2015年12月30日

ヒマラヤ越えの郵便ルート

成都-2.jpg成都-1.jpg日本軍の侵攻により奥地の四川や雲南省に追い詰められながら、重慶に首都を移して徹底抗戦していた時代の中国からの国際航空郵便です。アメリカに宛て、成都局で1943(昭和18)年5月4日に引き受けられています。

カバー表面に航空路線とそのキャリア(航空会社名)が指示されています。「B.O.A.C.によりカルカッタ、カイロを経てナイジェリアのラゴスへ、そこからはP.A.A.により宛先まで」とあります。

ここには書かれていませんが、成都-重慶、重慶-カルカッタ(コルカタ)の両区間は中国国内航空路線でした。世界最高のヒマラヤ山脈を越える重慶-カルカッタ線については後述します。

P.A.A.(パンナム)はラゴスから大西洋に出、ブラジル、トリニダードを経由して米マイアミに着く路線でした。カバーの左端にマイアミで受けたとみられる検閲封緘紙があります。マイアミからは名宛地のボストンやニューヨーク線空路に積み替えられたのでしょう。

中米間の航空路は、香港からクリッパー機でサンフランシスコに直行する便利なルートがありましたが、太平洋戦争で閉鎖されます。代わって、ビルマ北部のラシオに飛び、陸路でインドに運び出す路線が設定されました。しかし、これも日本軍のビルマ攻略により半年足らずで廃止されます。

わずかに残されたのが、米空軍が援蒋ルートとして開発した俗称「ハンプ越え」の軍用航空路でした。カルカッタから北上し、高度9,000メートルに上昇してヒマラヤ山脈を越え、ビルマ最北端部をかすめて重慶に達します。強風、酷寒。最悪な気象条件に加えて機体の耐寒性能の問題もあり、きわめてデンジャラスな飛行だったと思われます。

連合軍は北ビルマのミートキーナ(ミッチーナー)を奪還すると、45年1月に北部インドのレドから中国の昆明までの山岳・密林地帯1,700キロをトラックのコンボイで結ぶ「レド公路」を開通させます。それでも、輸送力はハンプ越えの方がはるかに勝ったといいます。中国にとって、このヒマラヤ空路は文字通りの命綱でした。

カバーは裏面に4枚で計10円2角の切手が貼られています。北米宛て平面路国際料金1円5角+北米宛て航空料金8円7角の合計です。この航空郵便ルートは戦後すぐの45年10月に廃止されますが、中国の猛烈なインフレのため、最後の航空料金は120円にまで値上がりしていました。

(この記事は中国切手研究会『中国の郵便料金(抄)1867-1950』(2004年)を基礎にして書きました。大変な労作を利用させていただいたことを感謝します。)
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2015年12月21日

タンカーからの軍艦郵便

早鞆.jpg給油艦「早鞆」の乗員が米・ロサンゼルスから発信した軍艦郵便です。12月20日に東京で開かれた大手オークションで入手した、ホヤホヤ品です。

日本海軍は軍艦を動かす重油のほとんど全部を外国に依存していました。石油会社が輸入したものを国内で購入するのではなく、自前のタンカーを産油地のアメリカ・サンペドロやボルネオのタラカンなどに運航して直接積み取ってくるのです。そのため大正10年代に多数のタンカーが建造されました。「早鞆」もその1艦です。

このはがきは羅府(ロサンゼルス)港に入泊中の「早鞆」から1938(昭和13)年4月20日前後に差し出されたようです。積み取り港のサンペドロはロスの隣で米海軍の軍港でしたが、現在はロス市に編入されています。はがきはひと足先に帰国する日本商船が横浜に運んだと考えられ、5月11日に横浜局で引き受けられています。

給油艦の重油積み取りは日本海軍の一種の「宿命」として大正末期から延々と続きました。とくに日中戦争が始まってから、給油艦はフル稼働状態となりました。石油供給元である当のアメリカ相手に一戦を交える可能性が増し、それまでに少しでも備蓄を増やさねば。間もなく「石油の一滴は血の一滴」という悲壮なスローガンが叫ばれる時代でした。

しかし、その割には給油艦の軍艦郵便は余り残されていません。軍艦郵便というと、市場に現れる9割方は練習航海のものです。実は、日米開戦直前、最後の石油積み取りの軍艦郵便を密かに探しています。太平洋戦争の郵便史を語る上でぜひほしいところなのですが、GANは未だに見たことさえありません。

給油艦の軍艦郵便が少ない理由は想像がつきます。タンカーには基本的に戦闘要員がいず、乗員の絶対数が少い。目的地に直航し、満タンになるとそのまま帰る、往復2ヵ月程度という短い航海の特性もあります。行程後半以降は郵便物より自身の帰国の方が早くなりそうで、発信はあまりしないでしょう。

さて、この「早鞆」の航海ですが、「海軍公報(部内限)」によると、軍艦郵便の取扱開始は38年3月9日に告知されています。4月18日にロスに入港し、積み取り完了後の4月23日に出港、5月8日にホノルルを出て佐世保に向かっています。この2ヵ月間ほどが軍艦郵便の実際の適用期間となると思います。
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2015年12月20日

蒙彊聯合委員会の絵葉書

蒙彊-2JPG.JPG蒙彊-1JPG.JPG 蒙彊-3JPG.JPG蒙彊の自治政府発行と考えられる絵はがき2シリーズ、3点を最近のネットオークションで相次いで入手しました。この分野では島田健造氏の『日本記念絵葉書総図鑑』(2009年再版)が最も信頼できる参考書ですが、「記念」ではないためか、いずれも未掲載です。

図1(上図の右)は黒単色の写真で「既婚婦人(右)と未婚婦人(左)」の説明があります。同じ絵面の右下方に小さく「蒙彊聯合委員会/蒙古聯盟自治政府」と発行者の名前が2行で入っています。表面は「POST CARD」などの英文もあり、市販の写真絵葉書と全く同じスタイルです(下図の左)。何種かのセットの内の1枚でしょう。

図1とは別シリーズの図2(上図の左)、図3(図2の下)は共にセピア単色の写真で、「蒙彊聯合委員会」「夏の蒙古高原」のタイトルがあります。やはり何種かの内の一部と思われます。表面(宛蒙彊-12.jpg蒙彊-32.jpg名面)下部中央に「蒙彊聯合委員会発行」と、こちらは銘版が明確に印刷されています(右図の右と下図の下)。

蒙彊聯合委員会は日中戦争直後の1937(昭和12)年11月22日に張家口で発足しました。いずれも関東軍の謀略で内蒙古に成立した察南、晋北、蒙古聯盟の3自治政府の上部連絡機関です。2年後に3自治政府は合流し、委員会は「蒙古聯合自治政府」に改組されます。

蒙銘-3.jpg図1絵面の「蒙彊聯合委員会/蒙古聯盟自治政府」と二者並列に見える「銘版」(左図)は、実際は「蒙彊聯合委員会に加盟(所属)する蒙古聯盟自治政府の発行」の意味でしょう。蒙銘-1.jpg

いずれにせよ3種とも37年11月の聯合委員会発足以降、39年9月に聯合自治政府に改組される以前の発行、ということになります。

これらの政権はすべて蒋介石の国民政府からの「独立」を宣言した、日本の傀儡の地方政権でした。関東軍は「満洲国」を安定的に経営するため、中国本土に接して緩衝地帯を形成する「華北分離工作」を進めていました。蒙彊聯合委員会 → 蒙古聯合自治政府はその完成モデルの一つです。

図2の「蒙彊聯合委員会」の説明文は次のように書かれています。
「蒙彊聯合委員会は昭和十二年十一月二十二日張家口に設立され、支那事変勃発後僅々三ヶ月にして早くも王道楽土建設の第一歩を踏出した」

「王道楽土」は日本軍が「満洲国」建国を強行する際のスローガンでした。まさに日本帝国の立場と言い分そのもので、主人公であるはずの蒙古人の姿や主張はここにはありません。端なくも日本による中国侵略の一端を実証する資料となっています。
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2015年12月16日

「駿河・小山」という櫛型印

駿河小山.jpg静岡県の最北東端にあり、神奈川県や山梨県と境を接する駿東郡の小山局で引き受けられた1914(大正3)年、紫分銅はがきの年賀状です。局名表示はやや不鮮ですが「駿河・小山」となっています。ごく最近、ネットオークションで入手しました。

櫛型印は1906(明治39)年から1、2等局に、4年後の1910年からは3等局にも導入されました。そのさい、3等局では原則として局名の前に県名を置き、間に・(中黒=ピリオドに似るが、文字位置が中央部で底部のピリオドより高い)を入れる形式が採用されたこともよく知られています。

この小山局の櫛型印も3等局の形式を踏んでいるのですが、県名が本来あるべき「静岡」ではなく、旧国名の「駿河」となっている点でユ駿河小山-2.jpgニークです。「小山」は、栃木県にある同名の局(読み方も共に「おやま」)の方が有名です。鉄道では、静岡県側のJR駅は「駿河小山」として区別しています。局名表示もこれにならったのでしょうか。

しかし、この解釈はただちに否定されます。櫛型印で旧国名を表示した3等局は、全国でも「駿河・御殿場」と、この「駿河・小山」の2局だけしかありません(北海道の特例を除く)。小山と同じ駿東郡に属した佐野局(現在は裾野局)も栃木や大阪などに同名があるのに「静岡・佐野」であって、「駿河・佐野」の櫛型印は存在しないのです。

こうなるともう、これは「違則」というより「エラー」印としか言いようがありません。ただし、エラーとしてもなかなかのもので、櫛型印導入後、4、5年間は堂々と使い続けたようなのです。GANの収品では「駿河・御殿場」なら明治43年8月14日から大正2年5月10日まで6点のエンタイアがあります。

GANの「駿河・小山」はこの1点だけですが、これまでのデータは『消印とエンタイヤ』185号(1972年12月)に和田芳博氏が発表した「大正2年12月31日」があるだけでした。43年ぶりの第2例で、偶然にも和田氏の翌日のデータです。写真が出るのは今回が初めてです。

両局と隣接する須走局では同期間中も「静岡・須走」しか使っていない一方で、御殿場局では「静岡・御殿場」印も並行して使われた形跡があります。県名「駿河」は本当にエラーだったのか、エラーだとしたら、なぜ数年間も使い続けたのか、「駿河・御殿場」と「静岡・御殿場」は使い分けがあったのか。同じ横浜監督局管内の秦野や山北局で県名表示「相模」はないか――。ナゾの残る興味深い印影です。

追記】(2019.4.26) この記事を書いているさい、櫛型「相模・秦野」の使用例も見たような記憶もあったので資料をひっくり返したのですが見つかりませんでした。最近、日付印関係の別ファイルが出てきたので調べたところ、関口文雄氏が『日本フィラテリー』誌1988年4月号で報告していたことが分かりました。関口氏は「相模・秦野」の大正2年2月の郵便印と1月の為替貯金印を図示し、「(横浜局監督区で受注した)印判師がつい丸一印時代のクセで」誤刻したのではないかと推測しています。従って、本文の第4段落で旧国名表示の櫛型印は「駿河・御殿場」と「駿河・小山」の2局だけ、としたのはGANの誤りです。正しくは、「相模・秦野」を加えた3局が報告されていました。
posted by GANさん at 00:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 静岡県駿東郡 | 更新情報をチェックする