2014年04月30日

ボールドウイン飛行大会

BORDWIN-1.jpg1911(明治44)年に日本各地で興行した米ボールドウイン飛行団関連の絵はがきです。日野熊蔵・徳川好敏両大尉の日本人初飛行から3ヵ月。この興業は、一般の日本人が初めて見る飛行、初の「航空ショー」でした。

『日本航空史 明治・大正編』によると、飛行団は、ボールドウイン団長が操縦士2人、複葉機2機を率いて興業的なサーカス飛行を見せるチームだったようです。

フィリピン巡業を終え帰国の途中、乗船が神戸に寄港したところをたまたま大阪朝日新聞記者が取材したことがきっかけでした。同社が謝礼金1万円を提示して日本での飛行会開催を持ちかけました。

BORDWIN-2.jpg1911年3月12日、大阪朝日新聞社が主催して大阪城東練兵場を会場に、飛行会を無料で公開しました。関東や九州からも含め40万人もの見物客が集まり、大阪市空前の大イベントとなったといいます。

これにプロの興行師が飛び付きました。飛行団は5月上旬までに、西宮、東京、京都、名古屋、川崎など各地を回って有料の飛行会を開きます。いずれも大盛況で、飛行団はひと儲けできました。「日本人は大変な飛行機好き」。以後、欧米飛行家の来日ラッシュにつながります。

この絵はがきの差出人は金沢の学生でしょうか。京都に帰省中の4月8、9両日に島原競馬場で開かれたマース操縦士によるショーを見物しました。金沢に帰った4月12日に三重県白子の友人に飛行会の感想を伝えています。

絵はがきは島原の飛行会場で求めたのでしょうが、裏面の「複葉飛行機/飛行大会紀念」スタンプの日付「44.4.1.」は東京の目黒競馬場での飛行会初日です。このスタンプは私印ですが、日本初の飛行記念スタンプとなるかも知れません。

「トンボの如き飛行機が頭上を飛んでゆくのを見て玉消えた(魂消た)。見ていてさえ愉快壮快、飛乗りて天上をかけたらば……」と日本人が初めて見る飛行ぶりに素直に感動、共感しています。

翌年のアトウォーターが芝浦-横浜という2地点間を飛行したのとは異なり、飛行団はいずれも会場内でのショーでした。貨物運送の手段という発想がまだなかったのでしょう。せっかく興行師もついたのに、飛行団の郵便飛行は残念ながら行われませんでした。
posted by GANさん at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 飛行・航空郵便 | 更新情報をチェックする

2014年04月29日

支那駐屯軍軍用郵便所

CGA-1.jpg日中戦争直前に開設された支那駐屯軍軍用郵便所が引き受けた軍事郵便為替の為替金受領書です。今日到着したヤフオクの落札品です。

軍事郵便為替は、普通の郵便為替とは異なり、依頼人には為替証書を渡しません。その代わりにこのような受領書を渡します。野戦局からの通知を受けて内地の貯金局(貯金支局)が為替証書を発行し、為替受取人に書留郵便で送るシステムです。

この郵便所は1937(昭和12)年4月1日に中国・天津の日本租界はずれにあった支那駐屯軍海光寺兵営内で開設されました。業務は野戦局とほぼ同じですが、野戦局ではありません。

日中間に戦争や事変はまだ起きていないので野戦局を設けられません。中国側に対して秘密裏に軍事専用の「日本天津局」を再度開設したのです。「軍用郵便所」はそのためにひねり出された、この1局のためだけの名称で、他に例がありません。

開設からわずか3ヵ月で日中戦争が起こると、郵便所は兵営を出て日本租界中心部・旭街の旧中国局舎を占拠し、一般邦人の郵便も扱いました。この段階で、1922年末の撤退まで存続した日本天津局と全く同じ性格となりました。この為替の日付10月18日は旭街に移転後なので、兵士でなく民間人が依頼した可能性もあります。

CGA-2.jpgCGA-3.jpg戦争が長期化し、支那駐屯軍が第1軍に改編される中で、この軍用郵便所も正規の「天津野戦局」に改編されました。地名の野戦局は日中戦争-太平洋戦争期を通じて唯一です。改編(改称)時期は翌38年10月と見られます。

両者の為替貯金記号は同じ「戦はろ」が使われ、同一局所の継承関係であることが分かります。
posted by GANさん at 23:24| Comment(6) | TrackBack(0) | 為替・貯金 | 更新情報をチェックする

2014年04月28日

最近の情報10周年記念誌

OSADA.jpg「清水の親分さん」こと「小判振舞処」主宰者の長田伊玖雄氏が編集・発行した「最近の情報発信10周年記念」誌が届きました。ちょうど検査入院する当日だったので、「これこれ」と入院グッズに加えて病院に持ち込みました。

検査待ちの退屈しのぎにちょうどいいかと思ったのですが、とんでもない。内容の重厚さに圧倒され、入院患者特有のボケ(院内感染性集中力欠損症)も加わって、精読には程遠いまま退院してしまいました。それから2日経っても、まだ完読出来ていません。

といった言い訳を前提に、小判にはまったくの門外漢の立場から、僭越ですが紹介と感想を書かせていただきます。

記念誌はA4判212ページ。小判振舞処の発行で、発行日は2014年4月吉日となっています。カラーコピーやデジタル画像を駆使し、オンデマンド方式によりオールカラーで印刷されています。一部を除くほとんどを長田氏が文字入力されたのでしょう。ページの編集と併せ、大変なご苦労だったと思います。

「最近の情報」はご存知の通り、小判切手収集家の情報や調査研究結果の共有通信の性格があります。記念誌には、伝統郵趣、文献資料、郵便史の3部門に分けて大小29編の報告ないし論文、それにアルバムリーフ紹介が載っています。

GANがチラ見した限りで最も興味深く、印象に残ったのは佐々木義郎氏「北上川の舟運」でした。太平洋廻りや琵琶湖上などの船便や舟便は聞き知っていましたが、それと同じ楽しみ方が川の舟運便でも出来ることを教えていただきました。

ただ残念なことに、説明地図がありません。この種の記事には各地名の位置関係が大事。地理に疎いGANにはもひとつピンと来ず、隔靴掻痒の感がありました。ごく簡単な略図でも添えられていれば、読者の理解は一層深まるでしょう。

コレクションとしては片山七三雄氏「鉄道停車場内設置の電信取扱局所と小判切手」に脱帽しました。郵便史的ハンコの収集としては、もう完集寸前のところまで来ているではありませんか。調査はもちろんですが、ブツの入手に大変な時間と労力をかけて来られたことが推察できました。

伝統郵趣では、井上和幸氏「小判8銭2次原版のプレーティング」が、重要なポイントが素人にも分かりやすく書かれ、興味深く読めました。田中寛氏「明治35年の赤二」は、さすが大ベテランは眼の着け所が違う、と唸らされました。文句なく面白いし、収集家にさり気なく新たな集め方のヒントを提供してくれています。
posted by GANさん at 22:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 論文・文献 | 更新情報をチェックする

2014年04月23日

スローガン印で侵略に抵抗

明24日から検査入院するため、このブログの更新を4日間休ませていただきます。次の更新は4月28日になります。ご了解ください。

TZEKI-1.jpgTZEKI-2.jpg中国浙江省慈城から上海の製薬会社宛て商業通信のようです。慈城の別称と思われる慈谿局で民国27(1938年)年1月10日引受け、2日後に上海到着です。切手貼付面にあるやや大きな角型黒印が目を引きます。

角型印は中文で「禦侮救国/誓復失地」とあります。「侮りを防いで国を救え/失地回復を固く誓おう」という意味でしょう。当時の抗日スローガンの一種です。回復すべき「失地」とは、日本軍が満州事変を起こして奪い取った東北部、つまり当時の「満州国」を指します。

台湾の何輝慶氏「九・一八事変と抗日宣伝印」(『郵趣』1993年6月号所載)によると、このスローガン印(抗日宣伝印)は、中国郵政当局が32年9月18日の満州事変1周年を期して全国の郵局に指示し押させたものです。この封筒に押した引受局の慈谿局では5年以上にもわたって使い続けていたことになります。

スローガン印はこれ以外にも多種多様なものが知られています。「領土を奪われた恥を忘れるな!」「日本の侵略に抵抗しよう!」。郵政当局者の主体的な意志で、郵便逓送とは無関係に、郵便物の流通を利用して国民に呼び掛ける目的で押したものです。当時の中国人の痛烈な抗日意識を物語る歴史資料といえるでしょう。

慈谿は上海攻略戦で知られる杭州湾の南岸で、寧波の北西の小さな町のようです。日本軍は1941年春に中国沿岸封鎖作戦を開始し、主要港湾都市を占領して国民政府側の機関や設備を破壊しました。寧波と周辺は41年4月20日ごろ封鎖作戦の一部の「浙東作戦」により占領されています。慈谿局のスローガン印がさらに続いていたとしても、もはや使えなくなったでしょう。
posted by GANさん at 13:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 中国戦区 | 更新情報をチェックする

2014年04月22日

名宛人は通州事件の被害者

TUNGCHOW-2.jpgTUNGCHOW-1.jpg日本から中国河北省通州に宛てた私製はがきです。名宛人不明で返戻されています。時期からみて、名宛人は日中開戦直後に起きた「通州事件」の被害者だとGANは見ています。近年の入手品です。

1937(昭和12)年7月29日、通州に政庁を置く日本の傀儡政権・冀東防共自治政府の保安隊が中国側に「寝返って」反乱を起こし、日本軍守備隊と居留民数百人を虐殺しました。前日の日本軍機による保安隊兵舎誤爆が直接のきっかけとされます。日本世論は激昂し、日中戦争が泥沼に陥る最初の一つのきっかけとなりました。

このはがきは神奈川県国府津局で昭和12年7月28日に引き受けられた暑中見舞状です。通県(通州の別称)局の付箋に1937年9月1日の日付印が押されて差出人に戻されています。付箋には「査此人不在/無法投逓退」の黒印があります。「名宛人尋ネ当ラズ/配達不能ニ依リ返戻」といった意味でしょう。

ここでは画像を示していませんが、裏面に北平(北京)局の民国26(1937)年9月9日の朱色日付印が薄く押されています。表面左側の下半部に同色で薄く「UNKNOWN」「REBUT」印があります。北京の郵政管理局で再確認した後、改めて日本に返送されたのでしょう。

はがきが発信された7月28日は通州事件が起きる前日に当たります。通県局に達した8月上旬、通州市中は多くの日本軍警が入り込んで捜索・追及で大騒ぎの真っ只中だったはずです。ようやく一段落した月末に配達人が行ってみると、宛先の家は焼け落ちて跡形もなく、居住者全員が殺されていたといった状況だったのでしょう。

--ここはGANの推測に過ぎませんが、まず当たっているでしょう。反乱の保安隊は「友軍」だった日本軍守備隊を急襲して全滅させた後、日本人居留民の全戸を襲撃して放火、略奪、殺戮の限りを尽くしたとされますから。単なる付箋に過ぎませんが、受け取られなかった被害者の悔しさを語りかけているようにも見えます。
posted by GANさん at 22:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 中国戦区 | 更新情報をチェックする

2014年04月21日

干渉戦争前夜の北満邦人

BLAGO-2.jpgBLAGO-1.jpg
レーニンらによるロシア社会主義革命後の内戦初期、中国・北満州最奥地の在留邦人が日本に宛てたロシア郵政のはがきです。1918(大正7)年夏の革命干渉戦争(シベリア出兵)前夜、日・中・露の3ヵ国をまたいでいます。近年のeBayで入手しました。

北満最北の都市・黒河に居留する日本人が黒龍江(アムール川)対岸のロシアの都市・ブラゴヴェシチェンスク(日本人間の略称:武市)で出した大正7年の年賀状です。帝政ロシアの外信用4Kはがきに紋章切手で4Kを加貼して8K料金としています。ケレンスキー政権時代の前年9月1日の料金改訂で、外信はがきも従来の4Kが2倍に値上げされたためです(RT氏のコメントを受け、この部分は修正しました=15年1月)。

宛先は日本語で墨書し、さらに露語で「日本 仙台宛て」のペン書きも加えられています。引受印は武市1917年12月21日(西暦1918年1月3日)。ウラジオストクで軍事検閲(裏面紫色角型印)を受け、敦賀1月21日を経て仙台で1月23日の配達です。この厳冬期に20日間で届いたのは、まずまずの速度でしょう。

武市からウラジオストクまでは鉄道を利用できました。発信者が黒河の中国局でなく、対岸のロシア局を利用したのはそのためです。黒龍江は大河ですが、冬期結氷すると徒歩で簡単に「渡河」できました。逆に、黒河から斉斉哈爾局なり哈爾賓局への内陸部を逓送したら、冬期は大変な日数を要したはずです。

この頃の武市や黒河には商人など数百人の居留邦人がいたようです。2ヵ月後、反革命コサックと日本人「自衛団」が結託して武市の革命政権の武力転覆を謀った「ブラゴヴェシチェンスク事件」が起きます。「自衛団」は敗れ、多数の死傷者を出して黒河に逃れました。はがきの発信者もこの血なまぐさい事件に関わったかも知れません。
posted by GANさん at 23:15| Comment(12) | TrackBack(0) | ロシア極東 | 更新情報をチェックする

2014年04月19日

済南事変のニセ軍郵はがき

SPAULDING.jpg分銅無銘はがきの料額印面に明朝4号活字で「軍事郵便」と赤色加刷されています。2013年2月に大阪の大手オークションA社に出品されました。最近物故された在米の大コレクターの蔵品だったそうです。下値30万円でしたが、応札はありませんでした。

このはがきは「済南事変に出動した第6師団用に発行された」として戦前から知られています。日専は1985年版に軍事郵便はがきを採録した当初からこのはがきを扱っていませんが、組合カタログは載せていました(最近版が手元になく、現在形では言えません)。

GANは以前からこのはがきを空中楼閣的な意味でのニセモノと思っています。念のためA社の現物を下見してみました。印刷直後に重ねたようで、印面の裏側が赤インクで少し汚れていました。印刷業者なら、重ねた程度で裏写りなどさせません。素人が水性インクでやった仕事と判断しました。

気になったのは、当時の日本郵趣連合の鑑定書が付いていたことです。鑑定者名を見ると、組織の代表者(と、あるいはもう1人)のみで、いずれにせよステーショナリーにも軍事郵便でも専門家とは言えない方でした。「意見なし」ならともかく、「真正品です」と何を根拠に断定できるのでしょう。GANから言わせれば「鑑定料詐欺」です。

「真正品」説の最大の論拠は戦前のコレクターで研究者の中田實氏の著作『続・日本の郵便封皮、帯紙及葉書』(1931年、日本郵券倶楽部発行)です。中田氏はこのはがきに「軍葉第6号」のカタログナンバーを与えています。

記事によると、「之れが存否を云為するものすらありとの噂」があったため、中田氏は直接、第6師団歩兵第47聯隊の当局者に問い合わせたそうです。その結果を大要次のように記しています。

 1、中国局が日本軍の通信を放棄・破棄するので、授受を正確にする目的で発行。
 2、逓信省発行ではなく、済南で印刷した。
 3、昭和3(1928)年5月21日に第6師団に交付され、同時に使用開始した。

しかし、これは根本的におかしい。実は、5月21日というのは山東派遣軍(第6、3師団)に対して無料軍事郵便が適用された日です。5月24日には済南にも第2野戦局が開設されています。野戦局があれば、もはや中国局に郵便を渡す必要はありません。

無料軍事郵便の適用や野戦局の開設は、陸軍省と逓信省の「当局者」が事前に協議して実施されます。5月16日以前には関係公文書が起案されていた事実もあります。出先部隊の一存で「中国局対策の特別はがき」など発行できるわけがありません。

さらに言うなら、書留ならともかく「軍事郵便」加刷をしただけで中国局の取扱が改善されるものでしょうか。中国では売られていない日本の官製はがきをどこから入手し、だれが料金を負担したのか、緊急事態というわけでもないのになぜ逓信当局に連絡しなかったのか、封書の扱いはどうするのか。--中田氏の記事は矛盾だらけです。

念のため触れておくと、同じ分銅はがきに一回り大きな明朝3号活字で「軍事郵便」と赤色加刷したものが軍事郵便適用開始と同時に使われました。こちらは逓信省が発行した法定(正規)の軍事郵便葉書です。4号活字の方は、本物をヒントに偽造者が企画・立案したのではないでしょうか。

ところで、A社の出品の数年前、東京の有名業者B社もこのニセ加刷の未使用と「使用済み」をセットで売りに出しました。「使用済み」の方は大連局の引き受け(昭和3年7月15日)で、しかも発信者は民間人。郵便史の知識の全くない者が作ったミゼラブルな作品、というほかありません。
posted by GANさん at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ステーショナリー | 更新情報をチェックする

2014年04月18日

日米開戦を突破した最終便

憲兵隊.JPG憲兵隊-2.jpg日米開戦直前の1941(昭和16)年10月31日、アメリカ・サンフランシスコの邦人から静岡県に宛てた船便による封書です。

表面に「比島憲兵隊検閲済」の紫色角印が押され、和文「大日本憲兵隊検閲済」と英文「検閲による開封検査済み」が赤色印刷された封緘紙で再封されています。近年のヤフオクでの落札品です。

日本を遠く離れた比島(フィリピン)にどうしてこの封書が行ったのか。紛来でしょうか? だとすると、日本の憲兵隊が検閲したという意味が分からない。日本軍に押収されたとしても、なぜにフィリピンで?

実はこれと受取人が同じ「兄弟エンタイア」が荻原海一氏によって、既に発表されています。同氏の「龍田丸第一次引揚船の郵便物」(「切手研究」第431号=2006年4月)を参考に、解明を試みます。

1941(昭和)年7月に日本軍が南部仏印進駐を始めると、南方侵略具体化の第一歩と見た米政府は直ちに日本資産凍結、石油禁輸の経済制裁を発動しました。日本政府は北米航路の船舶が拿捕されることを恐れて8月4日に航行中の全船に日本帰港を命じ、この航路はストップしてしまいます。米西海岸諸港には日本宛て郵便物が大量に滞留しました。

米側にも荷役拒否など対処を誤った責任があったため、米陸軍が客船プレジデント・グラントを徴用し、日本向け郵便物を輸送することになります。日本近海や中国沿岸を廻る通常ルートだと、逆に日本によって拿捕される危険があります。これを避けるため南太平洋経由のコースが採られました。ハワイかマニラで郵便物を降ろし、第三国の船などで日本に運んでもらう目算です。

プレジデント・グラントは41年11月9日にサンフランシスコを出港しました。11月16日ハワイ到着・出港後、大きく南下してオーストラリア・ニューギニア間に迂回し、12月4日に無事マニラに到着しました。郵便物は結局マニラで陸揚げされ、マニラ局で一時保管されました。

直後の12月7日(日本時間では8日)、ついに日米は開戦し、日本軍機のマニラ攻撃が始まります。プレジデント・グラントは危機一髪で12月11日にマニラを脱出し、シドニー経由で42年2月にサンフランシスコに帰り着きました。

プレジデント・グラントの次に、米海軍徴用船リパブリック(米陸軍徴用船プレジデント・ブキャナンを改名)が11月21日、やはりマニラをめざしてサンフランシスコを出航しました。フィリピン防衛強化の兵員・兵器輸送が主目的です。

リパブリックはハワイを11月29日に出帆した後、開戦を知ってフィジーに避難するなど右往左往の末、12月22日にオーストラリアのブリスベーンに入港しました。兵員などを降ろし、シドニーを経て帰航しています。リパブリックにも日本宛て郵便物が搭載されたと思われますが、目的は達せられません。結果的に、プレジデント・グラントが極東への最終便となりました。

さて、この封書ですが、通信文が残っていて、「只今の所日米間には船便はなきが、支那を廻りて手紙が米国へ来る故、御手紙下され度……」とあります。プレジデント・グラントの出航を知り、通常航路の上海経由で日本に届くと考えて発信したのでしょう。

フィリピン攻略とその後の守備を担当した第14軍参謀長が42年8月30日、陸軍次官にマニラ局保管のこれら郵便物の処理について指示を求めています。「戦前米国より日本及び支那並びに仏印向け郵便物の行嚢2,089個が留置されている」とあります。この封書もその内の1通だったに違いありません。

この回答として、9月8日に陸軍省から第14軍に「全部を東京中央局軍事郵便課に送付するよう」指示が出ています。これらの文書はいずれも防衛省防衛研究所資料にあります。アジア歴史資料センターのネット公開文書の中からGANが発掘しました。

郵便物はマニラで第14軍憲兵隊の開封検閲を受け、42年末ごろ東京に着いたのでしょう。当時の郵趣誌「切手文化」43年3月号に、「戦前米国からの手紙に赤色のセンサーラベルが貼られて本年1月に吉田一郎、荒井国太郎氏ら数人に届いた」との趣旨の豆記事が載っています。まさにこの一連の郵便物です。

戦前最後の米日間通信は開戦をはさむ1年3ヵ月がかりの難行苦行の果て、こうして配達されました。開戦を挟みながら実際に逓送が行われ、送達された点が貴重です。開戦により発送できずにとどまったり、対戦国に拿捕されて終戦を迎えたりした一般の抑留郵便物(SUSPENDED MAIL)とは異なる、珍しいケースと言えるでしょう。

アメリカは当時の日本を「侵略国家」と強く非難し、41年秋から冬にかけては和平交渉も行き詰まって開戦直前の状態でした。それでも米側が懸命に日本向け郵便物を届けようとした誠意は汲むべきでしょう。この封書は歴史の証人であるばかりでなく、日米郵便従業員の「努力証明」とも言うべき記念品だと思います。
posted by GANさん at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 大戦前後混乱期 | 更新情報をチェックする

2014年04月17日

スマトラ宛ての返戻便

SUMATRA.jpg日本軍占領下のスマトラ島メダンに宛てた楠公5銭はがきです。日本が降伏する直前の昭和20(1945)年8月2日に山形・宮内局で引き受けられています。

このはがきは、現在の野村證券の東インド(旧蘭印)子会社に宛てた民間人同士の普通郵便です。いったん交換局の門司局まで送られた後、同局で「送達ノ見込ナキニ付一応返戻ス」という謄写版印刷の付箋を付け差出人に返戻されています。返戻時期が分かりませんが、文言から8月15日以前ではないかと思われます。

料金の5銭は内地料金と同額です。42年秋に南方宛て民間郵便を開始したさい、「料金は当分内地並みとする」ことが定められました。結局、政治判断やコスト問題(軍用船を利用するので逓信省側の負担がない)もあって、最後まで「内地並み料金」は維持されています。

このはがきは宛名が全文片仮名で書かれていてユニークです。南方宛て郵便物は漢字の場合、振り仮名を振るよう規定されていました。片仮名なら現地人の郵便職員にも理解できたでしょう。地名が「千代田通北1丁目」と日本式に引き写して改称されている点も併せ、占領政策を物語って興味が持たれます。

当時、日本本土周辺の制海・制空権は米軍に握られ、大陸への航路はおろか、内地を結ぶ青函連絡船さえ運航停止していた時代です。南方への一般郵便物を輸送する貨物船など、船腹不足はもちろん、運航計画さえ立てられなくなっていたと思われます。

しかし、南方宛て郵便物が窓口で引き受け拒絶に遭わず、このように交換局まで送られていることは、送達停止の事態が一般の郵便局にも通知されていなかったことを意味します。戦局の不利を国民に悟らせないため、公表しないままでいたのでしょう。

南方占領地への郵便がいつから途絶したのか、明確な資料は未見です。45年に入って、なし崩し的に送れなくなっていったのではないでしょうか。付箋は「当分ノ間」「一応」としていますが、結局、日本郵政による南方への逓送は再開できませんでした。45年11月16日に始まる「復員郵便」は、米軍の軍用船によるものです。
posted by GANさん at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする

2014年04月16日

ユダヤ人の赤十字通信

JUDICA 改.jpg第2次大戦末期に中国・天津からパレスチナのエルサレムに宛てた赤十字通信です。イスラエル国はまだ生まれていず、当時はイギリス委任統治領パレスチナでした。近年のeBay落札品です。

赤十字通信は第2次大戦中に赤十字国際委員会(スイス・ジュネーブ)が実施した簡易な無料通信制度です。表面が往信、裏面に返信を書き込む1枚紙が使われ、封筒には入れません。

「人道物資」として交戦国・中立国を問わず無関税で発着、通過できる赤十字の特権により国際輸送されました。俘虜郵便と似ていますが、郵政機関とは無関係に赤十字が実施するので、郵便ではありません。

この赤十字通信は1945(昭和20)年4月12日に日本軍占領下の天津で発信されました。日本軍天津防衛司令部が検閲(上部左側の赤色角印と中央部右側の認印)して在天津スイス領事館(中央部右側の黒紫色丸印)に引き渡され、国際赤十字の上海代表部(上部右側の紫色楕円印)に送られています。

ここから先の輸送路は不明ですが、おそらく陸路をソ連、トルコ経由でスイスの国際赤十字委員会本部に運ばれたのでしょう。中央部左側の不鮮明な赤色丸印と日付印は国際赤十字のパレスチナ代表部に45年9月26日に到着したことを示すようです。

国際赤十字本部の到着印が見当たりませんが、受取人には届いているようです。しかし、裏面返信部は空欄のままで使われていません。いずれにせよ、日本軍占領下の中国からパレスチナへは、当時これ以外の連絡方法はなかったでしょう。

発信者の国籍は「リトアニア人」とタイプ打ちされています。天津や上海にはナチスの迫害を逃れたヨーロッパのユダヤ人難民居住区があったようです。発信者も受取人もユダヤ系の名前であること、受取人である息子の国籍「パレスチナ人」などを考え合わせ、発信者はそういったユダヤ人の一人と考えて間違いないでしょう。

だとすると、リトアニアの在カウナス日本領事館で領事代理だった杉原千畝が発給した有名な「命のビザ」の恩恵を受けた人物だった可能性が非常に高くなります。この珍しい国籍の外国人が戦前から中国にいたとはとても思えないためです。

GANの調査が不十分のため、推測が多くなりました。しかし、「杉原千畝によって救われたユダヤ人の通信であろう」と考えると、日本人として少し誇らしい感じもしてきます。
posted by GANさん at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 俘虜郵便 | 更新情報をチェックする

2014年04月15日

遭難「新高」宛て軍艦郵便

NIITAKA-1.jpgNIITAKA-2.jpg軍艦護衛の下に北洋漁業を強行した1922(大正11)年の「自由出漁」警備のため出動した巡洋艦「新高」に宛てた軍艦郵便です。「新高」は台風で遭難したため、付箋を付けて差し戻されています。最近の入手品です。

日本の漁業者は例年ロシア側と漁場や漁獲量を協定し、鮭鱒漁のため夏期に沿海州やカムチャツカに出漁していました。1917(大正6)年にロシア革命が起こると、それに続く内戦でロシア(ソ連)側当局者が不安定、または不在となります。1921、22年は交渉も協定もないまま、漁期を迎えて出漁しました。

海軍はこの「自由出漁」の日本漁船団に軍艦を付き添わせ、ソ連側の「妨害」から保護しました。「新高」も2年目の自由出漁保護のため派遣されましたが、22年8月26日にカムチャツカ半島西岸で台風のため坐礁して破壊、乗員と共に沈没してしまいます。

一方、函館の栗林汽船会社は22年4月に函館・小樽とカムチャツカのペトロパブロフスク間に毎月1回の定期航路を開設しました。逓信省はこの航路を利用して5月からカムチャツカ派遣艦船の軍艦郵便を開始します。この取扱は翌23年までの2年間(2シーズン)限りで廃止されました。理由は不明です。

このはがきは出動中の「新高」乗員に宛て、新潟県浦佐局で大正11年8月4日に引き受けられています。「軍艦郵便」と紫色インクで記入があります。これは先にこの乗員から通信があり、はがきの発信者に軍艦郵便を利用するように知らせていたからでしょう。

このはがきは小樽で定期船の出航を待つうちに「新高」が遭難してしまったのでしょう。あるいは遭難前にペトロパブロフスク局に着き、「新高」の入港を待っていたのかも知れません。小樽(または函館)局は軍艦郵便の閉嚢を「新高」が所属する舞鶴鎮守府に送り返しました。

舞鶴鎮守府ではわずかな生存者名などと照合・確認の後、郵便物をさらに受持局の新舞鶴局に返しました。同局で返戻理由を印刷したこの付箋を用意し、9月16日に日付印を押して差出人に返送したと見られます。

これまで、栗林汽船の定期船を利用した軍艦郵便が実施されたことは海軍の記録上で知られていました。実際に「軍艦郵便」の記入のある郵便物が出現したのは、このはがきが初めてです。
posted by GANさん at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍艦郵便 | 更新情報をチェックする

2014年04月14日

崩壊した絶対国防圏

SAIPAN-RETOUR.jpg金沢市から南洋群島サイパンに宛てた封書です。しかし、戦局の悪化で南洋に逓送されることのないまま、空しく差し出し人に返送されています。引受印は不鮮明ですが、裏面書き込みから金沢局昭和19(1944)年6月9日と推定されます。

表面に付箋が貼られています。「本郵便物ハ送達不納(不能の誤り)ニ付差出人ニ返戻ス 神奈川郵便局」と謄写版印刷され、昭和19年8月16日の日付印が押されています。

この封書は神奈川局で南洋への便船を待機した後、2ヵ月ほど過ぎたこの日に差出人に宛て返送したと見られます。公表されませんでしたが、神奈川局は南洋群島との交換局でした。

サイパンは日本軍が「絶対国防圏」と位置付けた戦略上の最重要拠点の一角でした。米軍はそこに狙いを定め、44年6月11日から空襲と艦砲射撃を繰り返し、15日に上陸を始めました。激戦の末、サイパン守備隊は7月7日に玉砕します。グアム、テニアンも相次いで陥落しました。

これらマリアナ諸島を奪われると、日本本土は航続距離の長い米陸上爆撃機の攻撃に直接さらされます。事実、B-29重爆撃機の本土空襲基地となり、米軍の翌45年3月の硫黄島占領まで使われました。広島・長崎への原爆投下機もテニアンから発進したことで知られます。

中部太平洋での絶対国防圏の崩壊は、太平洋戦争が「日本敗戦」と決まったことを意味します。衝撃で、開戦以来の東条英機内閣も崩壊しました。大局を理解できない大本営は、今度は「本土決戦」「一億玉砕」を呼号するに至ります。

荻原海一氏『南洋群島の郵政始終』(「切手研究」第395-398合併号)によると、サイパン局は6月13日の艦砲射撃によって局舎が全壊し、局員は各自退避しました。逓信省は7月18日、大本営の「サイパン玉砕」公表に合わせて「サイパン局の一時閉鎖」を内牒しています。しかし、事実上のサイパン局閉鎖(廃止)日は6月13日が妥当でしょう。

この封書は内牒から1ヵ月近くも経った後に返戻されています。その理由は分かりません。サイパン奪回作戦が行われ、局も再開できるという、はかない望みがつながっていた期間と考えるべきでしょうか。
posted by GANさん at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 大戦前後混乱期 | 更新情報をチェックする

2014年04月12日

大阪-大連間を試験飛行

DAIREN-AIR.jpg大連を大正15(1926)年9月25日に発信した長野・上諏訪宛て飛行郵便の私製はがきです。大連局9月26日の「大連京城大阪間郵便飛行記念」の紫色記念印で引き受けられています。市場に残るものはコレクターの作成したカバーがほとんどですが、これは非郵趣家便です。

堺市大浜海岸で大正11年6月に設立された井上長一の日本航空輸送研究所は11月から大阪-徳島間で日本初の定期航空を開始しました。同社は国内にとどまらず、満洲・奉天や中国・上海への航空進出という当時としては壮大な夢を抱いていました。

海外進出の第一着として航空輸送研が手掛けたのがこの大阪大連間飛行です。大阪市木津川河口の同社飛行場を基地として福岡・大刀洗飛行場を経由し、玄界灘を越えて朝鮮半島西岸を飛び、旅順郊外営城子飛行場に至るルートが設定されました。

日本航空協会編『日本航空史 明治・大正編』によると、当時航空行政を管轄していた逓信省はなぜか、この試験飛行を快く思わなかったようです。航空輸送研が出した郵便物委託輸送(託送)の申請を却下しました。しかし、関東逓信局と朝鮮逓信局は逆で、同社に郵便物託送を許可しています。

航空輸送研は川西式水上機とマイバッハ陸上機の2機を投入し、往航が1926年9月13日に木津川河口を出発しました。15日に中継地の大刀洗を飛び立って、京城経由で両機とも無事に営城子飛行場に到着しています。大阪、大刀洗からの郵便物搭載はありませんが、京城では大連方面宛て約千通が託送されました。

復航は、まず川西機が9月20日に京城、大阪方面宛て1,493通の郵便物を搭載して大連を出発、22日に大阪に帰着しました。一方のマイバッハ機は9月26日に2,157通の郵便物を運んで大連を発ち、無事大阪に帰っています(到着日時は不詳)。このはがきは26日の復航第2便(最終便)に搭載されたことになります。

このような事情のため、このフライトでは内地発の往航郵便物は存在しません。大連と京城発着の郵便物は、それぞれ記念印で引き受けられました。とくに京城では飛行機型の記念印が使われ、コレクターにはおなじみです。両地のこの航空路にかけた期待の大きさがうかがえます。

せっかく航空輸送研が開拓にかかった大阪-大連線でしたが、結局、定期便の運航には至らず、この1回だけの試験飛行に終わっています。政府側にはこの大幹線を、民間会社でなく国策企業にやらせたい思惑があったのかも知れません。その詳しい事情については、GANは未調査です。
posted by GANさん at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 飛行・航空郵便 | 更新情報をチェックする

2014年04月11日

関東大震災の戒厳部隊

KAIGEN.jpg1923(大正12)年9月の関東大震災で開設された関東戒厳司令部指揮下の戒厳部隊として東京の警備に当たった第13師団歩兵第58連隊の兵士に宛てた分銅はがきです。長野県須坂局で9月30日に引き受けられています。近年の入手品です。

大震災によって混乱の極に達した「帝都」の治安維持のため9月2日に戒厳令が東京府と神奈川県(後、千葉、埼玉、静岡県に拡張)に施行されました。翌3日、福田雅太郎大将が関東戒厳司令官に任命され、三宅坂の参謀本部が司令部に充てられました。

戒厳司令部はまず第2(仙台)、第13(新潟県高田)、第14(宇都宮)師団から各2個連隊を出動させました。9月中旬のピーク時には歩兵21個連隊、騎兵6個連隊、工兵18個連隊など総計6万4千人の兵力が全国から集まり警備に当たっています。戒厳司令部は11月15日に解散しました。

58連隊からは第2大隊が抽出されて9月5日に東京に到着し、ただちに東京北部警備部隊に編入されました。はがきの名宛の兵士が属する第6中隊は北千住付近に配置されていたようです。

このはがきの宛名として「戒厳司令部東京救援隊」と書かれています。意味は分かりますが、正式な部隊名ではありません。「戒厳司令部の指揮下にある歩兵58連隊」という趣旨でしょう。所在地名でなく部隊名で届いているところが「異常事態」下であることを表しています。

これを含む戒厳部隊発着郵便物を見ると、例えば軍事郵便のような特別な優遇取扱はなされていません。検閲印など特別な印判も押されていません。すべて一般の普通郵便と区別のない取扱になっています。
posted by GANさん at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 関東大震災 | 更新情報をチェックする

2014年04月10日

逓信省記葉を軍事転用

TAIREI-2.jpgTAIREI-1.jpg
シベリアで使われた大正大礼記念の逓信省絵葉書です。第28野戦局(ザヴィタヤ)大正8(1919)年7月25日の引受印があります。野戦局で使われた記葉というと、例外的な持ち込み使用と思われがちですが、実はこれ、逓信省が正規に配布したシベリア出兵用「軍事郵便葉書」なのです。

逓信省は大正8年4月26日付で陸軍省に次のように通牒しています。
「(封緘葉書への『軍事郵便』加刷が不可能となったので)今後当分ノ内軍事郵便葉書ノ代用トシテ当省発行絵葉書ヲ配布ニ致、差当リ大礼記念絵葉書ヲ野戦交通部郵便長宛送付方取計置候」「軍事郵便トシ差出スノ外他ニ譲渡ヲ為サシメサルコト」

通牒に基づいて、5月2日にこの絵葉書12万組が現地に届きました。続いて10月10日にも12万組、12月1日に12万1千組が追送されています。1人1ヵ月4枚ずつ配布の計算で送られました。

この絵葉書は大正4(1915)年に2枚1組で300万組が発行されました。売れ残りも大量にあったのでしょう。総計72万2千枚がシベリアに送られたことになります。しかし、このように長期にわたって毎月配布されたのでは、記念の意義など失われてしまいます。完全な「廃物利用」の性格です。

シベリア出兵時、このような売れ残り絵葉書の軍事郵便への転用例は他に、神宮式年遷宮(1909年発行)、日英博覧会(1910)、平和記念(1919)、通信事業創始50年(1921)の4種が見られます。
posted by GANさん at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | ステーショナリー | 更新情報をチェックする

2014年04月09日

漢口陸戦隊の軍艦郵便

HANKOW.jpg軍艦郵便は外国派遣軍艦からの発信が要件です。しかし、このはがきは軍艦でなく、海軍の陸上戦闘部隊である陸戦隊からの異色の軍艦郵便です。

漢口陸戦隊から1928(昭和3)年10月3日に発信されました。長江を下航し上海を経由した上で、10月9日に長崎局で引き受けられています。漢口-上海、上海-長崎間はいずれも日本の貨物船に搭載されたとみられます。

1926(大正15)年に中国の国民政府軍(国民革命軍、南軍)は蒋介石総司令に率いられて中国統一戦争の「北伐」を開始します。

そういった軍事情勢の流れで中国民衆の帝国主義反対運動が高揚し、翌27年3月に上海情勢が極度に緊迫しました。南京事件や漢口事件がその中で起きてしまいます。

いずれも国民革命軍や中国民衆と、日本を含む列強の中国派遣軍や居留民との間で放火・略奪や死傷事件に発展したものでした。

漢口事件は長江警備の駆逐艦から上陸中の日本水兵が多数の中国民衆に暴行された事件がきっかけでした。海軍は27年4月3日、水兵300人を陸戦隊に編成して漢口に上陸させ、中国人暴徒を鎮圧して日本居留民を救出しました。漢口陸戦隊は「居留民保護」を名目に、29年5月末まで駐屯を続けました。

このとき上海にも陸戦隊が上陸・駐屯しました。漢口とは異なり、「排日運動」を警戒して撤退しなかったため中国軍民に敵視され、1932(昭和7)年の上海事変の当事者となってしまいます。上海、漢口とも陸上に常駐を決めてからは艦艇からの抽出でなく、内地鎮守府で編成された特別陸戦隊が派遣されていました。

このはがきは陸上常駐の漢口陸戦隊から差し出されたものです。軍艦とは無関係に駐屯する特別陸戦隊員は軍艦の乗員でなく、軍艦郵便の適用は無理のように見えます。「本来は軍艦の乗員であった」ことから拡大解釈が出来たのでしょうか。

この後の上海事変で上海には第1海軍軍用郵便所が開設されます。中国派遣のすべての海軍部隊に無料軍事郵便が適用されることになり、軍艦郵便を利用する必要はなくなりました。従って陸戦隊の軍艦郵便は、漢口では1927年から29年までの2年間、上海では27年から32年までの5年間だけということになります。
posted by GANさん at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍艦郵便 | 更新情報をチェックする

2014年04月08日

ニセ封筒付きの偽造書簡

NOGI-E01.jpg軍事郵便ではなく普通郵便に仕立てた乃木将軍のニセ手紙も市場に出回っています。画像は偽造した将軍の手紙に付けられた封筒の部分です。

今年1月29日終了のヤフオクに出品されたものです。書簡と封筒を軸装して「将軍自決7ヵ月前の真筆」という箱書きまで添えられ、¥79,761円で落札されました。

なぜ偽造書簡かというと、封筒の表裏に押されている2個の日付印がとても下手な作りのニセモノだからです。まず、表面の方の印ですが、見てすぐ分かるように、切手と消印がまったくタイ(to tie=連結する、つなぐ)していません。

NOGI-E02.jpg理想的には「赤坂局 明治45年2月9日」の消印が押された菊切手があればよかったのですが、コレクターでも入手は困難です。

そこで、消印が「45年2月」と部分的に押されている切手を見つけた上で封筒に架空の「麹坂?」局印を押し、両方を無理して貼り合わせようとしたのでしょう。

ところが、円周で合わせると日付欄の桁が合わず、桁で合わせると円周が合致しません。そもそも切手の桁の高さより封筒に押した印の桁の方を広く作ってしまったので、しょせん一致するはずもないのです。

NOGI-E03.jpg裏面の消印は広島局の着印のつもりで押したのでしょうが、稚拙な偽造印です。ピシッとした桁線の金属製真正印とは違って2本の桁がフラフラで、偽造ゴム印の味がよく出ています。日付数字もフォント、サイズともホンモノとはまったく異なります。

封筒の表面と裏面は別のものを貼り合わせています。裏面の方は乃木将軍のサインごと真正品の可能性があります。しかし、表面の方は運筆が全く異なり、明らかに別人の書体です。裏面を入手した偽作者が、これをネタにひと稼ぎ、と偽造書簡をでっち上げたのではないでしょうか。

仮に書簡(ここには示していません)がホンモノだとしたら、封筒を偽造する必要などないのです。書簡がニセモノだからこそ、少しでもホンモノらしく見せようと企んだことでした。しかし(幸か不幸か)、偽作者には郵便や消印の知識が全くなかった。余計なことをしたため、かえって馬脚を表すに至った典型例です。

posted by GANさん at 23:09| Comment(2) | TrackBack(0) | ニセモノ列伝 | 更新情報をチェックする

2014年04月07日

台湾陸軍部隊に臨時局印

MOJI.jpg「第六十六臨時」のいわゆる「臨時局」印で昭和19(1944)年10月9日に引き受けられた楠公3銭はがきです。発信者が陸軍の兵士である点が特異です。本日入荷しました。

臨時局印は、聯合艦隊所属の艦船が内地港湾に入港したさいに差し出す郵便物に限って、1941(昭和16)年夏から太平洋戦争の全期間に使われました。艦船の行動秘匿のため、日付印の局名を地名でなく「第○○臨時」という番号に変えたのです。

目的からいって、陸軍はこの日付印と本来は無関係のはずでした。しかし、実際には、千島・樺太方面に派遣された北部軍(後に北方軍)からの郵便物にはかなりひんぱんに使われています。この問題については、いずれ機会を得て検討してみたいと思っています。

今回のはがきはアドレスに「門司局気付」とあり、北部軍ではありません。門司を交換局とするような派遣方面は、まず台湾でしょう。1945年4月に台湾の陸軍部隊に無料軍事郵便が適用されたさいの逓信省告示にも、「門司局気付」を肩書きするよう指定されています。

差出人が所属する「第10275部隊」は「海上挺進基地第25大隊」を意味します。比島の次は台湾に米軍が侵攻すると誤判した大本営が急派した、陸軍の海上特攻部隊ではないでしょうか。大内・津野田氏「旧帝国陸軍編制便覧」によると、この部隊の通称符は「湾」です。これは台湾防衛の第10方面軍を表すので、やはり台湾発信は確実と思います。

さて、最大の問題。陸軍部隊の郵便物に、なぜ聯合艦隊用の臨時局印が押されているのか? 現時点でGANには分かりません。本来の台湾局に差し出す時間を惜しみ、内地直行の海軍輸送船に委託搭載された可能性があることを、当面は指摘しておきます。
posted by GANさん at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする

2014年04月06日

露軍俘虜になった英人船長

SADOMARU-1.jpgSADOMARU-2.jpg日露戦争でロシア軍に捕らえられた日本側俘虜がロシア・メドヴィエジの収容所から発信した俘虜郵便です。イギリスの収友K・クラーク氏に数年前に譲ってもらったものです。

ロシア軍の俘虜というと日本人かと思うでしょうが、差出人はGeorge Anderson。イギリス人です。陸軍がチャーターした日本郵船の貨物船「佐渡丸」船長でした。

佐渡丸は1904(明治37)年6月15日、僚船「常陸丸」と共に約1,200人ずつの陸軍部隊や武器・資材を積み、宇品から船団を組んで満洲に向かいました。ところが途中、対馬海峡でロシア海軍のウラジオ艦隊に捕捉されてしまいます。

ロシア艦隊は小銃で激しく抵抗した常陸丸を撃沈し、ほとんど全員が戦死します。佐渡丸も装甲巡洋艦リューリックの雷撃を受けましたが、沖ノ島に漂着して辛くも沈没を免れました。佐渡丸の攻撃前、ロシア艦隊は船員ら非戦闘員に退去を勧告し、応じた者を装甲巡洋艦グロモボイに連行しました。その1人がこのAnderson船長で、俘虜としてメドヴィエジに収容されたのです。

日本の鼻先で起きたこの常陸丸・佐渡丸遭難事件は国民を震駭させ、憤激させ、大きな社会問題にまでなります。近海防衛の任を帯びていた第2艦隊はウラジオ艦隊を追うも成果なく、「露探(ロシアのスパイ)艦隊」とまで呼ばれて非難・攻撃を受けました。

陸軍省発行の「明治三十七八年戦役俘虜取扱顛末」によると、この戦争でロシア軍に捕獲された日本側俘虜は合計2,088人でした。うち欧米人が4人だけいて、いずれも「陸軍所属運送船員」の「将校相当者」となっています。全員が佐渡丸の船長以下高級船員でしょう。その後、欧州で解放されています。

このはがきは無料俘虜郵便として1905年2月13日にメドヴィエジのAnderson船長から故郷スコットランド・エジンバラの息子に宛て発信されています。ロシア赤十字の検閲・承認(右上紫印と赤色丸型印)を受けた後、ペテルスブルグ局で2月23日(露暦では2月10日)に引き受けられました。フランス語による「俘虜郵便」印も紫色で押されています。

クラーク氏によると、このような英人の俘虜郵便は6通だけ知られているそうです。日露戦争に英人俘虜がいたとは。思いがけない、異色の存在です。
posted by GANさん at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 俘虜郵便 | 更新情報をチェックする

2014年04月05日

上海の軍艦に電報を郵送?

TENNRYU-1.jpgTENNRYU-2.jpg軍艦「天竜」に宛てた年賀電報です。「満州国」の満鉄吉林駅電信取扱所で引き受けられ、呉局昭和13(1938)年1月3日の配達印があります。最近の入手品です。

呉軍港に碇泊中の「天竜」に艀を使って配達された、と考えればそれまでですが、封筒が問題です。通常の電報配達用のパラフィン窓付きではなく、郵便用の通信事務封筒が使われています。これは呉局から郵便で差し立てられ、別の局によって配達されたことを意味します。

呉局では「天竜」が港内にいると考えて配達に出たものの、いないことが分かって持ち戻り、改めて所在を調べ直した上で郵送・再配達の手続きを取ったのではないでしょうか。封筒下部に「再2271」と書かれているのは、それを表しているようです。

転送先がどこかは封筒に書かれていません。しかし、軍港を受け持つ呉局ではすべての軍艦の最新の配達局が分かっていたはずです。例えば横須賀局宛て、佐世保局宛てといった郵袋を閉嚢で仕立てていたのではないでしょうか。この電報をコンテンツとする郵便も、そういった閉嚢で転送された可能性が考えられます。

巡洋艦「天竜」は当時、支那方面艦隊司令長官が直率する第3艦隊(上海)の主力・第10戦隊の旗艦でした。電報の名宛人・藤森清一郎少将はひと月前に着任したばかりの戦隊司令官です。

この時「天竜」は実際にどこにいたのか。「海軍公報(部内限)」で調べると、呉など内地港湾にはいません。少なくとも37年12月31日-38年1月6日の間は、支那方面艦隊兼第3艦隊旗艦「出雲」などと共に「作業地」にいました。

日中戦争の真っ最中で「出雲」が常に上海に碇泊していたことから、この場合の「作業地」とは上海と思われます。すると、この電報を納めた転送郵便は、門司局なり長崎局経由中国・上海局宛てに送られたのでしょうか。電報なのに、そんな長距離を郵送することがあるのでしょうか。それとも、中国局を介在させない特殊な逓送方法があったのでしょうか。

推測に推測を重ねたので、どこかに誤りがあるかも知れません。しかし、上海(でないまでも中国港湾のどこか)にいた軍艦宛ての電報を呉局で受信してしまったことまでは確実です。さあ、この電報はどうなったか。いずれにせよ、宛先が軍艦だったから起きた、なかなか面白いケースだと思います。
posted by GANさん at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 電信・電話 | 更新情報をチェックする

2014年04月04日

ラバウルの最初期陸軍部隊

TATE.jpg太平洋戦争中に陸軍兵士から発信された、「横須賀局気付ウ109 楯第8423部隊」という極めて特異なアドレスを持つはがきです。きょう到着した落札品です。

この部隊は第55師団(楯)所属の輜重兵第55連隊(8423)です。55師団はビルマに派遣されました。

さて、「極めて特異」とは何かというと、陸軍の部隊なのに「ビルマ派遣」とか「比島派遣」といった派遣方面の表示がなく、その代わりに「横須賀局気付ウ109」という海軍のアドレスを記していることです。陸海軍ハイブリッドのアドレス表記です。

海軍軍事郵便で、「片仮名+数字」のセットが「○○局気付」の次にあれば所在地を、さらにその次なら部隊名を表します。「ウ109」の所在地は千島の択捉島ですが、いかなる「楯」部隊の戦歴も千島とは無関係なので、これには問題がありそうです。

仮に「ウ109」が所在地でなく部隊名だとすると、第10海軍軍用郵便所第10派出所を意味します。この派出所はラバウルに置かれていましたが、1942(昭和17)年10月にラバウルに第12軍用郵便所が開設されたため廃止されました。

このはがきはいったい、千島から出されたのか、真逆方向のラバウルか。それとも、やはり55師団主力が派遣されていたビルマからなのか--。

じつは開戦前、55師団の歩兵144連隊を基幹とする大本営直轄の機動部隊「南海支隊」が編成されていました。支隊の本来の目的は開戦直後の米領グアム島攻略ですが、攻略後は海軍のラバウル占領に協力する任務も与えられていました。師団の各兵種ごとに中隊・小隊単位の小部隊が抽出され、南海支隊に編入されていました。

その抽出された小部隊には輜重兵55連隊第2中隊も含まれていました。このはがきの差出人がまさにその中隊員で、本隊と別れて南海支隊に加わっていたのです。前問の正解は「ラバウル」。このアドレスは「ラバウル所在の陸軍楯部隊」を意味することになります。

海軍はもちろんですが、陸軍も「太平洋は海軍の縄張り」と決めつけていました。開戦前の陸海軍中央協定でも、太平洋の島嶼防衛は海軍の担任と明記されています。陸軍は小部隊を太平洋に派遣するにしても短期・臨時の措置として補給は海軍任せ。軍事郵便のアドレス表記などにはまったく無関心でした。

1942年夏のガダルカナル島戦以降、ソロモン、ニューギニア方面へ陸兵の逐次投入が続き、第17、18、19軍と第8方面軍が新設されます。43年1月末にようやく「南海派遣」という派遣方面が設けられました。それより前、42年夏ごろまでにラバウルに到着した陸軍諸部隊に短期間だけ「間に合わせ」でこの特異なハイブリッド表記が適用されたのでしょう。

南海支隊はポートモレスビー攻略作戦に転用されますが42年9月に失敗、ラバウルに戻って43年5月に解隊されます。生き残り兵員は55師団主力を追及し、43年10月にビルマで2年ぶりの合流を果たしますが、その数はわずかでした。
posted by GANさん at 18:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする

2014年04月03日

中支風景印の航空便

SHANGHAI-2.jpgSHANGHAI-1.jpg
日中戦争期の軍事航空郵便です。田沢30銭切手が「上海野戦局 13(1938)年4月19日」の風景印で抹消されています。この風景印自体は記念押印として残っているものが多く、ありふれていますが、通信日付印として実際に使われた例は非常に少ないと思います。かなり以前に入手した品です。

華中の野戦局で使われた、いわゆる「中支野戦局風景印」の性格については、これまでいろいろと論じられてきました。郵便用の通信日付印か、単なる記念スタンプに過ぎないかの問題です。局名や日付とは無関係に各野戦局にセットで置かれ、来局者が自由に押捺できた、という使用実態が分かってきたからです。

この風景印が押された軍事郵便はたくさん見かけます。しかし、本来の通信日付印として使われたことを証明できる使用例はまず見られません。軍事郵便は無料であるため本来的に日付印を押す必要がなく、たとえ発信地や日付が合っていても引受印であるとは言い切れないからです。

上海派遣軍野戦郵便長を務め中支風景印を企画立案した佐々木元勝氏を70年代に四谷三丁目の事務所にお訪ねしたことがあります。この風景印は正式な通信日付印として調製されたものか、どうか。GANはかなりしつこくお聞きしたのですが、佐々木氏の返答はあまり明確でなく、どっちとも取れそうな印象でした。

さて、この封書ですが、「上海野戦局」というものはなく、上海にあった第42野戦局で引き受けたと思われます。局員は航空郵便の引受を証明し、航空料金として貼られた30銭切手を抹消するのに正規の「第四二野戦/★★★」櫛型印でなく「上海野戦局 市政府」の風景印を使いました。

この風景印がとくに問題を起こした様子もないことは、福島県平局13年4月22日の到着印が正常に押されていることからもうかがえます。押捺した局員を始め、取り扱った職員の間でこの風景印は通信日付印の一種であるという共通認識があったからでしょう。「一般的には記念スタンプだが、通信日付印として使われることもあった」と考えてよいと思います。
posted by GANさん at 23:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする