扱いは、積み込まれた郵袋の開嚢区分や再区分、および鉄道駅構内や列車乗客から直接差し出された郵便物を処理する場合に行われます。積み卸し局での負担軽減と結果としての速達が主目的です。

鉄道郵便係員が為替・貯金を扱うことは技術的な常識から検討されたことさえなく、日本郵便史上で実際にも扱われた事実がありません。つまり鉄道郵便と為替貯金業務は初めから無関係です。「鉄道郵便」印から為替・貯金取扱いの有無を論ずること自体が無意味です。

Kla-2.jpg右図は楕円形「クラ線/鉄道郵便」印の一部が料額印面左下部に押されたはがき(M氏展示品コピー=土屋理義氏提供)です。土屋氏によると、現存1点の「使用例」です。

根本的な問題は、土屋氏が列車(クラ線)で運ばれた郵便物にチュンポン郵便所がこの日付印を押して引き受けた、つまりこの消印はチュンポン郵便所で使われたと明記している点です。なぜ「チュンポン」印でなく「鉄道郵便」印が押されたのか、と土屋氏は考えなかったのでしょうか。郵趣家としてごく初歩的な疑問ではないかとGANは思うのですが。

これは鉄道郵便というものを知らない「トンデモ見解」というほかありません。鉄道郵便印の印顆は鉄道郵便係員しか携行せず、チュンポン郵便所のような定置局にはありません。チュンポン郵便所がこのような日付印を郵便物に押すことも当然ないのです。

前述したように、鉄道郵便印はまず郵便車が運行され、その車中で係員が郵便物を取り扱うことが前提です。かりに一般の貨車に積まれた郵袋がチュンポン郵便所に持ち込まれても、押されるのはチュンポン郵便所の印であり、鉄道郵便印ではありません。

ところがクラ線では郵便車を運行した事実自体がありません。日本軍は仏印−タイ−マライを直通する長距離列車も運用し郵便逓送にも利用していました。しかし、それらの本線を含む一切の日本軍支配下の鉄道で車中取扱いはしませんでした。戦時下で郵便物が制限され、サービスする人的、資源的な余裕もなかったからでしょう。

クラ線は郵便需要の低い行き止まりの「盲腸線」で、わずかな本数の軍用貨物列車しか走りませんでした。日本軍の全占領地中、唯一この路線だけに郵便車を持ち込んで車中取扱いをする理由などありません。クラ線の鉄道郵便などなく、「クラ線鉄道郵便」と称するものはすべて空中楼閣的な意味でのニセモノです。

蛇足になりますが、先に示した円形印や楕円形印にあるNOVやDECのように日付を欧文で表示することは日本郵便史上の知見に反します。マライ・スマトラ占領地の軍政に当たった第25軍は、1942年11月5日以降、すべての通信日付印から英字や欧文表示を追放するよう通牒を出しているからです(『富集団戦時月報(軍政関係)』昭和17年11月号)。1年も経った後で新調された日付印がこの通牒に従わなかった理由がありません。架空印です。

目の前に現れた珍奇なアイテムに飛びついて無批判に受け入れるから、こういう郵便史上の誤り、というより文字通りの「無知」を曝す結果を招きます。すでに「戦後70年」も経過しました。日本人南方専門家の方々は外国文献に依存しない独自の郵便史的知見をどれだけ積み上げることができたでしょうか。それが見えません。
posted by GANさん at 01:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 太平洋戦区 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月11日

山東最終部隊の軍事切手

軍事切手-1.jpg第1次大戦後、中国山東省駐屯の青島守備軍の兵士が軍事切手を使って発信した封書です。11月6日のフロア落札品3点目です。

軍事切手は田沢旧毛紙広幅加刷で、青島局が大正11(1922)年11月24日に引き受けています。裏面発信軍事切手-2.jpgアドレスの「青守歩三ノ一」は「青島守備歩兵第3大隊第1中隊」を表します。

日本は第1次大戦でドイツに宣戦し、山東省の膠州湾ドイツ租借地とドイツ資本の膠済鉄道(山東鉄道)を占領しました。ドイツ権益「横取り」が狙いです。鉄道沿線の守備と占領地の軍政のため歩兵4個大隊の兵力の青島守備軍を開設しました。

1919(大正8)年6月にベルサイユ講和条約が締結されると、逓信省は「戦争は終わった」と青島守備軍に山東での軍事郵便の廃止を求めます。守備軍とその後ろ盾の陸軍省は廃止に強く抵抗し、日露戦争後の満州などの守備隊との間で起きたときと同じ紛争が再燃しました。

軍部には初めから理がなく、結局は逓信省が押し切って無料軍事郵便は1921年3月限りで廃止されます。以後は軍事切手制度(1人毎月2枚支給)に切り替えることになりました。この切り替え時に軍事切手が届かず、現地で臨時の「青島軍事」切手が生まれた事情はよく知られています。

ところで日本の思惑は大きくはずれました。日本の山東領有に対して中国はもちろんアメリカなど連合諸国が強く反対したのです。講和会議で日本代表は孤立し、全面放棄を約束させられてしまいます。最終的には1922年2月のワシントン会議で締結された「中国に関する9ヵ国条約」で中国への返還が確定しました。

これを受け、青島守備軍は22年4月から兵力の大幅縮小を始めます。主力部隊の青島守備歩兵隊は4個大隊のうち3個大隊が5月までに解散されました。第3大隊だけ残りますが、これも22年12月15日に解散し、17日までに全兵力の撤退が完了しました。

郵便機関は部隊の撤退より少し早く、12月10日に全局が廃止されました。結局、山東地区で軍事切手が使用されたのは1年8ヵ月ほどの短期間でした。従って、この封書は最後まで残留した第3大隊の兵士が撤退の約3週間前に発信した最末期使用例となります。

一方、海軍は陸上の小部隊・臨時青島防備隊を開設していましたが、22年3月に撤退しました。防備隊にも軍事切手が交付されたはずですが、使用例の報告はありません。要員が100人単位と少ない上に使用期間が1年間しかないので、残存数は陸軍よりさらに希と思われます。
posted by GANさん at 22:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍事郵便(陸軍) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月09日

日露戦の海軍軍事小包

小包.jpg11月6日のフロア落札品2点目です。一見してありふれた小包送票ですが、中央部に「軍事」と大きめに墨書されています。このわずか2文字が、マテリアルの「肝」です。

小包送票には菊10銭ペアが貼られ、美濃・神戸(ごうど)局の明治38(1905)年6月6日の引受印が押されています。佐世保に宛てて送られた470匁(約1.7s)の小包に貼られていたものです。

小包送票は普通、貼られている包装紙ごと処分されて残らないものです。この受取人はよほど几帳面な人だったのでしょうか、丁寧にはがして保存していました。おかげで、1世紀をはるかに超えた今日に伝わったのです。

なぜ「軍事」か、送票の右側2行目下部の「配達局」欄に書かれた「佐世保」が物語っています。佐世保局は日露戦争中、海軍軍事郵便の集中局であり、直接交換局でした。小包は海軍軍人に宛てた軍事小包郵便だったのに違いありません。わずかな紙切れですが、現物が残りにくい軍事小包の実在を裏付ける好資料と思います。

しかも、小包の引受日は日本聯合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃滅した日本海海戦からちょうど1週間後です。戦争の帰趨をも決する劇的な勝利に大喜びした差出人が、海軍に従軍している家族か友人に宛てて祝福と激励の心を込めた品物を送ったのではないでしょうか。

軍事小包郵便は開戦直後の1904年4月6日から取扱いが始まりました。しかし、適用されたのは内地から海軍艦船・チャーター船の乗組員宛てに限られました。陸軍宛ては内地への凱旋・帰還が始まりかける頃まで認められませんでした(一部例外はあります)。自前の船舶で輸送できる海軍だからこその特権でした。

この送票に貼られている20銭は、当時の「400匁以上600匁以下」の郵便市外小包料金に相当します。つまり、岐阜県神戸局から長崎県佐世保局の間の料金です。しかし、それから先、受取人がいる海上の艦船までの料金は、いわば「不足」の形ではないでしょうか。

これは、海軍の船舶が輸送するので海上料金は無料という理由から、海軍艦船宛ての特別料金(サーチャージ=割増金)は徴収されなかったのだとGANは考えます。一方の陸軍では満州や朝鮮の兵士宛ての軍事小包郵便がようやく05年12月から開始されましたが、内地料金より割高の日清・日韓小包料金が適用されています。
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2016年11月06日

朝鮮・会寧局の異型印

会寧.jpg日露戦勝記念1.5銭を貼った絵はがきです。朝鮮(韓国)の北東端、咸鏡北道の会寧局が櫛型印で引受け、同じ道内の輸城局が丸一印で配達しています。

東京で開かれていたJAPEX最終日の11月6日に、同じ会場であった大手ディーラーのフロアオークションで落とした内の1点。まだ湯気の立っているホヤホヤ品です。

発・受信者は共に元韓国駐箚軍東部兵站監部郵便部の同僚(野戦局員)だったことが別の資料から分かっています。韓国駐箚軍東部の管轄地だった咸鏡北道の城津以北地区は、明治38(1905)年10月末に全野戦局が撤廃され、普通郵便局所に引き継がれました。

朝鮮の野戦局は基本的には38年9月末までに閉鎖され、普通局に引き継がれたのですが、この地区だけは1、2ヵ月遅れました。ロシア国境に接しているためロシア軍に占領され、日本軍の回収が遅れたからです。城津局はロシア軍部隊に侵攻された1904年4月に臨時閉鎖に追い込まれ、翌05年8月まで再開できませんでした。会寧も輸城もロシア軍の占領区域内でした。

このはがきで会寧局の櫛型印は明治39年6月15日、輸城局(正確には共に城津局の出張所ですが、以後も「局」と表現します)の丸一印は2日後の17日です。とくに輸城局は半月前の6月1日に開設(郵便事務開始)したばかりでした。日付印の配備状況を調べる好資料になると思います。

ここで会寧局の櫛型印がとても異様なのが目立ちます。A欄の局名が印の上方弧線に沿って右書きで並ぶべきところ、逆向きになっています。C欄には本来は時刻活字が入るべきなのに、A欄と同じ逆向き局名です。これは、もともと郵便でなく電信用に作られた日付印の下部印体(C.E欄)です。それを郵便用に流用したために異型な印影となりました。

朝鮮では各地に軍の電信部隊である軍用通信所が多数開設されました。主要地では開戦初期の1904(明治37)年4月から有料で公衆電報も扱いました。朝鮮内に開設される日本普通局は当初から電信(電報)を扱いましたが、未通地区では軍用通信所から移管されて公衆電報を始めています。

城津以北地区では、野戦局や軍用通信所から普通局への切り替えが遅れ、ほとんどが開局後に電信事務を引き継いでいます。切り替えを急ぐ余り、軍用通信所の名前だけ普通局に変え、郵便を扱わず電信専用局として開設された例もあります。会寧では06年3月31日限りで軍用通信所が廃止され、公衆電報事務は4月1日から会寧局が引き継ぎました。

これらの普通局で丸一印を使っている間は問題なかったのですが、櫛型印が導入され始めると混乱が起きました。上述してきた地域的な特殊事情が重なり、局名活字(上部印体)や時刻活字(下部印体)の調製が遅れて付属していないまま櫛型印の印顆だけ届く、という局が続出したのです。

兼二浦.jpgやむなく軍用通信所時代の日付印の局名活字を郵便印に流用して一時しのぎとしました。ところが、その電信印は、A欄「韓」、B欄日付、C欄局所名、D・E欄櫛歯という形式です(左図はその一例)。郵便印では局名はA欄で表示するので文字の並びが上方に凸型なのに、電信印ではC欄なので逆に上方に凹型です。C欄用の局名活字をA欄にはめ込むと、局名が日付と逆向きになってしまいました。

−−前説が長くなり過ぎましたが、会寧局で異型印が使われた背景には、このような複雑な事情があったとGANは考えています。誤って使ってしまったのではなく、正規の形式でないことを承知で敢えて使い続けたという意味で、これはエラー印とは言えません。

会寧局と似た異型印の例は清津、茂山、北青、甲山、長津、堤川の各局でも見られます。ただし、これら咸鏡北道とは無縁の京城西大門や漢江坊、虎島などの局所にも異型印の郵便使用例があります。軍用通信所での丸一印から櫛型印(A欄「韓」、C欄所名)への切り替え時期なども含め、さらに考察が必要です。
posted by GANさん at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 植民地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする