2016年03月28日

日本の「飛脚」知る入門書

筆者(GAN)は日本の飛脚についてはまったく無知な門外漢です。しかし、かねてからいくつかの関心を持っていました。主なものは3点。

 1. 流通サービス業としての飛脚業はどのようなビジネスモデルを持っていたのか(信書、モノ、カネの輸送組織と利益構造)
 2. 郵便事業の存在を意識した場合、「飛脚」「飛脚業」はどう定義出来るか(郵便と飛脚との決定的な相違点は何か)
 3. 飛脚状を収集する場合、どのように分類すれば普遍性、合理性を持てるか(組織的コレクションとして成り立つ可能性はあるか)

これらを一気に解決する本はないものかと安易にも求めていたのですが、なかなかその意を得ることはできません。学者や飛脚状コレクターなど先学は、いずれも「飛脚」という概念をアプリオリな、「天与の存在」とでも捉えているようです。筆者が求めるような初歩的な知識について改めて述べているものは見当たりませんでした。

courier.jpg昨年、飛脚状コレクターとしても著名なディーラーの山崎好是氏に本書(末尾の要項ご参照)を紹介してもらい、最近読了しました。もちろん、上記3点を一挙解決とはいきませんが、筆者が目にしてきたどの著述より素人にも分かりやすく書かれています。日本の飛脚一般の入門書と言えるかと思います。

これまでの飛脚本や論文のように専門的な個別・特殊例の説明に終始するのではなく、一般的な通史も交えて普遍的に述べようと努めている態度に好感を覚えます。基礎的な知識を与えてくれる良書です。

本書は全10章からなりますが、筆者にとっては中でも
 第3章 三都の飛脚問屋
 第4章 飛脚ネットワーク
 第6章 輸送システムと飛脚利用
が有益でした。

特に、江戸時代後期の飛脚業者のリストが三都(京、大坂、江戸)を中心に、「江戸六組飛脚仲間」「江戸の町飛脚」「西国筋飛脚」「飛脚便宜鑑(京の業者)」「京羽二重(同)」「難波丸綱目(大阪の業者)」「江戸定飛脚仲間」などと一覧表にまとめられているのが見やすく、ありがたいと思いました。資料性が高く、とても便利です。飛脚状に押されている取扱業者の印判を読み解くさいの手がかりとして威力を顕しそうです。

ひとつ残念だったのは、
「第10章 幕末維新期の飛脚」 の部分です。飛脚と郵便の関係について、最新の知見に基づいた積極的な論考を期待したのですが、筆者を納得させるものではありませんでした。前島密の「自画自賛噺」批判はよいのですが、それから脱却し、大胆に再構築した「郵便創業と飛脚の『協業』」についての立論を読ませてもらいたいものです。

『江戸の飛脚 人と馬による情報通信史』
巻島隆著、教育評論社刊(2015年)、B6判384ページ、2,600円
著者は1966年生まれ。「近世における飛脚問屋の研究--情報・金融・流通・文化の地域間交流」で博士号を得、群馬大学非常勤講師。郵便史研究会の会員として同会「紀要」に論文を発表しておられ、ご存じの方も多いと思います。
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2016年03月22日

「張郭戦争」へ干渉部隊

「張郭戦争」は、1925(大正14)年11月に満洲の奉天軍閥内部で起きた争乱です。軍閥の頭目・張作霖に対し、部下の郭松齢が反乱を起こしたのですが、関東軍が軍事干渉して反乱をつぶしてしまいました。郭が孫文らの国民政府に同調し、その統治が満洲に及ぶのを恐れたためです。

郭松齢は奉天軍第10軍の軍長でしたが、11月23日に山海関東方の灤州で「東北国民軍」を名乗って張作霖打倒を宣言します。この名称は中華民国国民政府(広州、南京)中央軍の「国民軍」との連携を表します。5万の郭軍は12月5日に連山で奉天軍を破り奉天に向け進撃しますが、営口に入市する直前、関東軍に阻止されます。

奉天軍はその間に満洲各地から15万の兵力を集めて態勢を立て直し、12月22日に遼河河畔の会戦で郭軍を敗走させます。争乱はわずか1ヵ月、しかも満洲南西部の局地だけで収まりました。一時は下野、敗死まで覚悟した張作霖は、捕らえた郭と妻を直ちに銃殺してしまいます。関東軍(と日本政府)が望む軍閥との二重支配は安泰でした。

その関東軍はわずか2年半後、満洲支配をさらに強めるため、いったんは救った張作霖を謀略に掛けて暗殺してしまいます(「満洲某重大事件」)。郭の反乱は失敗し、事件が短期間に終わったので世間に余り知られていませんが、1931(昭和6)年に起こる満州事変の伏線の一つと言えます。

日本政府はこの事件で、朝鮮と日本内地から関東軍への増援部隊を派兵しました。朝鮮軍の第20師団(竜山)で満洲臨時派遣歩兵大隊が、内地の第12師団(久留米)で満洲派遣混成第1旅団が編成されます。それぞれ25年12月17日、19日に奉天に到着し、奉天から長春の間の満鉄沿線主要地で警備につきました。

長春-2.jpg長春-1.jpgこの分銅無銘はがきは大正14(1925)年12月21日の長春局引受印があります。長春に配備された直後の混成第1旅団第2大隊の兵士の発信です。有料で、発信アドレスに「満洲派遣隊」と表記されているのが特徴です。筆者は朝鮮からの派遣部隊のエンタイアは未見ですが、「満洲臨時派遣」の肩書きがあるかも知れません。

一方、関東軍本来の駐屯部隊(当時は第10師団)はアドレスを「南満洲奉天駐箚」とか「満洲長春守備」などと表記しています。「満洲派遣」という表記はこの当時ほかでは使われず、張郭戦争の増援部隊であることがはっきりと区別できます。使用例はわずか1ヵ月足らずです。6年後の満州事変初期には多用されますが、そちらは無料です。

張郭戦争の終結からしばらくして、内地と朝鮮からの増援部隊は翌1926年1月中旬に満鉄沿線の警備地からすべて撤退しました。混成第1旅団は1月19日に下関に上陸・帰還しています。
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2016年03月16日

臨時局引き受け無料軍郵

20臨時-1.jpg20臨時-2.jpgいわゆる「臨時局」の「第二十臨時」印で昭和17(1942)年5月26日に引き受けられた高雄海軍航空隊からの公用無料軍事郵便です。

無料なのに臨時局印、艦船部隊でなく航空部隊からの差し出し。近年のオークションで入手したこのカバーは、一見しただけでも異常だらけです。

この「臨時局」印を逓信当局は「暗号局名入り日付印」と呼んでいました。本来は聯合艦隊所属艦船の乗員発信の有料郵便物を引き受ける際、入港地を秘匿するために導入された日付印です。局名として1~3桁の数字に「臨時」を付けて表現しています。開戦直前の1941年夏ごろから港湾所在地の局で使われ始めました。

艦船部隊と同様に戦地間や戦地と内地間を頻繁に移動する航空部隊に対しては、軍艦のような秘匿措置は考慮されませんでした。無料の扱いになるか、有料の場合でも内地基地最寄り局の通常の日付印が使われました。だから、航空部隊の臨時局印は原則としてあり得ないのです。

さて、高雄空の42年5月当時の所在ですが、開戦以来、陸上攻撃機部隊としてマライや比島の航空作戦に参加していました。42年9月にラバウル方面に転用されるまで、昭南(シンガポール)やマニラなどを基地としていたとみられます。原駐基地の高雄に帰れないまま44年に現地解隊されています。

従って、この書状は戦地から発信されたことになります。たまたまそこに海軍軍用郵便所がなかったので、帰港する海軍輸送船などに託されたのでしょう。内地に入港して引き渡した局が、この「第二十臨時」を使う局でした。他の使用例などからの推測で、筆者はこの局は台湾の高雄局だと考えます。

高雄局では、いつもなら託送軍事郵便物に引受印は押しません。しかし、この書状は公用便なので、引受印はどうしても必要です。通常の「高雄」局印を使ってよいか、どうか--。高雄局では結局、「第二十臨時」局印で引き受けました。宛名が民間人なので、引受局名を秘匿すべきだと考えたのかも知れません。

高雄局のこの判断は、まあまあ妥当だったようです。これから1ヵ月後の42年6月25日、海軍省は「艦船部隊発郵便物ノ取扱方ニ関スル件」という内牒を出しています。それにより、戦地にある艦船部隊から郵便所を経由せず帰還船に託送した軍事郵便物を引き受けた集配局での処理方法が初めて明示されました。

この種郵便物には引受印を押捺してはならず、書留郵便物の引受番号は秘匿措置(臨時局番号の使用)を行うこととされました。「艦船部隊」でなく「航空部隊」、「書留郵便物」でなく「公用郵便物」、という違いはありますが、高雄局の措置は内牒の趣旨を先取りしたものと言えそうです。

しかし、この内牒が出た以上、この後は公用や書留(公用に限定)といえども、託送軍事郵便物には臨時局印さえも押さないことになりました。だから、無料軍事郵便を臨時局印で引き受けたこのような使用例は、極めて短期間だけだったはずです。
posted by GANさん at 02:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍事郵便(海軍) | 更新情報をチェックする

2016年03月11日

「泰緬鉄道郵便」の真実

2月25日のブログ「珍『検閲印』4種が出現」でニセ検閲印に関連して、いわゆる「泰緬鉄道郵便」なるものがすべてニセモノだと書きました。内外の郵趣市場にかなりの量が出回っているので証拠はきりもなく、大小数十点も挙げられます。今回はそのうち「存在しない部隊」を発信アドレスとした典型的な一例をお示しします。

「泰緬鉄道郵便」なるものは、日本では土屋理義氏が日本郵趣協会の出版物で繰り返し主張している一連のカバー類です。土屋氏によると、太平洋戦争中に日本軍が泰緬鉄道を建設したさいに使役したマライやジャワなどの労務者や鉄道従業員が、鉄道沿線に開設された専用の日本軍「軍事郵便所」から有料や無料で多種類の郵便物を発受していたといいます。

鉄7連隊.jpg図示しているのは、香港のオークションハウスDynastyが2013年5月に「第2次大戦の泰緬鉄道」の題で売り立てたロットのうちの1点です。「リンテンの第2143部隊からクアラルンプル宛て、1944年6月10日キンサイヨーク軍事郵便所印押し」と土屋氏の文献に依拠した説明があります。

画像のはがき右側発信人欄の下3行に「Muri Butai 2143/Rinting/Thailand」とアドレスが書かれています。「泰国リンテン、森第2143部隊」と表現したいようです。リンテンは泰緬鉄道でキンサイヨークのビルマ寄り一つ隣の停車場です。また、「森」とは緬甸(ビルマ)方面軍を意味する符号、「第2143部隊」は鉄道第7連隊を表す部隊番号です。この部隊が問題です。

厚生省援護局編『鉄道部隊略歴』(1961年刊)によると、この鉄7連隊は昭和19(1944)年2月10日にラングーンで編成されました。「編成以後ビルマで従軍」と記されています。ビルマ戦線が崩壊した45年2月にビルマからタイに撤退していますが、泰緬鉄道関連の記述はまったくありません。

別の文献『燦たり鉄道兵の記録』(1965年、全鉄会刊行)は更に詳しく鉄7連隊の行動を記述しています。それによると、44年3月に発起されたインパール作戦で後方が手薄になるため、ビルマ鉄道防衛用に新編された部隊でした。44年5-8月はミートキーナ(ミッチナ)戦線にあって、英軍の猛攻に耐えつつミートキーナ鉄道の補修・管理に当たっていました。ミートキーナは結局、8月2日に陥落してしまいます。

要するに、真実の鉄7連隊は泰緬鉄道に関わったことは一度もありません。まして、活動したのはビルマ中北部だけなので、マライ労務者を部隊の管理下に入れた事実など全くないのです。このニセはがきの作成者は鉄道部隊を表す部隊番号というだけで安易に飛びつき、その戦歴まで検討する「細心さ」とは無関係な人だったのでしょう。

筆者はこれら「存在しない部隊」を発信アドレスとする「泰緬鉄道カバー」について、10年以上前から第5801部隊(第2鉄道監部=泰緬鉄道の建設司令部)を初め、何度も土屋氏に指摘してきました。彼は繰り返し「ホンモノ」と主張するのですが、こうした決定的な矛盾に答えたことがありません。今年2月に出した最新本でも同断です。
posted by GANさん at 19:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする