2014年06月25日

返信票特別軍事航空に新種

返信票2.jpg陸軍恤兵部が発行した特別軍事航空はがきの後期タイプ、三角返信票付きに現地印刷の新種が現れました。スマトラ部隊の使用で、活版印刷されています。近年の大阪のオークションで入手しました。

発信アドレスの「富4050部隊」はスマトラに駐屯した第25軍に属する第4師団司令部を意味します。ここには示しませんが、GANの収品にもう1点同じステーショナリーがあります。こちらのアドレスは「富4073部隊」で、第4師団主力の歩兵37連隊です。

第4師団司令部は1943(昭和18)年11月にスマトラ島ベラワンに上陸し、44年1月にマライに移駐しました。スマトラ駐屯期間はわずか3ヵ月足らずしかありません。ただし、37連隊は司令部と分かれてパレンバンに駐屯を続け、45年2月以降、タイに移っていた師団主力に追及しました。

資料が少ないので仮説でしかありませんが、このステーショナリーは第4師団司令部がスマトラ駐屯中に現地で印刷させた「特注品」だった可能性があります。もちろん、第4師団以外の使用例が将来現れれば、この仮説は吹っ飛びますが。

ステーショナリーとしては、やや厚手(0.36mm)のザラついた粗紙が使われています。刷色は標準版と同じ赤色です。活字を使った凸版印刷、つまり活版で刷られています。三角返信票の斜辺下に本来あるべき「特別軍事航空郵便」の文字を欠いています。

右側の「受取人は……」の注意書きが通常は2行なのに、これは3行にわたっているのが最大の特徴です。注意書きの3行印刷は他に例がありません。印刷所にたまたま小さなサイズの活字がなく、大きなサイズで「妥協」したためでしょう。

この新種のステーショナリーに命名するなら、「スマトラ3行活版」はどうでしょうか。もし、第4師団のみの使用と確定できたら「スマトラ淀活版」もよいかも。「淀」は4師団の通称符です。
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2014年06月21日

上海で配達の和文電報

SHAN-TELEG.jpg昭和初期に日本の上海電信局が配達した電報送達紙です。

在中国日本局は1922(大正11)年末限りで全廃されます。しかし、上海、芝罘、青島局は、郵便局を「電信局」に改定して残留を続けました。

とくに上海には日本側が保持する長崎-上海間海底電線ケーブルが陸揚げされていました。この管理、運営のためにも局所の存続が必要でした。

残留した3電信局で取り扱う電信は、日本本土とやりとりする和文電報(官報は欧文も可能)に限られていたようです。実質的に在留邦人の利用に限定することで、中国の通信権をなるべく損なわずに日本のインフラを維持する妥協策だったと思われます。

この電報は上海電信局で昭和5(1930)年10月9日午後3時35分に受信しています。勤務先から「母親が危篤なので、予定していた香港には行かずに上海から日本へ引き返してもよい」との趣旨の急報のようです。

東京・京橋局を午前8時23分の発信なので、7時間あまりで上海に届いています。もし中国局経由だと、欧文に直して発信するか、あるいは数字による換字法で全文漢字に置き換えなければならず、大変な手間だったでしょう。やはり日本電信局は便利な存在だったと言えます。

上海電信局(旧上海日本局)は、蘇州河が黄浦江にそそぐ河口北側の呉淞路交差点にありました。日本人街の中心部です。電報の宛て先「ワンル路」は地図上で不明でしたが、電信局と同じ共同租界の配達範囲内にあったのでしょう。

廃止前の在中国局では、電信用にA欄局名、C欄「支那」という形式の日付印を使っていました。この送達紙の右下部に押されている日付印はC欄「電信局」で、内地の電信専業局の日付印と同形式です。郵便局から電信局への改定に伴って日付印も変更されたと見られます。
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2014年06月20日

太平洋戦最初期俘虜郵便

POW-2.jpgPOW-1.JPG太平洋戦争開戦直後の俘虜郵便です。俘虜情報局が発信したものですが、俘虜の発受する郵便と同様、無料扱いの俘虜郵便となりました。

太平洋戦争による俘虜情報局は1899年のハーグ条約に基づいて1941(昭和16)年12月29日に陸軍省内に開設されました。俘虜情報局などの関係官庁が俘虜事務に関して発信する郵便物は俘虜郵便規則により無料とされていました。

この封書は俘虜情報局から日本赤十字社に宛てに発信されています。引受日付印はありませんが、速達だったため、配達した芝局の、発信日と同じ昭和17(1942)年1月29日の着印があります。俘虜情報局の開設から1ヵ月後、「俘虜郵便」印がまだ出来ていなかったようで、手書きされています。

コンテンツ(通信文)が残っていて、「『日赤ニ俘虜救恤委員部設置ス』ノ放送案ニ関スル件回答」と題された公文書です。日赤が日本放送協会(N.H.K.)に依頼して放送してもらうニュース原稿を俘虜情報局に送り、実質的な検閲を求めたのに対する回答なのでしょう。

俘虜情報局編『俘虜取扱の記録』によると、俘虜が発受する無料俘虜郵便物の取扱はこれよりかなり遅く、42年5月15日に善通寺、上海、香港の3収容所の俘虜に対して開始したのが最初です。また、日赤俘虜救恤委員部が扱った「赤十字通信」は42年10月12日からです。結果的に、この封書は太平洋戦争で最初期の俘虜郵便となります。

この記録によると、陸軍省は42年3月に「俘虜管理部」を開設し、単なる俘虜情報だけでなく、本格的な俘虜管理に乗り出しています。開戦初期の作戦で予想外に大量の俘虜を捕獲してしまったためです。俘虜管理部員が条約所定の俘虜情報部員を兼務しました。俘虜管理部の俘虜郵便も存在するのではないでしょうか。
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2014年06月18日

集団的自衛権で南ア出撃

TSUSHIMA.JPG第1次大戦中、アフリカ南端に出撃した軍艦の軍事郵便です。某国首相がいま画策する「集団的自衛権」ですが、1世紀前の日本海軍が他国防衛のため地球の裏側で戦った事実を明かす史料となっています。

このはがきには神戸局大正7(1918)年1月1日の引受印があり、年賀特別取扱を受けた、つまり年賀状です。「南阿ニテ」と書き込みがあることから、南アフリカに派遣された第1特務艦隊分遣隊の巡洋艦「対馬」乗員の発信と分かります。

差出人は恐らく17年11月末か12月初め、南ア入港中に発信したのでしょう。艦隊で年賀郵便物をまとめて郵袋に納め、帰国する日本商船か補給・連絡に来た海軍艦船に託したと考えられます。これは日本で史上最長の逓送距離をたどった軍事郵便となります。

大戦中、ドイツは無制限潜水艦戦と武装商船による通商破壊戦を行いました。英国商船隊は壊滅寸前となり、追い詰められた英国政府は日英同盟を根拠に日本の助勢を求めます。日本海軍は1917(大正6)年6月に第1、2、3の特務艦隊を編成し、それぞれインド洋、地中海、南太平洋に派遣しました。

第1特務艦隊はさらに東アフリカ沿岸から南アフリカ一帯の警備のため「対馬」「新高」を分遣隊として派遣しました。両艦は南アのサイモンスタウンやケープタウンを根拠地とし、英国の喜望峰艦隊と協力して2年間にわたり連合国側商船の護衛に当たりました。

3個の特務艦隊が防衛したのは日本の領土や商船ではありません。主として英国商船保護のための出動でした。この作戦で、地中海に派遣された第2特務艦隊では多数の戦死傷者を出しています。これらこそ「集団的自衛権」そのもの。他国のため日本の若者が血を流した先例があったのです。
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2014年06月17日

満州国料金の日中貼替便

撫順.JPG富士鹿4銭切手を貼り、1932(昭和7)年に満洲の日本撫順局から上海に宛てたカバーです。一見してありふれた日中混貼りですが、当時は「満州国」の建国直後。まだ「満州国」内で活動を続けていた中華郵政の局と交換しており、一筋縄ではいかない背景を抱えています。

「満州国」郵政当局は建国宣言から1ヵ月後の32年4月1日に国内の中華郵政の接収を宣言しました。しかし、実際には施設も職員も郵便切手も郵便印もそのままで中華郵政が運営を続けました。「満州国」側に郵便経営の用意も実力もなく、書類上だけの接収に終わったためです。

たまたま中華郵政はその直後に2度にわたって料金を改定しました。書状料金では、5月1日に従来の4分を一挙に6分に上げ、高すぎるとされて5月20日に5分に下げたのです。しかし、「満州国」郵政はいずれにも追随せず、4分レートを維持しました。

このため同じ中華郵政なのに、中国本土から東北3省(「満州国」)宛て料金は5分で、逆方向の「満州国」から中国本土宛ては4分という料金相違が起きました。中華郵政当局はこれを東北3省だけのローカル・ルールとして「黙認」したようです。

ところで、「満州国」は中国が外国と締結した条約・協定類の順守を表明していました。そのため、1923(大正12)年の日中郵便協定も「満州国」内の満鉄沿線日本局に適用されます。中国本土宛て郵便には貼り替えが必要となる事情も変わりません。

これらの結果、在満日本局発中国宛て郵便物には中華郵政料金ではなく、「満州国」料金による貼り替えが行われました。これは中華郵政が「満州国」郵政を否認して東北3省から撤退する32年7月24日までの3ヵ月足らず続きました。以後は4分では「料金不足」扱いとされ、不足分の倍額が宛先で徴収されています。

このカバーの富士鹿4銭切手は「満州国」だけの中国宛て料金である4分に対応した額です。5月11日に撫順日本局で引き受け、協定による交換局である奉天日本局に送りました。奉天局で中国帆船切手4分に貼り替え、翌日、中華郵政の瀋陽局に渡しています。

瀋陽局は民国21(1932=昭和7)年5月12日の中華郵政印で引き受け、京奉鉄道(北京-山海関-奉天)により逓送しました。上海では無事に配達されたようで、不足料金が請求された形跡は見えません。
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2014年06月16日

桜島大根を賞味した将軍

乃木礼状表.bmp乃木礼状裏.bmp最近のヤフオクに出品されていた乃木将軍の書状の真正品です。将軍夫人の書状と合わせて軸装され、別に封筒が添えられていました。

封筒には菊1銭切手3枚が貼られています。引受印の局名、日付ともに不鮮明ですが、恐らく「赤阪局明治41(1908)年3月22日」と思われます。

発信アドレスは単に「東京 乃木希典」とあるだけです。神戸局着印は鮮明で、3月23日です。

「巨大ナル桜島大根御贈り下され早速賞味仕り候。一個ハ高輪御殿内献仕り候処至極御嘉賞……」とあります。神戸の大河平氏から桜島大根数個を贈られ、それに対する礼状なのでしょう。

乃木礼状.bmpこの大根はギネス記録にもなるほどの巨大さで有名だそうです。鹿児島県桜島の特産品ではありますが、あるいは神戸近郊などでも栽培されていたのかも知れません。

乃木将軍の手紙は、特段の推敲もせずさらさらとメモ書き風に、力まず書いている点で風情があります。書道的な意味での達筆でなくとも、よくこなれた大人の字です。対してニセモノは、いかにも練達の者が武張って書いたという印象のものが多いです。

ところで、文中にある、大根を御嘉賞(よしとして褒める)なさった「高輪御殿」の主とはだれだったのでしょうか。「御嘉賞」は天皇以下皇族級の貴人に使われる言葉なので、皇太子(後の大正天皇)か、皇孫(後の昭和天皇)である可能性もあります。

しかし、GANの調査不足で、お二人が当時高輪御殿に住んでいたかどうかまでは分かりませんでした。最晩年に学習院長を務めた将軍が皇孫殿下の教育を任された事実はよく知られていますが、さて、どんなものでしょうか。
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2014年06月15日

再開直後の日露間郵便

TSURUGA.JPG日露戦争が終結して日露間の郵便が制限付きながら再開された初期のロシアはがきです。邦人旅行者がウラジオストクに安着したことを知らせています。

日露間の郵便は、戦争が始まった1904(明治37)年2月にシベリア経由欧州宛て郵便と共に断絶します。ポーツマス講和条約が05年9月締結、10月に発効しますが、郵便はただちには再開されませんでした。

06(明治39)年3月に敦賀・小樽とウラジオストクを結ぶ大家商船の日本海航路が再開されました。これに伴って7月3日からウラジオストク周辺とオホーツク海沿岸に限り郵便が通じるようになります。6月末に再開されたロシア東亜汽船便にも搭載されました。

ロシア全土宛ては翌07年5月から、シベリア鉄道経由欧州宛ては07年9月から、そしてシベリア鉄道経由南米宛てが08年4月に開通し、ようやく戦前と同様に復旧しました。遅れたのは戦争をきっかけに起きたロシアの革命運動による混乱が原因と見られます。

このはがきは帝政ロシアの内国用はがきに1コペーク紋章切手を加貼りしてU.P.U.料金4コペークとし、ウラジオストク局でロシア暦06年8月18日(日本の明治39年8月31日)に引き受けています。再開から2ヵ月足らずの初期使用例です。

敦賀まで運んだのは大家商船の鳳山丸か東亜汽船のモンゴリア号だったか、これだけでは判定できません。9月2日に敦賀局で中継印として欧文TSURUGA印を押し、翌3日に愛知県内海局で配達されました。発信から到着まで非常に効率的な逓送です。

外国郵便というのに、はがきの宛名が日本語だけで書かれています。下部中央に「日本行き」を表すロシア語の紫色印が押されているだけです。ウラジオストク局に直接投函されず、再開されたばかりの日本居留民会で受け付け、仕分けたことを示唆しています。
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2014年06月14日

旅順の軍艦が野戦局利用

TSUKUSHI-1.jpgTSUKUSHI-2.jpg日清戦争で軍艦「筑紫」が日本軍占領地の旅順口から出した無料軍事郵便の書状です。

「筑紫」は元々はチリ海軍がイギリスに発注して建造した小型砲艦ARTURO PLAT(1,300㌧)でした。竣工直後の1883(明治16)年に日本政府が買収して日本の軍艦となり、後に砲艦に類別されました。

日清戦争で「筑紫」は常備艦隊附属艦となりました。大連湾、旅順口、威海衛の各攻略戦に参加しています。

この書状は明治28(1895)年5月14日に第2軍第4野戦局で引き受けられています。第4野戦局は1894年11月に旅順口に開設され、95年12月に廃止されるまで移動しませんでした。

海軍の艦船乗組員が陸軍の野戦局を利用したケースですが、この時代では特別な例でもありません。陸海軍はまだ昭和期のようには対立していませんでした。また、海軍が独自で郵便所を開設するのは、日露戦争以後のことです。

この時期は、日清講和条約締結とそれに続く三国干渉も一段落した、つかの間の平和期間でした。直後に、講和条約で清国から日本に割譲された台湾の住民が台湾民主国を立てて日本に反乱します。復員直前だった部隊を送り込んで平定作戦が開始され、海軍も巻き込まれていきます。

「筑紫」はその後、北清事変や日露戦争でも活躍しますが、1911(明治44)年に廃船となりました。
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2014年06月12日

震災後、仙台-東京の通話

CALL-1.JPG関東大震災のさい東京市内に特設された下谷ニ長町臨時電話所で大正14(1925)年6月10日に使われた電話通話券です。電話所は当時の「有人公衆電話ステーション」でした。

これは通話券の一種の「前納通話券」(右図上)で、裏面が「電話呼出」券(右図下)になっています。利用者が電話官署(電話局、電話所、郵便局電話課など)に通話料金を前CALL-2JPG.JPG納して発行され、通話を求められている相手方に配達されました。

この通話券の場合、次のような順序で利用されたと思います。

 1、通話請求者(仙台の電話加入者)が仙台局に東京・下谷の真山氏との通話を求め、1通話料金90銭を前納する。
 2、仙台局がニ長町電話所に連絡し、前納通話券の発行を依頼する。
 3、ニ長町電話所は通話券を作成して証明日付印を押し、真山氏宅に配達する。
 4、真山氏は即日電話所に行って通話券を示し、請求者との通話を求める。
 5、下谷-仙台間の電話がつながり、1通話(5分以内)の通話が行われる。
 6、電話所は裏面「切手貼付欄」に確認日付印を押し、通話券を保存する。

関東大震災では東京中央電話局をはじめ、市内18分局のうち下谷を含む14分局が被災し、電話網が壊滅してしまいました。東京中央電話局は応急復旧に努める中で、市内34ヵ所に電話所を臨時に開設しました。

電話を持たない被災者、電話を失った加入者の緊急の通信要求に応える措置です。これにより、本格的な電話網の再構築への時間を稼ぐことができました。横浜市内でも同様に10ヵ所の臨時電話所が開設されています。

電話網の復旧が進む中で臨時電話所も段階的に閉鎖されていきます。ニ長町電話所は一番遅く、1926(大正15)年1月19日に廃止されました。下谷区は深川区と並んで被災地の中でも最も被害が大きく、復興が遅れたためでしょう。

この通話券は当局がどのように電話の復旧に努めたか、非加入者との市外通話が実際にはどのように行われたかを示しています。小さな紙切れですが、大混乱期の通信事情を示す情報がいっぱいに詰まった資料だと思います。
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2014年06月10日

訪欧大飛行カバーの大疑問

BOURGET.jpg1925(大正14)年に朝日新聞社が行った訪欧飛行に積まれたカバーです。と、簡単に言いきれもしない、多くのナゾを積んだカバーでもあります。

訪欧飛行は日本人飛行士による初の西回りヨーロッパ往復飛行です。フランス製複葉機のブレゲー式19A-2型機の同型2機が採用され、「初風」「東風(こちかぜ)」と命名されました。国民的な熱狂の中で7月25日に東京・代々木練兵場を出発していきます。

両機は平壌、哈爾賓、チタ、チェリヤビンスク、モスクワ、ベルリンを経て9月28日パリに到着しました。さらにロンドン、ブラッセル、ローマを訪問した後、翌26年1月10日に東京に帰着しています。乗員は朝日新聞社員の河内一彦1等飛行士を含む4人でした。

このカバーは田沢10銭を貼り、櫛型印に似せた黒色ゴム印の「訪欧飛行東京出発/25.7.1925/TOKYO OSAKA ASAHI」で抹消されています。フランス北東部のストラスブール局9月26日、パリ北郊のブールジェ空港局9月28日の、それぞれ到着日付印があります。

さらに、カバー左上に発信者の記入と思われる「飛行郵便/封書」のペン字、朝日新聞社の赤色「訪欧大飛行記念」スタンプ、左下にはブールジェ空港の二重角枠日付入りスタンプ、右辺中央部に河内飛行士のサインまであります。

これだけ「役者」がそろっているというのに、なぜか違和感がぬぐえません。これは本当に飛行郵便なのでしょうか。正規の飛行郵便が行われたのなら、逓信省の告示類や郵趣界の対応などがあって然るべきです。が、これらはまったく見られません。

そもそも郵便切手の抹消が通信日付印でなく、朝日新聞社の私印で行われているのがおかしい。GANは昔、朝日新聞社の社史編纂室に潜入したことがあります。しかし、「訪欧飛行に郵便物搭載」を示すような資料はまったく見当たりませんでした。

朝日新聞社は郵便飛行が公認されると考えて搭載郵便物を募った、しかし当局から拒否されたため私印を使って凌いだ、というのが真相ではなかったでしょうか。

郵趣家が一方的な思い込みで初飛行カバーを依頼したとすると、朝日側が郵便印まがいの私印まで作る理由がありません。この櫛型類似印は、この「飛行カバー」にしか見られないのです。ついでに言えば、カバーは10点ほどありますが、貼付切手以外すべて同じで、これ以外の作成者のカバーは現れていません。

「そもそも」はもっとあります。全国民的な支持を受けたこの飛行に、逓信当局が「差出人ノ危険負担ニ於イテ」でも郵便物搭載を認めなかったのは、なぜか。「危険だったから」は理由になりません。もう一人の飛行士・安辺浩陸軍大尉はれっきとした逓信省航空局の現職官吏、航空官だったのです。

園山精助氏は『日本航空郵便物語』(1986年)で、「堅いことをいう必要はない。大飛行の記念品として記録しておけばよい」と記しました。それから30年近く経って、一歩も解明が進んでいないのが残念です。
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2014年06月09日

敗戦後預入れた軍事貯金

SAVENOTE-2.jpgSAVENOTE-1.jpg中国戦線で使われた軍事郵便貯金通帳です。野戦局でわずか一度の預入があるだけですが、敗戦財政・金融史を物語る、なかなか興味深い使われ方をしています。ネットで落札し、本日到着しました。

預け人(利用者)の所属する「隼魁8354部隊」とは陸軍の航空部隊で、上海南方の杭州に基地を置く独立飛行第54中隊です。敗戦から1ヵ月後の昭和20(1945)年9月14日に第47野戦局(杭州)で4,950円という大金を預け入れています。

敗戦後、復員や引揚によって戦地や植民地から一時に大量の現金の流入が予想されました。大蔵省・日銀の通貨当局が打った手が現金流入の阻止です。内地のインフレは当時数100%台に達しているとみられ、黙過すれば国家財政の破綻は必至だったからです。

政府方針により、復員兵士の現金携行は厳禁されました。兵士らは現地で貯金預入し、通帳で持ち帰るほか方法がありません。大陸の野戦局は敗戦後、事実上の閉鎖状態でしたが、軍事郵便貯金の取扱のためだけに一部を除き45年10月末日まで窓口を開きました。

「旧中国派遣第6方面軍管下野戦郵便の概況」(『続逓信事業史資料拾遺第2集』所載)によると、華中の第6方面軍(漢口)、第13軍(上海)管内では、さらに軍事郵便貯金の預入上限額を次のように定めました。将校5千円以下、下士官3千円以下、兵9百円以下

この通帳の預入額4,950円とは、このような事情を受けての将校の最大限預入可能額だったことが分かります。私物を現地業者に売ったりして得たお金でしょう。しかし、日本軍が華中占領地区で流通させた儲備券は大暴落しており、現地の5千円もそれほどの価値はなかったはずです。

この貯金はさらに、帰郷した三重県の桑名税務署で1946年4月4日に申告して「預金封鎖」手続きを受け、在良局で同日、1千円だけの「軍事制限払」をしてもらうという踏んだり蹴ったりの措置を受けています。敗戦日本はこのような政府による強引な「国民収奪」によって、財政破綻-国家の倒産をからくも回避したのでした。
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2014年06月07日

皇太子訪欧御召艦「香取」

KATORI-f3fc7.jpg1921(大正10)年に皇太子(後の昭和天皇)が欧州訪問したさいの乗艦・戦艦「香取」からの軍艦郵便です。英国ポーツマス軍港に寄港中ですが、万国郵便連合(UPU)の条約で認められた軍艦の特権で、分銅はがきの内国料金で日本に届いています。

皇太子は21年3月から半年にわたって英、仏、伊、ベルギー、オランダの5カ国を歴訪しました。昨日のブログで南洋の艦船郵便所が発売した立太子礼記念切手を扱いました。偶然ですが今回の主人公も同じ人物、裕仁親王です。

皇太子外遊は元老山県有朋の熱心な勧奨による帝王学の一環とされます。大正天皇が長期の闘病中だったことや皇太子妃候補の家系の色盲が発端の「宮中某重大事件」などで外遊自体が政治問題化した中での決行でした。

御召艦の「香取」がビッカース社、僚艦で供奉艦となった戦艦「鹿島」はアームストロング社と、共に英国製だったことも、主目的の訪英に当たり配慮されたかも知れません。両艦に対し、横浜出港、インド洋・スエズ往復帰港の間の21年3月3日から9月3日まで軍艦郵便が適用されました。

このはがきは交換局の「横浜局気付」を肩書きして福井県に宛て、英ポーツマス軍港を21(大正10)年5月9日に発信しています。横浜局には23日後の6月1日に到着しており、非常に効率よい日数と言えます。この時期、ロシア革命後の内戦でシベリア・ルートは途絶していました。恐らく便数の多い北米・太平洋経由で日本に届いたと思われます。

表面左側には「香取」で押したと見られる「軍艦郵便」「検閲済」の朱印があります。軍艦郵便の検閲は極めて異例です。事実、同時期に発信された「鹿島」からの軍艦郵便には検閲印がありません。皇太子の乗艦としての特別措置だったのかも知れません。

通信文面には「横浜出港以来炎地長途の航海も別に御変りなく殊の外両殿下(皇太子と随従の閑院宮)も御機嫌慶くあられ、本日午前ロンドンに向かはせられ候」とあります。長旅前半の山場を越え、ホッとして故郷に報告する御召艦乗員の誇らしげな心境が見えます。
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2014年06月06日

南洋発売の立太子礼記念

PONAPE-2.JPGPONAPE.jpg日本海軍占領下の南洋群島ポナペから発信された普通郵便です。2倍重量便として6銭分の切手が貼られています。中で1枚、大正5(1916)年11月3日発行の立太子礼記念3銭切手が目立ちます。

この封書は田沢1銭と2銭、大正立太子礼記念3銭を貼って大正5(1916)年11月18日に発信、ポナペ艦船郵便所で6日後の11月24日に引き受けられています。

この日が内地に向かう郵便船の寄港日だったのでしょう。東京には12月11日と効率よく到着しています。

差出人は南洋貿易ポナペ支店の女性従業員(あるいは従業員の妻)のようです。旅行者と違い、内地からの記念切手の持ち込み使用とは見えません。「海軍の野戦局」である艦船郵便所などで、いったい記念切手を発売したものでしょうか。

ごく少量ですが、この記念切手を艦船郵便所で正式に発売した記録が防衛省防衛研究所の保管資料中に残っています。逓信省通信局長発首席艦船郵便吏宛ての「立太子礼記念切手及特殊通信日附印等交付ノ件」(大正5年9月20日、秘第1634号)がそれです。

1.5銭切手と3銭切手を各1千枚、10銭切手(いわゆる「冠」)3百枚を南洋の陸上8ヵ所、船内3ヵ所の計11郵便所で内地と同時発売することなどを指示しています。ただし、10銭切手は配給取り止めになったようで、事後の記録では触れられていません。

臨時南洋群島防備隊の海軍軍人や海軍文官は無料軍事郵便が利用できました。このころようやく進出が始まった商店や鉱山の従業員などの民間人が記念切手の売り捌き対象だったようです。いずれにせよ、少数でしかありません。

南洋の陸上郵便所の中でもポナペは小局だったので、割当量は恐らく数十枚しかなかったでしょう。この記念切手は極めて「貴重品」だったはずです。この封筒に記念切手の2枚貼りのような「贅沢」使用をしていないのは、そのためだったかも知れません。

やはり防衛研究所保管の『大正4年乃至11年海軍軍用郵便記録』によると、このほかにも南洋の艦船郵便所・海軍軍用郵便所で記念切手や逓信省記念絵葉書が発売されています。大正大礼(1915年11月)を最初に、平和(1919年7月)、国勢調査(1920年10月)、通信事業50年(1921年4月)の4回でした。

記念切手の発売枚数はいずれも1千-2千枚程度と少量です。郵趣家便を含めても、これらの実逓カバーを目にする機会は、そう多くありません。
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2014年06月03日

日満貼り替え航空カバー

MIX-FRAN-1.jpgMIX-FRAN-2.jpg「満州国」建国後、満鉄付属地日本局から「満州国」内に宛てた航空書状です。日本切手と同額の「満州国」切手が貼られています。

在中国日本局から中国国内に差し立てる郵便物は中国切手で料金納付しなければなりませんでした。日中間で1910(明治43)年に結ばれた日清郵便約定による規定です。そのため、日本局は引き受けた郵便物に、用意した同額の中国切手をいちいち貼っていました。「貼り替え」と呼ばれます。

20年以上が過ぎ、「満州国」に変わってからも、日満間ではこの約定を適用して切手の貼り替えを続けました。「満州国」は中国に対する条約・協定を引き継ぐ、という政策からです。

この書状は、書状3銭+航空15銭の料金を芦ノ湖航空18銭切手で1枚貼りし、奉天日本局が昭和9(1934)年5月23日に引き受けています。奉天から新京に満鉄線で運ばれた後、新京日本局が「満州国」白塔切手3枚計18銭に貼り替え、中継印を押して「満州国」の新京頭道溝局との間で交換しました。

頭道溝局では「満州国」切手を康徳元年=1934年の丸二型印で抹消し、満洲航空に引き渡しました。発信された5月23日中にここまですべてが行われています。この書状は翌24日の満洲航空機に搭載されて新京から哈爾賓に飛び、哈爾賓局がその日の内に配達しました。

日本と傀儡国家との関係で、こんなに煩瑣な貼り替え手続きなど本来は無用です。しかし、「満州国」はアイデンティティーを示したかったのです。中国と無関係の新たな第3国ではなく、あくまでも中国の一部の分離国家なのだと。そのための「痩せ我慢」の措置でした。

やがて既成事実が積み重ねられ、そんな建て前さえ必要なくなります。満州帝国郵政総局編『満州国郵政事業概要』によると、1935(昭和10)年11月26日に締結された日満郵便条約により、この貼り替えは廃止されました。

ただし、荒井国太郎氏は別の主張をしています。それより先、「満州国」皇帝溥儀の訪日を記念して35年4月2日に廃止された、しかし公表されなかった、といいます(例えば「南満州郵政史抄」=『郵趣手帖』第5号所載)。

GANはこれを、35年4月に実務上で廃止され、約8ヵ月後の郵便条約でそれが正式に追認されたと理解しています。従って、35年4月-11月の間の日満貼り替え郵便物は、恐らく存在しないでしょう。
posted by GANさん at 23:43| Comment(2) | TrackBack(0) | 「満洲国」 | 更新情報をチェックする

2014年06月01日

売れ残り記念切手活用術

JUBILEE.JPG日本最初の記念切手として知られる明治天皇銀婚2銭切手の25枚ブロックのオンピース(紙付き)です。

紙の上辺にわずかに文字の一部が残り、「郵便切手貼付用紙」と判読できます。東京局明治33(1900)年2月26日の丸一電話印で抹消してあります。

電話業務関連の料金が窓口で現金で支払われ、局側で相当する切手を貼って料金収納用の抹消をしたのでしょう。下部の切断ぐあいから、元々はこのブロックの倍の切手が貼られていた可能性があり、その場合は2銭×50枚=1円料金となります。電話加入料の年額なのかも知れません。

納付料金が50銭でも1円でも、この時期には既に発行されていた菊切手で1枚だけ貼れば簡単に済んだはずです。高額切手とはいえ、東京局で切らしていたはずがありません。なのになぜ、こんな面倒な使い方をしたのでしょう。GANは「デッドストックの使いつぶし」だと思っています。

明治銀婚は1894(明治27)年発行なので、既に6年も経っています。1,480万枚と印刷し過ぎて大量に売れ残り、さりとて記念切手をいつまでも売り続けるわけにもいきません。ディスカウントなど畏れ多いことはもってのほか。金庫に寝かすしかなかった切手ですが、料金収納用に局内で使ってしまえば大量消費できます。

こうして、わずか2銭の低額切手を何十枚も貼って納付料金の収納に当てるという事態が起きたのでしょう。これを明治人の「節約の智恵」と言うべきか、窓口に余計な労働を強いる「官僚の責任逃れ」だったのか。なかなか人間くさく、面白いケースだと思います。
posted by GANさん at 23:16| Comment(2) | TrackBack(0) | 電信・電話 | 更新情報をチェックする