2016年01月31日

石川県内の新検閲印

片山津.jpg戦前の臨時郵便取締令による最末期の検閲を受けた封書です。温泉で有名な石川県片山津町から京都市に宛てられています。昨秋東京で開かれた大手のフロアオークションで思いがけない大苦戦の末、やっとのことで落札できました。

どうしても欲しかった理由は、使用状況がよく分かっていない北陸地方での検閲だったからです。裏面に押されている紫色の通信院検閲印「48.3」という番号は未発表でした。

この封筒の表面は状態があまりよくありません。東郷7銭が1枚だけ貼られ、3銭切手1枚が脱落しています。消印の局名は読めません。素直に考えて片山津町の受持集配局である片山津局なのでしょう。日付は裏面書き込みと同じ1945(昭和20)年6月24日です。

最大の問題は、実際にこの検閲を行った「48.3」局とはどこか、ということです。もちろん、片山津局もその候補になり得ますが、ここは東隣の小松局ではないかと推定しています。

48.3.jpgこれまでのGANの調査によると、1943(昭和18)年当時の名古屋、新潟両逓信局管内の各県(と名古屋市)には40~49の検閲局番号が割り振られていました。名古屋市に「40」、愛知県に「41」……、福井県「47」、石川県「48」、富山県「49」といったぐあいです。

従って、「48.3」は石川県内「3番目」の検閲局を指します。県庁所在地の金沢局は石川県中央部を受け持ち、「48.1」または単に「48」を使ったでしょう。「48.2」は石川県能登地方の中心、七尾局だろうと思います。すると、「48.3」を使ったのは片山津町のある石川県西部地域最大の小松局のはず、というのが推定の根拠です。

検閲印は配達地の局で押されることもありますが、この書状の場合は除外できます。宛先の京都府ではまったく別形式の検閲印を使っているからです。将来「48.4」以上の番号の検閲印が出現すれば、「小松説」という推定は崩れます。が、考え方の大筋はまあまあ、これでよかろうと思っています。
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2016年01月30日

通州事件の「当事者」部隊

萱島部隊.jpg通州事件02.jpg1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件(中国でいう「七七事変」)に連続して起き、日中全面戦争の発端ともなった通州事件の「当事者」部隊からの無料軍事郵便はがきです。ごく最近のネットオークションで入手しました。

北京(当時は北平)東方郊外の通州は、当時「冀東防共自治政府」という日本軍の傀儡政権の「首都」となっていました。冀東政府の武装警察隊である保安隊は日本軍の指導、援助を受けていましたが、その日本軍に対して「反乱」したのです。蒋介石の国民政府による抗日の呼びかけに応じたとされます。

盧溝橋事件から3週間後の7月29日、冀東保安隊の千数百名が日本軍の通州守備隊と通州特務機関を急襲し、日本人居留民と併せ約260人を殺害しました。日本の傀儡と見られていた冀東政府首班の殷汝耕は拘束され、失脚します。日本軍の反撃で保安隊は逃亡し、反乱は1日で終わりました。

この事件で、多数の日本人が殺人、暴行、強姦、放火、略奪の被害を受け、殺害方法も極めて残虐だったため、日本の世論は激高します。「偶発事件」の線で収まりかかっていた盧溝橋事件の収拾が宙に浮き、ついに全面戦争に発展する引き金ともなりました。

さて、このはがきですが、発信アドレスは「北支那 萱島部隊平本隊」となっています。「萱島部隊」は支那駐屯歩兵第2連隊(萱島高連隊長、本部・天津)を表します。「平本隊」は中隊名でしょう。派遣地の表示が単に「北支那」で、「北支派遣」ではない点が要注意です。「派遣」のない「北支那」だけのアドレスは1937年以前にしか見られません。

通州は元もと支那駐屯第1連隊(北平)から派遣された1個小隊が守備していました。盧溝橋事件の発生で支那駐屯軍は第2連隊(天津)を7月18日に通州に移動、増強して守備隊主力とします。その第2連隊が北平方面に出動した7月29日に冀東保安隊が100人足らずの留守部隊を襲い、全滅させました。

はがき表面下部の通信面に「絵の中の塔に御大将の殷汝耕が住んでおります」と書かれています。ごく平穏な文面から、事件「当事者」の第2連隊が駐屯開始した7月18日から事件発生の7月29日まで10日ほどの間に通州から発信されたことが明らかです。まさに通州事件当事者部隊の軍事郵便です。

日中戦争によって華北に侵攻した日本軍には1937年8月2日に無料軍事郵便の適用が正式に告示されました。それ以前に実施されていた無料軍事郵便の使用例としても、このはがきは貴重です。

支那駐屯軍はこの年4月1日に2個連隊5,500人の旅団規模に大増強されています。それに合わせて兵営内に「支那駐屯軍軍用郵便所」が開設され、無料軍事郵便が秘密裡に適用されたばかりでした。このはがきも駐屯軍軍用郵便所で取り扱われたに違いありません。

ここで少し触れた日中戦争直前の支那駐屯軍の秘密軍事郵便については、いずれかの機会に詳述したいと思います。また、今回のテーマに関連して、2014年4月22日4月29日の本ブログ記事もご参照下さい。
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2016年01月29日

大珍品?「XY2型」櫛型印

赤坂局.png佐久間大兄.png東京・赤坂局明治43(1910)年9月5日の櫛型印です。1月31日に終了するヤフオクに出品中の「乃木将軍直筆書翰」に添えられた封筒に押されています。C欄時間帯表示「前10-0」というところがこの印のミソ。なかなか面白い印影です。

一見すると、2時間刻みのX型櫛型印で良さそうなのですが、印影全体に何となく違和感がある。そう、まず第一に「前10-0」なんていう表示はありませんね。

時間帯の初めなら「0」ですが、終わりなら「12」と表示するのが櫛型印共通の約束ごと。この場合なら「前10-12」でないといけません。同様に、2時間刻みの午後なら「后10-12」であり、「后10-0」もあり得ません。

そもそも、2時間刻みのX型櫛型印、つまりX2型には「前10-12」という時間帯は存在しません。午前5時から2時間ずつ刻んでいくと、時間帯の始まりは次に7時、9時、11時……となり、10時から始まることはないのです。

それなら、午前8時から刻みが始まるY2型ではないか。Y型の使用開始は大正2(1913)年4月1日でした。「4日早いデータの更新」だとか「初日使用例が1日早まった」程度で盛り上がる消印収集「業界」のこと。「大正に入ってから」が常識のY型が明治43年に現われたら大騒ぎは必定です。

だが、ちょっと待った。確かにY型に「前10-12」の時間帯刻みはありますが、表示は「12」で「0」ではありません。当時の東京市内局の時間帯刻みは1時間では?の疑問は措いて、X2型でもY2型としてもこの印はアウトです。最終的に、年月日活字を初めとするフォントがいずれも既知の真正印と異なる「独創性」は救いようがありません。

GAN思うに、将軍の書状を偽造した犯人が「真実性」を強調したい余り、ニセの封筒にニセ消印までも作って押したのでしょう。そのサービス精神には同情の余地もありますが、しょせん消印は門外漢。複雑な形式の変遷や時間帯刻みの表示方法までは理解できなかったのでしょう。結局は墓穴を掘っただけ、というオチとなりました。
posted by GANさん at 14:33| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセモノ列伝 | 更新情報をチェックする