2016年09月30日

総領事館扱い"軍艦郵便"

常磐003.jpg常磐004.jpg1928(昭和3)年に起きた済南事件(第2次山東出兵)で青島に臨時派遣された敷設艦「常磐」からのパクボー(船内投函郵便)扱いのカバーです。最近のネットオークションで入手しました。

当時南京にあった中国国民政府は28年4月に「北伐」を再開します。北京の張作霖ら北方軍閥を打倒して最終的な国家統一を目指す目的で、再び南・北軍の内戦となりました。

ここで日本陸軍は統一の妨害を裏の目的とする干渉作戦を実施します。お決まりの「在留邦人保護」を名目にまず第6師団を山東に派遣し、海軍も華北沿海担当の第2遣外艦隊の全艦を出動させました。

この中で5月3日に南軍による日本人虐殺の済南事件が起き、第6師団との間で日中戦闘が始まってしまいます。陸軍はさらに第3師団を増派、海軍も予備艦となっていた元一等巡洋艦の常磐を5月6日に第2遣外艦隊に臨時編入し、ただちに青島に派遣しました。

常磐は5月9日に青島に入港し、ここを「母港」に動乱が収まる9月24日まで芝罘や秦皇島、旅順など渤海湾内を巡航・警備しました。中国の内戦が海上にまで波及し、日本の権益が侵害されるのを防止する名目が掲げられました。

このカバーは1928(昭和3)年5月14日に青島で発信されて下関に陸揚げされ、19日に下関局でSHIMONOSEKI欧文印と赤色枠付き「PAQUEBOT」印が押され引受けられています。一番に目を惹くのが裏面の発信アドレスで、「青島日本総領事館気付/第2遣外艦隊常磐」という特異なものです。

在外局廃止後に中国に派遣される軍艦は軍艦郵便の扱いを受けるのが普通で、アドレスは「長崎局気付」や「門司局気付」など内地の外国郵便交換局を肩書きすることになります。このカバーのように在外公館が気付となった例はこれ以前に(以後も)見当たりません。

青島-内地間の輸送は海軍チャーターの交通船や輸送艦が担当したのでしょう。大連-青島間の定期商船便も利用されたかも知れません。いずれにせよ日本総領事館あてに出せば在泊中の軍艦に届くのですから、総領事館が事実上の交換局の役目を果たしていることになります。

当時の『海軍公報』で調べると、常磐には青島入港の5月9日にこの普通郵便扱いのアドレスが指定されています。しかし、5月17日には正式な軍艦郵便扱いとなり、アドレスも「門司局気付」に変更されました。「総領事館気付」アドレスはわずか8日間しか使われなかったことになります。なぜ最初から軍艦郵便とされなかったのかは不明です。

済南事件ではもう1艦だけ、同様に臨時派遣された水上機母艦「能登呂」にも5月11日から同じ「青島日本総領事館気付」のアドレスが指定されています。こちらは6月21日に「芝罘在泊」に変更後、7月9日に第2艦隊に転出して内地帰航するまで軍艦郵便扱いに移らないままに終わりました。

常磐や能登呂にとって、「総領事館気付」のパクボー扱いは、軍艦郵便とどう違ったのでしょうか。料金は同額の3銭で、逓送方法も含めて実質的には軍艦郵便と同じに見えます。しかし、軍艦郵便は青島中国局を介在させるのが原則となります。このため、戦闘行動中は機密保持上から軍艦郵便は不適切と考えられたのかも知れません。この点はさらに詰める余地がありそうです。
posted by GANさん at 23:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 軍艦郵便 | 更新情報をチェックする

2016年09月09日

荻原海一さんを悼む

aSCF1082.jpg大著『南洋群島の郵便史』で知られる昭和期郵便史研究者の荻原海一さんが亡くなり、先日、GANは新井紀元、沢株正始さんと共に逗子のご自宅を弔問してきました。昨春訪問した際は車いすからも離れ、まったく普通の応対をしていました。突然の訃報は悲しい限りです。結果的に、収友の前に現れたのは2013年春の切手研究会総会(左写真)が最後となりました。

早苗夫人によると、体調不良で7月半ばから入院中、8月1日に慢性心不全で亡くなりました。85歳でした。2000年以来、脳梗塞、冠動脈硬化症、胃がん、腸閉塞、尿閉塞、慢性腎炎、腰痛、大腿骨骨折と入退院を繰り返しました。いずれも強固なリハビリ努力で復帰、仲間内で「不死身の男」とささやかれていたのですが……。

荻原さんの業績で真っ先に挙げられるのは、1954年に『独逸建物切手研究』(下写真)を著したことだと思います。オフセット印刷のシリーズ切手をテーマに、版別、保護線、補修、版欠点など今日でこそ常識となっている製版工程を初めとする製造面での切手分類の手法を本格的に導入し、日本郵趣界に衝撃を与えました。

建物切手2.jpg敗戦からまだ10年も経たず、高度経済成長もずっと先という不自由な郵趣環境の中、大学生ながら未知のドイツ切手の解明に打ち込み、本国の専門家をも凌いだ成果は今日でも不滅です。研究の深さに驚愕した三井高陽氏が熱心に出版を勧め、当時破格の40万円の経費まで負担したエピソードが伝えられています。

郵趣人生の後半に当たる1980年代以降は、ドイツ切手の製造面の研究から180度転換して日本郵便史一筋となりました。御尊父が非常に高名な文人で、膨大な来信を几帳面に保存しておられました。亡父の手紙類の整理を始めたことから、たくさんの興味深い使用例のカバーに惹かれていったのでしょう。

震災切手の研究で著名な牧野正久氏から紹介されたという「鎌倉のオギワラ」なる人物からGANの自宅に突然電話がかかってきたのは、80年代の半ばごろでした。「開戦直前にアメリカから我が家に宛てた封書に『大日本憲兵隊検閲済』の封緘紙が貼られている。これは何か」「軍事をやっているそうなので、何か知りませんか」という質問でした。

見たことも聞いたこともないカバーのことでGANには何の解明もできず、1時間を超す長電話をお茶で濁して終えた記憶があります。荻原さんとの深い付き合いの始まりでした。彼にとっても、郵便史の底知れぬドロ沼にはまり込む因縁のアイテムだったと思います。このカバーは荻原さんが20年掛かりの執念で解明し、「切手研究」第431号(2006年)に発表、GANもこのブログの2014年4月18日付で書いています。

荻原さんの日本郵便史研究は時代を昭和切手発行開始の1937年4月から25年間の日本最大の激動期に絞って、集中的、精力的に進められました。成果の大部分は大石隆久さんが主宰した第一郵趣会の「スタンプコレクター」誌を中心に、「切手研究」「全日本郵趣・関西郵趣」「いずみ」「郵便史学」などに総計250編近くにもわたって掲載されています。「南洋」に着手したのは、これらが一段落してからのことでした。

今日、私たちが大戦を挟んだ戦前・戦後の日本郵便史について何かトピックスを書こうとすると、必ずと言ってよいほど荻原さんの築いた先行研究の巨大山脈に突き当たります。今でさえ難かしい、得られる限りの文献と独自の人脈を駆使した徹底的な調査が行われていたことを知ります。

「自分の所蔵品についてだけ書く」が荻原さんの原則でした。自分が書きたいテーマに欠かせないブツを持っている収友に矢が飛びます。大事な品を泣く泣く荻原さんに貢いだ人たちの怨嗟の声は今も絶えません。もっとも、彼らは「献納品」に見合う以上の交換品を入手した事実については、決まって口を拭っているのですが。

荻原さんの享年は、日頃「先生」と慕い尊敬してやまなかった三井氏の82歳をも上回りました。趣味に生きてその成果を社会に還元もできた堂々たる人生と言えるでしょう。切手と郵便史研究の忠実な後継者として、今頃は先生と対話の花を咲かせているのかも知れません。
posted by GANさん at 00:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑観・雑評 | 更新情報をチェックする