2015年08月31日

ラバウルの沖部隊郵便所

Rabaul.jpg最近のネットオークションで入手したばかりの軍事郵便貯金通帳です。野戦局印はわずか3個しかないささやかなものですが、太平洋戦争中の軍事郵便の貴重な資料とGANは考えています。

通帳所有者(兵士)の「住所」欄には「熊本西部16」というゴム印があり、これは歩兵第13聯隊(熊本)補充隊を表します。預け入れが始まった1942(昭和17)年当時、13聯隊が属していた熊本第6師団は中国戦線にありました。補充要員だったこの通帳所有者は上海を経て前線の13連隊に到着し編入されたとみられます。4回目、昭和17年12月19日の預け入れ印の第42野戦局は上海にありました。

FPO.241.jpgFPO.280.jpg5回目の預け入れは昭和18年2月29日に「第二百四十一野戦」(図左)で、6回目は4月14日に「第二百八十野戦」(図右)でされています。後者の第280野戦郵便所は終始ニューブリテン島のラバウルにあったことが別の資料で分かっています。

  第241野戦      第280野戦   そうすると、この兵士は中国戦線から転じ、第241郵便所があった「どこか」を経由してラバウルに着いたのでしょうか。軍事郵便貯金通帳で異なる野戦局印が押されている場合は通常、そう理解されています。

しかし、GANはほかの複数の資料を総合して、241所も280所も共にラバウルの郵便所だと以前から考えていました。この通帳の兵士の場合、2月に預け入れし、4月にもまた同じ郵便所に行って所名の変化に気付いたはずです。241所が280所と改定されていました。通帳に押された日付印が、「ラバウル280所は241所の後身」説を傍証する資料になります。

1942年5月に東部ニューギニア方面の担当として第17軍(沖部隊)が遅れて編成された際、主な所属部隊はニューカレドニア攻略予定の南海支隊と東ニューギニア南岸ポートモレスビー攻略の青葉支隊だけでした。「軍」と称しても実質は師団規模の寄せ集め部隊なので、付属すべき野戦郵便隊も編成されません。わずか2、3局分(第240-242所)の野戦局資材と要員が随伴したに過ぎなかったとGANは考えています。

この「沖部隊臨時野戦郵便班」とでもいうべき小部隊の内、第241所は南海支隊付きとなって42年8月にラバウルで開局しました。その直後にガダルカナル(ガ島)戦が突発したため、ラバウルやソロモン群島に大部隊が逐次投入され、南海支隊も結局モレスビー作戦に転用されます。そこでようやく編成された第8方面軍付きの第14野戦郵便隊(第280-285所)が43年4月にラバウルに到着し、先発の「沖郵便班」を吸収したのだと思います。

これより先、第17軍司令部が開設された比島のダバオ(正確には郊外のダリアオン)に青葉支隊付きとして第240所が開局し、パラオからの部隊到着を待ちました。しかし、ガ島戦情勢悪化で二転三転と大混乱し、軍司令部はラバウルに急進、青葉支隊はダバオに来ないままガ島奪回に直行してしまいます。置き去りにされた240所はダバオでそのまま閉鎖され、ガ島には野戦郵便所の開設は出来ませんでした。

なお、貯金通帳の持ち主が所属した第13聯隊はラバウル到着後、第6師団に従ってブーゲンビル島に渡り、終戦まで島の防衛に当たりました。米豪軍の攻撃で島はすぐにラバウルから切り離されて孤立し、郵便連絡は完全に途絶してしまいます。ブーゲンビルの郵便所(エレベンタ第283所)も事実上の閉鎖状態に陥ったとみられます。

この240番台と280番台の野戦郵便所については資料がほとんどありません。これらの郵便印を持つエンタイアも極端に少ないか、ほとんど出現していません。ナゾが多く興味をそそられる対象です。貯金通帳とはいえ、解明に向けてわずかな手がかりを得られました。
posted by GANさん at 23:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 為替・貯金 | 更新情報をチェックする