2014年05月31日

米軍検閲済み演劇台本

HAKODATE.jpg今日のマテリアルは近着のネット落札品ですが、郵便物ではありません。しかし、郵便と密接な関係にある米占領軍による検閲資料です。

藁半紙を袋綴じ状に折った半面に、次のように筆書されています。
検閲台本/防犯劇「戦慄の街」2幕1場追加分/函館市警察署捜査課/(氏名)/新軽演劇集団(これだけは万年筆書き)

そして、米軍が押したPC検閲印(俗称「金魚鉢」)と「FILE No. H-503」のスタンプがあります。検閲官番号は「C.C.D.J-5013」です。右辺には紙縒(こより)などで綴じられていたような綴じ跡の破れがあります。

これらから推測すると、これは、米軍検閲当局に提出された演劇台本の表紙のようです。勧進元は函館市警察署。ペンに自信のあるデカさんあたりが防犯啓発用に書き下ろした脚本なのでしょう。1947(昭和22)-54年の間、米占領軍の指示により消防と同様に警察も自治体(市町村)が自前で運営しました。戦前の道警函館署が一時は函館市警察署として独立していたのです。

検閲印は郵便検閲用と同じ形式ですが、検閲日の記入位置が「金魚鉢」の中ではなく、下部に書かれている点で大きく異なります。「金魚鉢」の右側に接して押されたプロ野球球団のマークと酷似した「YG」の小型印は何を意味するのか、不明です。

森勝太郎氏「占領下の日本に於ける連合軍の郵便検閲」(切手研究会創立5周年記念論文集所載)によると、連合国軍総司令部(G.H.Q.)の1部門である民間情報部は、外局として民間検閲部(C.C.D.)を東京に置きました。

C.C.D.はさらに下部機関として東京、大阪、福岡など6ヵ所に地方検閲部とその分局を配置し、地方検閲部の通信課で郵便と電報・電話を検閲、印刷舞台放送課で新聞・雑誌・図書と映画・演劇、それに放送の検閲を実施させました。当時のメディアすべてが網羅されています。

この演劇台本も、札幌市の北海道農業会館にあった民間検閲局第4支所(福島鋳郎氏「占領下における検閲政策とその実態」による。森氏は「第4地方検閲部」と訳す)に提出され、49(昭和24)年4月20日に検閲を通過、上演許可となったのでしょう。

森氏と裏田稔氏(『占領軍の郵便検閲と郵趣』)は膨大な量の検閲郵便物に押されている検閲官番号を調査しました。その結果、ほとんどの番号が連続して使われているのに、5000番台と5100番台は、郵便検閲用には使われていず、スッポリ抜け落ちていることが分かりました。

裏田氏は一方で、「C.C.D.J-5001」が雑誌検閲に使われていることを著書で発表しています。今回の5013が演劇検閲に使われている事実と併せ、5000~5099番は通信課でなく印刷舞台放送課の検閲官に割り当てられたと推測することが可能でしょう。

森氏は「金魚鉢」検閲印の「PC」を「Post Censor(郵便検閲)」の略だと述べています。しかし、雑誌や演劇の検閲にも使われていることから、これは誤解だったことになります。やはり「Passed Censor(検閲済み)」が正しいのではないでしょうか。つまり「検閲を通過したので配布・流通を許可する」意味と受け取るべきだと思います。

小さな知見ですが、新たに付け加わることで不明な点の多い米軍検閲が少しずつでも実態解明に近づけばいいな、とGANは思います。
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2014年05月30日

L波印の沼津局最初期例

沼津L波.jpg沼津局でユニバーサル社製郵便物押印機によって押印された私製はがきです。ユニバーサル機は大正時代中期にアメリカから輸入されたピッカピカの「最新鋭高級機」でした。

印影は6本の波形平行線と丸型の局名・日付部からなります。大正14(1925)年8月1日に引き受けられています。

関利貞氏『右書時代の機械印 Ⅱ』によると、沼津局のユニバーサル機による印影はこれまで大正15年年賀状以後しかデータが知られていないようです。このはがきは沼津局最初期使用例の4ヵ月更新となるでしょう。

沼津局には前年まで押印機はありませんでした。大正13年の年末に初めて林式押印機が導入され、14年の年賀状処理に使われまし沼津L波2.jpgた。その後に林式機はこのユニバーサル機と交換されたので、結果的に沼津局の林式印は1年だけに終わった--これは以前に書きました。

関氏の調査によると、林式機が入ると短期間でユニバーサル機に交代するという全国的な原則があるようで、その逆の例は見られません。国産の林式機はユニバーサル機の「練習台」に使われていた感じです。同時に林式機を使ったお隣の三島局でもまったく同じ経緯をたどっています。

ところで、この押印機による印影の呼び名ですが、根が単純なGANは単に「長型波形印」と分類・整理しています。しかし、ここは関氏(及びその先達としての丸島一廣氏)に敬意を表して「L波印」としておきましょう。「L」はLONGの略のようです。

一方、日本郵趣協会編『日本郵便印ハンドブック』は「唐草機械日付印(右書)/大型波形(縦型6本波)」と名付けています。こんなばかばかしい名前、いったいだれが使うでしょうか。正確にしたつもりかも知れませんが、分かりにくく紛らわしい。センスというものの全くないネーミング、というほかありません。
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2014年05月28日

最初の朝鮮駐屯日本軍

KEIJO-1.JPGKEIJO-2.jpg日清・日露戦間期に朝鮮(韓国)に駐屯した日本軍兵士が漢城(日本人のいう「京城」、現在のソウル)から発信した封書です。

日本は日清戦争が終わった1895(明治28)年以後も、本来は撤兵すべき軍隊の一部を朝鮮に残留させました。

戦争中に架設した軍用電信線と居留日本人の保護が名目です。将来、朝鮮を日本の保護国とする遠大な狙いが秘められていました。

朝鮮駐劄軍司令部編『朝鮮駐劄軍歴史』によると、部隊は歩兵1個大隊を主力に、電信隊、憲兵隊、病院がありました。歩兵大隊本部と2個中隊、病院を漢城に置き、釜山、元山に各歩兵1個中隊が派遣されました。

翌96年5月に朝鮮支配を強めていたロシアとの間で交わした「小村・ウェーバー覚書」で、これら日本軍部隊の朝鮮駐屯が追認されました。当の朝鮮政府は知らない、帝国主義国間の頭越しの「談合」です。

1903(明治36)年12月、漢城に韓国駐劄隊司令部が設置され、各部隊を統一指揮することになります。間近に迫った日露開戦をにらんでの布石でした。事実、駐劄隊は開戦直後に日本からの臨時派遣隊と合流して漢城を占領し、日本軍展開の基礎を固めます。以後、韓国駐劄軍、朝鮮駐劄軍、朝鮮軍と改称され、1945年の日本敗戦まで存続しました。

この封書は菊3銭を貼った有料の普通便として、韓国・京城局で明治34(1901)年8月13日に引き受けられています。差出人は京城駐劄隊(第1中隊)の兵士です。当時の韓国は独立帝国ですから、この京城局は日本の在外局の性格です。

韓国駐劄隊はその前身の歩兵大隊から通算して8年間続き、平時の外国に継続して駐屯した最初の日本軍部隊となりました。日本が朝鮮を植民地支配する前史として、この封筒は重要な意義を持つ史料と考えています。
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2014年05月26日

交換船帝亜丸の俘虜郵便

TEIAMARU-1.jpgTEIAMARU-2.jpg太平洋戦争中の日米交換船「帝亜丸」によって運ばれた俘虜郵便です。「俘虜郵便」War Prisoner's Mailというより、「抑留者郵便」Civil Internee's Mailと呼ぶほうが正確な通信です。

太平洋戦争中、日本と連合国との間でスイスを介して交渉が行われ、外交官や抑留者、郵便物の正式な交換船が2回運航されました。1942(昭和17)年6月の浅間丸とコンテ・ヴェルデ号、そして43年9月の帝亜丸です。

帝亜丸はサイゴンに係留中だったフランス海軍の仮装巡洋艦「アラミス」を日本政府が仏印政府と交渉して徴用した船です。政府の委託を受けて日本郵船が運行していました。

交換船帝亜丸は43年9月13日に横浜を出港し、上海、香港、フィリピン・サンフェルナンド、サイゴンを経て10月15日にインド西海岸にある中立国ポルトガル領のゴアに入港しました。米国交換船のスウェーデン籍「グリップスホルム」と抑留者などを交換し、10月21日にゴアを出て11月14日、無事横浜に帰っています。

外務省の在敵国居留民関係事務室が43年8月14日に発した通牒「俘虜郵便等ノ交換船ニ依ル逓送ニ関スル件」(居普通合第605号)が残されています。第2次交換船は英国からの提議を受けて実施され、主要な目的は日本権内にある英米系国民の俘虜郵便と赤十字通信を連合国側に引き渡すことでした。

このため、中国の青島、芝罘、上海、南京に日本側が設けた集団生活所(比較的緩やかな民間人抑留所)の英米系市民の通信をできるだけ多く集め、上海総領事館で取りまとめて帝亜丸に搭載されました。もちろん、見返りに両国で俘虜となっている日本人の通信を受け取る期待があってのことです。

この封書は上海の閘北集団生活所にいたカナダ女性が解放されて帝亜丸でゴアに着き、集団生活所に残った夫と思われる英国人に宛てたものです。日本郵船のマークのある洋封筒が使われ、「ゴア、帝亜丸船上で」と発信アドレスが記されています。

帰航する帝亜丸に積まれて横浜に着き、11月15日に横浜局で引き受けられて検閲を受けています。裏面の封緘紙に押された「逓信省/第二」の検閲印は横浜を示します。表裏にある「PAQUEBOT/船内郵便」「俘虜郵便」「帝亜丸」の各印は、色が日付印と同じ暗黒紫色なので、横浜局で押されたと見られます。

検閲通過後の封書は翌44年に上海に送られ、2月18日と3月4日の2度にわたって閘北集団生活所当局の検閲を受けました。その後にようやく名宛人に届いたと思われ、発信から4ヵ月半もかかっています。

とは言え、第2次大戦中の日本と連合国間の通信は実質的に断絶していました。交換船による郵便物は極めて希少な存在です。
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2014年05月24日

アッツ島兵士の貯金通帳

ATTU-2.jpg北部軍に召集され、北海守備隊に配属されてアリューシャン列島の米領アッツ島に派遣された兵士の貯金通帳です。

預金者の住所は「北部第16部隊」で、弘前の歩兵52聯隊です。しかし、部隊は前年から北部満洲の愛琿に駐屯しており、アリューシャンとは終始無縁でした。

この預金者は52聯隊の補充部隊にいったん編入された後、何らかの事情で本隊とは別の部隊に再編されたのでしょう。そのため、運命が分かれてアリューシャンに向かったと思われます。52聯隊は後に九州の防衛に転じたため、無傷で復員しています。

恐らく兵舎所在地と思われる弘前・富田局で昭和17(1942)年8月8日に通帳の交付を受け、最初の預入れをしています。通帳は軍事郵便貯金用ではなく、仙台貯金支局が管理する一般の普通貯金通帳が使われています。

次は函館局柏原分室で17年12月24日に預入れています。この分室の実際の所在地は千島列島北端の幌莚(ほろむしろ、パラムシル)島柏原湾でした。カムチャツカ半島は占守(しむしゅ)島を隔てて目と鼻の先で、アリューシャン列島へ向かう最後の港湾として利用されました。

3番目の局が第381野戦局で、18年3月27日と5月2日に預入れています。以後の利用はありません。381局はアッツ島に設けられ、キスカ島の380局と共に18年2月1日に開局しています。弘前で召集された兵士がアリューシャンに派遣され、北千島を経由して着任したことが預入れ記録から跡付けられます。

第380、381局は前年11月にキスカ、アッツ両島に配置された北海守備隊のための野戦局でした。それ以前のアリューシャンに野戦局はなく、陸軍部隊は海軍の軍用郵便所を利用していました。両局とも軍事郵便のほか為替、貯金の取り扱いもしました。アッツ381局の為替貯金記号は「戦るれ」が使われています。

最後の預入れがあった日から10日後の5月12日に米軍がアッツに上陸を開始しました。アッツ守備隊は5月30日に隊長以下、非戦闘員の野戦局員まで全滅してしまいます。軍部は「玉砕」と呼んでこれを美化しました。

この米軍上陸直前の5月4日、伊号第7潜水艦が米軍の重囲をかいくぐって奇跡的にアッツに入港してきました。郵便物を積み込んで5月8日に柏原に帰港しています。もちろん、これがアッツからの最終便となりました。

可能性として、持ち主の兵士が大事な通帳を最終便に乗せて家族の元に送ったとも考えられます。孤立無援のアッツに4月末から米軍の艦砲射撃が激しくなり、米軍が近く来襲することは予期されていました。「兵士死して通帳残る」だったのでしょうか。
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2014年05月23日

インパール作戦を予告

IMPHAL-2.jpgIMPHAL-1.jpg太平洋戦史でも最も大量の犠牲者を出した愚劣で悲惨な作戦として知られるインパール作戦に参加した兵士からの「作戦予告」の軍事郵便です。ヤフオクの落札品で本日到着しました。

インパール作戦とは、抗戦中国への「援蒋空輸ルート」根絶を目指し、インド東北部に進攻して要衝インパールを攻略する作戦です。ビルマ第15軍隷下の3個師団で44年3月8日に作戦を開始、大失敗に終わって7月3日に中止命令が出されました。

このはがきの発信アドレス「弓第6822部隊」は、15軍に属する第33師団213聯隊を表します。部隊は南方から真っ先に攻撃する「おとり」役でした。英軍を引き付けている間に他の2師団が山岳地帯を密行して北と東からインパールを急襲する作戦です。

通信文末尾に太平洋戦期の軍事郵便としては珍しく、「(1944=昭和19年)2月20日」と発信日が明記されています。この時期にはすでに作戦展開命令が出ていて、33師団は作戦発起点のチンドウィン河岸に着き、渡河準備の最中だったと見られます。

非常に稀なことですが、通信文にこの作戦が予告されています。「次のたよりはインパールからだ。印度(インド)派遣軍となるだらう」。通常なら次期作戦など書いたら絶対に検閲を通りません。日本に着く頃には作戦は終わっているとでも考えたのでしょうか。

33師団は勇戦してインパール南方10キロに迫りますが補給が途絶して英軍に撃退され、アラカン山脈を敗走します。作戦全体で10万の将兵が参加しましたが、5万人を飢餓などで失い、生存者も病気と飢餓で半死半生の全軍壊滅状態で敗戦を迎えました。
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2014年05月21日

楠公はがきを比島で使用

BAGUIO.jpg日本軍占領下のフィリピン(当時は「比島」)から日本に宛てたはがきです。楠公2銭はがきがいわゆる「占領加刷」などなく、そのまま使われています。

比島を占領した第14軍司令部の「軍政実施概況報告」第23号(昭和17=1942年8月31日)によると、比島の普通局が扱う島外との郵便が42年10月1日から書状とはがきに限定して開始されました。

宛先は「大東亜共栄圏」内の各地、用語は日本語か日本字またはローマ字に限られ、結局は日本人しか利用できない制度でした。これにより、従来の野戦郵便所による在留邦人の郵便の臨時取扱は終わります。

この「報告」には料金率が示されていません。しかし、当時の逓信当局と軍部の政策では「占領地内外の郵便は共に可能な限り日本の内国料金・制度と一致させる」認識が共通していました。書状5銭、はがき2銭のレートは日本と同様に44年3月まで続いたはずです。

TUISOU.jpgこの楠公はがきはマウンテン州バギオ局で1943年5月24日に引き受けられています。不鮮明ですが、「比島憲兵隊/検閲済」の角印はマニラで押されたのでしょう。

この時期には2センタボ「正刷はがき」が既に出回っていました。持ち込み使用でしょうか。差出人は戦前から在住していた民間人のようで、そうは見えません。

土屋理義氏『南方占領地切手のすべて』や、同氏が担当したと思われる2012年版日専カタログには「比島には日本の切手やはがきは配給されなかった」旨の記述があります。しかし、これらに根拠は示されていず、大きな?が付きます。過去には下画像(下部コメント欄第7項参照)のような例も発表されています。

DAVAO.jpg防衛省戦史室に「南方地域所要葉書切手追送ニ関スル件」(42年8月4日付陸亜密受7308号)という書類が残されています。

これによると、香港、比島、ビルマ、マライ、ボルネオの5地域に2銭葉書や5銭切手などを送るよう、陸軍省副官が陸軍需品本廠に対し数量を示して指示しています(上画像=クリックで拡大できます)。

指示が出されても結果的に切手類が現地に着かなかった可能性もあります。しかし、少なくとも当時の陸軍が南方占領地で日本切手やはがきを使わせる意図があったことは明らかです。

実際に着いたのか、着かなかったのか。検証しないで結論は出せません。GANは今のところ、これらのはがきは比島の郵便局で正式に発売されたものと考えています。
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2014年05月20日

第1次郵政接収の使用例

REQUISIT-2.jpgREQUISIT-1.jpg「満州国」が建国された年、大同元(1932=昭和7)年春に日本に宛てたはがきです。中華郵政の帆船1分「限吉黒貼用」加刷切手ペア貼りを中華郵政のバイリンガル印で抹消しています。

「満州国」は中華民国から分離・独立した新国家として、建国1ヵ月後の32年4月1日に領土(東北3省)内の中華郵政を接収しました。

とはいっても、新国家には郵政を引き継ぐ実力はまったくありません。実際にはヨーロッパ人の郵政管理局長に接収書を手渡しただけ。職員も取扱規定も、郵便切手や日付印まで中華郵政のものをそのまま流用して済ませました。

ただ、日付印に中華民国年号(21年)は使わせず、西暦(32年)を使うよう指示したようですが、これも守られていません。この時期の実際のエンタイアは、むしろ「廿一」の方が多く見られます。

このはがきは、天津の支那駐屯軍の下士官が現地除隊して「満州国」の警察官に再就職した、その挨拶状のようです。長春局で1932年7月16日に引き受けられました。年活字には西暦の「32」が使われています。バイリンガル印なので接収とは関係なく「32」年活字を使っていたのでしょう。

このはがきからわずか10日後、「満州国」の郵政事業は大転回を遂げます。8月1日発行予定の新切手の使用をめぐって満・華両郵政当局は7月下旬に決定的に破局し、「満州国」は本格的な郵政接収(第2次接収)を行いました。これに対し4月の接収は「第1次接収」と呼ばれます。

中華郵政は7月24日限りで全職員を本土に引き揚げ、東北3省内の郵務を完全停止させます。「満州国」はただちに全局に日系職員を配置し、26日から業務を再開させました。執政溥儀や遼陽の白塔を描いた第1次普通切手はこの日に発売されました。

第1次接収から第2次接収まで4ヵ月足らずの期間は過渡期の郵政です。新国家「満洲国」が元の中華民国郵政の管理下にあり続けたことから、さまざまな使用例が生まれています。
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2014年05月19日

仮約定後の日清郵便交換

KAIPING.jpg日露戦争後の日本から清国(満洲)の遼東半島内陸部の岫巌に宛てたはがきです。中継局として日清両国の蓋平局、到着局として清国岫巌局印があり、両国間の郵便交換状況が分かります。

菊紫1.5銭が貼られた私製はがきが下関西局で明治41(1908)年10月19日に引き受けられ、満鉄沿線の日本蓋平局に10月25日に到着しています。即日、清国蓋州(蓋平)局に引き渡されたと見られます。

蓋州局日付印では「9月21日」ですが、当時は太陰暦ですから、太陽暦に直すと10月25日になるのでしょう。翌9月22日に清国岫巌局に着いて、同局で宛先の日本人に配達しています。

岫巌は満鉄線から遠く離れた奥深い小都市で、もちろん日本局はありませんでした。蓋平は岫巌への逓送路の基点に当たります。

日清両国間には初めての郵便交換条約である「日清郵便仮約定」が1903年に結ばれていました。清国は万国郵便連合(U.P.U.)に未加盟だったので、2国間条約で交換条件や料金率などを決める必要があったのです。このはがきには仮約定の結果が反映されています。

仮約定では「相手国の内国料金による郵便切手で自国内を無料で配達する」ことを相互に認め合いました。仮約定以前、日本から中国宛ての料金は内国料金より高く設定されていました。上海や天津、牛荘などの開港地日本局に着いてもその後が複雑で、内陸部への配達には付加料金が発生するのが普通でした。

もし、このはがきが1903年以前だったら日本牛荘局に回され、そこから岫巌までの遠距離は民間配達業者(民局)に託されたはずです。受取人は相当な額の料金を民局から請求されたことでしょう。

仮約定はその後、1910年に改正されて「仮」が取れ、「日清郵便約定」となります。改正交渉で清国側は外国局(客郵)の否認ないし縮小を原則としたため、日清間の郵便交換局が制限され、満洲では安東県、奉天、長春など7局だけとなりました。料金を清国切手で払うための「貼り替え」手続きが導入されたのもこの新約定からです。

このはがきが1910年以後だったら、蓋平では交換できません。指定交換局の奉天か遼陽局に回されて交換されたでしょう。1903-1910年の7年間だけ行われた、指定交換局以外の局での郵便交換を実証する貴重な資料と思います。
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2014年05月16日

会屯郵便取扱所の書留便

SUISHI-EI.jpg関東州の水師営郵便取扱所で引き受けた書留郵便です。40年ぐらい前、この宛先への郵便物が蔵出し品として市中に大量に出回ったときに入手しました。

満洲逓信協会編『関東逓信30年史』によると、関東逓信局は大正13(1924)年2月1日から管内の満鉄停車場と会屯145ヵ所に郵便取扱所を開設しました。停車場取扱所は駅職員、会屯取扱所は中国人の会長に取扱を委嘱し、逓信職員は配置せずに済ませました。

会屯の「屯」は日本で言う「村」に相当する集落を指すようです。「会」は屯を複数併せたこの地方独自の行政組織で、日本の郡と村の中間ほどの規模といいます。明治初期に多かった「A村・B村連合戸長役場」といった感じではないでしょうか。

当時の関東州では旅順、大連、金州など8局が鉄道沿線に開設されていましたが、集配区域は都市部と近郊に限られ、それ以外の農村部会屯は「市外無集配区」の扱いでした。会屯でも集配を行うため、8局の管轄下に計74取扱所が一挙に開設されました。

当初、「取集」は普通郵便だけを受け付け、「配達」は取扱所に30日間留置して受取人が申し出たら交付するという非常に原始的な方法でした。この時代の郵便取扱所では引受日付印は使わず、集配局で押していたと見られます。

恐らく昭和10年代の中頃と思われますが、一部の会屯取扱所で書留や為替貯金を扱うようになり、普通郵便の引受にも取扱所独自の日付印が使われました。その開始時期がいつか、GANはまだ資料を得ていません。1945(昭和20)年の段階で19取扱所が為替貯金を扱っていたことが分かっています。

SUISHI-EI-2.pngさて、この封筒ですが、昭和17年12月25日に水師営取扱所で引き受けられています。所名の「水師営」は日露戦争時、乃木将軍とロシア旅順要塞の守将ステッセルとの会見で知られる有名な集落です。日付印はA欄に取扱所名「水師営」、D欄に所轄集配局名「旅順」が入った特異な形式です。

差出人は日本人ですが、会屯地区に住む日本人は極めて稀な存在だったといわれます。今日の郵趣市場で会屯郵便取扱所の郵便物の出現が極めて稀なのも、そのためと思われます。

追記(2014.06.17) これを書いた時点で資料が出てこなかったため、書留の引受や為替貯金の取扱を始めた時期を「昭和10年代の中頃」としましたが、その後、資料が見つかりました。営城子、水師営、南関嶺など14取扱所で昭和16(1941)年10月16日からです。独自の日付印使用開始もこの時からと見られます。『続逓信事業史資料拾遺第1集 旧外地における逓信事情』の「関東州の部」有川博基手記中にありました。
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2014年05月14日

1通でも切手別納郵便

PAID-2.jpgPAID-1.jpg単に切手を貼り忘れただけの料金未納の私製はがきと見過ごしがちですが、どっこい、「かなりの珍品」とGANは思います。最近のネットオークションで掘り出しました。

差出人名は印刷されていて、東京・神田神保町の出版社のようです。通信文が手書きです。引受日付印は局名がつぶれていますが、「神田局大正13(1924)年5月4日」と読むことができます。料金未納なら押されるはずの未納・不足印はどこにもありません。未納料金取立の付箋を貼った形跡も見られません。

実はこれ、表示こそありませんが、臨時特例が適用された切手別納郵便なのです。関東大震災で深刻となった切手・はがき不足対策として実施されました。太平洋戦争時、戦災を受けて切手・はがきが出回らなくなったさいにも、1945(昭和20)年4月の「料金収納」印押捺など似た措置がとられています。

「切手別納」とは、本来は100通、50通といった大量の印刷物を一括発信するさい、切手を貼る手数を省くため料金総額を切手で窓口納付できる制度です。震災で切手・はがき供給能力を一挙に失った逓信当局は、切手でなく現金でも納付できるように制度を改正しました。

大正12年逓信省令第82号で小包料金など他の22件と共に「現金納付可」が定められ、10月25日から施行されました。この日は震災切手発行の日ですが、震災切手売り捌き停止から2ヵ月後の大正13年11月末限りで省令は廃止されました。

無目打・無糊の不便な震災切手に並行させた1年1ヵ月間の「時限立法」でした。ただ、1通だけでも切手別納郵便として引き受けるとは、最も極端な適用です。それをも可能とするような規定をGANはまだ見つけていません。あるいは、とくに規定はないのに、結果的に窓口が1通でも引き受けるようになった可能性もあります。

現金納付による1通だけの切手別納郵便は、「切手別納郵便」印を押した私製はがき1例のみが牧野正久氏『震災切手と震災郵便』に発表されています。日付印を押して切手別納郵便として扱った例は、今回が初めての出現と思われます。
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2014年05月13日

「真正」蘇炳文カバー

SU-1a.jpg「満州国」初期のいわゆる蘇炳文切手を貼った封筒です。「満州国」第1次普通4分切手に赤色で「中華郵政」と加刷してあります。2012年版「日専」カタログは「真正のカバーは確認されていない」とわざわざ注記しています。

それなら、GANは「真正品第1号はこれだ」と宣言しましょう。赤加刷の上に黒色の消印が乗っているのがSU-2.jpg明らかだからです。

引受印は不鮮明ですが、「黒龍江/丗二年十一(あるいは十)月廿三日/哈爾賓」と読めます。「丗二年」は1932(昭和7)年を表します。裏面に到着印らしいものが押されていますが、まったく判読できません。

表面には全文ロシア語で「満州里駅/第1保線区事務所/技師/ニコライ・ウラジミロヴィチ/チャン・ツィユン」と書かれています。ロシア籍の中国人(あるいはその逆)か。あるいはウラジミロヴィチ、チャンの両氏連名に宛てたものでしょうか。差出人名はありません。

蘇炳文は奉天軍閥・張学良配下の軍人でしたが、「満州国」から黒龍江省政府の市政警備処長に任命されました。32年9月末に満ソ国境の満州里で「反満抗日」の旗を掲げて挙兵、一時は中東鉄道の哈爾賓以西を制圧します。すぐに日本関東軍の反攻を受けて敗れ、12月初旬にソ連に亡命しました。

「蘇炳文切手」は32年10、11月ごろ、蘇炳文支配下の満州里、海拉爾、博克図などの「満州国」郵局で発売したとされます。加刷は各郵局ごとに木版手押しでなされたといわれます。当時から本物・偽物が入り乱れ、信用できる完全なリストはまだ無いようです。

赤木英道氏「満洲国郵便切手変種チェックリスト」(『切手趣味』第12巻第5号)は、加刷の字体にA、Bの2タイプを図示しています。田中清氏『満洲切手』は赤木氏と同じものを「満州里型」「海拉爾型」と名付けているようです。

このカバーの字体はそのいずれとも似ず、とくに「中」の字体に極めて大きな特徴が見られます。さては、新たな「Cタイプ」「哈爾賓型」の登場か、あるいは真っ赤なニセモノか。--関心ある方のご批判を仰ぎます。画像は、クリックを重ねれば16倍程度まで鮮明に拡大できます。
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2014年05月12日

日露開戦直後韓国公用便

RUSS-FRA 1.jpg日露開戦直後に独立帝国・韓国の政府機関が発信した公文書の封筒です。近年の香港のオークションで入手しました。

封筒には韓国の鷹3銭切手が貼られ、仁川局で光武8年(1904=明治37年)3月4日に引き受け、漢城(日本人の言う「京城」)局に翌5日に到着しています。

この封書は韓国の仁川監署(貿易管理官事務所)が差出しています。名宛ては「仁川駐在ロシア副領事事務代行 漢城駐在フランス副領事 貝閣下」となっています。裏面に仁川監署のアドレスなどはなく、封じ目に国章・陰陽文に漢字を配した丸型朱印だけが押されています。

1904年3月は開戦から1ヵ月足らず後ですが、仁川・漢城の一帯はすでに日本軍が占領していました。開戦の前後にロシア外交官は韓国から撤退したため、韓国に於けるロシアの利益代表として同盟国フランスが指定されていました。

仁川監署では仁川駐在ロシア副領事へ公務上の連絡があったので、漢城のフランス副領事に回送したのだと思われます。副領事閣下の「貝」は漢字に置き換えたフランスの人名で、たとえば、「ベイル」などといった名前なのでしょう。

日露戦争を巡り、日・露・韓・仏の関係を象徴する興味深いカバーだとGANは考えています。
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2014年05月10日

台湾先住民へ内容証明便

内容証明郵便としてKANSEI.jpgの証明を受けた通信文です。台湾・関西局で昭和17(1942)年8月8日に受け付けられ、照合用の副本として郵便局で保存されていました。正本2通は証明を受けて差出人に戻されています。

薄い半紙1枚にカーボン複写された文書の左半分だけを画像に示しました。右半分には「通知書」と題されています。中文で書かれているので正確なことは分かりませんが、商取引上のトラブルについての異議申立の書類のようです。差出人は日本人です。

ここで興味深いのは被通知人(名宛人)である「邱阿富」氏の住居表示です。「新竹郡蕃地馬武督社小地名而完窩」とあるのが目に付きます。「マブト社シカンカ」とでも読むのでしょうか。

「蕃地」とは領有当時に「蛮人」、この時代には「高砂族」と呼ばれた山地に住む非漢族系先住民の居住地のことではありませんか。「社」は「村」に相当する高砂族集落特有の名称です。名宛人は中国系の名前に見えますが、先住民本人なのでしょう。

この書類から想像出来ることは、1940年代の先住民が日本から乗り込んできた商人と対等にビジネス上の応酬をしていた、ということです。もはや、「野蛮な人々」どころではない。語弊を恐れず言うなら、日本植民地政策の功罪の「功」の一つかも知れません。

この内容証明では文書1枚の料金20銭が1次昭和切手で納められています。郵便局保存分なので、関西局では納付された切手を貼って日付印で抹消しています。内容証明料金はこの年4月に10銭から20銭へと2倍に値上げされたばかりでした。
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2014年05月09日

再説・雑誌『郵趣』の貧困

YUSHU 93.jpg今年1月末にこのブログで、「雑誌『郵趣』の貧困」と題する駄文を書きました。たまたま、約20年前の『郵趣』1993年6月号(以下、「9306号」)の目次が出てきました。1月の前説を補強するデータが得られたので、再び駄文を重ねさせていただきます。

1、9306号には大小42本の記事が載っています。うち、「九・一八事変と抗日宣伝印」「郵便史ノート ビルマ(下)」「郵便史研究のフォアランナー」が郵便史の記事です。内容を見ないと分かりませんが、「南方占領地のマテリアル」も、あるいは郵便史関連かも知れません。

いずれにせよ少なくとも3本、96ページ中9ページ、つまり全体の約1割が郵便史に割かれています。これに対し、1月の前説で書いたように『郵趣』今年2月号(以下、「1402号」)の郵便史記事はゼロ%、1本もありませんでした。

2、前説で、1402号の大半を占めているのがトピカル・テーマティク関連記事だと書きました。では、9306号ではどうか。「モントセラト」「世界のロイヤルウエディング切手」「あるオリンピック切手の記録」「ヒマラヤに生息する希少動物」の4本です。これは郵便史より1本多いとはいえ、バランスの非常によく取れた量と言えるでしょう。

3、会員読者との交流、参加のページがわずか半ページしかない、協会・編集部との双方向性が見られないと、前説で1402号を批判しました。対する9306号はどうでしょう。「読者だより」「会員互助小広告」「JPS支部と例会活動の記録」などの「協会と会員・読者のページ」に8ページ、ほかに「JPS部会・例会紹介」2ページがあり、合計で10ページが会員読者の交流・参加に充てられています。20:1ではありませんか。現在の『郵趣』がいかに会員読者をないがしろにしているか、数字だけから見ても明らかです。

これほどの編集方針の劇的な変化(前説の「貧困」を、時系列的にとらえて「堕落」と言い換えてもよい)が、なぜこの20年間で起きたのでしょうか。日本郵趣協会(JPS)理事長・水原明窓氏が1993年11月に亡くなったことが最大の原因と思います。協会の向かいの鉄道中央病院で闘病中だったとはいえ、9306号は水原氏の実質指揮下で編集されています。

現在の協会は、口先だけは水原氏を讃え、「水原賞」の授与とか、「水原没後何年記念展」などを主催しています。でも、彼の精神に学ぶとか、目指したものを受け継ごうという意志などはまったくないのです。水原氏の業績について、GANは現在の協会とは異なる見解を持っていますが、それについては他日論ずる機会もあるでしょう。

ところで、「9306号の目次」など、なぜ今さら出て来たのか。GANが参考として切り取って保存していた『郵趣』の記事の裏に、たまたまそれがあったからです。果たして今日の『郵趣』に、後のちのため保存しておきたい記事がどれだけ載っているでしょうか。
posted by GANさん at 22:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑観・雑評 | 更新情報をチェックする

2014年05月08日

ハワイ侵略を目撃した軍艦

HAWAII-2.jpgHAWAII-1.jpg布哇(ハワイ)国ホノルル港碇泊軍艦金剛--。おおっ、小判時代の軍艦郵便! と喜ぶのは早トチリ。万国郵便連合(U.P.U.)が規定した軍艦郵便(軍艦閉嚢)制度が発効する前年の使用例で、「軍艦郵便前史」とでもいうべき存在です。

日清戦争前年の明治26(1893)年2月17日に軍艦「金剛」(初代)乗員がホノルルで発信し、東京芝口局で3月4日に引き受けられています。差出人はホノルルから日本に向かう日本商船の乗組員に託し、入港地・芝浦で投函してもらったのでしょう。

日本の逓信当局が軍艦郵便制度を実施したのは日露戦争後の1906(明治39)年からです。それ以前に海外に派遣された軍艦乗員が母国に宛てて通信するには入港国の郵便によるか、たまたま出会った日本行き船舶に託す方法しかありませんでした。

「金剛」はこのとき、独立王国ハワイと、ハワイを支配しようとする米国との関係が緊張し、日本居留民保護のため僚艦「浪速」と共に警備中でした。「金剛」は海兵19期の士官候補生の練習航海の帰途、サンフランシスコで新任務を与えられたのです。

コンテンツ(通信文)が残っており、ハワイ最後の女王リリウォカラニと親米派総理大臣との確執、1月17日に米海兵隊制圧下で起きた米国領併合の陰謀劇などが生々しく書かれています。

現代と似たような光景が120年前にもあったのですね。ウクライナの事態でロシアを非難する当の米国の侵略行為ですから、「歴史認識」は、やっぱり重要です。
posted by GANさん at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍艦郵便 | 更新情報をチェックする

2014年05月07日

海軍も「満州国」に進出

MAN NAVY-2.jpgMAN NAVY-1.jpg「満州国」の首都・新京に置かれた日本海軍唯一の出先、駐満海軍部から出された1936(昭和11)年の年賀状です。最近の入手品です。

1931(昭和6)年に満州事変が起きた当初、海軍は事態を陸軍に任せ、基本的にノータッチの方針でした。しかし、実際に「満州国」が動き出すと、そうも言っていられなくなります。33年4月、新京に天皇直隷の「駐満海軍部」なる特異な機関を開設しました。

海軍部の主要任務は「満州国沿海及び河川の警備」で、ほかに「満州国」海軍の指導なども命じられていました。河川(黒龍江)警備の実務は哈爾賓に同時に設置された指揮下の臨時海軍防備隊が行うので、海軍部は軍政連絡機関といった性格の存在でした。38年に廃止され、任務を縮小して新京海軍武官府に継承されています。

このはがきは駐満海軍部の司令部スタッフが発信しました。と言っても、海軍部自体が司令部で、司令部以外の機関は(臨時海軍防備隊を除いて)無かったと思われます。司令官は少将だったので、艦隊の一つ下、戦隊司令部並みの陣容でした。

関東軍管内ではこの直前の35(昭和10)年12月1日から軍事郵便に引受印を押すことを全廃しました。そのため、はがきには本来なら押された新京局引受印がありません。恐らく、大量の年賀状処理に苦慮してきた関東逓信局が関東軍に要請して実行したのでしょう。

さらに言うと、海軍の郵便物を陸軍(関東軍)の軍事郵便ルートに乗せるのも、当時としては極めてイレギュラーな処理でした。実際、34年10月に同じ駐満海軍部司令部員が出した封書は軍事郵便でなく有料の普通郵便として3銭切手を貼り、新京局で引き受けられています。

この間に陸海軍で何らかの協定が行われ、駐満海軍部の郵便物も無料軍事郵便の扱いを受けることになったと思われます。これに関する資料がほしいところですが、GANはまだ入手していません。
posted by GANさん at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍事郵便(海軍) | 更新情報をチェックする

2014年05月06日

軍用航空で民間便も運ぶ

SHANGHAI-AIR.jpg日本軍占領下の上海から大阪宛ての航空郵便です。香港版長城航空90分切手1枚貼りで、上海局1938(昭和13)年9月9日引き受け、大阪・大正局に3日後の12日に到着しています。

日中戦争以前、日本と華中との間の定期航空路は未開設でした。日本航空輸送会社(後に大日本航空会社に改組)が福岡-上海-南京間に定期航空路を初めて開設したのは38年10月5日のことで、10月11日から航空郵便の取扱も開始されました。

つまり、数回の試験飛行を除けば、38年10月以前には九州から東シナ海を越えて上海に達する定期航空路はありませんでした。山口修氏「航空郵便沿革史」(『郵政事業史論集』第1集)にも、成田弘氏『日本の航空郵便』にも、そう書かれています。

すると、それより1ヵ月早いこの封書はどのキャリア(航空会社)が、何を根拠にして逓送したのでしょうか。結論から先に言ってしまうと、これは福岡-上海間の陸軍軍用定期航空に搭載されたと考えられます。GANの調査で分かってきたことです。

『日本航空史 昭和前期編』によると、陸軍は日本航空輸送会社に命じ、同社の機材(ダグラスDC-2型)を使って1937年10月2日から福岡-上海間の軍用定期航空を開始させました。日中戦争下で民間航空会社は機体を操縦士ごと軍に徴用されていったようです。空路は翌年さらに南京、杭州へ延伸されます。

この軍用定期を利用して、38年2月1日からは私用でも軍事航空郵便が利用できるようになりました。公用の軍事航空郵便は定期航空と同時に開始されたと考えられます。記録は未見ですが、さらに38年3月5日から軍事郵便に限らず、一般民間人の航空郵便もこの軍用定期航空に搭載され始めました。

村田守保氏「昭和初期における航空郵便初飛行便リスト」(切手研究会『戦前の航空郵便』所収)が根拠です。これに、「昭和13年3月5日 上海-東京間定期航空開始(上海3.5→東京3.8 実逓便)」と1行だけの記述があります。村田氏はこの初飛行カバーを実際に作成し、そのデータを記録したと考えられます。こちらも3日で到着しています。

この当時、上海への空路は民間では存在しません。軍用定期しか飛んでいませんでした。「貨物室ニ余裕アル場合ニ限リ」として、こういった民間郵便も積んだのでしょう。また、村田氏が初飛行カバーを作成できたことは、当局から一般に対し何らかの告知があったことを示唆します。

この封筒は上海からの到着便ですが、日本内地への航空郵便路の開設は在留邦人に知らされていたのでしょう。この間の航空料金の設定、日本の傀儡政権・中華民国維新政府(南京)との交渉はどうしたのか。多くの課題が未解決のまま残されています。
posted by GANさん at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 中国戦区 | 更新情報をチェックする

2014年05月05日

最末期の米軍検閲カバー

MINER.jpg戦後、連合国占領軍(米軍)の開封検閲を受けたカバーです。上京局昭和24(1949)年10月13日引受の封書が翌10月14日に検閲されています。最末期の検閲例です。

米軍は日本占領直後の1945年10月16日から郵便と電報の検閲を開始したといいます。連合国軍総司令部(G.H.Q.)内に設けられた民間検閲部(C.C.D.)が担当し、東京、大阪、福岡、名古屋、札幌に検閲支局を置いて地区ごとに分担して検閲したことが明らかになっています。

米軍検閲は1949年10月末に終わっていますが、各検閲地区ごとの最終的な終了日は明確ではありません。GANの知る限りでは、最新データは昭和24年10月17日なので、このカバーはそれに次ぐ例です。

検閲印(封筒下部の赤色印=いわゆる「金魚鉢」印)の押捺方向と日付記入の表示方法から、この封書は第2検閲支局(大阪)で検閲を受けたことが分かります。検閲印を押された後、開封部はセロファンテープを使って再封緘されています。

福島鋳郎氏の「占領下における検閲政策とその実態」(『アメリカの初期対日政策*』所載)によると、第2検閲支局は大阪中央郵便局内に置かれていました。
*文末の追記兼訂正ご参照

郵趣界での米軍検閲の研究は、森勝太郎氏「占領下の日本に於ける連合軍の郵便検閲」(『切手研究会創立5周年記念論文集』所載=1955年)、裏田稔氏『占領軍の郵便検閲と郵趣』(1982年)によって深められてきました。

この封筒の検閲では検閲官番号として「C.C.D.J-12258」が使われています。両氏の調査によると、12,200番代は第3検閲支局(福岡)の検閲官に割り当てられました。検閲終了間近に、福岡から大阪へ検閲官の異動があったのでしょうか。他にこのような例は少なく、未解決の課題です。

占領期日本.jpg追記兼訂正(2017.04.15) この記事に対し本年4月6日に新井氏からコメントをいただきました。「本文中にある福島鋳郎論文を載せている資料を確認したい」というご照会です。改めて調べ直したところ、本文の下から3段目で「『アメリカの初期対日政策』所載」と書いたのは誤りでした。正しくは「『占領期日本の経済と政治』所載」です。

この本は1979年に東京大学出版会から中村隆英氏の編集で出版されました。12本の論文が収載されており、福島論文はその内の1編です。40年近く経過した今日でも米軍検閲に関して最高の学術的業績を保つ基本文献と思います。本件については飯塚博正氏から多大のご教示をいただきました。感謝します。
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2014年05月03日

ウラジオ居留民会扱い便

VLADIVO-1.jpgVLADIVO-2.jpg日露戦争後の明治43(1910)年にウラジオストク居留の日本人時計商から大阪に宛てた通信です。ステーショナリーは帝政ロシアの外信用4Kはがきが使われています。

ロシア語で「日本宛て」と書かれているほか、ロシア側の郵便印や表示類はいっさい見られません。1910年8月23日にウラジオストク(浦潮斯徳、浦潮)で発信し、2日後の8月25日に敦賀局で引き受けられています。

はがき表面にはいずれも横型角枠付きの紫色「浦潮居留民會扱」と黒紫色「PAQUEBOT」印が押されています。居留民会で日本向け郵便物をまとめ、ウラジオストク局を経ず敦賀行き定期船に直接持ち込んだのでしょう。

「PAQUEBOT(パクボー)」は郵便船の意味です。船舶に搭載されて郵便局に持ち込まれた郵便物であることを示します。このはがきのPAQUEBOT印はウラジオストク出航後に入港した敦賀局で押されています。

原暉之『ウラジオストク物語』によると、日露戦終了1年後の1906(明治39)年には商工業者を中心に日本人約千人が在住し、早くも戦前の3分の1規模に戻っています。全員加盟が義務づけられた居留民会がこの年に復活し、領事館の公務の一部まで担いました。その業務の中には郵便事務や乗船手続代行もありました。

在留邦人は日本向け郵便物はすべて居留民会に持ち込んだのでしょう。民会では船便の出航表を勘案してウラジオストク局に差し出す郵便物と日本行き船舶に載せる郵便物とを仕分けしたと見られます。

IMIGRE.jpg日本行き航路には大阪商船会社の敦賀便と小樽便、それにロシア義勇艦隊の敦賀便がありました。それらの仕分けの責任を負うために「浦潮居留民會扱」印が押されたと見られます。GANのコレクションでは、横型角枠印は明治43年8月までに限られ、43年9月以降は紫色日付入り丸二型印(画像左)に替わっています。

日本からの到着便も同様に民会経由だったのでしょう。堀江満智『ウラジオストクの日本人街』によると、民会事務所の廊下は邦人各戸の「私設私書箱」になっていたそうです。この場合、ウラジオストク局を経由しないでよいものか、それとも経由しているのか、少し気になります。

大阪商船は1907(明治40)年4月3日から敦賀浦潮間の直航線を開始し、新造の鳳山丸を投入して毎週1回運航しました。一方の義勇艦隊は歴史が長く、シベリア鉄道・東清鉄道との連絡に優れています。両者の間で激しい貨客の争奪戦が行われ、ロシア革命後に義勇艦隊が撤退するまで続きました。
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2014年05月02日

日清戦争の乃木将軍

NOGI-G1.jpgNOGI-G2.jpg日清戦争に従軍中の乃木将軍が清国の戦地から東京の留守宅に送った軍事郵便の封書で、コンテンツ(通信文)もあります。数年前、軸装されたものを入手しました。

乃木将軍は1894(明治27)年に日清戦争が起こると、歩兵第1旅団長(少将)として第2軍に従軍しました。金州、旅順、蓋平、営口、田庄台の戦闘などで戦果を挙げ、翌95年4月に中将に昇進して第2師団長に任ぜられ、さらに8月には男爵に叙爵されます。

封書は第2軍第1野戦局(金州)で明治28年4月16日に引き受けられ、東京局に4月24日に到着しています。裏面に発信アドレスはなく、差出人名が「乃木陸軍中将」と大書されています。「乃木希典」としなかったのは、中将昇進をさり気なく知らせたのかも知れません。

宛名の「乃木勝典」は長男です。10年後の日露戦争に従軍して次男の保典と共に戦死し、乃木家は跡継ぎを一挙に失ってしまう悲劇がよく知られています。書状内末尾の宛名は家族連名で、夫人・静子の名が最初に書かれています。要するに、家族全員に宛てた通信なのでしょう。

達筆とはとても言えませんが、よく書き慣れた筆遣いで、くだけたメモ風に書かれています。「師団長に昇進したのは部下将校や下士卒の働きのお陰で、自分に功績があったわけではない」。謙虚な人柄が文面からも読み取れます。

この書状の1ヵ月ほど前から下関では講和会議が始まっていました。戦闘は一段落して休戦となり、将軍もようやく家族に通信する余裕を得たのでしょう。ただし、6月には日本に割譲された台湾で抗日武装闘争が起こり、将軍は第2師団を率いて台湾に転戦することになります。
posted by GANさん at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 乃木将軍 | 更新情報をチェックする

2014年05月01日

郷土防衛に満州からシフト

NISHIKI-1.jpgNISHIKI-2.jpg本土決戦のため終戦間際に満洲から呼び戻された郷土防衛部隊の兵士が出した私製はがきです。部隊の検閲も受けていますが、軍事郵便ではありません。有料の普通郵便です。今日到着したヤフオク落札品です。

発信アドレスは「高知局気付 錦第2445部隊」です。「錦」は第11師団を、「2445」は歩兵第44聯隊を表します。また、内地部隊の「気付」局は外地部隊と異なり、配達受持局を表します。この部隊が高知局の集配区内にあることが示唆されます。

44聯隊(高知市)は第11師団(善通寺)の基幹部隊です。1939(昭和14)年以来「満州国」の新密山に駐屯し、北方からのソ連侵攻に備えていました。新密山は周辺に多数の開拓移民団集落が密集し、満州東北部の軍事上の要地でした。

米軍が沖縄に侵攻した45年4月、師団は関東軍隷下を抜け、西日本防衛の第2総軍(広島市)に転属しました。今度は太平洋を南方から攻め上る米軍に備えて郷土を守備することが新任務です。聯隊は高知東部沿岸で陣地構築の最中に終戦を迎えています。このように、満州は空っぽで放置されたままソ連軍の侵攻を迎えたのです。

このはがきは私製ですが、料金5銭を局に納めて切手代わりの収納印を受けた「暫定予納はがき」です。郵便切手の製造能力すら失った時代を反映し、特例として45年2月1日から実施されました。裏面の通信文から5月中の発信と分かります。

裏面左下部に「面会禁止」印があります。普通は病院や秘密部隊からの発信に押され、通常の歩兵部隊にまで使われるのは異例です。米軍の本土上陸を控えて泥縄式の準備に大童の中、面会どころではない、せっぱ詰まった雰囲気が窺えます。
posted by GANさん at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 大戦前後混乱期 | 更新情報をチェックする