2017年02月01日

大連局でない「大連」印

大連1.jpg支那字入り菊3銭切手が貼られ、「満・大連39.10.13」の日付印で抹消されている書状です。日露戦後の満州で明治39(1906)年9月に軍政廃止、民政移行によって開設された大連局が引き受けた最初期の郵便−−。

素直に見れば、だれでもそういう説明を付けたくなるところです。しかし、これは郵便史的には大きな間違いとなります。なぜか。

民政移管によって関東都督府が発足し、同時に郵便業務全般を管理する関東都督府郵便電信局が06年9月1日に大連で開設されます。従来の野戦局と電信専業の軍用通信所55局所は一律にその支局として改編され、再発足しました。

ところが、旧大連野戦局と大連通信所が統合されてできたのは都督府郵便電信局で、「大連支局」ではありませんでした。この封書が発信された10月13日の時点では「大連局」を名乗れる郵便局は存在していなかったのです(東大連支局は別の局所です)。

この間、大連市内での郵便事務を取り扱っていたのは都督府郵便電信局本局でした。正確には本局の中の通信課郵便掛の担当です。監督官庁が現業事務も兼務したことになります。そんな事情から、後に大連支局が正式に発足すると、通信課長(兼規画課長)の樋野得三が支局長も兼務しています。

これ自体は珍しいことではなく、さかのぼれば、郵便創業当初の「東京局」も駅逓寮の一部門(発着課)でした。満州と同時期で言えば、樺太でも樺太庁郵便電信局発足当時はコルサコフ(大泊)の郵便電信局本局がやはり現業も兼務しています。丸二型「樺太庁/郵便電信局」の日付印が使われたことでよく知られています。

樺太と違い満州では「大連支局」を仮想表示しましたが、やはりムリ筋です。いろいろな矛盾も露呈してきたのでしょう。3ヵ月以上も経った12月10日に、改めて独立現業局としての大連支局を正式に開設しました。郵便印も本局時代と同じものを使いました。従って、同じ「満・大連」櫛型印でも39年9月1日から12月9日までは本局(都督府郵便電信局通信課)の消印であり、大連局(大連支局)のものではない、が結論です。

本局.jpgこれに関連して、未解明の問題があります。正式な大連支局開設後に櫛型「満・大連本局」、丸二型「都督府局(朱色)」という単片上の印影の存在が知られています(左図)。前者は形式から明らかに通信日付印ですが、使用状況が分かりません。後者はどうも料金納付事務などの再確認印のようです。

『関東逓信三十年史』(満州逓信協会、1936年)には「管理事務に限り大連本局にて之を処理したるも……」という断片的な記述(pp.89-90)が見られます。郵便切手に日付印を押すような「管理事務」など果たしてあるのか。または、これらの印影はこの記事とはまったく無関係か。−−判断するにはまだ資料不足です。この印影の問題については後考に俟ちたいと思います。
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2017年01月31日

大阪−東京を4日で飛行

行違遅延1.jpg航空郵便の夜明け前、大正11(1922)年11月に航空普及を図る民間団体の帝国飛行協会が開催した「東京大阪間郵便飛行競技」で運ばれたはがきです。ネットオークションで落とし、つい数日前に到着しました。

この飛行競技の実施状況については園山精助氏の好著『日本航空郵便物語』(1986年)に詳しく載っています。以下、園山氏に全面的に依拠して記述します。

当時はまだ航空機による郵便物の定期輸送はありません。イベントとして開かれる各地での飛行大会などで試験的に委託輸送される程度の段階でした。

帝国飛行協会は郵便の大動脈である東京−大阪間で将来郵便の定期航空を構想していました。まず航空路を開拓し、確実・安定的に定期飛行するためのテストフライトとしてこの競技を企画したのです。郵便飛行を競うイベントは1919(大正8)年以来これが5回目で、最大で最後ともなりました。。

内容は、民間飛行士を募り、数日間にわたって東京・代々木練兵場と大阪・城東練兵場とを互いに発着して所定コース(東京−三島−豊橋−四日市−大阪)を無着陸で飛び、航路の確実さや速さを競う、というものです。14人の飛行士が自分の飛行機ごと、あるいは航空当局提供の機体を借りてエントリーしました。

競技は11月3日から11日の間に延べ7日、27回のフライトが実施されました。うち7回が不時着で、大部分は機体大破で終わっています。優勝者の飛行時間は上り3時間31分、下り2時間54分でした。全フライトを合計して大阪方面に3,612通、東京方面に6,420通の郵便物が輸送されました。

さて、このはがきですが、私製はがきに第2種料金として田沢1.5銭切手が貼られ、大阪天満局で11月4日夜の10−12時に引き受けられています。航空輸送による特別料金の加算はありません。はがき表面左端には赤インクで「飛行郵便」の書き込みがあり、郵便飛行競技に参加した郵便物であることを示しています。

ところが、このはがきは翌5日のフライトに間に合いませんでした。城東練兵場への引き渡し局である大阪中央局で「行違ノ為メ送達方遅延ス」の付箋が貼られ、5日午前10−11時の日付印が押されています。天満局か中央局のどちらかで取扱ミスがあったのでしょう。午前9時28分に出発した島田機に積み遅れてしまいました。

このはがきは練兵場で1日を空費して6日午前8時40分出発の安岡機に搭載されたはずです。災難はさらに続きました。安岡機は半ばも飛ばないうちに油送管が故障し、豊橋に不時着してしまったのです。安岡飛行士はやむなく搭載郵便物を豊橋局に引き渡し、このはがきも汽車便に仕立てられて東海道線を上ったと思われます。

結局、東京中央局への到着は7日早朝の午前0−7時となりました(あるいは6日深夜かも知れません)。それでも青山の名宛人に7日お昼前には配達されたはずです。大阪から足かけ4日がかりで届いた「飛行郵便」はがきは、さぞ驚かれたことでしょう。

−−1通のはがきに押された3個の日付印が以上のようなストーリーの存在を推定させています。日本で最初の飛行機が飛んでからわずか12年。機体製造も操縦技術もまだまだ手探りだった時代に、最速の手段で郵便輸送を試みた人たちの悪戦苦闘ぶりがしのばれます。
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2017年01月30日

懲りないニセ乃木書翰

fg1.png明治から昭和までの3代を通じて、乃木将軍は恐らく日本人が最も好きな軍人なのでしょう。「これでもか」とばかりにニセの乃木書翰が出現し、出回っています。ヤフオクでは出品が途切れる間がないと言っても過言ではありません。偽造封筒を添えたばかりに足が付いた最近の2例をご紹介します。

右図は北海道の古書店が入手したという「乃木書翰」です。共同通信が「乃木希典の直筆手紙発見」とさも大ニュースのような記事にして配信し、1月14日付日本経済新聞などに掲載されました。子息の戦死や後継者に関する、素人受けぴったりの「極めて興味深い」内容だそうですが、そちらは置いておきます。

封筒は菊10銭切手を貼って書留扱いとなっています。小さな荒れた写真しかないので引受印の局名などは不明です。将軍が自宅から出した真正の書翰はすべて赤坂局引受になっています。それなのにこの封筒の書留ラベルが「小石川」なのはおかしい。引受印の局名がもし「赤坂」ならニセは決定的です。

fg1a.pngここでは裏面の付箋をはがした跡にわざわざタイするように押されている消印に注目しました。無理した拡大図をに示します。一見してB欄日付部の桁線とD、E欄櫛型の痕跡すらないのが、まず異様です。

局名は「赤坂」とも「広島」とも読めそうな不鮮明さですが、日付活字の「43.7.8」だけはどうにか分かります。ところが、これが箸にも棒にもかからないフォントを使ったゴム製の不出来な偽造印なのです。

赤坂局にせよ広島局にせよ、櫛型印の時刻活字は数字の直前にピリオドを配置する「前点式」のはずですが、「8」の日活字の直前にピリオドはなく、月活字「7」との中間というあいまいな位置にあります。「7」の前のピリオドも同様です。数字活字に付属して一体となっているのではなく、異様に大きな「ピリオド活字」として独立していることが明らかです。

かくして、消印がニセモノ。→もし書翰がホンモノだったらニセ消印をわざわざ作ってニセ封筒まで添える必要はない。→故に、書翰もニセモノ、という三段論法でアウトになります。余計な封筒を偽造しなかったらこの書状はあいまいなまま通っていたかも知れません。「雉も鳴かずば撃たれまいに」の類いの話です。

fg2.png一方、左図は1月31日締め切りのヤフオクに「軍神乃木希典書簡封書軸装」として出品されているものです。両方の封筒の将軍自筆のサインにご注目下さい。同一人の手蹟なのに、これほど違うのはなぜか。両方とも同じ理屈で真っ赤なニセモノだからです。

こちらの封筒では表面の菊3銭切手が赤坂局の日付印で引き受けられています。着印がないところが不自然です。ところで、この極めて明瞭な引受印がまったくいけません。

に示すように、外郭リングが異常に太かったり、「赤坂」の局名活字に「太教科書体」という実在しない異様なフォントが使われているのが、まずダメです。C欄時間帯の「后0−8」はあり得ない刻みで、これは偽造印として致命的な証拠です。

fg2a.pngこの当時、赤坂局を含む東京市内局の時間帯刻みは1時間ごとでした。しかも、櫛型印にはX、Y、Z型の全形式を通じて「后0−8」などという荒っぽい刻みはありません。せいぜい「后0−3」(Y3型)、「后0−4」(Z型)があるぐらいです。

従ってこちらも、消印がニセモノ→封筒が偽造→故に書翰本体もニセモノ、という理屈を累積する結果となりました。もっとも、出品者は商品説明の中で「当方では肉筆の保証できますが、真筆の保証は致しかねます。」とわざわざ断っています。

これを「多少の良心はある」と解すべきなのか、あるいは偽造を承知の巧妙な逃げ口上か。いずれにせよ、2通の書翰は「乃木人気」が世紀を超えてなお盛んな証拠、とは言えそうです。
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2017年01月29日

満鉄駅の電信取扱所

五竜背1.jpg湯山城1.jpg高麗門1.jpg張臺子1.jpg萬家嶺1.jpg得利寺1.jpg五龍背、湯山城、高麗門、張臺子、萬家嶺、得利寺……。聞き慣れない局名ですが、これらは郵便印ではなく、満州の電信専業局所の一種、鉄道停車場電信取扱所の日付印です。大正5(1916)年7、8月ごろ南満州鉄道(満鉄)の支線、安奉線を利用した旅行者が各駅で記念押印したもののようです。

関東都督府通信管理局(関東逓信局の前身)は満鉄と協定を結び、明治42(1909)年8月1日から満鉄本社構内と遼陽、大連、奉天など主要12駅に電信取扱所を設置して公衆電報の取扱いを開始しました。(外務省外交史料館蔵『関東都督府政況報告並雑報』明治42年7−9月期による)

満鉄線路沿いに架設されている鉄道専用電信を一般電信線に接続して旅客の利用に供しました。専任職員は置かず、駅員の兼務です。内地で既に実施されている方式にならったものでした。その後も観光地の駅や安奉線の駅にも増設を続け、明治期末に取扱所は24駅に開設されていました。

満鉄構内.jpg大連駅.jpg鉄道停車場電信取扱所の開設当初、日付印はA欄「満」、C欄駅名という形式でした。満鉄構内と大連の印影が知られています(右図)。

この記事の最初に示したようなA欄駅名、C欄「電信取扱所」という形式には大正初年に切り替わったのでしょう。荒井国太郎氏の諸論考や穂坂尚徳氏の労作『在中国局の和文印』にもこの形式はなく、これまで未発表だったようです

これらの電信取扱所印は電報ョ信紙に貼られた料金相当切手の抹消印や駅構内限りで配達される電報送達紙に配達印として押されたはずです。しかし、いずれもエンタイアとしては未発表で、使用状況の実態は分かっていません。

この時期の満鉄駅委託の通信業務というと、もう一つ関連して未解明な問題があります。前記『政況報告』の明治41年1−3月期報告書によると、同年1月16日から「鉄道停車場郵便取扱所」なるものが開設されています。本線では臭水子、南関嶺、三十里堡、得利寺など13駅、安奉線では陳相、渾河、橋頭、孟家など12駅で、いずれも付近に郵便局のない不便地です。

「沿線居留民ノ増加ニ伴ヒ、之ガ(従来の鉄道郵便係員による)取扱ヲ拡張シ」、満鉄と交渉して駅員や一般民間人の便宜のためにこれら各駅で「郵便物ノ引受及留置交付ノ取扱ヲ為サシム」と記述されています。電信取扱所の設置以前に郵便取扱所という先行事例があったことになります。

この郵便取扱所が郵便物の引受に果たして独自の日付印を使ったのか、この種取扱いがいつまで続いたのか。−−詳細は不明で、新たな資料の発掘が望まれます。停車場郵便取扱所が扱った、例えば「臭水子駅留置」などと肩書きしたエンタイアもあるはずです。その出現も併せて将来に期待したいと思います。

訂正】この記事の第5段落末尾で「これまで未発表だったようです。」としたのは誤りだったので削除します。委細はこの記事のコメント欄をご参照下さい。
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2017年01月28日

関特演で動員の両師団

基.jpg奥.jpg「関特演」とは「関東軍特種演習」の略称です。1941(昭和16)年7月に始まった独ソ戦に便乗してソ連に侵攻する目的で満州の関東軍兵力を倍増した大動員をいいます。秘匿のため「演習」の名目が使われました。この侵攻計画は結局、独ソ戦が膠着に陥って中止されます。(本ブログ2016年5月31日付記事参照)

関特演で内地から2個師団が動員され、満州に派遣されました。この2枚のはがきは動員された第51師団(宇都宮)と第57師団(弘前)の兵士が故郷に宛てて発信したものです。最近のネットオークションで入手しました。共に「満洲国」の官葉が台はがきとして使われていますが、偶然です。

左のはがきの発信アドレスは「満州基第2805部隊」とあります。「基」は「通称符」と呼ばれる一種の暗号で51師団を、また「第2805部隊」は捜索第51連隊を表します。51師団は41年8月22日に満洲国西南部の綏中に着いた後、太平洋戦争開戦準備のため9月23日に華南に向け転進しています。満州に駐屯したこのわずか1ヵ月間に発信されたことが分かります。

右のはがきのアドレス「満州奥第7221部隊」の「奥」は57師団の、「第7221部隊」は野砲兵第57連隊の意味です。この師団は黒竜江を隔てたソ連北正面第一線の黒河周辺に配備されました。野砲57連隊の駐屯地は山神府でした。軍事郵便には珍しく「(昭和)16.9.30」と発信日付が明記されています。

アドレスの「基第2805部隊」や「奥第7221部隊」といった表記は陸軍用語で「通称号」と呼ばれ、正式な部隊名や部隊行動を秘匿するため太平洋戦争期に全面的に使われました。その軍事郵便での使用開始がこの関特演だとGANは考えています。つまり、これらのはがきは通称号使用例の第1号なのです。

関東軍は基本的には通称符を採用せず、「満州第○○部隊」と数字2、3桁の部隊番号だけで通しました。しかし、関特演で動員した部隊に限っては、いわば例外的に通称符を使いました。部隊名秘匿の度合いを強化したつもりだったと思われます。結果的に、関東軍の実際の軍事郵便で通称符が使われている例はわずかです。

動員された両師団はその後、大きく明暗を分けます。51師団はソ連侵攻計画中止によって華南に転用され、1年後に更にラバウルに再転用されます。ニューギニア戦線に向かった直後の43年3月に「ダンピールの悲劇」と呼ばれる輸送船団壊滅(ビスマルク海海戦)で大部分が海没し、生存者も悲惨な飢餓の中で敗走を重ねて全滅状態で敗戦を迎えました。

一方の57師団各部隊は山神府、泰安など黒竜江南岸に展開して平穏な駐屯を3年半続けた後、「本土決戦部隊」として45年4月に内地に転用されました。福岡県北岸で防衛陣地構築中、無傷のまま敗戦となります。満州駐屯を続けていたら、8月のソ連軍侵攻による第一撃で全滅を免れなかったでしょう。そのわずか4ヵ月前の離脱が命拾いになりました。
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2016年12月26日

占領下アモイでの電報局

KULANGSU.jpg欧文電報の受取証兼電報料金受領証です。KULANGSU局1939年10月5日の日付印で上海宛て電報を発信したことが証明されています。つい最近の東京の大手オークションで入手しました。

KULANGSUとはどこか。台湾型の欧文印が押されていますが、もちろん台湾ではありません。その対岸に当たる中国福建省厦門(アモイ)の鼓浪嶼。受領証は鼓浪嶼電報局で発給したものです。

厦門は1841年のアヘン戦争で勝ったイギリスが上海などと共に開港させ、中国侵略の第一歩とした地として知られます。厦門自体が島ですが、鼓浪嶼は本島の南西部と狭い水道で隔てられた小島です。鼓浪嶼には日本を含む列強の共同租界や領事館が設置され、植民地的な隆盛を誇りました。

現地の福建南部語で鼓浪嶼を「コーロンスー」に近く発音することから、郵便地名としてはKULANGSU(クーランスー)の表記が定着しているようです。日本人は戦前から「コロンス」と呼んでいました。

ちなみに、1922(大正11)年末の在外局廃止時まで存続した厦門日本局はコロンスにあり、本島側には水仙宮分室が置かれました。日付印「AMOY」を使ったのはコロンス本局で、分室は「AMOY 2」を使って区別しました。分室の方は条約に基づかないで開設された、いわゆる秘密局です。

この受領証は上海宛て欧文電報をョ信したことを証明しており、料金は日本通貨で「1円25銭」と表示されています。発・受信人は共に「oversea」とあります。この語を含む企業など固有名詞の略称なのか、単に「海外」を表すのか、よく分かりません。上海は海外ではないので、あるいは前者が正しいのかも知れません。

日中戦争で日本海軍は厦門を東シナ海制圧拠点の一つとして重視しました。1938(昭和13)年5月10日に陸戦隊が占領し、特別根拠地隊を開設しています。陸軍は厦門占領には基本的に関与しませんでした。陸上「援蒋ルート」の封鎖は陸軍、沿岸部は海軍の役割だからです。

海軍は厦門地区の郵便・電信業務も接収し、厦門と関係の深い台湾総督府交通局逓信部に復旧を要請しました。台湾当局は要員を派遣して7月1日に厦門での郵便を再開させます。7月25日に厦門郵局を中国郵政に移管するまでの間は台湾局の出張事務という形式で取扱いました。郵便は基隆局、為替貯金には台北局の名義を使っています。

電信電話業務は郵便より早く、厦門電話局5月30日、厦門電報局6月11日、鼓浪嶼電報局は7月1日に再開しています。この電報受領証には左欄外に小さく「昭和十三年四月新民報社納」と印刷されています。台湾の新聞社で印刷させた最新の式紙を持ち込んで使ったと見られます。

郵便とは違って、厦門、鼓浪嶼の電信電話業務は終戦時まで海軍が管理を続けました。日本海軍が華南で台湾逓信当局と組んで復旧・再開させた電信電話事業は、ほかに広東と海口(海南島)でも同様に行っています。

上記の事実関係は、主として国立公文書館所蔵の旧郵政省文書のうち「南支皇軍占拠地ニ於ケル電政施設ノ概要」、「厦門通信施設ニ関スル件」によりました。いずれもアジア歴史資料センターを通じてネットで検索、ダウンロードできます。
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2016年12月14日

華北郵政に貯金を委託

北ほ02.jpg北ほ01.jpg
日本軍占領下の中国・青島郵局が在留日本人のためだけに特別に取り扱った貯金通帳です。最近の関西大手オークションで入手しました。

通帳は日本内地と同じ表紙に巨樹を描いた内閣印刷局製の褐色大型で、下関貯金支局が発行しています。貯金記号「北ほ」は華北郵政総局管内の青島郵局に口座があることを表します。預入人の住所は「青島欧陽路2号」と書かれています。

北ほ03.png受払を証する日付印も日本と同じ櫛型貯金専用印で、A欄「青島」、C欄「北ほ」です。しかし、印色が極めて特殊で、通常の黒色ではなく朱色です。櫛型印時代では他に類例がありません。昭和18(1943)年4月1日から19年3月9日までほとんど毎月1回、1円ずつ預け入れられています。

中国局で中国人職員が扱っているのに、日付印の年号に民国年号(昭和18年=民国32年)を使わないのはなぜか。この通帳は日本逓信省が占領地の傀儡地方政権・中華民国臨時政府に業務委託をして1938(昭和13)年11月16日から始めた日本の郵便貯金だからです。

37年7月に日中戦争が始まると、日本軍は北京・天津地区を始め河北、山東省全域と山西、河南省の一部をたちまち占領しました。占領地に進出した日本人多数の「日本の郵便貯金に加入したい」という要望が理由とされます。中国郵政も儲匯(貯金・為替)業務を扱っていたので、二重制度になります。

ただ、上海にあった国民政府(蒋介石政権)郵政総局に対して、華北政権の華北郵政総局は半面独立・半面従属という態度でした。華北占領地で中国郵政に貯金すると、日本系貯金原資も国民政府の運営に委ねることになります。それを避ける思惑から、日本側は華北政権にこの我が侭な要求を受け入れさせた、という事情があったと思います。

38年10月19日に締結された逓信省と華北郵政総局との間の委託貯金基本協定書案が国立公文書館に残っています(「北支委託貯金 基本協定、細目打合、通知事項」)。

 1、北支記号通帳の預入・払戻事務を委託。貯金原簿は下関貯金支局で所管する。
 2、手続きは日本貯金法令に準拠。通帳・式紙類、法規文書は日本側が提供する。
 3、受払には華北流通の通貨を使い、通帳には日本通貨で金額表示する。
 4、華北通貨と日本通貨の交換レートは両者が協議して決定する。
 5、受払1口につき10銭の取扱手数料を華北側に支払う。
 6、日付印類は印影を日本側が提供し、華北側が調製。通帳には朱肉で押印する。
 7、利用者への責任は日本逓信省が負う。

この「北支委託貯金」の取扱局は当初は、北京(北い)、天津(北ろ)、済南(北は)、太原(北に)、青島(北ほ)、石家荘(北と)の6局だけでした。次第に増加し、5年後の43年11月1日現在では河北、山東、山西、河南、江蘇の各省で合計24局になっています(『大東亜為替貯金取扱局便覧)。』

協定書や前後の往復文書には「日付印は日本年号を使う」という取り決めはありません。しかし、利用者が原則として日本人に限られたことに加え、日付印の版下を日本側が用意したことからそうなったのでしょう。中国局で「昭和」年号の日付印を使用−−。通帳1通が日本の占領郵政を象徴していると思います。

関連して、華北占領地で日本郵政が中国側に委託した業務としては、他に口座間送金業務の郵便振替(1941年10月1日開始)があります。為替関係では事務委託はなく、通常・電信・小為替とも中国業務として日本業務との間で取り組まれました。


さらに蛇足を付け加えます。使用済みの行政書類は国立公文書館移管が法律で義務づけられています。が、実際には郵政省関係では貯金局が所管した為替貯金資料があるだけです。それだけでも大変ありがたいことですが、残存は何かの偶然で、意図した結果とはとても思えません。その証拠に、郵便行政の本流である郵務局作成の資料が公文書館にはゼロなのです。

旧逓信省は関東大震災で全焼し、すべての書類を失いました。それでも努力して収集・復元に努めた結果、震災前も含めてかなりの量の資料が現在の郵政博物館に保管されています。これに対し、戦中・戦後の80年間だけでも膨大な分量にのぼったはずの行政書類はすべて廃棄されてしまいました。戦後から現在に至る郵政官僚たちの無能(歴史認識の欠如)と国民に対する無責任を象徴しています。
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2016年12月08日

戦地の病院船へ電報

神戸丸送達紙.jpg日露戦争中の病院船「神戸丸」に収容されていた戦傷者に宛てた電報送達紙と、それを郵送した電報送達の専用封筒です。ごく最近のネットオークションで入手し、到着したばかりです。

神戸丸は日本郵船の貨客船(2,901トン)で、1940年代の日華連絡船とは同名異船です。日露開戦直前の1904(明治37)年1月に海軍省にチャーターされました。開戦と同時にジュネーブ条約に基づく病院船として、僚船西京丸と共にロシア側に通告されています。

聯合艦隊に付属船として編入され、特務艦隊に属しました。詳細な行動記録は見当神戸丸封.jpgたりませんが、単独で佐世保軍港と戦地との往復を繰り返していたようです。05年夏には陸軍の樺太攻略部隊輸送と支援のため編成された北遣艦隊に随伴したことが分かっています。

この電報ですが、明治37年11月9日に北見紋別局から発信されています。宛先アドレスは「在戦地 病院船神戸丸 第1病室」とあります。電文は「名誉ノ怪我、今ノ様子イカガ」です。発・受信者が同姓なので、親が我が子の戦傷を心配して一刻も早く症状を知ろうと打電したのかも知れません。

同日中に門司局に着信しましたが、神戸丸が門司港に入港しているわけではありません。ただちに専用封筒に「従門司郵便/電信局郵便(門司郵便電信局より郵便)」の印を押し、電信事務として「戦地」に郵送されました。

ところが、名宛人の負傷兵がこの電報を実際に手にしたのは12月11日でした。電報に本人による朱筆の書き込みがあることで分かります。この電報は神戸丸の行方を追跡して1ヵ月もかかってしまったようです。これでは電報としての用をなさず、郵便にしても結果は同じだった可能性があります。

封筒表面下部に12月10日の到着印が押されていますが、残念ながら不鮮明で局名が読めません。ただ、丸一印が使われているので、神戸丸はこの12月当時、「戦地」を後に朝鮮か内地の港湾に入港中だったと推定できます。大連や旅順など戦地の野戦局は丸二型印を使ったからです。

この電報で興味が持たれるのは、「戦地」宛てョ信を、紋別局はなぜ門司局に宛て送信したか、です。海軍関係で戦地との間の郵便なら、佐世保が交換局でした。電信の交換(中継)局は門司局と決まっていたのでしょうか。陸軍宛て電報だったら門司局は野戦局に郵送したのか。調べる余地はまだまだありそうです。
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2016年11月30日

保定出張取扱いの郵便

保定.jpg北京局明治42(1909)年8月2日の和文櫛型印で引き受けられたはがきです。この当時の在中国局は郵便物の引受けに「I.J.P.O.」の欧文印を使っていたので、和文印は異常な使用例と言えます。また、C欄が★3個で、さらに異常です。局内事務用印の誤使用でしょうか。

結論から先に言ってしまうと、これは誤用やエラー印ではありません。北京局員が保定で出張取扱いをしたさい、北京本局と区別するために使った専用の引受印だとGANは考えています。

発信者のアドレス「保定府」がキモなのです。在中国局では主に満州方面での「秘密局」の存在が知られていますが、この出張取扱いも一種の秘密局と言ってよいでしょう。

これを保定出張取扱いの郵便印とする根拠は、北京局のこの和文櫛型印で引受けられている郵便物が、ことごとく保定発信だからです。データとしては、このほかに(明治)39.8.7、39.9.12、39.10.24があります。つい最近も39.7.25の封書が東京で大手のフロアオークションに出品され、たいへん良いお値段で落札されました(GANも参戦してみごと敗れました)。

北清事変の収束後、日本逓信当局は保定に北京局職員を派遣して郵便、為替、貯金の出張取扱いを始めます。開始は明治35(1902)年10月21日で、当初は毎月1回の「随時」出張でした。これは11月28日公達第710号として逓信公報に掲載されましたが、中国側とは了解も通告もない「無断措置」でした。出張回数は後に月2回に倍増されています。

保定は北京から京漢線沿いに南方130qにある河北省では省都級の大都市です。当時、日本人が進出した事情については興味があるところですが、GANはまだ調べていず、よく分かりません。それにしても北京に比べればかなり少ないはずで、恐らく100人にも達しなかったのではないかと思います。

この点についてはヒントとなる資料があります。開設2年後の1904年12月に日露戦役記念の第1回絵葉書が発売されると、北京本局で350組を売ったのに対し、保定では50組を売っています(旧逓博所蔵「戦役記念絵葉書発売の件」)。単純計算で北京の7分の1の数の日本人が保定にいた可能性があります。

ところが1910(明治43)年2月に日清郵便約定(郵便交換協定)が締結されると、約定の上で規定できない保定での郵便取扱いは違法となってしまいました。そこで当局は4月から清国郵政が扱わない価格表記、代金引換、現金取立郵便だけに業務を大幅縮小します。当時毎月10回にまで増えていた出張回数も2回に戻しました。為替、貯金業務は継続しましたが、事実上の撤退と言えます。

さらに1912(明治45)年になって、「在留邦人減少のため」として5月以降は保定出張取扱いを正式に廃止します。これらはすべて、逓信公報には登載せず、各逓信管理局から郵便局長限りに配布する「内牒」で通知されました。結局、保定出張取扱いでの書状、はがきの引受けは02年10月−10年3月の7年半だけだったことになります。

これまで「秘密局」というと、領事館内の1部を郵便事務専用に使うような固定常駐施設ばかりが注目されてきました。保定のような実例が新たに分かってくると、他にもあった出張取扱いでも本局と区別できる表示がされていないか、気になります。

この保定にしても、櫛型印導入以前の4年間ほどの出張取扱いではどうしていたのか、使用状況がよく分かっていない丸一「北京」印の郵便使用はこれと関係はないか−−。気がりは増すばかりです。
posted by GANさん at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日中郵便交換 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月22日

ニセモノ罹災、非常通信

44.png11.png11月22日夜締切りのヤフオクに関東大震災の「罹災通信」と台湾・霧社事件の「非常郵便」のニセモノが計4点(左図)出品されました。いずれもスタンプレスカバーで偽造品としては稚拙ですが、相場より1桁小さい額ですべて落札されました。

罹災通信は千住局大正12年9月11日印のはがきと神、33.png22.png田局9月13日印の封筒で共に同じ角枠黒色「罹災通信」印が押されています。

また、非常郵便は霧社局昭和5年12月12日印の絵はがきと同局11月15日印の封筒で、共に角枠赤色の「非常郵便」表示があります。「非常郵便」は印ではなく、角枠も含めペン書きです。

4点のうち千住の罹災通信は『JAPEX'93記念出版 関東大震災』掲載のエンタイア写真(p.23)を表裏共に模写したものです。ホンモノは「罹災通信」が赤橙色の孔版印刷ですが、こちらは黒印で「代用」しています。

ほかの3点は差出人が異なるのにすべて同一筆跡による同色(ブルーブラックか黒色、それと赤色)のペン字です。しかも封筒2通は、ステーショナリーとして同じもののようです。しかし、1点1点を遠目にすると、エンタイアとして良さそうには見えます。

千住印.pngこれら4点には不自然な「手書き」の多用が共通しています。日付印の外枠と日付活字の一部は実物印顆を流用しているようですが、局名、時刻帯を含むA・D欄(上部印体)、C・E欄(下部印体)すべてが手書きです(左図)。外枠と日付部の桁には墨入れもしています。年活字がないようで、「12」年は月日活字の流用、「5」年は手書きです。櫛歯まで手書きとはご苦労千万ですが、余りにも下手なのでバレバレです。

出品者は「身内の収集品です。ご自身の判断でご納得の上でのご入札を」と最初からエクスキューズを入れています。GANはさっそく日付印や筆跡について質問してみました。回答は「遺品整理品につき、正直詳しい入手経路など分かりかねます。」と確信犯お決まりの逃げ口上。後は何を質問しても頬被りのまま締切りに持ち込みました。

罹災通信や非常郵便の実際のコレクターはこれらに手を出さなかったでしょう。それでも落札した人は初心者でしょうか、はたまた、出品関係者か。いずれにせよ今回は質の低いforgery(模造品)でした。専門家をも欺いて横行する「空中楼閣的ニセモノ」よりはまだマシだったと言うべきかも知れません。
posted by GANさん at 23:35| Comment(3) | TrackBack(0) | 関東大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月17日

怪しいクラ線「鉄道郵便」

今年3月11日に「『泰緬鉄道郵便』の真実」と題する記事を載せたところ、意外に反響があることに驚きました。とても一般的とは言えないテーマなのに、本ブログでは珍しくほとんど毎日この記事が閲覧されています。意を強うして続編を記すことにしました。

泰緬鉄道郵便なるものが実在すると主張する南方専門家の人たちは、「クラ地峡横断鉄道(クラ線)でも泰緬鉄道と同じ性格の郵便が行われていた」と言っています。しかし、GANはこのクラ線の郵便も、泰緬鉄道郵便と同工異曲のニセモノと考えています。今回はそれについて考察します。

クラ線とは、マレー半島最狭部である南部タイのクラ地峡を東西に横断してタイ湾とアンダマン海とを直結する鉄道を言います。太平洋戦争中、日本軍がビルマへの軍需物資補給ルートとして泰緬鉄道と共に計画しました。1943年12月にタイ鉄道南部線のチュンポンを起点にカオファーチまで94キロを開通させています。

このクラ線で使われた郵便印として3種が発表されています。まず「クラ線/鉄道郵便」と表示された円形印と楕円形印で、共に西暦による欧米風の日付表示が異色です。それと「チュンポン/クラ線」と表示されて日本紀元(皇紀)の年号に月と日を手書きする、これも特異な二重丸印とがあります。

Kla.jpg
クラ線の郵便について日本語の文献としては、南方占領地切手の権威・土屋理義氏が『泰緬鉄道の「軍事郵便所」郵便』(日本郵趣協会、2005年)で言及しているだけのようです。土屋氏は11通のクラ線のエンタイアを実際に検証したとして、「クラ線/鉄道郵便」印について、次のように説明しています(上の図1は同書からの引用。クリックで鮮明な拡大図が得られます)。

−−「鉄道郵便」という表示から、チュンポン郵便所が扱う郵便は、為替送金や郵便貯金ではなく、鉄道郵便が主体であったと思われる。

短いにもかかわらずとても難解な文章です。その理由は筆者(土屋氏)の鉄道郵便についての根本的な認識不足、はっきり言うなら無知のせいだと思われます。強いて筆者の意図を忖度すればここは、「チュンポン郵便所は鉄道郵便局的な性格が強く、為替・貯金業務は扱わなかった。この消印がそれを示している」とでも言いたかったのでしょう。

「鉄道郵便」印とは、基本的に郵便車(室)に乗務する専業の鉄道郵便係員が車中で扱った郵便物であることを示すための日付印を指します。そして、一般的に車中取扱いは、郵便車に積み込まれる郵便物中に区分などが未処理の郵便物が多い場合、および鉄道駅近辺や列車乗客からの郵便発信が多い場合に行われます。積み卸し局での負担軽減が主目的です。

鉄道郵便係員が為替・貯金を扱うことは技術的な常識から検討されたことさえなく、日本郵便史上で実際にも扱われた事実がありません。つまり鉄道郵便と為替貯金業務は初めから無関係です。「鉄道郵便」印から為替・貯金取扱いの有無を論ずること自体が無意味です。

Kla-2.jpg右の図2は楕円形「クラ線/鉄道郵便」印の一部が料額印面左下に押されたはがき(M氏展示品コピー=土屋理義氏提供)です。土屋氏によると、現存1点の「使用例」です。

根本的な問題は、土屋氏が列車(クラ線)で運ばれた郵便物にチュンポン郵便所がこの日付印を押して引き受けた、つまりこの消印はチュンポン郵便所で使われたものと理解している点です。

これは鉄道郵便というものを知らない「トンデモ見解」というほかありません。鉄道郵便印の印顆は鉄道郵便係員しか携行せず、チュンポン郵便所のような定置局にはありません。チュンポン郵便所が郵便物に押すことも当然ないのです。

前述したように、鉄道郵便印はまず郵便車が運行され、その車中で係員が郵便物を取り扱うことが前提です。かりに一般の貨車に積まれた郵袋がチュンポン郵便所に持ち込まれても、押されるのはチュンポン郵便所の印であり、鉄道郵便印ではありません。

ところがクラ線では郵便車を運行した事実自体がありません。日本軍は仏印−タイ−マライを直通する長距離列車も運用し郵便逓送にも利用していました。しかし、それらの本線を含む一切の日本軍支配下の鉄道で車中取扱いはしませんでした。戦時下で郵便物が制限され、サービスする人的、資源的な余裕もなかったからでしょう。

クラ線は郵便需要の低い行き止まりの「盲腸線」で、わずかな本数の軍用貨物列車しか走りませんでした。日本軍の全占領地中、唯一この路線だけに郵便車を持ち込んで車中取扱いをする理由などありません。クラ線の鉄道郵便などなく、「クラ線鉄道郵便」と称するものはすべて空中楼閣的な意味でのニセモノです。

蛇足になりますが、図1の円形印や楕円形印にあるNOVやDECのように日付を欧文で表示することは日本郵便史上の知見に反します。マライ・スマトラ占領地の軍政に当たった第25軍は、1942年11月5日以降、すべての通信日付印から英字や欧文表示を追放するよう通牒を出しているからです(『富集団戦時月報(軍政関係)』昭和17年11月号)。1年も経った後で新調された日付印がこの通牒に従わなかった理由がありません。架空印です。

目の前に現れた珍奇なアイテムに飛びついて無批判に受け入れるから、こういう郵便史上の誤り、というより文字通りの「無知」を曝す結果を招きます。すでに「戦後70年」も経過しました。日本人南方専門家の方々は外国文献に依存しない独自の郵便史的知見をどれだけ積み上げることができたでしょうか。それが見えません。
posted by GANさん at 01:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 太平洋戦域 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月11日

山東最終部隊の軍事切手

軍事切手-1.jpg第1次大戦後、中国山東省駐屯の青島守備軍の兵士が軍事切手を使って発信した封書です。11月6日のフロア落札品3点目です。

軍事切手は田沢旧毛紙広幅加刷で、青島局が大正11(1922)年11月24日に引き受けています。裏面発信軍事切手-2.jpgアドレスの「青守歩三ノ一」は「青島守備歩兵第3大隊第1中隊」を表します。

日本は第1次大戦でドイツに宣戦し、山東省の膠州湾ドイツ租借地とドイツ資本の膠済鉄道(山東鉄道)を占領しました。ドイツ権益「横取り」が狙いです。鉄道沿線の守備と占領地の軍政のため歩兵4個大隊の兵力の青島守備軍を開設しました。

1919(大正8)年6月にベルサイユ講和条約が締結されると、逓信省は「戦争は終わった」と青島守備軍に山東での軍事郵便の廃止を求めます。守備軍とその後ろ盾の陸軍省は廃止に強く抵抗し、日露戦争後の満州などの守備隊との間で起きたときと同じ紛争が再燃しました。

軍部には初めから理がなく、結局は逓信省が押し切って無料軍事郵便は1921年3月限りで廃止されます。以後は軍事切手制度(1人毎月2枚支給)に切り替えることになりました。この切り替え時に軍事切手が届かず、現地で臨時の「青島軍事」切手が生まれた事情はよく知られています。

ところで日本の思惑は大きくはずれました。日本の山東領有に対して中国はもちろんアメリカなど連合諸国が強く反対したのです。講和会議で日本代表は孤立し、全面放棄を約束させられてしまいます。最終的には1922年2月のワシントン会議で締結された「中国に関する9ヵ国条約」で中国への返還が確定しました。

これを受け、青島守備軍は22年4月から兵力の大幅縮小を始めます。主力部隊の青島守備歩兵隊は4個大隊のうち3個大隊が5月までに解散されました。第3大隊だけ残りますが、これも22年12月15日に解散し、17日までに全兵力の撤退が完了しました。

郵便機関は部隊の撤退より少し早く、12月10日に全局が廃止されました。結局、山東地区で軍事切手が使用されたのは1年8ヵ月ほどの短期間でした。従って、この封書は最後まで残留した第3大隊の兵士が撤退の約3週間前に発信した最末期使用例となります。

一方、海軍は陸上の小部隊・臨時青島防備隊を開設していましたが、22年3月に撤退しました。防備隊にも軍事切手が交付されたはずですが、使用例の報告はありません。要員が100人単位と少ない上に使用期間が1年間しかないので、残存数は陸軍よりさらに希と思われます。
posted by GANさん at 22:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍事郵便(陸軍) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月09日

日露戦の海軍軍事小包

小包.jpg11月6日のフロア落札品2点目です。一見してありふれた小包送票ですが、中央部に「軍事」と大きめに墨書されています。このわずか2文字が、マテリアルの「肝」です。

小包送票には菊10銭ペアが貼られ、美濃・神戸(ごうど)局の明治38(1905)年6月6日の引受印が押されています。佐世保に宛てて送られた470匁(約1.7s)の小包に貼られていたものです。

小包送票は普通、貼られている包装紙ごと処分されて残らないものです。この受取人はよほど几帳面な人だったのでしょうか、丁寧にはがして保存していました。おかげで、1世紀をはるかに超えた今日に伝わったのです。

なぜ「軍事」か、送票の右側2行目下部の「配達局」欄に書かれた「佐世保」が物語っています。佐世保局は日露戦争中、海軍軍事郵便の集中局であり、直接交換局でした。小包は海軍軍人に宛てた軍事小包郵便だったのに違いありません。わずかな紙切れですが、現物が残りにくい軍事小包の実在を裏付ける好資料と思います。

しかも、小包の引受日は日本聯合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃滅した日本海海戦からちょうど1週間後です。戦争の帰趨をも決する劇的な勝利に大喜びした差出人が、海軍に従軍している家族か友人に宛てて祝福と激励の心を込めた品物を送ったのではないでしょうか。

軍事小包郵便は開戦直後の1904年4月6日から取扱いが始まりました。しかし、適用されたのは内地から海軍艦船・チャーター船の乗組員宛てに限られました。陸軍宛ては内地への凱旋・帰還が始まりかける頃まで認められませんでした(一部例外はあります)。自前の船舶で輸送できる海軍だからこその特権でした。

この送票に貼られている20銭は、当時の「400匁以上600匁以下」の郵便市外小包料金に相当します。つまり、岐阜県神戸局から長崎県佐世保局の間の料金です。しかし、それから先、受取人がいる海上の艦船までの料金は、いわば「不足」の形ではないでしょうか。

これは、海軍の船舶が輸送するので海上料金は無料という理由から、海軍艦船宛ての特別料金(サーチャージ=割増金)は徴収されなかったのだとGANは考えます。一方の陸軍では満州や朝鮮の兵士宛ての軍事小包郵便がようやく05年12月から開始されましたが、内地料金より割高の日清・日韓小包料金が適用されています。
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2016年11月06日

朝鮮・会寧局の異型印

会寧.jpg日露戦勝記念1.5銭を貼った絵はがきです。朝鮮(韓国)の北東端、咸鏡北道の会寧局が櫛型印で引受け、同じ道内の輸城局が丸一印で配達しています。

東京で開かれていたJAPEX最終日の11月6日に、同じ会場であった大手ディーラーのフロアオークションで落とした内の1点。まだ湯気の立っているホヤホヤ品です。

発・受信者は共に元韓国駐箚軍東部兵站監部郵便部の同僚(野戦局員)だったことが別の資料から分かっています。韓国駐箚軍東部の管轄地だった咸鏡北道の城津以北地区は、明治38(1905)年10月末に全野戦局が撤廃され、普通郵便局所に引き継がれました。

朝鮮の野戦局は基本的には38年9月末までに閉鎖され、普通局に引き継がれたのですが、この地区だけは1、2ヵ月遅れました。ロシア国境に接しているためロシア軍に占領され、日本軍の回収が遅れたからです。城津局はロシア軍部隊に侵攻された1904年4月に臨時閉鎖に追い込まれ、翌05年8月まで再開できませんでした。会寧も輸城もロシア軍の占領区域内でした。

このはがきで会寧局の櫛型印は明治39年6月15日、輸城局(正確には共に城津局の出張所ですが、以後も「局」と表現します)の丸一印は2日後の17日です。とくに輸城局は半月前の6月1日に開設(郵便事務開始)したばかりでした。日付印の配備状況を調べる好資料になると思います。

ここで会寧局の櫛型印がとても異様なのが目立ちます。A欄の局名が印の上方弧線に沿って右書きで並ぶべきところ、逆向きになっています。C欄には本来は時刻活字が入るべきなのに、A欄と同じ逆向き局名です。これは、もともと郵便でなく電信用に作られた日付印の下部印体(C.E欄)です。それを郵便用に流用したために異型な印影となりました。

朝鮮では各地に軍の電信部隊である軍用通信所が多数開設されました。主要地では開戦初期の1904(明治37)年4月から有料で公衆電報も扱いました。朝鮮内に開設される日本普通局は当初から電信(電報)を扱いましたが、未通地区では軍用通信所から移管されて公衆電報を始めています。

城津以北地区では、野戦局や軍用通信所から普通局への切り替えが遅れ、ほとんどが開局後に電信事務を引き継いでいます。切り替えを急ぐ余り、軍用通信所の名前だけ普通局に変え、郵便を扱わず電信専用局として開設された例もあります。会寧では06年3月31日限りで軍用通信所が廃止され、公衆電報事務は4月1日から会寧局が引き継ぎました。

これらの普通局で丸一印を使っている間は問題なかったのですが、櫛型印が導入され始めると混乱が起きました。上述してきた地域的な特殊事情が重なり、局名活字(上部印体)や時刻活字(下部印体)の調製が遅れて付属していないまま櫛型印の印顆だけ届く、という局が続出したのです。

兼二浦.jpgやむなく軍用通信所時代の日付印の局名活字を郵便印に流用して一時しのぎとしました。ところが、その電信印は、A欄「韓」、B欄日付、C欄局所名、D・E欄櫛歯という形式です(左図はその一例)。郵便印では局名はA欄で表示するので文字の並びが上方に凸型なのに、電信印ではC欄なので逆に上方に凹型です。C欄用の局名活字をA欄にはめ込むと、局名が日付と逆向きになってしまいました。

−−前説が長くなり過ぎましたが、会寧局で異型印が使われた背景には、このような複雑な事情があったとGANは考えています。誤って使ってしまったのではなく、正規の形式でないことを承知で敢えて使い続けたという意味で、これはエラー印とは言えません。

会寧局と似た異型印の例は清津、茂山、北青、甲山、長津、堤川の各局でも見られます。ただし、これら咸鏡北道とは無縁の京城西大門や漢江坊、虎島などの局所にも異型印の郵便使用例があります。軍用通信所での丸一印から櫛型印(A欄「韓」、C欄所名)への切り替え時期なども含め、さらに考察が必要です。
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2016年10月31日

安奉線の「奉安線」鉄郵印

奉安線.jpg満州の安東県と奉天とを結ぶ南満州鉄道会社(満鉄)の支線、安奉線の鉄郵印が押された絵はがきです。最近のネットオークションで入手しました。

菊紫色1.5銭切手が貼られ、明治44(1911)年1月9日の安東県−草河口間下り便の郵便車で引き受けられています。温泉で知られる五竜背駅構内の郵便箱に投函されたようです。

この日付印はA欄が「奉天安東縣線」となっているのが目を惹きます。安奉線を利用した鉄道郵便線路名は正式には「安東県奉天線」です。実際、ふつう目にする安奉線鉄郵印のほとんども「安東縣奉天線」か「安東縣奉天間」「安東奉天間」となっています。

鉄郵印のA欄は郵便線路名を表示するのが原則なので、安奉線は本来なら「安東県奉天線」であるべきです。ところが、この日付印では郵便線路の起点・安東県と終点・奉天が逆に表示されているのです。

これはエラーであり、誤りに気付いてすぐに「安奉線」印に戻した――かというと、そう単純な話でもないようです。満州郵便史の専門家、稲葉良一氏の調査によると、「奉安線」印は明治43年4月から翌44年9月までのデータが知られています。GANは別に42年12月17日の官葉も持っており、これが初期データのようです。

「奉安線」印が使われた期間中も「正常な」「安奉線」印は使われています。2年近くにもわたって「正常印」と併用され続けているとなると、もう由緒正しきエラー印と言うのは難しい。では、上り便と下り便とで使い分けたのかと調べても、共に「上」「下」便があって、これも否定されます。

要するに、今日までのところ、なぜこのような逆表示印が生まれたのか、理由は分かっていません。解明へのヒントは、「安奉線」印に比べると「奉安線」印の方が圧倒的に少ないことでしょう。将来、新資料の発掘やデータの集積で分かることがあるかも知れません。仮に単純ミスだったという結論になったとしても、「奉安線」印の希少性は揺るがないと思います。
posted by GANさん at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 満洲・関東州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月30日

民政直後ヤップ局臨時印

YAP.jpg近着の南洋群島ヤップ発信の絵はがきです。9月の関西のメールオークションで入手しました。田沢1.5銭を貼り、大正11(1922)年6月25日のヤップ局日付印で引き受けられています。発信者は東京からヤップ島に出張した逓信省職員のようです。

この日付印は、本来なら「郵便局」と入るべきC欄とその直上のE欄櫛歯が欠けています。たまたま写りが悪かったのでしょうか。いいえ。印影下部の円形外郭線と日付部桁線が極めて明瞭です。下部印体(C・E欄)が挿入されないままで押印したことが想定できます。

南洋群島は第1次大戦期までドイツの植民地でした。大戦初期に日本海軍が南遣枝隊を派遣して占領し、戦後発足した国際連盟によって日本の委任統治領に指定されました。正式に日本領となったので軍政は終わり、1922年4月1日から民政に移行しました。このはがきは民政に変わってまだ3ヵ月足らずの郵便ということになります。

ところで、南洋群島の統治機関・南洋庁は日付印には時刻表示をしないことに決めました(1922年4月1日、南洋庁訓令第4号)。管内の郵便物取扱量が非常に少ないので、省力化を図ったのです。時刻表示部分(C欄)には、さして意味もない「郵便局」と変更して「穴埋め」しました。

恐らくこの変更措置を決定するのが非常に遅れたのでしょう。「郵便局」表示の下部印体の製造を遠く内地に発注し、出来上がって南洋に届くまでに3ヵ月以上掛かってしまいました。その間、各局で実際に引き受けた郵便物には、軍政時代の旧海軍軍用郵便所印をそのまま使ったり、下部を空欄のままにした日付印を間に合わせで使ったのでしょう。

荻原海一氏『南洋群島の郵便史』には、ポナペ局大正11年6月17日の海軍軍用郵便所日付印が押された分銅はがきの例が発表されています。荻原氏はこれを局員のうっかりミスと考え、「南洋庁になってから2ヵ月余り、ポナペ局は何をやっていたのだろう。」とあきれています。

そうではなく、「郵便局」の印体が間に合わないための一種の臨時印だとGANは考えます。これは民政移行直後の混乱期に発生した短期間の珍しい使用例なのです。正式な「郵便局」印がいつから使われ始めたのか、当局側の記録は見つかっていません。この年の夏から秋にかけての日付印データを今後集積することで解明できるはずだと思います。
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2016年10月02日

え、テニアンに「第V軍」?

テニアン.png左の画像は10月2日夜締め切りのヤフオクに出品されたテニアン局のニセ日付印です。台切手が南洋などで使われたはずがないコイル切手ということもあって?、7人もが応札して13,100円という高値で落札されました。

テニアン-2.pngこの印はA欄「テニアン」、B欄「14.8.13」、C欄「第V軍閲」、D欄に櫛型が入っています。E欄はC欄と区画する弧線がなく、櫛型印としては「初見」の3枚の花弁のような奇妙な模様になっています。

C欄の4文字は消印の表現としては前例がなく、意味不明です。強いて解釈すれば、「第V軍が検閲した」という意味を持たせようとでもしたのでしょうか。

一見してすぐ分かるように、真正印とは似ても似つかぬゴム印です。南洋の和文日付印にゴム印はありません(荻原海一著『南洋群島の郵便史』)。このような荒唐無稽の日付印が昭和14(1939)年のテニアン局で使われるはずもなく、空中楼閣という意味での偽造印です。土屋理義氏が唱えた例の「泰緬鉄道郵便」なるものの郵便印と同工異曲の存在です。

TINIAN.jpg右図は私蔵のはがきから採ったテニアン局日付印です。真正印はもちろん活印で、ニセ印とは片仮名と数字のフォント、櫛歯の高さなどすべて異なっていることが分かります。

GANは事前に出品者に対し、「テニアン局でこのような意味不明のゴム印が使われた事実はない。日本陸軍がローマ数字の「第V軍」など編成した事実はない。「第三軍」だったとしても、昭和14年にテニアンに進出した事実はない」と指摘しました。「明らかなニセモノだから引き取りなさい」という趣旨です。

これへの回答は、ニセモノ出品者がいつもする常習的な言い分でした。「その品物に価値を見出すか否かは落とす方が決めることです」。同様な疑問を呈した別の人への回答でも「曾祖父のコレクションをそのまま出した。心配なら入札を控えて」です。いずれも指摘に対する反論はなく、「誤解」を解く真似すらしていません。これはかなり開き直った「確信犯」というほかなさそうです。

くどいようですが、日本軍事史上で「第何軍」というのは戦時だけの臨時編成軍です。まったく逆方向の満州で関東軍隷下に第三軍が編成されたことはありますが、平時の南洋に「転戦」した事実などありません。また、日本郵便史上で郵便切手の抹消(引受)と検閲とが一体化された日付印など1件もありません。
posted by GANさん at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 郵便印 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月30日

総領事館扱い"軍艦郵便"

常磐003.jpg常磐004.jpg1928(昭和3)年に起きた済南事件(第2次山東出兵)で青島に臨時派遣された敷設艦「常磐」からのパクボー(船内投函郵便)扱いのカバーです。最近のネットオークションで入手しました。

当時南京にあった中国国民政府は28年4月に「北伐」を再開します。北京の張作霖ら北方軍閥を打倒して最終的な国家統一を目指す目的で、再び南・北軍の内戦となりました。

ここで日本陸軍は統一の妨害を裏の目的とする干渉作戦を実施します。お決まりの「在留邦人保護」を名目にまず第6師団を山東に派遣し、海軍も華北沿海担当の第2遣外艦隊の全艦を出動させました。

この中で5月3日に南軍による日本人虐殺の済南事件が起き、第6師団との間で日中戦闘が始まってしまいます。陸軍はさらに第3師団を増派、海軍も予備艦となっていた元一等巡洋艦の常磐を5月6日に第2遣外艦隊に臨時編入し、ただちに青島に派遣しました。

常磐は5月9日に青島に入港し、ここを「母港」に動乱が収まる9月24日まで芝罘や秦皇島、旅順など渤海湾内を巡航・警備しました。中国の内戦が海上にまで波及し、日本の権益が侵害されるのを防止する名目が掲げられました。

このカバーは1928(昭和3)年5月14日に青島で発信されて下関に陸揚げされ、19日に下関局でSHIMONOSEKI欧文印と赤色枠付き「PAQUEBOT」印が押され引受けられています。一番に目を惹くのが裏面の発信アドレスで、「青島日本総領事館気付/第2遣外艦隊常磐」という特異なものです。

在外局廃止後に中国に派遣される軍艦は軍艦郵便の扱いを受けるのが普通で、アドレスは「長崎局気付」や「門司局気付」など内地の外国郵便交換局を肩書きすることになります。このカバーのように在外公館が気付となった例はこれ以前に(以後も)見当たりません。

青島-内地間の輸送は海軍チャーターの交通船や輸送艦が担当したのでしょう。大連-青島間の定期商船便も利用されたかも知れません。いずれにせよ日本総領事館あてに出せば在泊中の軍艦に届くのですから、総領事館が事実上の交換局の役目を果たしていることになります。

当時の『海軍公報』で調べると、常磐には青島入港の5月9日にこの普通郵便扱いのアドレスが指定されています。しかし、5月17日には正式な軍艦郵便扱いとなり、アドレスも「門司局気付」に変更されました。「総領事館気付」アドレスはわずか8日間しか使われなかったことになります。なぜ最初から軍艦郵便とされなかったのかは不明です。

済南事件ではもう1艦だけ、同様に臨時派遣された水上機母艦「能登呂」にも5月11日から同じ「青島日本総領事館気付」のアドレスが指定されています。こちらは6月21日に「芝罘在泊」に変更後、7月9日に第2艦隊に転出して内地帰航するまで軍艦郵便扱いに移らないままに終わりました。

常磐や能登呂にとって、「総領事館気付」のパクボー扱いは、軍艦郵便とどう違ったのでしょうか。料金は同額の3銭で、逓送方法も含めて実質的には軍艦郵便と同じに見えます。しかし、軍艦郵便は青島中国局を介在させるのが原則となります。このため、戦闘行動中は機密保持上から軍艦郵便は不適切と考えられたのかも知れません。この点はさらに詰める余地がありそうです。
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2016年09月09日

荻原海一さんを悼む

aSCF1082.jpg大著『南洋群島の郵便史』で知られる昭和期郵便史研究者の荻原海一さんが亡くなり、先日、GANは新井紀元、沢株正始さんと共に逗子のご自宅を弔問してきました。昨春訪問した際は車いすからも離れ、まったく普通の応対をしていました。突然の訃報は悲しい限りです。結果的に、収友の前に現れたのは2013年春の切手研究会総会(左写真)が最後となりました。

早苗夫人によると、体調不良で7月半ばから入院中、8月1日に慢性心不全で亡くなりました。85歳でした。2000年以来、脳梗塞、冠動脈硬化症、胃がん、腸閉塞、尿閉塞、慢性腎炎、腰痛、大腿骨骨折と入退院を繰り返しました。いずれも強固なリハビリ努力で復帰、仲間内で「不死身の男」とささやかれていたのですが……。

荻原さんの業績で真っ先に挙げられるのは、1954年に『独逸建物切手研究』(下写真)を著したことだと思います。オフセット印刷のシリーズ切手をテーマに、版別、保護線、補修、版欠点など今日でこそ常識となっている製版工程を初めとする製造面での切手分類の手法を本格的に導入し、日本郵趣界に衝撃を与えました。

建物切手2.jpg敗戦からまだ10年も経たず、高度経済成長もずっと先という不自由な郵趣環境の中、大学生ながら未知のドイツ切手の解明に打ち込み、本国の専門家をも凌いだ成果は今日でも不滅です。研究の深さに驚愕した三井高陽氏が熱心に出版を勧め、当時破格の40万円の経費まで負担したエピソードが伝えられています。

郵趣人生の後半に当たる1980年代以降は、ドイツ切手の製造面の研究から180度転換して日本郵便史一筋となりました。御尊父が非常に高名な文人で、膨大な来信を几帳面に保存しておられました。亡父の手紙類の整理を始めたことから、たくさんの興味深い使用例のカバーに惹かれていったのでしょう。

震災切手の研究で著名な牧野正久氏から紹介されたという「鎌倉のオギワラ」なる人物からGANの自宅に突然電話がかかってきたのは、80年代の半ばごろでした。「開戦直前にアメリカから我が家に宛てた封書に『大日本憲兵隊検閲済』の封緘紙が貼られている。これは何か」「軍事をやっているそうなので、何か知りませんか」という質問でした。

見たことも聞いたこともないカバーのことでGANには何の解明もできず、1時間を超す長電話をお茶で濁して終えた記憶があります。荻原さんとの深い付き合いの始まりでした。彼にとっても、郵便史の底知れぬドロ沼にはまり込む因縁のアイテムだったと思います。このカバーは荻原さんが20年掛かりの執念で解明し、「切手研究」第431号(2006年)に発表、GANもこのブログの2014年4月18日付で書いています。

荻原さんの日本郵便史研究は時代を昭和切手発行開始の1937年4月から25年間の日本最大の激動期に絞って、集中的、精力的に進められました。成果の大部分は大石隆久さんが主宰した第一郵趣会の「スタンプコレクター」誌を中心に、「切手研究」「全日本郵趣・関西郵趣」「いずみ」「郵便史学」などに総計250編近くにもわたって掲載されています。「南洋」に着手したのは、これらが一段落してからのことでした。

今日、私たちが大戦を挟んだ戦前・戦後の日本郵便史について何かトピックスを書こうとすると、必ずと言ってよいほど荻原さんの築いた先行研究の巨大山脈に突き当たります。今でさえ難かしい、得られる限りの文献と独自の人脈を駆使した徹底的な調査が行われていたことを知ります。

「自分の所蔵品についてだけ書く」が荻原さんの原則でした。自分が書きたいテーマに欠かせないブツを持っている収友に矢が飛びます。大事な品を泣く泣く荻原さんに貢いだ人たちの怨嗟の声は今も絶えません。もっとも、彼らは「献納品」に見合う以上の交換品を入手した事実については、決まって口を拭っているのですが。

荻原さんの享年は、日頃「先生」と慕い尊敬してやまなかった三井氏の82歳をも上回りました。趣味に生きてその成果を社会に還元もできた堂々たる人生と言えるでしょう。切手と郵便史研究の忠実な後継者として、今頃は先生と対話の花を咲かせているのかも知れません。
posted by GANさん at 00:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑観・雑評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月31日

郵政商法ですが、何か?

突然ですが、ここでクイズです。東証一部上場の物流会社があります。ネット販売のオリジナル商品を、「お届けは1週間ないし10日後」と堂々とうたって営業を続けている。さて、この浮き世離れした物流会社とは、いったいどこ?

正解は「株式会社日本郵便」。オリジナル商品とは郵便切手のことです。けっして受注後に生産を始めるメーカー企業の話などではありません。GANは8月25日に日本郵便のサイトにある「切手SHOP」で、シール切手など5千円余りを注文しました。届いたのが、今日、8月31日のことです。

切手shop-2.jpg
実は、発注後2、3日して「あれ、まだ届かないなあ。オーダーフォームの入力にエラーでもあったか」と思ってはいたのですが、再確認してませんでした。忘れかけていたところに突然の配達です。書留ゆうパック扱いなのに無料というのはありがたいのですが、それにしても、6日がかりとは何? さっそく「お問い合わせ電話」(有料!)で聞きました。

GAN「なぜこんなに時間がかかったんですか。何か事故でも?」
日郵「いえ、当方ではご注文の翌営業日にクレジットカード決済、更にその翌々営業日に発送となっております。お客様の場合、8月26日決済、土日の27、28日を挟んで30日に発送致しましたので、本日31日配達となりました」

GAN「えー、それで6日がかりですか? そんなこと聞いてない」
日郵「申し訳ございません。当方ではそうなっております。サイトでも、約1週間でお届けすると、お断りしております」。さすがに、「6日ならまだ早い方でございます」とは言いませんでした。

GAN「だって、AMAZONなんかだったら、下手すると発注したその日に届きますゼ。決済したら即発送、が常識でしょ。改めたら?」
日郵「申し訳ございません。当方ではそうなっております。いちおう、上の者にはお話のあったことだけは伝えておきます」

お届け.png後刻、サイトをよくよく見てみると、なるほど、確かに「お届け時期の目安」というのがありました。「ご利用ガイド」という目立たない小さなタブを開いた、下の下の、また下の方に……。グループ企業・ゆうちょ銀行の郵便振替など利用した日には、なんと、「10日後お届け」が標準だったことも分かりました。GANはカード払いなのでまだ早い方だったのでした。

この「目安」によると、いつ発注しても、配達は土日をまたいで翌週回しになる勘定です。わずかに月曜日に、しかも発送センターのある茨城県土浦局の1日圏内地域から発注した場合に限り、辛うじて金曜配達になるだけです。もしその週内に祝日があったら翌週の月曜配達回し、と最悪のケースを迎えるはずです。取扱商品が販売独占の郵便切手だからできる凄ワザ、でしょうか。

今回改めて知りましたが、「翌営業日」とか「翌々営業日」というのがクセモノです。「翌日」「翌々日」とは、けっして言っていません。「護送船団」と非難された銀行業界が今でも使う日常語と同じです。それをもっと悪くした「親方日の丸」体質が、ひと昔以上も前に民営化されたはずの郵便事業に脈々と受け継がれていました。

いちおう民間企業ですが、日本郵便に物流会社の常識は通用しません。土日・祝祭日はネットショップも含む全社で営業停止します(郵便物集配だけは少し例外があるようです)。「ゆうパック」を看板商品としていますが、休日も配達するヤマト、サガワあたりに張り合う気概が見えません。これぞ武士の商法、いや、他に類例なき「郵政商法」でなくて何でしょうか。 

労働者の休日はもちろん重要です。しかし、休んでいる人がいても業務を続けることぐらい、どこの企業でもやっていることです。物流企業の自覚がまったくない日本郵便は、いずれ宅配事業から脱落せざるを得ないでしょう。「郵政解散」のとき小泉純一郎氏を信じて自民党を大勝させた私たちが愚かだった。今はそう諦観するほかありません。
posted by GANさん at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑観・雑評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする