2016年06月22日

南洋で電報を検閲した?

SAIPAN.jpgサイパンで着信、配達された電報の送達紙です。南洋庁製を示す銘が最下部に印刷されています。ネットオークションで落札し、今日到着しました。

誕生したばかりの男児に右翼の巨頭が命名してくれたことを伝える「ウナ電」(至急報)で、電報としてはありふれたものです。ただ、上部中央に大きく押された赤色角枠「検」印が、いやでも目につきます。いったいこれは、ナンジャラホイ。

サイパン局が電報を配達した昭和18(1943)年12月2日という時期にGANは注目します。このころは臨時郵便取締令によって南洋庁管内でも郵便検閲が行われていました。42年10月から44年3月までは間に合わせで各郵便局職員の認印を使い、その後は検閲専用の丸二印を導入して検閲をしたことが知られています。

この電報も配達の前に郵便と同様に検閲を受け、「検閲済み」を表すために「検」印が押されたと考えることが出来ます。--と書くと、いかにももっともらしく聞こえるのですが、このような印が押された電報の例は内地も含めて他になく、とても結論を出せるような話ではありません。

「検閲印」説に対しては、致命的な反論があり得ます。臨時郵便取締令はあくまでも郵便の検閲が目的で、電報は対象外でした。電報は書状やはがきと違って現物が受取人に届くことがない上、電文が多くの通信職員の目に触れるので、「防諜」を気遣う必要はないと考えられたのでしょう。

ただし、太平洋戦争中、実際に電報の検閲はなかったと断言することもできません。43年8月1日に逓信省が検閲業務の主管担当を初めて「大臣官房通信検閲課」として独立させたさい、逓信省分課規定が改正され、この課では「左ノ事務ヲ掌理ス」と定められました(第4条ノ2)。

 1、郵便及電気通信ノ検閲並ビニ電波ノ監視(以下通信検閲ト称ス)業務ノ規定ニ関スル事項
 (2、以下略)

郵便と並列させて電気通信、つまり電報の検閲も行うことを明記しているのです。郵便検閲については、曲がりなりにも臨時郵便取締令という根拠法令がありました。しかし、電報の検閲を可能とする法令が定められた事実はありません。国民の目に触れない内部規定だけで「憲法違反」の業務を定める形になっていました。

これはさらに多くの資料を集めてから考察すべき問題です。いったい、電報は検閲したのか、しなかったのか。1通の電報が私たちに新たな興味深い問題を投げかけています。

追記(2016.07.01) 本文で「電報の検閲を可能とする法令が定められた事実はありません。」としましたが、実際には1944年5月5日に運輸通信省令第67号「臨時電信電話取締規則」が制定(5月20日施行)されていたことに気付きました。規則第2条に「電報及電話通話ハ検閲ニ付ス」と定められています。

同時に制定された公達「電信電話検閲事務規程」では「検閲ニ当リテハ国防上ノ利益ヲ害(中略)スル通信ヲ検出シ之ヲ停止スベシ」と検閲の目的が明示されていました。郵便については緊急勅令で定めたのに、電信電話は大臣限りの決裁で出せるレベルの低い省令で規定しました。国会や枢密院の審議を経ず、国民にまったく知られない秘密立法と言えます。

本文で示したサイパンの角枠「検」印電報はこの規則より5ヵ月前なので、適用されないのは明らかです。しかし、1941年7月から電信電話に何らかの「取扱制限」が実施され、逐次強化されていた形跡があるので、さらに調べてみます。
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2016年06月21日

病院船「高砂丸」の戦後

高砂丸.jpg戦後、引揚病院船として活躍した「高砂丸」の乗組み医官から発信された速達はがきです。今日到着したネットオークション落札品の同一人発着ロット60通ほどの中から出てきました。差出人は巡洋艦「愛宕」に乗り組んでいた元軍医大尉です。

戦前の高砂丸は大阪商船の内台連絡船として台湾航路で運航されていました。1941(昭和16)年11月に海軍に徴用され、聯合艦隊直属の特設病院船に改装されてフィリピン、インドネシア、ラバウル、サイパンなど南方海域で活動しました。

9,347トンという大型船でも生き延びられたのは、敵国側にも通告される非武装・非軍用の病院専用船だったからです。米潜の誤認で魚雷攻撃されながら致命傷は免れたこともあります。

敗戦後は海軍省を引き継いだ第2復員省に復員用の「特別輸送船」としてチャーターされました。1949年までは中国から、その後はソ連からの復員傷病兵の収容に当たったようです。特別輸送船の病院船は他には有名な「氷川丸」と「菊丸」の2隻しかありませんでした。

このはがきは日付印が不鮮明ですが、佐世保局で昭和21(1946)年7月15日に引き受けられています。紫色の印色がいかにも物資欠乏の戦後時代を表しているように見えます。第2種(はがき)5銭料金としては最末期の使用例で、この10日後からは戦後大インフレによって郵便料金が一挙3倍に値上げされています。

アドレスの肩書き「佐世保局気付」は戦争中の軍事郵便と同じです。佐世保が中国・上海方面との間の特別輸送艦船の母港として戦前に引き続き利用されていたことを示唆しています。軍事郵便と大きく異なるのは、検閲印がなく、禁じられていた「病院船」「医官」などの船種、身分の表示が見られることです。

その後の高砂丸は不運の道をたどりました。1951年ごろまでに特別輸送船の役目を終えて大阪商船に戻りましたが、主要航路には復帰できません。石炭を燃料とする蒸気タービン動力なので運用が困難だったためです。最終的に1956年に売却され、スクラップとして解体されてしまいました。
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2016年06月09日

占領下青島の中国局再開

TSINGTAU.jpg第1次大戦後、オーストラリアから日本軍占領下にあった中国・青島に宛てられたはがきです。当時の日中間の特殊な郵便交換状況を表す興味深い資料と思います。

このはがきはシドニー局で1920(大正9)年12月9日に引受けられ、中国上海局に21年1月10日に着きました。恐らく膠済鉄道(日本の言う山東鉄道)が使われて、青島に着いたのが1月13日。中国青島局はその日のうちに日本青島局に引き渡し、青島市内の名宛人に配達されたことが各郵便印から分かります。

ここで問題となるのは、このはがきがなぜ中国青島局から日本青島局に引き渡されたのか、ということです。中国局でそのまま配達すればよいのに、わざわざ日本局に引き渡した理由は何だったのか。名宛人が日本企業(三井物産の中国法人)の日本人だからでしょうか。

青島は戦前までドイツ領膠州湾租借地の「首都」でした。日本は青島攻略後も租借権の受け継ぎをもくろんで青島守備軍を置き、租借地と膠済鉄道全線の軍事占領を続けました。中国はこれに抗議して国際世論に主権回復を訴えますが、戦後世界秩序再編を目指すワシントン会議まで持ち越されます。

日本軍占領地区と中国との間の不安定な郵便・電信連絡問題を打開するため、両国の外交交渉が行われます。その結果、1917(大正6)年3月に北京で暫定的に「山東日支通信連絡弁法」が、さらに翌18年10月に青島で青島守備軍と中国交通部との間に弁法の細則が、それぞれ協定されました。

上の「」内の弁法の名は通称で、正確には、和文(中文もあり)で次のようにとても長いタイトルになっています。細則の正確なタイトルはこれに輪をかけて長いので省略します。
「帝国ノ管理ニ属スル膠州湾租借地及山東鉄道ニ於ケル日支両国郵便電信事務処理ニ関スル弁法」

この弁法によって日本は占領中の青島での中国局開設を承認し(第1條)、代わりに中国は済南と濰縣に日本局を開設することを公認しました(第2條)。また、細則で中国局は青島宛て郵便物はすべて日本局に引き渡すことが定められました(第1章第1条第5号、第3條第4号)。

こうして、18年11月1日に再開された中国青島局は外国郵便交換局なのに無集配局、という極めて特異な存在となりました。ただし、明文で否定されてはいないので、この時期にも中国青島局が引受けて青島以外の中国各地に宛てた郵便物が存在する可能性はあります。

前置きばかりが長くなりましたが、このはがきに日中双方の青島局日付印が押されているのはこれらの協定があったからです。いったんは中国郵便系に乗った郵便物も、青島ではすべて日本郵便系に託すほかありませんでした。この協定での「青島」の範囲は、文脈からみて膠州湾租借地全体を意味すると思われます。
posted by GANさん at 01:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日中郵便交換 | 更新情報をチェックする