2014年03月27日

佐世保局での戒厳地検閲

SASEBO-1.jpgSASEBO-2.jpg日露戦争の旅順攻略戦や日本海海戦などで活躍した新鋭の装甲巡洋艦「吾妻」から開戦直後に出された書状です。ネットオークションの落札品がきょう到着しました。

発信日は2月19日で、佐世保局明治37(1904)年2月22日の引受印が押されています。封筒の表面中央部に明朝体で「(佐世)保戒厳地司令官開緘」の朱印があります(画像=クリックで拡大できます)。裏面の最上部には薄い和紙が貼られており、それに押されている丸型の認印は「田邊」と読めそうです。

開戦直後の2月14日、長崎、佐世保、函館の3要塞地帯と対馬全島はロシア軍に攻撃される可能性の高い臨戦地境として戒厳が宣告されました。戒厳令が施行されると、その第14条で戒厳司令官に郵便・電報の検閲権が与えられます。

この封書は戒厳令に基づいて佐世保戒厳地の司令官が開封検閲したものと思われます。裏面に残る和紙は検閲後の封緘紙の一部で、認印は検閲者を表しているのでしょう。佐世保戒厳地司令官は、とくにそういう役職が新設されたのではなく、佐世保鎮守府司令長官の兼務とされていました。

第2艦隊に属する「吾妻」を含む聯合艦隊はこの時期、第1次旅順口攻撃を終えて次の旅順港口閉塞作戦の準備中でした。朝鮮の鎮海湾か佐世保に入港中だったと思われます。この封書はアドレス表記や引受日との関係を考え合わせると、鎮海で発信されて輸送艦などで佐世保まで運ばれた可能性が高そうです。

2月22日に佐世保局で引き受けられ、3月1日に浜松局に到着しています。6日間というのはあまりにも時間の掛かりすぎで、検閲のため数日が費やされた可能性があります。軍艦の乗員が時期作戦に関する情報を漏らさないか、警戒されたのでしょうか。

実際の検閲作業は佐世保局に「田邊」氏ら検閲官が派遣されて行ったと見られますが、詳しい実態は分かっていません。この後、海軍の検閲は郵便局に到着してからでなく、発信時にあらかじめ部隊(艦船)内で検閲するようになります。効率を考えれば当然の措置でした。そのため、海軍兵士の郵便が一般局で検閲されたのは、最初期だけに限られると思います。

戒厳地での郵便検閲は、これまで長崎局で数通知られています。長崎局以外は外国郵便交換局ではなく、検閲はなかったのではないかとも考えられていました。佐世保局で、しかも内国郵便の検閲は、これが初めてです。すると、函館局や対馬の厳原、鶏知局などではどうだったのか、興味が持たれるところです。
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2014年03月20日

郵政博物館資料センター

ENTRANCE.JPG冬も終わろうという間際に風邪を引き、思いがけず1週間近くも寝込んでしまいました。頭がより一層ぼんやり・どんよりとし、文章が書けませんでした。ブログの更新を怠る結果になりましたことをお詫びします。

開業したばかりの郵政博物館資料センターへ行ってきました。印象は「遠い」「効率悪い」の2言に集約できます。

資料センターは千葉県市川市の行徳郵便局舎内にあります(写真右)。大手町から地下鉄東西線で20分、行徳駅下車後さらに徒歩20分かかります。利用時間は火-木曜日の10時-正午と13時-16時に限定されています。付近に飲食店は見かけませんでしたから、一日利用を考える人は弁当持参が無難です。


利用するためには5日以上前にネットであらかじめ「利用目的」「利用対象資料」を明記しての申請が必要です。「承認書」がメールで送られてくるので、印刷して当日持参し提示します。ちなみに、19日に訪問したGANの承認番号は「第2号」でした。


CORNER.JPGセンターでの利用方法は、従来の逓博での閲覧と基本的に同じです。1階閲覧コーナー(写真左)で、備え付けの資料リストにより、同時に3冊まで請求できます。3階執務室にいる係の女性が愛想良く資料庫へ探しに行き、持ち帰ってくれます。逓博時代と同様に整理状況はよくないようで、請求した通りのものが出てくるまで相当な忍耐心が求められます。1階と3階を結ぶ内線電話はありません。係が適当に回ってきてくれるのをひたすら待ちます。


逓博と異なる最大の点はコピーが許されないことです。ただし、閲覧者がページを押さえながらケータイやスマホでパチリとやるのは構わないそうです。


うーん、なかなか。お役所以上に見事なお役所仕事ではあります。情報公開などどこ吹く風。一般人などなるべく来ないでもらいたい、面倒な手間は取らせないでほしい、という思想であることがよく理解できます。「郵便史研究」を冠する団体も活動していることです。黙っている手はないだろう、と思うのですが。

スカイツリー展示場がどんなに華やかでも、こちらには郵政・郵便史研究への配慮は見られません。先人が蓄積した史料がともかくも散逸を免れたことに、GANなどは満足するしかありません。

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2014年03月12日

「リ一七」御殿場局記番印

RI-17.jpg今日届いたネットオークションの落札品で、御殿場から東京に宛てた、記番印の押された小判はがきです(画像=クリックで拡大できます)。御殿場はKG10月24日、中継の沼津もKG印で10月25日ですが、幸い東京のN2B2印から明治11(1878)年と分かります。

東京印は「十二年」の可能性もあったので、田中寛氏のご教示を受けました。それによると、東京は12年9月30日までN2B2で、翌日からN3B2に切り替わっているそうです。

従って、12年10月26日のN2B2はあり得ず、このはがきの東京着印は「十一年」で確定できました。一発回答です。嗚呼、持つべきものは友人哉。それと、友がすぐ引っ張り出してくれた先人のデータです。両方に感謝!!

駿河国駿東郡の記番印、なかでも東海道筋からはずれた富士山麓のリ一六(佐野)、リ一七(御殿場)、リ一八(竹ノ下)、リ一九(須走)は、なかなかお目にかかれません。GANもこのはがきがやっと入手できた第1号です。

郵便として興味深いのは、御殿場から東京に向かうのに沼津を経由している点です。今でこそ御殿場-東京間は東名高速を厚木経由でひとっ走りですが、それを「逆送」して沼津で東海道に出ています。一見後戻りとも見えるこの逓送路がなぜ採用されたのか、課題です。

御殿場を出て沼津を経由しない逓送路としては、竹ノ下から足柄峠を越えて相模国関本-小田原のルート、竹ノ下から鮎沢川沿いに下って相模国松田惣領-小田原のルートが考えられます。しかし、これら「小田原ルート」を証するエンタイアを、残念ながらGANはまだ見ていません。極端な例として、小田原宛てを沼津で中継した手紙もあります。

東海道線が沼津-御殿場-松田-国府津を結んで開通するのは1889(明治22)年のことでした。以後の逓送は鉄道に搭載するので極めて分かりやすい。では、その以前は--。

沼津ルートが主流だが、小田原ルートも何らかの条件しだいで使われた、というのがGANの仮説です。その条件とは何だったのか、いま考えています。

追記(2014.03.20) その後、田中寛氏にお調べいただいた結果によると、明治10年線路図には竹ノ下から先、相模国への逓送路はなく、どん詰まりになっているそうです。御殿場から小田原方面へは直行せず、すべて大回りして沼津経由だった、が結論でした。道遠し、幻の「小田原ルート」解明、です。
posted by GANさん at 19:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 静岡県駿東郡 | 更新情報をチェックする

2014年03月11日

開設直後のロシア旅順局

PORT ARTUR.jpgロシア紋章4Kはがきに紋章1K無加刷切手を加貼した外信料金で旅順(ポート・アーサー)ロシア局が1898(明治31)年5月15日に引き受けた国際郵便です(画像=クリックで拡大できます)。

上海のロシア局が6月6日に中継し、ドイツ・キール局に7月11日に到着しています。上海から欧州までの経路が不明ですが、薄い印影から英船でスエズを回ったようにも見えます。

TCHILINGHIRIANの「外国で使われた帝政ロシア切手」によると、ロシアは旅順占領直後の1898年3月28日にポート・アーサー局を開設しました。最初期データは98年10月5日です。このはがきはそれを5ヵ月近く更新する最古使用例となります。確かに、ハンコは開局からわずか1ヵ月半らしく、極めて鮮明に見えます。

ロシアは日清戦争後の「三国干渉」で清国に恩を売り、旅順を含む遼東半島を租借しました。旅順に軍港と要塞を整備し、鉄道をシベリアから引き込んで、極東進出への巨大軍事拠点を建設します。のど元に匕首を突きつけられた形の日本は大いに焦り、ロシアとの妥協を図りますが、結局失敗します。

ところで、極東と欧州を最短距離で結ぶ鉄道ターミナルの旅順なのに、なぜこのはがきは真逆の海上を運ばれたのか。もちろん、シベリア鉄道に接続する東清鉄道がまだ工事中だったからです。哈爾賓-旅順間の東清鉄道南部支線の営業開通は1903年1月になりました。その1年後、日本はついにロシアとの戦争に踏み切ります。

このはがきは、当の旅順から、脅威におののく日本を横目にしつつヨーロッパに運ばれていったことになります。
posted by GANさん at 23:27| Comment(2) | TrackBack(0) | ロシア極東 | 更新情報をチェックする

2014年03月10日

蒙彊からの最初期郵便

KALGAN.jpg日本軍占領下の中国・内蒙古(=蒙彊)張家口から山形県に宛てた孫文2.5分はがきです(画像=クリックで拡大できます)。引受印は中英バイリンガル表示の局名で萬全(張家口)、WANCHUAN(KALGAN)、日付は民国27(1938=昭和13)年2月15日です。

この時期の蒙彊は激動の渦中にありました。日中戦争開戦直後に関東軍が察哈爾作戦を発動し、察哈爾、河北、山西省に及ぶ長城線沿い北側をすべて占領してしまいます。「満州国」防衛のため、蒙彊と華北の北部地域を勢力下に置くのが狙いでした。

関東軍の蒙彊占領地には察南、晋北、蒙古聯盟という傀儡の自治政府が次々と組織され、3政府は合同で蒙彊聯合委員会を構成していました。37年10月20日には域内の郵政統合に向け張家口に郵政管理処が開設され、同年末には満州国への郵政委託も廃止されます。日本軍の下で独自郵政を実施する基礎が整いました。

日本による中国占領地郵政がいつから開始されたかは議論があるでしょう。蒙彊で満州国郵政が(表面上は)撤退した38年1月初頭からとすべきだというのが、GANの考えです。中国占領地専門家の間では華北6区加刷(「5省加刷」と蒙彊加刷)切手発行の41年7月から、が通説のようですが、それは一つのイベントに過ぎません。

蒙彊以外の華北と、華中、華南で占領地郵政が開始されるのは更に後のことになります。それぞれの始期については、別の機会に詳しく考察したいと思います。

このステーショナリーは、表面上は料金も日付印も、恐らくは逓送路も旧中国郵政のままです。しかし、国際郵便なのに宛名に「日本」を書かず、いきなり「山形県」としているのは、実は異常です。扱う職員が既に旧中国郵政から日系に切り替わっていることを示唆しています。これこそ占領郵政の表徴です。

このように見てくると、このはがきは蒙彊郵政の最初期使用例であり、中国占領地郵政として最初期の郵便と言って差し支えないと思います。
posted by GANさん at 23:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 中国戦区 | 更新情報をチェックする

2014年03月08日

野戦局が扱った民間郵便

MANILA.jpg三菱商事大阪支社から日本軍占領下フィリピン・マニラの支店に宛てた封書です。大阪中央局で昭和17(1942)年9月23日に引き受けられました(画像=クリックで拡大できます)。

太平洋戦争で南方攻略作戦が一段落すると、南方総軍は軍政下での民政(民間行政)回復に取りかかります。現地郵政機関の再建には時間がかかるとみられました。臨時措置として大都市の在留邦人や商社と日本との間の郵便に限り、42年3月27日から開始しました。

取扱地域はフィリピン、マライです。遅れて5月1日からスマトラ、ジャワ、北ボルネオ、6月1日からビルマも追加されました。封書とはがきに限られ、内国料金が適用されました。仏印と泰も日本軍征圧下にありましたが、同盟国として外国郵便の扱いのままでした。

この臨時取扱はあくまでも普通郵便なのですが、軍事郵便と同じに扱われました。日本からの郵便物は軍事郵便交換局に集められ、陸軍の輸送船で占領地の野戦郵便所に運ばれています。このため、宛て先のアドレスには必ずその地にある野戦郵便所名を肩書きすることとされました。

この封書は「マニラ野戦郵便所気付」と肩書きがあり、臨時取扱を受けたことを示しています。臨時取扱としては最末期の使用例です。貼られている東照宮10銭切手は当時の封書基本料金の2倍です。切手の右上に「40g」と鉛筆書きがあり、基本重量20グラムの2倍料金を支払ったことが分かります。

現地の郵政復興に伴い、この臨時取扱は半年後の42年9月末限りで廃止されます。以後の南方への郵便は軍事郵便と別の民政郵便ルートで扱われました。野戦郵便所の肩書きは廃止されましたが、料金は政治的な配慮により内国料金のまま据え置かれました。
ラベル:野戦郵便所
posted by GANさん at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする

2014年03月07日

検閲で削除された米誌

WRAPPER.jpgアメリカから送られた雑誌のラッパー(郵便帯紙)の一部です。横浜局1938(昭和13)年3月1日の日付印のある付箋が貼られています(画像=クリックで拡大できます)。

このラッパーで送られたのはニューヨークタイムズ社発行の月刊誌CURRENT HISTORYで、東京の立教大学図書館司書に宛てられています。

付箋には「本誌第22頁ハ安寧秩序ヲ紊スモノト認メラレ、逓信省郵務局ニ於テ削除処分ニ付セラレタルニ付……」とあります。「安寧秩序ヲ紊ス」記事があったので、東京の本省でその部分を切り取った、と検閲実施が明記されています。この雑誌はラッパーごと横浜-東京間を往復した後に東京へ配達されたことになります。

当局が「安寧秩序ヲ紊ス」と認定した記事とはどのようなものか。CURRENT HISTORY誌は国際的な大事件や書評を主に扱っていました。タイミングからいって、1937年12月に日中戦争の中で日本軍が引き起こした南京虐殺事件の評論ではないかとGANは推測しています。

逓信省郵務局業務課が1938年4月に作成した内部文書「通信取締ニ関スル参考資料」によると、1928(昭和3)年の共産党大弾圧事件(3.15事件)をきっかけに、逓信省は外国からの「不良思想潜入防止」のため検閲を格段と強化したようです。

「外国郵便交換局及船内局ニ語学ニ精通セル者合計140名ヲ配置シ外国来書籍印刷物ニ対シ個別ニ検査セリ。不穏ノ疑アルモノヲ発見シタルトキハ本省ニ送付セシメ本省ニ於テ再審ノ上内務省ニ移送ス」とあります。この雑誌はまさにこの検閲で上げられたのでしょう。

明治憲法の下でも信書の秘密は保障され(第26条)、検閲は禁止されていました。しかし、逓信省の法解釈では、それは第1種(封書)だけに限られ、第2種(はがき)、第3種(定期刊行物)、第4種(印刷物)などはすべて検閲できると、この内部文書に記述されています。

一般に、日本で郵便検閲が開始されたのは太平洋戦争直前の1941年10月の臨時郵便取締令からだと理解されています。しかし、実際には検閲はそのずっと以前から半公然と行われていました。それを史料として明らかにするこのようなラッパーが後世に伝わるのは、極めて稀な例だと思います。

追記(2016.06.12) 『続逓信事業史』(三)「郵便」に、この件に関連した記事(pp.302-303)のあることに気が付きました。1929(昭和4)年、主要な外国郵便交換局に特別要員を配置して外国からの「不穏記事」掲載誌など印刷物の検査を開始。出版法、新聞紙法などに関連させて輸入禁止、差押え、内務省に通報などの処置をとった。1938年度に開披検査した外国来印刷物は315万個、差押えは3万3千個にのぼった、と記述されています。このラッパーの存在は、差押えまでに至らない処分も行われていたことを示しています。
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2014年03月06日

朝日新聞の無料飛行郵便

ASAHI-2.jpgASAHI-1.jpg一見してありふれた田沢3銭貼りの封筒に過ぎませんが、赤色「飛行郵便」印がいわくありげです(画像=クリックで拡大できます)。

表面の引受印は東京中央局昭和3(1928)年2月24日ですが、裏面を見ると、「大阪を2月23日の発信」です。わずか1日で東京に届くのは、確かに「飛行機輸送の郵便」しかあり得ません。

逓信省は1929年4月から「航空郵便」制度を実施しました。航空郵便では基本郵便料に加えて航空割増料金が必要です。

しかし、この封筒には基本料金の3銭切手しか貼られていません。この点で、1年余り後の航空郵便とは根本的な違いがあります。航空郵便制度実施以前は、同義語の「飛行郵便」も多用されました。

この封書を空輸したキャリアー(航空会社)は、大阪朝日と東京朝日の両社が共同運営する東西定期航空会です。逓信省は1925(大正14)年4月に民間各社に郵便物の空輸を許可していました。東西定期航空会もその一つで、大阪-東京という大幹線に貨物主体の定期路線を運行する当時最有力のキャリアーでした。

朝日新聞社の記録によると、東西定期航空会の大阪-東京線の運行は1923年1月から週1便の小荷物輸送で始まりました。1929年に国営の日本航空輸送会社が本格運航を始めるに際し、この路線を同社に譲渡して撤退しました。無料の定期郵便輸送は25年から29年までの4年間だったことになります。

無料輸送期の航空郵便は、郵趣家が作成したものは別として、実務的に利用された「コマーシャル・カバー」はなかなか残っていません。航空輸送が社会的信頼性を獲得していく過程を示すものとして、この封筒の資料性は高いと、GANは考えています。
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2014年03月04日

外信料金適用の軍艦郵便

HASHIDATE.jpg巡洋艦「橋立」乗組みの少尉候補生宛て軍艦郵便です。外信用4銭の薄墨連合はがきで江田島局1906(明治39)年5月13日に引き受けられています(画像=クリックで拡大できます)。左下の薄い欧文印は長崎局5月14日のようです。

「橋立」は「松島」「厳島」と共に「三景艦」と呼ばれて親しまれ、日清戦争で大活躍しました。その後は第一線を退き、少尉候補生の練習航海などに使われました。このはがきも、練習艦隊に加わって航海中の「橋立」に宛てたものです。艦隊は海軍兵学校第33期生を乗せて豪州方面に向かっていました。

軍艦郵便とは、外国にある海軍艦船と本国の間に発着する郵便物を閉嚢に納めたままで逓送して受け渡す万国郵便連合(U.P.U.)の制度です。例えば1906年のローマ条約では第15、26条に「軍艦ト交換スル閉嚢」として規定されています。日本ではこの海兵33期の練習艦隊が出航する1906年2月に、1897年ワシントン条約に基づいて初めて実施されました。

この制度で、軍艦から差し出す郵便には内国料金(封書3銭、はがき1.5銭)が適用され、日本から軍艦宛ての郵便には外信料金(封書10銭、はがき4銭)が適用されました。軍人は優遇するが民間人にはその必要がない、という考えでしょう。翌1907年の海兵34期の南太平洋方面練習航海でも同様でした。

1908(明治41)年になって、軍艦宛ても内国料金に改められ、発信も受信も内国料金で統一されました。国際郵便物なのに内国料金という珍しい制度です。したがって、このはがきのように軍艦宛てに外信料金が要求されたのは1906、7年の2回だけだったことになります。

軍艦郵便に内国料金が適用される根拠について、佐々木義郎氏は「軍艦は治外法権を有するので、外国の領海に於いても自国の統治に服する」からだとしています(カナイ・スタンプレーダー79年9月号所載「船と郵便(6)」)。しかし、これは事実誤認です。軍艦といえど他国領海では(軍艦閉嚢にしない限り)その国の料金率・切手で郵便料金を払わなければなりません。

軍艦郵便の根拠は、前述したようにU.P.U.条約の特別規定です。U.P.U.非加盟国には適用されないし、加盟国軍艦であっても非加盟国に入港中だと適用されません。非加盟国(とその軍艦)には閉嚢を輸送すべき国際逓送路が利用できないからです。

佐々木氏はまた、この論考の中で「軍艦郵便は常に平時での扱いであり、これが戦時であれば軍事郵便になる」とも述べていますが、これも誤りです。戦時中に軍艦が同盟国や中立国に入港して軍事郵便を引き渡そうとしても、入港先の国は受け取らないでしょう。その国の切手で料金を払っていない無料(軍事)郵便物など引き受ける義務はないからです。

そもそも、軍事郵便の逓送を外国に委ねること自体が基本的にあり得ません。軍事郵便物が外国の手で密かに開封・解読されたら、軍事秘密が漏れ大打撃を受け兼ねません。軍事郵便は自国の逓送路が存在する範囲内でしか実施できないのです。

逆に、戦時といえども、同盟国・中立国に入港中の軍艦から閉嚢(軍艦郵便)の引き取り要求があれば、その国は引き受けて逓送する義務があります。このような軍艦郵便の特異性は、軍事郵便の本質を理解する上でも極めて重要だとGANは考えます。
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2014年03月03日

古北口での満華通郵

NANLANPING-2.jpgNANLANPING-1.jpg大阪もの第3点目(最後)は「満州国」から中国に宛てた、いわゆる満華通郵の郵便物です。この封書は山海関ではなく、もう一つの交換地・古北口で交換されています。

満州国切手通郵12分に白塔1分を加貼した13分の書留便です(画像=クリックで拡大できます)。熱河省承徳局で康徳4(1937)年5月15日の引き受け、北平(北京)に宛てています。

この時期は日中戦争開戦の2ヵ月足らず前です。華北の北平・天津地区は混成旅団規模にまで増強された日本の支那駐屯軍の軍事征圧下にありました。

承徳を発してわずか1日後、5月16日にこの封書は古北口に着いています。裏面櫛型欧文印のNANLANPING(南灤平)とは古北口のことです。満州国は長城の南側、中国河北省の古北口に開設した税関と郵局にこの地名を創作して付けました。実際にある満州国側の町・灤平の南方、の意味です。両地はだいぶ離れてはいますが、まあ、根も葉もないウソでもありません。

この封書は古北口を出た翌17日、もう北平に着き、さらにその翌18日に宛先に配達されました。北平の2個の日付印から分かります。考え得る最高の速度で逓送されたと言えるでしょう。通郵が非常に順調に行われていたことを図らずも示しています。

ここに一つ、大きな問題があります。表面の紫色角印は中国語で「この郵便物の切手は無効なので、郵便料は当局が賠償払いした」という意味の中国・山海関転逓局(交換局)の注意表示です。すると、この封書は山海関を経由しているのか?

GANの考えでは、この封書は山海関を通っていません。4種類の日付印の跡をたどると、山海関に回る時間が存在する余地がないのです。山海関転逓局の印は中国側の古北口局で押されたものでしょう。

そもそも古北口と山海関を直結する郵便路などありませんでした。どうしても両地を結ぼうとしたら、満州国側では奉天を、中国側では北平・天津を回らなければなりません。少なくともこの封書に関する限り、あり得ないルートです。

これまで、山海関転逓局の印がある郵便物は必ず山海関で交換されたと考えられてきました。しかし、時間と経路をはっきりたどれるこのようなエンタイアが出現しました。今後、とくに熱河省発着を中心に、古北口か山海関か、交換局を再検討する必要が出てきた、とは言えそうです。
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2014年03月02日

シベリア俘虜の郵便

KRASNAJA-1.jpgKRASNAJA-2.JPG大阪もの第2点目は、日本軍がシベリアで管理したオーストリア軍俘虜発信の俘虜郵便はがき(画像=クリックで拡大できます)です。英・独・仏とチェコ語で印刷された俘虜専用ステーショナリーが使われています。

1919(大正8)年11月27日にハバロフスク郊外のクラスナヤレチカ収容所からウイーンに宛て出されました。収容所の紫色丸型検閲印とMOJI局19年12月14日の引受印があります。

クラスナヤレチカ収容所から門司までは、日本軍の第4野戦局(ハバロフスク)、第1野戦局(ウラジオストク)と敦賀局が逓送に加わっているはずですが、消印はありません。第1野戦局からは門司局宛て閉嚢便で送られたと思います。開嚢した門司局で初めて郵便物として正式に受け付けられました。

この当時、日本はロシア革命への連合干渉に加わって、シベリアに出兵していました。旧帝政ロシア軍は欧州戦線でドイツ・オーストリア軍俘虜を捕獲していましたが、革命の混乱で管理できなくなりました。その俘虜管理は結局、日本軍に押しつけられました。

ロシア軍はシベリアに多数の俘虜収容所を開設していましたが、どの収容所が日本軍に移管されたか、よく分かっていません。しかし、エンタイアなどから、ピェルワヤレチカ、ニコリスク・ウッスリスキー、そしてこのクラスナヤレチカの3ヵ所の収容所を日本軍が管理したことは確実です。

浦潮派遣軍野戦交通部の記録によると、日本軍は大正8年10月から約1年間だけシベリアのオーストリア・ハンガリー兵俘虜の郵便を扱いました。その総数は5万3千通です。内地の各収容所でのドイツ軍の俘虜郵便に比べると、桁違いに少なかったことが分かります。
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2014年03月01日

国際郵便を大阪に回送

SAPPORO-1.jpgSAPPORO-2.jpg先週末に大阪で開かれたオークションの落札品が、今日ゆうパックで届きました。11ロットに参戦して4勝7敗でした。とは言え、本命3ロットはすべて落とし、満足しています。その3点を順にご紹介していきます。

この封書(画像=クリックで拡大できます)は関東大震災の直後に札幌からフランスに宛てた書留便です。表面に外郵料金として計20銭、裏面に書留料金計10銭が貼られています。

札幌局引受印は大正12(1923)年10月10日。「書留」表記は商品の売価表示用レッテルで代用し、書留番号は墨書きされています。書留番号器や書留ラベルを切らしていたようです。

札幌局はまた、裏面に貼られた切手の押印を漏らしていました。外国郵便交換局として処理した大阪局が1923年10月15日の欧文印で抹消しています。いずれも震災後のドサクサぶりの表れと見えます。

この時期は震災で横浜局が壊滅し、交換局の機能を失っていました。横浜局で処理すべき国際郵便物は神戸局に転送され、神戸港から北米航路や欧州航路船に搭載されました。この封書も東京や横浜を回避してはるばる大阪に送られ、さらに神戸局に逓送されたとみられます。

関西や九州方面からの国際郵便なら受持交換局は神戸や大阪なので、震災の前後を通じてKOBEやOSAKAの欧文印があるのは当然です。関東や東北・北海道からだと平常時は受持交換局のYOKOHAMAやTOKIOの欧文印です。この封筒のように、北海道から出されたのにOSAKA印を持つのは、大震災直後だけの特殊例でした。

横浜局が外国郵便交換局の機能を回復したのはいつか、明確な記録は見つかっていません。しかし、10月半ばごろであろうことがエンタイアから推定されています。10月20日には国際郵便物の神戸転送を取り止め、横浜局に復する通知も出されました。従って、この封書は横浜を回避した国際郵便として、最末期の使用例になります。
posted by GANさん at 19:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 関東大震災 | 更新情報をチェックする