2014年02月28日

旅順海軍にも軍郵適用か

YODO.jpg
満州事変は関東軍が謀略で始めた、陸軍だけの戦争でした。海軍は基本的に関与していません。だから、1931(昭和6)年11月に無料軍事郵便を適用するに際し、逓信当局は「海軍ニハ適用サレザル義ト…」と繰り返し表明しました。

ところが、最近入手したこのはがき(画像=クリックで拡大できます)はれっきとした軍艦からの軍事郵便です。満州事変の野戦局、奉天局第5分室で昭和8(1933)年7月8日引受の日付印があります。

この時期の海軍無料軍事郵便は、これが初出です。海軍にも適用が拡大されたのか? 確実な資料は未見で、使用状況から帰納的に推理するしかないようです。

まず、差出アドレスの「淀」は、砲艦兼測量艦です。33年4月の第2遣外艦隊の廃止で旅順要港部に転属したばかりでした。7月上旬の「淀」に格別の戦闘歴はなく、旅順在泊か華北沿岸を通常の警備中だったと見られます。

引受局の奉天局第5分室は綏中に開設されていました。山海関から錦洲を経て奉天に向かう関外鉄道(奉山線)沿線の都市で、渤海湾に面してもいます。あるいは、沖合に碇泊した「淀」から小汽艇で上陸し、陸軍の野戦局を利用できたかもしれません。

前年の上海事変以来、上海と長江(揚子江)方面の海軍には無料軍事郵便が継続して適用されていました。それとのバランスで、華北に出動した艦艇にも拡張された可能性があります。仮にそうだとすると、対象は要港部の警備艦艇すべてでしょう。他に「平戸」「神威」「常磐」と第14、15、16駆逐隊が所属していました。

――以上は、現状では単なる「推理」です。もっと多くの使用例の出現を待ち、さらに検討を加えたいと思います。
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2014年02月27日

厚生省創設の留守宅通信

HIKIAGE.jpg戦争が終わって内地に帰国して来る引揚者・復員兵のための「留守宅通信」のはがきです。戦後の社会史、郵便史を物語る極めて興味深いアイテムとGANは考えています。

留守宅通信は1946(昭和21)年6月に厚生省の外局の引揚援護院が創設しました。逓信当局ではない官庁が立案した郵便システムとして、極めて異色の存在です。

逓信省(正確には46年7月以前は逓信院)の省令・告示類にこの留守宅通信は表れていません。郵便法令を変更するものではなく、現業の郵便官署の郵便取り扱いを著しく変えるわけでもなかったからと思われます。

当時の日本内地は戦争中の空襲被害や疎開、食糧難などが重なって、居住環境が崩壊していました。旧植民地や戦地からの帰国者がまず知りたい情報は「留守宅の所在」「家族の安否」です。これに応えようと、引揚当局が考案したサービスでした。

外地からの引揚者を待つ留守家族は、引揚者宛ての手紙を上陸が予想される地の引揚援護局気付であらかじめ出しておく。引揚援護局は通信を都道府県別・氏名別に整理し、名簿を調製しておく。引揚者は引揚援護局で名簿を閲覧し、自分宛ての手紙があれば受け取る――という仕組みです。

この制度の最もユニークな点は、郵便物の不特定期間保管と、不幸にも受取人が現れなかった場合の処置にあります。援護院の後身の厚生省引揚援護局は、ソ連抑留者が最終帰国した1958年末、残された53,700通に付箋を貼り差出人に返却しました。それまでも含めた返却総数は約20万通で、受付総数の半数にも達しています。

通常の郵便物は、宛先(この場合は各引揚援護局)に配達した段階で郵政当局の逓送義務は完了します。時に転送・差出人戻しもありますが、それは配達直後だけです。局留めにしても1ヵ月程度で返却されます。留守宅通信の場合は、それを最大で12年後に行いました。空前絶後の保管・返却例ではないでしょうか。

さて、このはがき(画像=クリックで拡大できます)は東京・牛込局で昭和23(1948)年10月8日に引き受けられています。差出人が「引揚者通信」と書き込んでいますが、そういう言い方もされたのでしょう。返戻付箋はなく、付けられた形跡もないので、受取人は無事に帰国し、このはがきを受け取れたと思われます。はがき下部の数字「1542」は、保管整理のための一連番号です。

アドレスの「北方派遣 摧」は南千島守備の第89師団を表し、「第12647部隊」は混成第3旅団通信隊(択捉島)を意味する符号です。この受取人は、北海道が目前というのに遠くソ連に連行され、抑留の苦難をなめ尽くしての生還だったことでしょう。

MIYAO.JPG追記(2015.07.22) この留守宅通信はがきの受取人が発信した軍事郵便がネットオークションに出品されているのを偶然見つけ、落としました。今日到着し、2通の郵便物が敗戦・抑留・帰還をはさんで「再会」を果たしました。

二つのはがきを見比べると、留守宅通信の発信者は本人(軍人)の妻のようです。一方の軍事郵便は昭和19(1944)年10月24日に配達されていて、受取人は本人の妻ではなく妹と見られます。

軍事郵便と留守宅通信ともにアドレスの部隊名は同じ混成3旅団通信隊ですが、部隊通称号が独立混成43旅団(奇)から89師団(摧)に変わっています。この間に部隊の編合があったことが分かります。
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2014年02月26日

大連湾局記葉の発行者は?

DAIREN BAY.jpg大連湾無線電信局落成記念の絵葉書です。絵面にこの局の明治45(1912)年3月24日の極めて鮮明な紫色電信印が捨て印されています。発行者銘がありませんが、関東都督府通信管理局か、満洲逓信協会のいずれかに違いありません。

この絵葉書は、『関東逓信三十年史』(JPS復刻版)の巻頭「記念絵葉書」のグラフに2枚1組の写真が掲載されています。しかし、その後のページの「当庁(都督府の後身の関東庁=GAN注)記念絵葉書発行一覧表」には漏れています。島田健造氏『日本記念絵葉書総図鑑』は「未収」とし、後継の友岡正孝氏による再版でも採録されていません。

島田・友岡氏の調査によると、「大連湾無線電信局移転記念(大正11年)」「大連電話局自動電話交換開始記念(大正12年)」の2種の絵葉書も、『30年史』では関東庁発行としています。しかし、実際の袋には「満洲逓信協会発行」と記されており、関東庁本体の発行ではないようです。

満洲逓信協会は関東庁逓信局の外郭団体ですが、実態は内地の逓信協会と同様、「二者一体」の存在と思われます。官庁の事業としては格下だったり、収益性のある事業を代行させる責任回避先として、また、退職官僚の天下り先として、極めて便利な存在だったでしょう。『30年史』自体、完全に関東庁逓信局編集の当局本でありながら満洲逓信協会の名で発行されています。

この「落成記念」絵葉書も、「移転記念」「自動電話記念」と同様、袋には「満洲逓信協会発行」と記されている可能性があります。いずれにせよ、収集家・研究者が関東庁発行と協会発行を厳密に区別する必要があるか、主体的に判断すればよいことだと思います。協会の性格をよくわきまえた上で、の話ですが。

ところで、大連湾無線電信局ですが、庁舎落成の前年、明治44年11月19日に満洲での無線電信局第1号の海岸局(固定局)として、大孤山会沙砣子で開局しました。同時に開局した大連-上海航路の神戸丸、西京丸など中国沿岸部を航行する船舶局との交信を主務としたようです。一般公衆の無線電報も扱った可能性があります。すると、この局の消印を持つ切手が出てきてもよさそうなものですが――。
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2014年02月25日

富士山頂の御殿場局分室

FUJI.jpg御殿場局臨時富士山頂分室で開設初日の昭和23(1948)年7月10日に引き受けられた封筒(右画像=クリックで拡大できます)です。荒井国太郎氏が分室にオーダーキャンセル(下画像)を依頼し、その返信用として同封されたものと思われます。荒井氏が亡くなってしばらく経ってから、地方のオークションに出品されました。

たかが古封筒1通の由来をつべこべと述べる理由は、臨時分室のエンタイアはこの1通しか知られていないからです。実逓便が出現しないので、電信専業の分室だと思われていました。これが現れて、初めて郵便を扱っていたことが分かったのです。

富士山局は1906(明治39)年に開設された季節(定期開設)局ですが、戦前はいつまで開設されていたのか、資料がありません。富士山局収集の権威・長田伊玖雄氏のご教示によると、富士登山は戦争のため1942(昭和17)年夏限りで禁止されました。戦前の開設はこの年が最後と考えられるそうです。

FUJI 2.jpgこの分室は従って、富士山で6年ぶりに再開された郵便施設ということになります。この年は臨時分室でしたが、翌1949年夏からは富士山頂局として毎年開設されています。

この年は山開きに合わせて7月15日に富士箱根国立公園切手(第2次)が発行されました。富士山頂局で引き受けられた初日カバーもよく見られます。

富士山局は開設翌年からずっと山頂の浅間大社奥宮の隣に開設されています。富士山8合目以上は浅間大社の境内地で、法的には静岡・山梨両県いずれにも帰属しません。しかし、慣例的に浅間大社奥宮の場所は静岡県富士郡と駿東郡の最北・最西端として扱われてきました。だから、富士山局は「駿東郡」収集の範囲内だ、とGANは(強引に)考えています。

追記(2016.09.06) その後、逓信公報を調べていて、富士山局閉鎖の告示が出ていることに気が付きました。次の通りです。
昭和18年6月28日告示第757号(6月29日付逓信公報第4896号登載)
 左記郵便局ハ当分ノ間閉鎖ス 富士山北郵便局、富士山郵便局
結果として昭和17(1942)年夏の開設が最後となりました。長田氏ご教示の通りです。

ちなみに、この告示では富士山局の位置が御殿場ではなく、「富士郡富士根村大字粟倉」となっています。GANの主義主張と異なる「不都合な事実」なので、ここだけ無視することとします。
posted by GANさん at 12:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 静岡県駿東郡 | 更新情報をチェックする

2014年02月24日

青島残留の日本電信局

TSINGTAU.jpg日本海軍占領下の青島市内に配達された和文電報です。「青島 13.9.27 ★」の鮮紫色櫛型配達印があります(画像=クリックで拡大できます)。「13」は民国年号とは見えず、昭和13(1938)年の青島に日本系の電信取扱局所など、果たして存在したのか、という疑問が出ます。

なお、電報の発信者は大阪商船社長の村田省蔵。村田は後に貴族院議員となり、太平洋戦争中は日本軍占領下に独立したフィリピン共和国駐在大使を務めた大物です。

結論から先に言ってしまうと、これはレッキとした日本の青島電信局が取り扱った電報です。第1次大戦中の青島野戦局が1922(大正11)年末に撤退する際、中国側との協定により電信専業に切り換わって残留した局です。櫛型印も昭和年号も当然、となります。

荒井国太郎氏『思い出の消印集』(日本郵便史学会刊)によると、青島電信局は佐世保-青島間の海底電線を経由して対日電信を扱っていました。1940年現在で「直接受信・配達業務ハ扱ハズ」との記述もあるため、「では、この電報を取り扱ったのはどういうことか」と疑問がさらにふくらみます。

GANの考えでは、青島電信局は大正期から和文電報に限って受発業務を扱ってきたと思います。ところが、1938年8月に日中合弁の華北電信電話会社が北京に設立されました。そこで、青島電信局は同社に業務を委譲し、現業から手を引いたのではないでしょうか。委譲までの間、青島では日本の青島電信局と華北電電の青島電電総局とが併存していた可能性があります。

実はこの時期の青島にはもう一つ、日本海軍が管理した青島電報局なるものもありました。荒井氏の本にはその日付印が掲載されています。話はとても面白いのですが、この3者の関係は余りにも複雑になり過ぎます。検討は別の機会に譲りたいと思います。
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2014年02月23日

ハイブリッド通信「電話便」

DENWABIN.jpg
大正期に東京と大阪だけで試行された、電話と郵便を併せたような「電話便」の送達紙です。桃色の厚手用紙にカーボン紙を使って手書きされ、やや不鮮明ですが「本郷 8.11.5 ★★★」の配達印が押されています(画像=クリックで拡大できます)。最近のネットオークションで入手しました。

やや場違いの感はありますが、「中国郵便史研究」第138、139号に筆名「松竹梅」氏の調査結果が「電話便とは?」「電話便の利用数」の2本の記事で次のように紹介されています。

――大正5(1916)年3月1日から東京市と大阪市で試験的に施行され、同一電話加入区域内相互間だけで利用できた。発信者は自己の加入電話か電話所から受信者最寄りの2等郵便局に電話をかける。局員が用件を聞き取って送達紙に記入し、直ちに受信者に配達する。料金は加入電話から7銭、電話所からだと10銭。利用者少なく収支相償わないため12年3月に廃止された――。

この電話便送達紙は、色や大きさは異なるものの、形式・内容が電報送達紙とほとんど同じです。配達に使われた「通信事務」の封筒も残っています。これも電報を郵便で配達する場合の送達紙を納める封筒と同様で、宛先が片仮名で書かれています。

「請求者電話番号」欄には番号でなく「小石川」と記入されています。発信者は小石川郵便局の電話所から電話したようです。受けた先が本郷郵便局ということは、両局の受持区域は「同一電話加入区」に属していたのでしょう。今日の東京都文京区は、旧小石川区と旧本郷区とからなっています。両局は隣接関係でした。

この時代、東京では郵便と電話の官署は既に分離していました。電話便は、電話局所管の施設・機器を利用して発信し、郵便局が受信・配達するというハイブリッド方式です。これがもし、「同一電話加入区」を超えて、例えば市外にまで発信できたら、別の発展をしたかも知れません。アイデア商品なだけに、ちょっと惜しい結末でした。
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2014年02月22日

日露戦争の軍事郵便貯金

SAVING-1.jpgSAVING-2.jpg日露戦争に従軍した兵士が利用した軍事郵便貯金の通帳です。兵士は第8師団患者輸送部の所属でしたが、復員後も居住地の山形県に住居変更をして継続使用しています。最近のネットオークションで入手しました。

通帳は特別に調製されたものではなく、明治37(1904)年6月印刷局製の通常の「郵便貯金通帳」がそのまま流用されています。記番号は「軍れ00697」で、「軍」を冠記することにより、一般口座と区別したようです。口座所管庁(受持管理所)は下関郵便為替貯金管理支所となっています。

この兵士は38年7月17日に第2軍第9野戦局(営盤)で通帳を交付され、その日も含め戦地で3回、合計35円の預け入れをしています。3回目は第2軍第14野戦局(宗家黄地)でした。3回とも野戦局の郵便用日付印が押されています。復員後は記番号が「軍」のない「み00027」に切り換えられ、地元の山形県松嶺局で利用されています。

軍事郵便貯金は軍事郵便為替と共に日清戦争で導入されました。日露戦争では37年2月6日に逓信省令第7号で「軍事郵便為替貯金規則」が定められ、実施されています。取扱局所が野戦局や艦船郵便所という特殊性はありますが、制度としては一般の郵便貯金と格別の相違はありませんでした。

兵士が戦地で支給された俸給を預けたり、留守宅への送金が主な目的でした。戦地で現金を持たされても使途はほとんどなく、保管・所持には問題も生じたでしょう。軍当局としては、内地との間の現金送受を相殺減少させる効果もありました。

三井高陽・増井幸雄氏『世界軍事郵便概要』によると、日露戦争の軍事郵便貯金は5万3千人が利用し、預入額は190万円に達したといいます。これだけ利用があったのに、使われた通帳の現物はこれまで知られていませんでした。今回の通帳は、軍事郵便貯金が確かに実施されていたことを示す好資料だとGANは思っています。
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2014年02月21日

大連汽船媒介の海軍軍郵

SHURIMARU-2.jpgSHURIMARU-1.jpg日中戦争中の1939(昭和14)年に、旅順局を肩書とする砲艦首里丸から北京海軍武官府に宛てた封書(画像=クリックで拡大できます)です。最近、この海軍将官宛ての郵便物多数がネットオークションに出品され、GANも何点か手に入れました。

海軍の軍事郵便が旅順から外国の、しかも内陸部の北京に、どういうルートで逓送されたのでしょうか。海軍の逓送路は基本的に艦船で運べる範囲だったはずです。

「旅順局気附」と発信アドレス(画像)にあり、宛先に「大連汽船会社気附」とあるので、旅順発信と考えるのが素直です。しかし、引受印「第3海軍軍用郵便所 14.10.10」の第3軍用郵便所は青島にありました。青島在泊中発信の可能性も大いにあります。

首里丸は徴用船で、支那方面艦隊第1砲艦隊の所属でした。1938(昭和13)年11月から42年まで旅順要港を根拠地として華北沿岸の警備に当たっています。この間39年11月に水雷母艦に艦種変更して第3遣支艦隊に転属しました。残念ながらその直前の所属は分かりません。ここでは、行動先の青島から発信したと推定してみます。

――この封書は青島で第3軍用郵便所が受け付けて大連汽船会社の定期船に積み、大連に運ばれた。大連汽船では表面に赤鉛筆で「天津支店」と書き入れ、やはり定期船で塘沽経由天津支店に運んだ。天津支店は天津野戦局に引き渡し、後は陸軍の軍事郵便ルートに乗って、北京の第1野戦局から海軍武官府に直接配達された――。

つまり、青島-大連-天津-北京と逓送されたのだろう、というのがGANの考えです。海軍と陸軍にまたがる逓送路を利用し、しかも中間で民間に託送するという3者連携ルートの存在が前提です。陸軍と海軍は、少なくとも上海では軍事郵便の「相互乗り入れ」を協定していた事実が分かっています。

大連汽船は大正14(1925)年に満鉄の子会社として設立され、大連-青島-上海線、大連-天津線などが主要航路でした。親会社の満鉄自体が軍部と一心同体のような国策会社です。大連汽船が軍事郵便の逓送路の一部を担ったことは大いにあり得ると思います。

「なぜ青島で陸軍の第4野戦局に引き渡さなかったのだ」という疑問には、いちおう「青島では陸海軍間の交換協定がなかったから」としておきます。しかし、振り出しに戻って「青島でなく旅順発信だった」と考えると、この疑問は防げます。ただ、その場合のルートは旅順-大連-天津-青島-北京となってしまい、もっのすご~く不合理。どなたか、我に正解をご教示あれ。
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2014年02月20日

寛城子局吉林出張扱い初便

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この封書は最近入手しました。差出人のアドレスは「清国吉林領事館 林久治郎」と裏面に書かれています。しかし、表面(画像=クリックで拡大できます)の引受日付印は満洲・寛城子局明治40(1907)年4月25日です。

寛城子は満鉄線最北端の都市で、ロシアの東清鉄道と接続するターミナル駅でもあります。寛城子局は民政移行後最初の39年9月に開設され、1年余で移転改称して長春局となる短命局です。

吉林省の省都・吉林は在留邦人も多い都市ですが、日本局のある満鉄沿線からは距離があります。関東都督府郵便電信局は吉林領事館の開館を機に、邦人の便宜を図るとして郵便の出張取扱を計画しました。

寛城子局職員が定期的に領事館へ出張し、邦人の郵便物発受を扱って寛城子局に持ち戻るシステムです。まだ鉄道はなく、吉林への往復には馬車をチャーターしたと思われます。40年4月23日から開始されました。

貯金・為替から小包までも扱ったので、吉林の邦人には大好評だったようです。直後の6月1日からは出張取扱を「昇格」させ、領事館の一室を使って寛城子局出張所を常設しました。同時に、寛城子-吉林間の連絡も3日に1回と増便します。

この封書にはコンテンツが残っており、4月19日に書かれています。出張取扱に当たる第1便の職員は4月23日に寛城子を出発しました。吉林でこの封書を受け付けて寛城子局に持ち戻り、正式に引受印を押したのが4月25日だったと思われます。つまり、この封書は吉林での寛城子局出張取扱の初日カバーです。「出張取扱」という特殊な郵便機関の存在を示す資料として貴重だとGANは考えます。

差出人の林久治郎は外交官として高名で、後に奉天総領事やブラジル大使、太平洋戦争中は占領地ジャワの司政長官などを務めます。この時はまだ外交官試補で、領事館開設スタッフとして3月に赴任してきたばかりでした。館員だったからこそ初日便を利用する機会に恵まれたのでしょう。

外国(清国)領土内に勝手に日本の郵便機関を開設することは主権侵害に当たります。しかも、両国は明治36年に郵便権の相互尊重を前提とする「日清郵便仮約定」を結んだばかり。このため、吉林出張所の開設は清国側には秘密にされました。このような郵便機関は、俗に「秘密局」と呼ばれています。
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2014年02月19日

朝鮮局で受取る満洲宛て便

DAIRISSI.jpg朝鮮の「満州国」との国境、鴨緑江岸の中江鎮局私書函に宛てた内地からの封書(画像=クリックで拡大できます)です。不鮮明ですが、京都市の「七條 15.8.6」の消印で引き受けられています。最近入手しました。

中江鎮は西流する鴨緑江が上流部で屈曲して最も北、満洲側に突き出した江岸の小集落です。対岸の満洲側は中心的な地方都市の臨江(帽児山)なので、朝鮮総督府はここを重視して国境守備隊を配置し郵便局を開設していました。臨江局との外国郵便交換局に指定され、希少な欧文印TYUKOTINを使った局として知られます。

ところで、封筒の宛先の大栗子溝採鉱所ですが、所在地は中江鎮局管内ではなく、満州国臨江県です。大栗子は臨江の郊外、鴨緑江にも近い小集落と思われます。非常に詳しい1939年版「満州国輿地図」(陸地測量部製作=複製)で位置を探したのですが、残念ながら見当たりませんでした。

余談ですが、この小集落は歴史上に名が残っています。1945年8月にソ連軍が満洲に侵攻した際、満州国皇帝溥儀は関東軍首脳と共に「決戦陣地」に用意された通化に避難しました。さらに大栗子に逃れ、8月18日に皇帝退位・国家解散を自ら宣言します。大栗子は満州国終焉の地なのです。

通常なら、大栗子への郵便物はいったん奉天に達してから延々と奥地を南下し、はるばる鴨緑江岸に達します。この「奉天ルート」に対し、新義州から鴨緑江沿いに東進する「江岸ルート」。なるほど、中江鎮や満浦鎮対岸の満洲宛てなら、後者のルートがはるかに合理的で速達します。

満州国所在の採鉱所の従業員が国境を越え、外国である日本(朝鮮)の局で郵便物を受け取る――。郵便管轄権がもとより異なるので普通はあり得ない事例です。日本と満洲国との特殊関係から許されたのでしょう。何らかの協定があったと思われますが、GANは未見です。

それにしても、これは内国郵便なのでしょうか、それとも国際郵便? 悩ましいエンタイアを作ってくれたものです。
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2014年02月18日

山海関I.J.P.A.とはどこ?

SHANHAIKWAN.jpg「SHANHAIKWAN(山海関)I.J.P.A.」の日付印が押された紫分銅はがき(画像=クリックで拡大できます)です。日付の「21.4.12」は1912(明治45)年4月21日を意味します。差出人は京奉鉄道(北京-奉天間)山海関方面を警備していた歩兵33連隊第Ⅲ大隊の兵士です。前年末からの孫文らの辛亥革命による混乱から日本の鉄道利権を守るため内地から増派されていました。

山海関局(正確には天津局山海関出張所)の日付印はSHANHAIKWAN「I.J.P.O.」でした。では、この「I.J.P.A.」はどこに開設された局所でしょうか。第Ⅲ大隊は山海関、秦皇島、湯河、昌黎、灤州に分散配置されていました。候補地は山海関以外の4ヵ所のいずれかと思われます。

これまではSHANHAIKWAN I.J.P.A.というと、山海関局灤州出張所だ、というのが通説となっていました。西野茂雄氏が『外信印ハンドブック』(1985、日本郵趣出版)でそう発表したからです。しかし、これは明らかな間違いです。

山海関自体が出張所なので、その出先も同格の出張所ということはあり得ません。そもそも「灤州出張所」などという局所は記録上で存在しません。あるのは「山海関出張所灤州出張扱」という、中国側に対して秘密に行われた定期的な郵便事務の出張取扱だけでした。

当時の逓信省の内牒を調べると、次の記録があります。
 1、明治45年3月 灤州、昌黎、湯河に山海関出張所員が定期出張し郵便取扱開始
 2、明治45年3月 山海関出張所秦皇島分室を開設
 3、明治45年7月 秦皇島分室を閉鎖し、出張取扱に切り替え
 4、明治45年7月 北戴河に出張取扱開始
 5、大正3年11月 昌黎、北戴河、湯河の出張取扱を廃止
 6、大正11年12月 山海関出張所廃止、秦皇島、灤州の出張取扱を廃止

 この記録からだと、「SHANHAIKWAN I.J.P.A.」の第1候補は秦皇島分室と言えそうです。しかし、ことはそう簡単ではなく、分室閉鎖後の一時期にも「SHANHAIKWAN I.J.P.A.」の日付印が使われた事実があります。第2候補として、灤州、昌黎、湯河の3出張取扱で同一のI.J.P.A.印を使った可能性もないわ けではありません。しかし、他局の出張取扱ではI.J.P.A.印の使用例は知られていず、使われた形跡もありません。

これまでにGANが調べて分かったことは、おおむね以上です。まあ、何から何まで全部いっぺんに知ってしまうのも面白くありません。ナゾ解きは宿題とし、今後のお楽しみに残しておくの、また良いのではないでしょうか。
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2014年02月17日

マカッサルの櫛型為替印

MAKASSAR.jpg
海軍の軍政担任地区だったセレベス島マカッサル局で引き受けられた電信為替振出請求書の断片です。局内で保管していた請求書を廃棄する際、切手貼付欄部分だけ業者に払い下げたのでしょう。為替料は現金でなく切手で納付されていました。

内地と南方占領地との間の郵便為替は昭和18(1943)年3月1日から取扱が始まりました。内地・南方間の書留取扱開始と同時です。為替は、当初は通常為替と小為替だけでしたが、19年5月1日からは電信為替の取扱も加わりました。

この紙片(画像=クリックで拡大できます)には海軍正刷切手で1ギルダー50セントと、農耕2.5セントのマカッサル加刷に「電信為替」と赤色で再加刷した電信為替料専用切手が貼られています。

電信為替切手には「f. 7.00」と再加刷されていますが、意味が分かりません。仮にこれが「7ギルダー」の意味と考えると、合計で8ギルダー50セント=8円50銭となり、100円超300円までの為替取組料金に相当します。

切手は「マカッサル/19.10.5/遠い」の櫛型印で抹消されています。「遠」は南西方面海軍民政府逓信局管内の局に割り振られた為替記号の頭字です。マカッサルの「い」に始まって、シンガラジャの「と」まで7局に適用されています。この櫛型印は郵便用には見られず、海軍地区の為替専用印として内地で調製されたと思われます。それにしても、なぜ「遠」なのか、GANには分かりません。「内地から遠いから」だとしたら、余りにも単純に過ぎると思うのですが。

当時の通信当局には「大東亜共栄圏」に重なる「東亜郵便連合(大東亜通信圏)」の構想がありました。「満州国」、中国から南方占領地までを日本を盟主とする郵便圏に統合して同一制度・均一料金を実施しようという考えです。ちっぽけな紙片ですが、挫折した壮大な計画の片鱗をうかがうことが出来ます。
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2014年02月16日

認印を押し「検閲済み」

SAIPAN.jpg太平洋戦争の前夜に施行された臨時郵便取締令による検閲が、南洋庁管内でも行われていたことを示すはがき(画像=クリックで拡大できます)です。印面下にさりげなく押されている「須貝」の認印が検閲印に相当します。

南洋庁では、検閲した職員の認印を押して「検閲済み」であることを表示しました。必ず印面の直下に押されているのが特徴です。この「須貝」印の主の須貝春吉は通信書記という身分の幹部職員でした。荻原海一氏『南洋群島の郵便史』によると、サイパン局では須貝書記以下4人の職員が代わる代わる検閲に当たっていたことが分かります。

南洋庁で検閲が始まり、この種の認印が使われるのは、内地で検閲が始まってから1年も過ぎてからだったようです。同書によると、これまでに昭和17(1942)年12月30日-19年3月21日の間のデータが見つかっています。このはがきの日付印は17年12月8日なので、使用開始時期を3週間ほど遡る最古使用例ということになります。

19年春頃から南洋庁管内にも丸二型「南洋/検閲済」と入った正規の検閲印が導入されます。それまでの1年数ヵ月間はこういった認印が各局ごとに使われました。受取人には、無関係な他人の認印がはがきに押されている理由も、南洋庁が検閲を実施している事実も、まったく分からなかったことでしょう。
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2014年02月15日

空襲時の配達停止特例

KUSHU.jpg今から70年前の1944(昭和19)年2月17日、サイパン。開戦以来聯合艦隊最大の前進根拠地のこの環礁は、米空母艦載機の急襲を受け一挙に壊滅してしまいます。米軍は南洋群島の日本軍守備隊を次々と全滅させ、B29爆撃機の発進基地を整備して日本本土への戦略爆撃(という名の無差別大量殺戮)を始めました。「サイパン大空襲」は日本敗戦への最終章の幕開けとなります。

「本土決戦」が秒読みに迫る中、当局は45年1月17日に運輸通信省令第2号で「戦時、事変、又ハ非常災害時ノ郵便物取扱措置」を定めました。ここでいう「非常災害時」とは、「空襲を受けて大混乱に陥った時」の官僚語です。この中で(空襲時には)隣組に一括配達したり窓口交付できることにしました。史上初めての政府の信書配達責任放棄です。

ここに示す「郵便物交付証」(画像=クリックで拡大できます)は、三重県津郵便局が省令に基づいて大口利用者に渡したと見られる、窓口交付を受けるさいに示す証明書です。はがき大の厚紙を二つ折りし、「本証提示により交付されたる郵便物は正当宛所に配達したるものと看做します」と謄写版印刷されています。受取人の「岡三商店」は津市で創業した今日の岡三証券会社の前身です。

恐らく全国大都市の郵便局では、あらかじめこうした措置が取られていたのでしょう。窓口交付は局前にその旨を掲示するだけで実施できる決まりなので、文書記録としては残りません。郵便物交付証の存在はこれまで他の例を見ませんが、空襲下の郵便事情を物語る興味深い資料だとGANは考えています。

津市は45年3月以降7度もの空襲にさらされ、とくに7月28日には市街地のほとんどが焼失しています。この交付証にも出番があったかも知れません。ただ、郵便物自体に特段の表示は求められませんでした。エンタイア上での証明は難しそうです。

一方、「隣組一括配達」については、それと思われる表示をした郵便物があります。機会があれば、またご紹介したいと思います。
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2014年02月14日

雪中に栽培する水菜

MIZUNA.JPG

筆者の現住地は、はるか秩父山系から連なる多摩丘陵の最末端部に当たります。今日は早朝から都心部に勝る大雪が降り積もりました。お散歩に連れ出した犬は雪だまりにジャンプし、かけずり回って大はしゃぎです。たまたま国から漬物が届いたこともあり、雪をかぶって青々と立つ水菜の姿が目に浮かびました。

水菜は富士山南麓、御殿場・小山地区特産の菜っ葉です。菜の花畑は小学唱歌のとおり春の風物詩ですが、かの地では積雪も見る厳冬期に豊富な富士山の湧水を水田に流して水菜を水耕栽培します。菜っ葉はふつう、薹(とう)が立つと筋が硬くなって食べられませんが、水菜は薹が立ち始めたころが歯応えよく食べ頃です。「薹菜(とうな)」とも呼ばれるのは、そのためです。

お浸しもよいですが、普通は漬物(画像=クリックで拡大できます)で食べます。ほのかに青臭い野生の香りとアブラナ科特有のわずかにピリ辛い苦みが身上。スーパーで我が物顔する無味無臭のハウス野菜や添加物満載の解凍漬物などとはまったく異質です。

細かく刻んでちょっとおかかを混ぜ、お醤油少々を垂らすと、かっこうの酒の肴になります。熱あつのご飯にまぶせば、何杯でもいけちゃいます。GANの幼い日、父は漬けた水菜の葉を箸で器用に広げ、ご飯をひと口分にくるんで食べさせてくれたものでした。

1月末から2月のちょうど今ぐらいが収穫期です。「水かけ菜」の商品名で出荷されていますが、期間限定・少量生産のため、消費地にはとても出回りません。地産地消の典型的な地場産品に終わっています。GANは両隣さんにもお裾分けして「珍しい」と喜ばれました。いつかこの水菜で起業してガッポリ大儲け、と密かに妄想を逞しくしているのですが……。
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2014年02月13日

武装移民団の軍事郵便

TIBURI-2.jpgTIBURI-1.jpg無料軍事郵便が軍人ではない民間の農業移民に適用された例です。戦前日本の農村事情や中国侵略の実態、「残留孤児」の源泉などを考える上で興味深い資料とGANは考えます。つい最近入手しました。

武力で「満州国」を作り上げた関東軍は、満ソ国境沿いへの日本人農業移民を着想します。新国家、ひいては本国・日本をソ連の攻撃から守る最前線を築く、開発と防衛との一石二鳥の狙いです。明治初年の北海道の屯田兵がヒントになったともいわれます。

拓務省が呼び掛け、退役軍人500人に軽武装させて1932(昭和7)年秋から試験的に満州国北東部の佳木斯(チャムス、ジャムス)周辺に送り出しました。「試験移民」「武装移民」「屯墾団」などとも呼ばれています。

翌33年にも第2次移民団が送られました。このはがきは佳木斯南東の湖南営に入植した第2次移民団から発信されたものです。湖南営は漢名ですが、現地満洲語では七虎力(チフリ)と呼ばれていました。移民団は入植地にこの満洲語の音を宛てて「千振(ちふり、ちぶり)」と名付けました。外国領土の現地名が日本名に改称された典型例です。

企画者でありスポンサーでもあった関東軍は、農業移民団に無料軍事郵便の恩典を与えました。軍事郵便法令には「野戦軍の司令官は(野戦局所の業務に支障のない限り)一般人にも軍事郵便の適用を認めることができる」と定められており、これが適用されたと考えられます。入植地は基本的に辺地が多く、満州国郵便の利用が困難だった事情もあります。

裏面に「昭和11年1月1日」のゴム印が押されており、年賀状です。関東軍管内の軍事郵便はこの直前、12月1日から日付印を省略するようになりました。アドレスの「佳木斯野戦局」は実際には存在せず、佳木斯軍事郵便取扱所を意味します。これより前の第2次農業移民の軍事郵便にはこの取扱所で使われた「新京中央/8」の分室用日付印が押されています。
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2014年02月12日

将軍の標準型ニセ軍郵

NOGI-2.jpg乃木将軍のニセ軍事郵便が今日またヤフオクに出品(画像は封筒部分のみ=クリックで拡大できます)されました。今回のは架空の「第三軍/第五/野戦局」印が押された、ニセモノとしては最も標準的なタイプです。

GANはさっそく出品者に「3月25日に将軍が旅順にいた事実は歴史上ないのではないか?」と質問をしておきました。前回にも書きましたが、明治38(1905)年3月25日だったら、将軍は奉天北方でロシア軍と対峙していたからです。果たして、回答はあるかどうか。

偽作者は野戦局印のようなものを押せばホンモノらしく見えるだろうと考えて、この「3軍5局」印を押したのでしょうが、逆にこれで墓穴を掘りました。こんな日付のない野戦局印など、もちろん存在しません。これが押されていたら、他がどんなに真正のように見えても必ずニセモノです。

今日までの研究成果によれば、3軍5局は3月25日には奉天北方の鉄炉舗にあったことが分かっています。旅順とは数百キロの距離があります。だいいち、将軍の3軍司令部に随伴した野戦局は3軍4局であって、5局は無関係でした。

さらに言うなら、表面右下の「第三軍司令部記録済」という朱角印、裏面封じ目の「検閲済」朱丸印は共に架空のもので、このような印が使われた事実はありません。仮に司令部で何らかの記録文書を発送するのなら、必ず「公用」と封筒表面に朱書(押印)する規定でした。

また、日露戦争で陸軍は原則として検閲しませんでした。特別の必要で検閲した場合でも、押す場所は必ず表面で「軍事郵便」表示の下あたり。裏面に押すことはあり得ません。それにしても、前線では神にも等しい軍司令官、いったい検閲などできる将兵がいたというのでしょうかね。

追記(2014.02.13) 本日出品者から回答がありました。「古いものであるため真贋の保証はしておりません。写真をご覧頂き、各自のご判断での御入札をお願い致します」。出品物に責任を負わないが入札は続行するという第2タイプです。商品タイトルに「陸軍大将・乃木希典肉筆書簡」とうたっているのは何なのでしょうね。

追記(2014.02.19) このニセ軍事郵便は昨夜38,900円で落札されました。真正品の相場からすれば3分の1~5分の1程度の「激安」です。上記GANの「質問」と出品者の「回答」が読めたことと併せ、落札者もニセと承知で買ったことは明らかです。どう使おうというのでしょうか。
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2014年02月11日

逆アリバイ秘密局・大東溝

DAITOKO.jpg少し前のネットオークションに、大東溝局の着印のあるエンタイアが数点まとまって出品されました。鴨緑江右岸・中国(満洲)側河口のこの局のエンタイアは、市場でなかなか見かけません。よい機会と考え入手しました。

日中間の郵便交換協定に背いて日本が中国本土や満洲に密かに開設した「秘密局」については、収集家の間でよく知られています。逆に、実際には存在しないのにそれを秘密にし、存在するかのように装った珍しい局があります。ある時期の大東溝局がそれで、いわば「逆アリバイ秘密局」ともいうべき役割を果たしていました。

明治43(1910)年、日清間で「郵便約定」が改定され、満洲でも交換局7局が正式に追加されました。奉天や長春など他の局はすべて国際的に開市、開港された都市ですが、大東溝だけはそのどちらでもない交通不便な田舎の海港です。なぜ、そんな小局が割り込んできたのか。

日露戦争の結果、日本は鴨緑江沿いの森林資源を開発する利権をロシアから継承しました。その木材の搬出港として発展すると考えた日本側の要求で、大東溝も交換局に加えられました。しかし、木材搬出港の地位は他に奪われたようで、入港する船もまれに寂れ果ててしまいます。ついに大正10年3月26日、大東溝局は廃局されました。

この事実を中国側に通告すると、たださえ日本局の存続は認めたくない中国です。すぐにも予想される協定改正交渉で、「満洲内交換局は6局限り」と削減を主張することが明らかです。既得権を守りたい日本は、中国に対し大東溝局をすでに廃局したことは秘密にし、「一時的な閉鎖」と言いつくろいました。

大正12(1923)年実施の「日中郵便物交換約定」交渉で、中国は満洲を含む中国領土内日本局の完全撤廃を主張し、大東溝局の問題などは吹っ飛んでしまいます。ただ、日本の抵抗で満鉄付属地内の局所だけは残されました。このいきさつから、廃局から在中国局撤廃までの1年9ヵ月間、大東溝局は「逆秘密局」的な存在だったと、GANは考えます。

この封筒(画像=クリックで拡大できます)の宛先は、まさに鴨緑江の木材伐採権を行使するために設立された日中合弁の国策会社「鴨緑江採木公司」の出先です。大東溝局明治43年4月6日の着印を持ちます。郵便史はもちろんですが、日露戦争や日韓関係の歴史を調べる上でもよい資料ではないかと思います。
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2014年02月10日

汽車送りされた罹災電報

TELEGRAM.jpg大正12(1923)年9月の関東大震災の「罹災電報」です。最近のオークションで入手しました。かなり痛い目に遭いましたが、緊急時の通信の発着状況がよく分かる資料と、GANは満足しています。

大地震とそれに続く大火災で無数の被災者が無一物となりました。逓信省は被災者の電報を無料とすることを決め、東京中央電信局と横浜の郵便仮受付所で9月6日から受付を始めました。11日までの6日間限りで取扱いは終わりましたが、総計で約50万通に達したといいます。

この罹災電報(画像=クリックで拡大できます)は、最終日ギリギリの9月11日午後8時に東京中電で受け付けられています。金沢局へは2日後の9月13日に到着し、C欄★の電信印と速達用ナンバリングを流用した朱印「二〇四一」が押されてただちに配達したと見られます。

実際に配達された電報なのでこれは送達紙ですが、同時に頼信紙でもあります。発信人はあり合わせの半紙に電文と宛先などを墨書し、頼信紙代わりに差し出しました。東京中電はこれを正規の頼信紙の下半部に貼り付け、「トウケウ(東京)」の朱印、「大正十二年九月拾壹日」の紫色ゴム印を押し、鉛筆で「コ八(午後8時)」と書き込んで送達紙としました。

この送達紙は自動車で田端駅に持ち込まれ、他の北陸方面電報と共に上越・北陸線回りで金沢駅まで運ばれたと考えられます。郵便物の閉嚢便と同じ送り方です。田端駅は郵便・電報送り出しの臨時ターミナルでした。東京の交通・通信機関が壊滅した中でわずか2日と非常に早く届いています。このことから、あるいは汽車でなく飛行機で名古屋または大阪に輸送されたかとも考えられますが、複雑になるので検証は省略します。

このように大変な時間と人手をかけて配達された電報ですが、電文は「ミナブジ(皆無事)」とわずか4文字。伝えたいことは山ほどもあるのに、取扱う関係者をなるべく煩わせまいと配慮したのでしょう。被災者のこの慎ましい心根は、つい最近の「3・11」震災被災者にもそのまま引き継がれ、表れているようにGANには思えます。
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2014年02月09日

関東都督府郵便電信局

TOTOKUHU.jpg日露戦後、満洲の野戦郵便・電信機関は「民政化」しますが、その最初期の通常為替金受領証書(画像=クリックで拡大できます)です。最近入手しました。

明治39(1906)年9月1日以降、軍政時代の野戦郵便局と軍用電信所は新設の関東都督府郵便電信局に移管されます。名称は「関東都督府郵便電信局(所在地名)支局」と変わりました。

この証書は民政に移った最初期のものですが、発行者の名前が「関東都督府郵便電信局長」とありながら、その横に「大連」の印が押されていて、何かあいまいな匂いがします。なぜ「大連支局」としないのでしょう。

実は、この時期に「大連支局」は存在しませんでした。開局したのはこの年の12月11日のことで、それまでの70日余りは関東都督府郵便電信局本局の通信課が現業事務を扱っていました。だから、証書右上の振出日付印「大連 39.9.24 ★★★」は大連支局ではなく、通信課のものです。この印は通信課が独立してできた大連支局でもそのまま使い続けられました。

満洲の野戦局は軍政時代から全局(非公開6局を除く)で野戦郵便為替・貯金を取り扱い、為替貯金記号が与えられていました。大連にあった旧関東第1野戦局は「満は」で、この証書にも流用して表示されています。満洲ではなぜか民政化後も為替貯金専用の日付印は長いこと使われませんでした。C欄為替貯金記号印が導入されたのは、穂坂尚徳氏『在中国局の和文印』によると、大正4年6月1日のことです。

郵政事業の本庁や管理局が現業事務を行うのは異例に見えますが、事業草創期にはありがちのようでした。明治初期の駅逓寮発着課(東京局)や満洲より少し遅れて発足した樺太庁郵便電信局(コルサコフ<大泊>局→豊原局)などもそうでした。後者の場合は前身の局名「久春古丹(野戦局)」「コルサコフ(軍用通信所)」として日付印の上に表れています。

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2014年02月08日

「抹殺」された呉局テ厚紙

KURETE-4b3c9.jpg特別軍事航空はがきの一種、海軍用の「呉局テ厚紙」です。日本郵趣協会の日専カタログでは1986年版に採録が始まって以来ずっとMA6-c のナンバーが与えられていました。

しかし、2007年版でこのはがきは突然削除され、以後、カタログ上では「存在しない」ことになっています。今日はこのはがきを材料に、カタログ編集者の責任について考えます。

「呉局テ厚紙」は、海軍用のはがきの中で最も厚く、実逓のアドレスが必ず「呉局気付テ」で始まることから仮に名付けられました。0.26ミリと厚手で腰が強く、滑らかでわずかに鈍い光沢のある紙です。一方、標準版は0.22ミリと薄く腰が弱いので、紙質で簡単に区別できます。

MEIHAN.jpgまた、呉局テ厚紙は印刷が粗雑で、銘版が文字列としてやや左肩上がりに見えることでも見分けがつきます。マニラに司令部を置いてフィリピン海面を警備した第3南遣艦隊だけで使われました。将来は標準版に並ぶ別種として、「比島厚紙」の名でメインナンバーを与えることを提案します。

実は、2007年版の日専で削除されたのはこのMA6-c (呉局テ厚紙)だけではありません。MA6-a(標準版)、MA6-b(薄手粗紙)も同時に削除されました。しかし、翌08年版ではMA6-aとMA6-bが「復活」したのに、MA6-c だけは削除されたまま。その状態が最新版(11-12年版)まで引き続いているのです。

カタログナンバーが突然削除されて翌年すぐに復活したり、あるいは理由が示されないまま「抹殺」されたり、などという奇怪なことが、なぜ起こったのか。

編集部のカタログ担当者が07年版編集のさい、うっかりミスでMA6のサブナンバーa、b、c 部分の4行を削り落としたまま印刷してしまいました。あわてて08年版で戻したものの、今度は最後の2行のMA6-c を戻し忘れた、というお粗末な二重ミスが「抹殺」の真相です。担当者は頬かむりを決め込み、上司の編集長も監督する立場のカタログ委員会もチェックできず、いまだにこれをミスと認識していません。

これは極端な例ですが、他にも、サブナンバーのMA7AはあるのにメインナンバーのMA7がないとか、「標準版」と「薄手粗紙」を混ぜこぜにして、存在もしない「標準粗紙」なる〝新種〟を作ってしまうとか、シッチャカメッチャカ。日専を信じ頼っている利用者はいい面の皮です。

もし、「呉局テ厚紙」という種類は存在しないことが分かったから削ったのだ、というのなら、その理由をこそ知りたいものです。GANは当時、編集部に問い合わせたのですが、「担当者がいない、だれが直したか分からない」などと回答が得られず、ついにあいまいなままに終わってしまいました。

日専に書かれている内容にミスを見つけたり異議のある利用者はどこに申し入れればよいのでしょう。責任は、だれが取るのでしょう。発行所の郵趣協会なのか、編集実務の郵趣出版なのか、企画監修をするカタログ委員会なのか、あるいは表面に現れない「協力者」という名の執筆者でしょうか――。

スタッフが重なり、責任の所在があいまいで、外部の者にはどうなっているのかさっぱり分かりません。このようないい加減な体制が、致命的なミスをも何年にもわたって見逃し続けさせているのでしょう。

追記(2017.12.10)「日専」の最新版らしい『日本普通切手専門カタログ 戦後・ステーショナリー編』が11月10日に発行されたので、JAPEX会場で買ってみました。特別軍事航空はがきについては何の改訂もなく、旧版(11-12年版)そのままです。この記事で指摘したMA6-c (呉局テ厚紙)、MA7、MA6-b(標準粗紙)の問題も検討された形跡すらなく、ほっかむり状態が続いています。これでは最新版と称して収集家に買わせる意味がありません。この5年間の編集者、この項の「協力者(執筆者)」の怠惰、不勉強ぶりが見事に表れています。
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2014年02月07日

新「郵政博物館」の資料閲覧

MUSEUM.jpg「テイハク」こと旧逓信総合博物館が公益財団法人・通信文化協会に移管され、「郵政博物館」と名前を変えて来月1日にスカイツリーの東京ソラマチで再開されます。

既に郵政博物館のHP画像=クリックでリンクします)も開かれています。しかし、私たち郵便史に関心ある者が知りたい膨大な文献資料類の行方については何も触れられていません。

通信文化協会に直接問い合わせてみたら今日返事が来て、「研究者を対象とした資料閲覧の対応は千葉県市川市の資料センターで行う。今年4月を目途に再開の予定で、時期が近づいたらHPで利用手順等ご案内します」とのことでした。

ブラックホールのような所に死蔵されて利用できなくなるのではないかとGANなどは心配していました。何と言っても官側の文献類が唯一残されている日本郵便史の宝庫です。利用の途は残されているようで、まずはホッとしました。

さらに調べて見ると、「市川市の資料センター」とは、そういう建物を作るわけではなく、現在の行徳郵便局の局舎を間借りするようです。同局が集配局から無集配局に替わったためスペースが空き、そこに保管するということで、利用者の使い勝手はあまり期待できそうにありません。

最も問題なのがアクセスです。東京メトロ東西線行徳駅が最寄り駅のようですが、大手町から25分がかりで行徳駅に着いても、歩いてさらに15分といいます。つまり、東京・埼玉・神奈川方面からだと、これまでより40分余計に時間がかかることになる。神奈川の奥地在住のGANは、うーん、ちょっと気が重いです。

「一部の好事家」に文献類を閲覧させても日本郵政グループ はもちろん通信文化協会には一銭のメリットもありません。特別の便宜まで図ってやる必要もなかろう、ということでしょう。「利用料」などは……取らないでしょうねえ、よもや。何と言っても協会の目的は「通信文化の普及・発展」が大きな柱だそうですから。

このあたり、実際にはどうなるのか。資料センターがオープンしたら、少なくとも一度は行ってみて、利用者の立場からリポートしてみようと思います。
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2014年02月06日

沼津局1回だけの林式印

沼津林.JPG近着の入荷品です。これも平凡な銘付き分銅はがきの大正14(1925)年年賀状に過ぎませんが、「沼津 14.1.1」櫛型印が手押し印でなく林式機械印なのが、取り上げる理由です。

関利貞氏の『林式郵便葉書押印機による印影について(前編)』によると、駿河国の沼津局はお隣の三島局と共に、大正14年の年賀状処理用に初めて林機を導入しました。

しかし、翌年からはもっと優秀なL型波線の付いた米ユニバーサル社系機に切り替えられてしまいます。つまり、沼津、三島両局で林式印はわずか1回、年賀特別取扱の2週間程度しか使われなかったことになります。

nu3.jpg両局に押印機が導入されたのは、共に大正11(1922)年に郵便局のランクが3等局から2等局に昇格したことと関係があるのでしょう。

同じような押印機使用状況をたどった東京の寺島、亀戸局などと比べ、やはり地方の小局です。「沼津」「三島」林式印は、長らく密かに待っていたGANの眼前にはなかなか出現してくれなかったものです。

まったくの蛇足ですが、GANが高校生時代を送った静岡県東部の中心都市・沼津には1879年の郡区町村編制法以来、駿東郡役所が置かれていました。

大正12(1923)年7月に合併により沼津町は沼津市となり、駿東郡から離脱します。すると、大正14年は駿東郡ではないじゃないかって? まあまあ、固イコトナシヨ。この地域はGANが愛着する収集範囲です。
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2014年02月05日

青島局の海軍有料使用例

TSINGTAU.jpg第1次大戦終了後、中国山東省・青島に入港中の第1艦隊巡洋戦艦「金剛」の乗組員が発信した分銅はがきです。日本の青島局機械印「青島 11.6.26」で引き受けられています。最近入手しました。

大戦後の世界秩序を調整するワシントン会議に参加した日本は、アメリカと巧みに組んだ中国に大きな譲歩を強いられます。山東省からの撤兵と施政権返還、在中国外国郵便局の撤廃もその一つ。隣国の日本は他国に比べ断トツに多い42もの郵便機関を置いていました。世界情勢の流れを解読できなかった日本外交の完敗です。

日本はドイツ領膠州湾租借地を攻略した余勢でドイツ資本の膠済鉄道(山東鉄道)まで占領します。沿線に駐屯する青島守備軍の兵士には無料軍事郵便が適用されていました。1921(大正10)年4月、撤兵のための兵力縮小を機に無料軍事郵便は廃止されます。残存した少数の部隊は月に2枚の軍事切手制度に切り替えられました。

これ以前、青島に入港する海軍の艦船は青島野戦局や後身の青島局を通じて無料軍事郵便を利用できていました。しかし、以降は青島局で切手やはがきを買って普通郵便として差し出さなければなりません。

もともと艦船の入港は少ないのに、有料となったうえ、さらに22年12月には青島局自体が廃止されます。故に、機械印は別に、このような有料になってからの海軍の青島局使用例は極めて少ないであろう、ウォッホーン。GANだけの密かな逸品です。
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2014年02月04日

察哈爾省の満系郵局

CHANGPEI-1.JPGCHANGPEI-2.JPG今日届いたヤフオク落札品です。一見すると満州国康徳4年(1937年)の白塔はがきの駄ものですが、引受印の「張北」は満州国ではありません。内蒙古、あるいは蒙彊と呼ばれた中国・察哈爾省の町です。当時の関東軍の「華北(北支)分離工作」を示す好史料とGANは考えています。

内蒙古に満州国系郵政機関が開設されていた事実は、戦前にまず荒井国太郎氏が「蒙彊郵政概要」で言及しました。戦後になって松岡登氏が「内蒙古察南地方の満州国系郵便局」で詳しく書きます。1936年1、2月に張北、徳化など6局(その以前に多倫局も)が開設されたことをエンタイアの写真付きで明らかにしました。共に『切手趣味』誌に掲載されています。

Feb06#04.jpgこれを「満洲国による蒙古郵政の委託経営」と解説する中国占領地切手収集の「専門家」たちがいますが、事実誤認です。張北など6局が開局した36年初頭には、まだ委託する主体となる政権など影も形もありませんでした。

満洲国郵政総局の『満洲帝国郵政事業概要』に「察哈爾盟の郵政は本邦郵政の委託経営となり……」と書かれているのを「専門家」たちは鵜呑みにしているのでしょう。しかし、満洲国側にはこういう記述にして事実を偽装せざるを得ない事情があったのです。

蒙古王族の徳王が内蒙古で初の非国民政府系の「蒙古軍政府」を徳化で発足させたのが36年5月でした。軍政府が満州国交通部と初めて郵政業務暫行委託協定を結んだのは37年に入ってからです。軍政府の勢力範囲は察哈爾省の中南部にあたる察哈爾盟を中心としたごく狭い地域です。この協定でも「蒙古郵政の委託」などとは、とても言えたものではありません。

それでは、協定以前の満系郵局にはどういう根拠があるのか。根拠は全くありません。強いて言えば侵略です。関東軍が「察東事件」を引き起こして察哈爾省東部を占領し、これに付随して満洲国の日系郵政職員が既存の中国郵政機関を実力で接収したのが実態です。『郵政事業概要』の表現は、こういった事実を隠蔽するため時系列を前後させた美辞に過ぎません。

日本は内蒙古を含む華北全体を中華民国から分離・支配することを策していました。関東軍がその一環として実行し、35年12月に蒙古族の李守信将軍を操って察東6県に侵攻させたのが、この察東事件です。後に察哈爾・綏遠両省を国民政府から「独立」させ、「蒙古聯合自治政府」にまとめ上げる第一着となりました。

このはがきはそんな謀略の真っ只中に、蒙古軍に加わったと見られる日系将校が差し出したものです。アドレスは「承徳特務機関気付・張北特務機関気付・鉾田公館」で、逓送路が張北-多倫-承徳-奉天を経て日本と結ぶルートだったことを示唆しています。「鉾田公館」は蒙古軍政府に対する日本の外交代表だったのかも知れません。
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2014年02月03日

日本最初飛行通信

 ATWATER.jpgネットの売り物でアットウォーターの飛行通信記念絵葉書「使用済み」とあるのを見つけ、コレコレとばかりに注文しました。届いた封筒をドキドキしながら開けて見たら、やっぱり品川-横浜間の実逓ではありません。う~~~~ん、残念!!

この絵はがきは1912(明治45)年6月1日に米人飛行家が京浜間の海上で水上機を操縦して日本最初の「飛行通信」を挙行するに当たり発売されたものです。昔、園山精助氏の快著「日本航空郵便物語」で知りました。いや、「カナイ・スタンプレーダー」連載「空を飛ぶ郵便」の方が先だったかも知れません。

以来、ほしいなあと思っていたものです。未使用なら、ほかに2点入手していますが、実逓となると、今日までチャンスがありませんでした。
 
一度だけ、10数年前にオーストラリアの業者のネット販売カタログで、まぎれもないカシェ付きの実逓が、とても良いお値段で出ているのを発見したことがありました。清水の舞台から飛び降りる覚悟をようやく固めて申し込んだところ、なんと、「ソリー、少し前に売れたばかりだ。外すのを忘れてたんだ」。胆がどっかに落ちてしまい、数日間は仕事が手に着きませんでした。

今回のはがき(画像=クリックで拡大できます)は、実逓は実逓なのですが、神戸三宮局明治45年6月9日の引受印と、翌日の鹿児島局到着印があり、京浜とは無関係です。通信文や園山氏の著書によると、6月8日に会場を西宮海岸に移して2回目の公開飛行が行われました。その見物人が当日差し出したものですが、飛行機には積まれていないようです。GANは以後、言動をいっそう正し、さらなる入手の機会を期すこととしております。
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2014年02月02日

検閲封緘ラベルの謎

Tomsk-1.jpg
Tomsk-2.jpg

今日は日曜というのに郵便配達が来ました。だいぶ前で忘れていたeBayで落としたカバー(画像=クリックで拡大できます)でした。ギリシャの業者は悠揚迫らぬものです。

旧蔵の仏人コレクターの書き込みにより「セミョーノフ軍の検閲カバー」との触れ込みですが、もちろんセミョーノフと無関係なことは承知でした。

反革命コルチャーク政権(オムスク政権)がまだ勢いがあったロシア内戦期、トムスクからパリに宛てたカバーです。革命政権の首都・モスクワやペテログラードから直行とはいかず、はるばる日本→北米経由の大迂回をして届いています。

旧露紋章切手計60コペックを貼り、トムスク19年2月10日引受、横浜19年3月1日中継、パリ到着19年4月14日は、まあ理解の範囲内。GANにはまったく解釈不能なのが英文の検閲封緘ラベルです。

「米や英を経由しただろうから当然」と考えがちですが、どっこい、このラベル、ウラジオストク局の検閲印(裏面紫色4行印=右画像)がタイしているのです。つまり、ウラジオストクかそれ以前に米英当局の検閲を受けたとせざるを得ない。

当時のウラジオストクには、日本のほか米英の干渉軍が出兵していました。その野戦局・軍事局が検閲した可能性がわずかに残ります。しかし、そんな面倒なこと、野戦の現場で実際にやるかなあ。GANはこれまで他に例を見たことが無く、大いに頭をひねっています。面白い研究材料を入手できました。

追記(2014.02.06) 英国の友人Ken Clark氏に問い合わせたところ、WW1検閲印の専門家Graham Mark氏の意見を聞いていただき、「英当局がウラジオストクで行った検閲」の封緘ラベルと分かりました。同氏の論文の該当個所コピーも送っていただいたので、目下鋭意解読中です。
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2014年02月01日

毎度、将軍のニセ手紙

NOGI.jpgヤフオクにまたまた乃木将軍のニセ軍事郵便が出品されています。「非常に貴重な肉筆書簡です」などと無責任にうたっていますが、歴史的事実からも、郵便史研究の成果を援用しても、偽造品であることが簡単に証明できます。

1、裏面に「旅順ニテ」「十月二十五日」と書かれていますが、将軍が日露戦期の10月25日に旅順に滞在していた事実はありません。明治37年だったら旅順はまだロシア軍が保持しており、将軍は外郭要塞群を攻めあぐんでいる最中でした。38年には将軍は奉天あるいはその北方の第3軍司令部に滞陣中で凱旋・帰国待ちでした。歴史的事実とエネルギー不滅の法則に反します。

2、表面に2個ある丸型「第三軍」の黒印はニセモノ専用の架空印で、実際に使われたものではありません。旅順から広島に宛てた軍事郵便なら押されているはずの野戦局の引受印と広島局の到着印がありません。

GANは出品者に第1点だけを指摘して質問を送っておきました。どう対応するでしょうか。これまでの例だと、出品を取り下げる、「専門知識はない。応札者に判断して頂く」とする責任回避型、回答もせず無視する確信犯--と3様でしたが。

「乃木レター」は筆蹟コレクターや有名人オタたちに根強い人気があり、ネットオークションにも出品が絶えません。しかし、GANがこれまで見た限りでは日露戦争の無料軍事郵便は100%ニセモノでした。前後の時代の有料郵便なら真正品も多いのに、日露戦期だけ無料軍事郵便のホンモノが出て来ないのが残念です。ただし、旅順攻略後のファンレターに対する返礼と思われる外国宛て有料(4銭貼り、3軍4局引受)はがきは真正です。

このニセ手紙は恐らく昭和初期頃に同一人が企画して大量生産したもので、今でも業界にたくさん出回っています。歴史認識がとても浅く、軍事郵便の知識などもちろんない時代だったので、こんな稚拙なものでも大手を振って通ったのでしょう。さすがに最近では「ババ抜きのババ」状態で、同一品でも出品者を替え素人狙いでヤフオクに頻繁に出品されています。

ちなみに、2012年9月18日放送の「なんでも鑑定団 in 長久手市」に出品され、有名鑑定士が80万円と評価した「陸軍大将乃木希典の書簡」もこれと同じニセモノ作品です。出品者ばかりか社会に誤解と迷惑を与えたこの鑑定士は無能を恥じ、謝罪すべきです。

追記(2014.02.05) この手紙は本日20,500円で落札されました。真正品の相場の1/5~1/10という安さですから、出品者も10人の応札者たちもニセモノと承知の上なのでしょう。出品者はついにGANの「質問」に回答しませんでした。上記第3のタイプです。
posted by GANさん at 11:47| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセモノ列伝 | 更新情報をチェックする