2016年10月31日

安奉線の「奉安線」鉄郵印

奉安線.jpg満州の安東県と奉天とを結ぶ南満州鉄道会社(満鉄)の支線、安奉線の鉄郵印が押された絵はがきです。最近のネットオークションで入手しました。

菊紫色1.5銭切手が貼られ、「奉天安東縣線」明治44(1911)年1月9日の日付印で引き受けられています。区間名は「安草(安東県-草河口)間 下り便」。温泉で知られる五竜背駅構内の郵便箱に投函されたようです。

この日付印は郵便線路名が「奉天安東縣線」と、「奉天」が先になっているのが目を惹きます。安奉線鉄郵印はふつう、「安東縣奉天線」か「安東縣奉天間」「安東奉天間」で、「安東縣」が先です。ところが、この日付印では郵便線路の起点・安東県と終点・奉天が逆に表示されているのです。

これはエラーであり、誤りに気付いてすぐに「安奉線」印に戻した――かというと、そう単純な話でもありません。満州郵便史の専門家、稲葉良一氏の調査によると、「奉安線」印は明治43年4月から翌44年9月までのデータが知られています。GANは別に42年12月17日の日付印のある官葉も持っており、これが最初期データのようです。

「奉安線」印が使われた期間中も「正常な」「安奉線」印は使われています。2年近くにもわたって「正常印」と併用され続けているとなると、もう由緒正しきエラー印と言うのは難しい。では、上り便と下り便とで使い分けたのかと調べても、共に「上」「下」便があって、これも否定されます。

要するに今のところ、なぜこのような逆表示印が生まれたのか、理由は分かっていません。解明へのヒントは、「安奉線」印に比べると「奉安線」印の方が圧倒的に少ないことでしょう。将来、新資料の発掘やデータの集積で分かることがあるかも知れません。仮に単純ミスだったという結論になったとしても、「奉安線」印の希少性は揺るがないと思います。

[追記](2020.06.17) よくお世話になっている関東都督府の外務省に対する「政況報告書(明治42年10-12月期)」に次のような関連記事があることに気付きました。    
  安奉線ノ線路名ヲ奉天安東縣間ト改メ上便ト下便とを転倒シ奉安線ハ11月3日ヨリ(中略)  実施シタリ(JACAR=アジア歴史資料センター)
満鉄は42年10月28日に本線と安奉線のダイヤを大改正し、それを機に奉天を始発駅としてこの郵便路線名を改称したようです。「奉天安東縣線」はエラーでも何でもなく、堂々たる正式名称だったことが分かりました。しかし、日付印の使用実態から言って、その後また元の「安東縣奉天線」に戻したはずです。探してみましたが、残念ながらその記事は見つかりませんでした。
posted by GANさん at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 満洲・関東州 | 更新情報をチェックする

2016年10月30日

民政直後ヤップ局臨時印

YAP.jpg近着の南洋群島ヤップ発信の絵はがきです。9月の関西のメールオークションで入手しました。田沢1.5銭を貼り、ヤップ局大正11(1922)年6月25日の日付印で引き受けられています。発信者は東京からヤップ島に出張した逓信省職員のようです。

この日付印は、本来なら「郵便局」と入るべきC欄とその直上のE欄櫛歯が欠けています。たまたま写りが悪かったのでしょうか。いいえ、印影下部の円形外郭線と日付部桁線は極めて明瞭です。下部印体(C・E欄)が挿入されないままで押印したことが想定できます。

南洋群島は第1次大戦期までドイツの植民地でした。大戦初期に日本海軍が南遣枝隊を派遣して占領し、戦後発足した国際連盟によって日本の委任統治領に指定されました。正式に日本領となったので軍政は終わり、1922年4月1日から民政に移行しました。このはがきは民政に変わってまだ3ヵ月足らずの郵便ということになります。

ところで、南洋群島の統治機関・南洋庁は日付印には時刻表示をしないことに決めました(1922年4月1日、南洋庁訓令第4号)。管内の郵便物取扱量が非常に少ないので、省力化を図ったのです。時刻表示部分(C欄)には、さして意味もない「郵便局」と変更して「穴埋め」しました。

恐らくこの変更措置を決定するのが非常に遅れたのでしょう。「郵便局」表示の下部印体の製造を遠く内地に発注し、出来上がって南洋に届くまでに3ヵ月以上掛かってしまいました。その間、各局で実際に引き受けた郵便物には、軍政時代の旧海軍軍用郵便所印をそのまま使ったり、下部を空欄のままにした日付印を間に合わせで使ったのでしょう。

荻原海一氏『南洋群島の郵便史』には、ポナペ局大正11年6月17日の海軍軍用郵便所日付印が押された分銅はがきの例が発表されています。荻原氏はこれを局員のうっかりミスと考え、「南洋庁になってから2ヵ月余り、ポナペ局は何をやっていたのだろう。」とあきれています。

そうではなく、「郵便局」の印体が間に合わないための一種の臨時印だとGANは考えます。これは民政移行直後の混乱期に発生した短期間の珍しい使用例なのです。正式な「郵便局」印がいつから使われ始めたのか、当局側の記録は見つかっていません。この年の夏から秋にかけての日付印データを今後集積することで解明できるはずだと思います。
posted by GANさん at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 植民地 | 更新情報をチェックする

2016年10月02日

え、テニアンに「第Ⅲ軍」?

テニアン.png左の画像は10月2日夜締め切りのヤフオクに出品されたテニアン局のニセ日付印です。台切手が南洋などで使われたはずがないコイル切手ということもあって?、7人もが応札して13,100円という高値で落札されました。

この印はA欄「テニアン」、B欄「14.8.13」、C欄「第Ⅲ軍閲」、D欄に櫛型が入っています。E欄はC欄と区画する弧線がなく、櫛型印としては「初見」の3枚の花弁のような奇妙な模様になっています。

テニアン-2.pngC欄の4文字は消印の表現としては前例がなく、意味不明です。強いて解釈すれば、「第Ⅲ軍が検閲した」という意味を持たせようとでもしたのでしょうか。

一見してすぐ分かるように、真正印とは似ても似つかぬゴム印です。南洋の和文日付印にゴム印はありません(荻原海一著『南洋群島の郵便史』)。このような荒唐無稽の日付印が昭和14(1939)年のテニアン局で使われるはずもなく、空中楼閣という意味での偽造印です。土屋理義氏が唱えた例の「泰緬鉄道郵便」なるものの郵便印と同工異曲の存在です。

TINIAN.jpg右図は私蔵のはがきから採ったテニアン局日付印です。真正印はもちろん活印で、ニセ印とは片仮名と数字のフォント、櫛歯の高さなどすべて異なっていることが分かります。

GANは事前に出品者に対し、「テニアン局でこのような意味不明のゴム印が使われた事実はない。日本陸軍がローマ数字の「第Ⅲ軍」など編成した事実はない。「第三軍」だったとしても、昭和14年にテニアンに進出した事実はない」と指摘しました。「明らかなニセモノだから引き取りなさい」という趣旨です。

これへの回答は、ニセモノ出品者がいつもする常習的な言い分でした。「その品物に価値を見出すか否かは落とす方が決めることです」。同様な疑問を呈した別の人への回答でも「曾祖父のコレクションをそのまま出した。心配なら入札を控えて」です。いずれも指摘に対する反論はなく、「誤解」を解く真似すらしていません。これはかなり開き直った「確信犯」というほかなさそうです。

くどいようですが、日本軍事史上で「第何軍」というのは戦時だけの臨時編成軍です。まったく逆方向の満州で関東軍隷下に第三軍が編成されたことはありますが、平時の南洋に「転戦」した事実などありません。また、日本郵便史上で郵便切手の抹消(引受)と検閲とが一体化された日付印など1件もありません。
posted by GANさん at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセモノ列伝 | 更新情報をチェックする