2015年11月30日

惜しい! ニセ野戦局印

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第2野戦局.jpgシベリア出兵第2野戦局のニセ満月印がヤフオクに出品されていましたが、11月30日夜、応札ゼロのまま終了しました。偽造消印と見破られたためというより、下値が8,000円と高すぎる設定だったからでしょう。欲をかきすぎた偽作者の「自滅」と言えます。

の田沢1銭切手に押されているのがそのニセ印、はGAN所蔵の真正印です。この野戦局の軍事郵便自体は駄物で、よほどきれいな消印でない限り500円でも売れないでしょう。しかし、切手に押されているとなると、とたんに「大」の付く珍品に昇格します。

第2野戦局の所在地はニコリスク・ウッスリスキーですが、この局の有料エンタイアはもちろん、オンピースでも単片でも切手上の印影は未発表です。GANの調査では第2野戦局が普通(有料)郵便を扱った事実はなく、切手上にこの印影があること自体がそもそもおかしいのです。が、それはまあ、一応おいておきます。

印影だけ比べて、ニセモノである証拠は片手ぶん以上を挙げることが出来ますが、ここでは2点だけ指摘しておきましょう。偽印()と真印()を見比べて分かる違いは、まず第1に、偽印の日付表示が「後点式」であることです。後点とは、年、月活字の後に点(ピリオド)が付く形式を指します。

櫛型印は一般にすべて月、日活字の前に点が付く「前点式」です。正規の後点式櫛型印がないこともないのですが、大正初期の機械印(林式初期印と平川式元祖印)だけと、非常に局限されています。日本の消印について無知なシロートが作ると、このような作品になるという典型例です。

第2の違いは「野戰局」の「戰」の偏に当たる「單」の字体です。旧字体としては「口」を二つ並べた偽印の方が正しいのですが、真印は「日」を横にしたように略しています。活字母型の彫刻を単純化したかったためでしょう。偽作者は真印をよく見ていないため、正しい字体で作ったのに結果的に間違う、という「痛恨の」ミスを犯してしまいました。

この2点はニセモノの証拠として致命的です。しかし、ハンコとしての偽造技術は、中国・上海あたりで作られたものらしく、なかなかのものです。真印と比べて初めて分かるような違いなので、下値さえ安かったら、うっかりだまされるコレクターも出たでしょう。切手を集めるにもハンコを集めるにも、郵便史的な知識が必要な所以だと思います。
posted by GANさん at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセモノ列伝 | 更新情報をチェックする

2015年11月25日

振り仮名なく南方に届かず

BANDOENG-1.jpgBANDOENG-2.jpg終戦直前の1945(昭和20)年に日本軍占領下のジャワ・バンドンに宛てた普通郵便です。内国と同額の10銭料金は適正なのですが、差出人に戻されてしまっています。アドレスの漢字に「振り仮名がない」というのが返戻の理由。結局この封書が名宛人に届くことはありませんでした。

南方地図10銭を貼って東京・滝野川から昭和20(1945)年4月12日に発信されています。宛先のバンドン工業大学(工科大学)は現在も国立大学として存続しているようですが、「インドネシア独立の父」とされるスカルノ初代大統領も学んだ名門です。受取人はそこに派遣された教員だったのかも知れません。

ところが、差出人は内国郵便と同じ宛名の書き方に安心したためか、うっかり「爪哇(ジャワ)」「工業大学」や受取人名に読み仮名を付けるのを忘れていました。確かに、2年半前から実施された南方占領地との間の郵便では、アドレス表記は「仮名、漢字(振仮名附)若クハ『ローマ字』トス」と定められていました。

この規定は、現地人の郵便職員でも処理できるようにしたためと思われます。収支が償わない内国並みの低料金も、「大東亜共栄圏」という戦争のスローガンを利用者に実感させるため、いわば「身銭を切って」採用したのでしょう。元々は陸軍省が現地の南方総軍の要望を取り次いで起案し、逓信省にそのまま受け入れられました。

封筒に貼られた付箋には東京中郵外国郵便課の名で「名宛人居所氏名ニ片仮名ヲツケ符箋ヲハガシテ御出シ下サイ」とあり、引受から半月も経った4月28日のTOKYO局欧文印が押されています。貼付切手は抹消されていても有効で、振り仮名を付けて再度投函すれば受け付けられる手はずです。

既に切手に消印が押され、検閲も済んでいます。事情が分かる付箋があるならばともかく、それをはがしたら、もう一度新たに切手を貼り直さねばならないのが普通です。「振り仮名の付け忘れ」は返戻理由として薄弱で、他に例がありません。「特例」とも言えるこの扱いはそんな事情もあってのことかも知れません。

しかし、差出人はこの「再差し出し」の権利を行使せず、手紙を出すこと自体をあきらめてしまったようです。付箋がはがされないままで残っていることから分かります。敗戦まで3ヵ月半、既に南方行きの郵便ルートは事実上閉ざされてしまっていることを知っての断念だったのでしょうか。
posted by GANさん at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする

2015年11月09日

ロシアの山海関野戦局

山海関-1.jpg山海関-2.jpg北清事変を機に清国領土の満洲を占領したロシア軍が開設した山海関局のカバーです。つい最近の東欧のオークションで入手しました。

自家製の封筒裏面に紋章14kペアと2kを貼りSHANKHAIGUAN山海関野戦電信取扱所1903年3月20日(太陽暦4月2日)の日付印で引き受けられています。フランスのシャラントCharente宛てで、到着印は一部読めませんが、4月26日のようです。

山海関自体は万里の長城に面した中国本土の都市ですが、この日付印にはPRIAMUR OKRUG(沿黒竜江地区)と表示されています。完全な清国領土内であることを無視し、まるでロシア領と言わんばかりの扱いです。

封筒表面に「ポルト・アルトゥール(日本占領後は旅順)、モスクワ経由」と経路指定が書かれています。全通直後の東清鉄道南部支線-東清鉄道本線-シベリア鉄道ルートで運ばれたことが分かります。当時の外郵封書料金は10kなので、計30k貼りは3倍重量(45g)便です。

山海関-3.jpg例によってチリンギリアンTCHILINGHIRIAN『外国で使われたロシア帝国の切手』に教えを乞うと、北清事変に際し、ロシア軍は天津-新民屯間の鉄道と共に山海関-愛琿間の電信線を占領しました。この取扱所も1900年に清国電信局を占領して開設され、民間郵便も扱う事実上の普通局でした。

北清事変終結後もロシアは「野戦局所ではなく民間局だ」と主張し、1902年10月の第1次撤兵まで居座りを続けました。戦争のドサクサに紛れて在外局を増設する企みもあったのでしょう。

ロシアはその後、第2回目以降の撤兵の約束を実行せず国際的な非難を浴びます。満洲進出の野心を持つ日本には大きな障害と脅威で、開戦の名目にも使われました。このカバーは日露戦争の「前史」を物語るよい資料だと思います。
posted by GANさん at 00:53| Comment(0) | TrackBack(0) | ロシア極東 | 更新情報をチェックする