2016年11月30日

保定出張取扱いの郵便

保定.jpg北京局明治42(1909)年8月2日の和文櫛型印で引き受けられたはがきです。この当時の在中国局は郵便物の引受けに「I.J.P.O.」の欧文印を使っていたので、和文印は異常な使用例と言えます。また、C欄が★3個で、さらに異常です。局内事務用印の誤使用でしょうか。

結論から先に言ってしまうと、これは誤用やエラー印ではありません。北京局員が保定で出張取扱いをしたさい、北京本局と区別するために使った専用の引受印だとGANは考えています。

発信者のアドレス「保定府」がキモなのです。在中国局では主に満州方面での「秘密局」の存在が知られていますが、この出張取扱いも一種の秘密局と言ってよいでしょう。

これを保定出張取扱いの郵便印とする根拠は、北京局のこの和文櫛型印で引受けられている郵便物が、ことごとく保定発信だからです。データとしては、このほかに(明治)39.8.7、39.9.12、39.10.24があります。つい最近も39.7.25の封書が東京で大手のフロアオークションに出品され、たいへん良いお値段で落札されました(GANも参戦してみごと敗れました)。

北清事変の収束後、日本逓信当局は保定に北京局職員を派遣して郵便、為替、貯金の出張取扱いを始めます。開始は明治35(1902)年10月21日で、当初は毎月1回の「随時」出張でした。これは11月28日公達第710号として逓信公報に掲載されましたが、中国側とは了解も通告もない「無断措置」でした。出張回数は後に月2回に倍増されています。

保定は北京から京漢線沿いに南方130㎞にある河北省では省都級の大都市です。当時、日本人が進出した事情については興味があるところですが、GANはまだ調べていず、よく分かりません。それにしても北京に比べればかなり少ないはずで、恐らく100人にも達しなかったのではないかと思います。

この点についてはヒントとなる資料があります。開設2年後の1904年12月に日露戦役記念の第1回絵葉書が発売されると、北京本局で350組を売ったのに対し、保定では50組を売っています(旧逓博所蔵「戦役記念絵葉書発売の件」)。単純計算で北京の7分の1の数の日本人が保定にいた可能性があります。

ところが1910(明治43)年2月に日清郵便約定(郵便交換協定)が締結されると、約定の上で規定できない保定での郵便取扱いは違法となってしまいました。そこで当局は4月から清国郵政が扱わない価格表記、代金引換、現金取立郵便だけに業務を大幅縮小します。当時毎月10回にまで増えていた出張回数も2回に戻しました。為替、貯金業務は継続しましたが、事実上の撤退と言えます。

さらに1912(明治45)年になって、「在留邦人減少のため」として5月以降は保定出張取扱いを正式に廃止します。これらはすべて、逓信公報には登載せず、各逓信管理局から郵便局長限りに配布する「内牒」で通知されました。結局、保定出張取扱いでの書状、はがきの引受けは02年10月-10年3月の7年半だけだったことになります。

これまで「秘密局」というと、領事館内の1部を郵便事務専用に使うような固定常駐施設ばかりが注目されてきました。保定のような実例が新たに分かってくると、他にもあった出張取扱いでも本局と区別できる表示がされていないか、気になります。

この保定にしても、櫛型印導入以前の4年間ほどの出張取扱いではどうしていたのか、使用状況がよく分かっていない丸一「北京」印の郵便使用はこれと関係はないか--。気がりは増すばかりです。
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2016年11月22日

ニセモノ罹災、非常通信

44.png11.png11月22日夜締切りのヤフオクに関東大震災の「罹災通信」と台湾・霧社事件の「非常郵便」のニセモノが計4点(左図)出品されました。いずれもスタンプレスカバーで偽造品としては稚拙ですが、相場より1桁小さい額ですべて落札されました。

罹災通信は千住局大正12年9月11日印のはがきと神、田局9月13日印の封筒で共に同じ角枠黒色「罹災通信」印が押されています。33.png22.png

また、非常郵便は霧社局昭和5年12月12日印の絵はがきと同局11月15日印の封筒で、共に角枠赤色の「非常郵便」表示があります。「非常郵便」は印ではなく、角枠も含めペン書きです。

4点のうち千住の罹災通信は『JAPEX'93記念出版 関東大震災』掲載のエンタイア写真(p.23)を表裏共に模写したものです。ホンモノは「罹災通信」が赤橙色の孔版印刷ですが、こちらは黒印で「代用」しています。

ほかの3点は差出人が異なるのにすべて同一筆跡による同色(ブルーブラックか黒色、それと赤色)のペン字です。しかも封筒2通は、ステーショナリーとして同じもののようです。しかし、1点1点を遠目にすると、エンタイアとして良さそうには見えます。

千住印.pngこれら4点には不自然な「手書き」の多用が共通しています。日付印の外枠と日付活字の一部は実物印顆を流用しているようですが、局名、時刻帯を含むA・D欄(上部印体)、C・E欄(下部印体)すべてが手書きです(左図)。外枠と日付部の桁には墨入れもしています。年活字がないようで、「12」年は月日活字の流用、「5」年は手書きです。櫛歯まで手書きとはご苦労千万ですが、余りにも下手なのでバレバレです。

出品者は「身内の収集品です。ご自身の判断でご納得の上でのご入札を」と最初からエクスキューズを入れています。GANはさっそく日付印や筆跡について質問してみました。回答は「遺品整理品につき、正直詳しい入手経路など分かりかねます。」と確信犯お決まりの逃げ口上。後は何を質問しても頬被りのまま締切りに持ち込みました。

罹災通信や非常郵便の実際のコレクターはこれらに手を出さなかったでしょう。それでも落札した人は初心者でしょうか、はたまた、出品関係者か。いずれにせよ今回は質の低いforgery(模造品)でした。専門家をも欺いて横行する「空中楼閣的ニセモノ」よりはまだマシだったと言うべきかも知れません。
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2016年11月17日

怪しいクラ線「鉄道郵便」

今年3月11日に「『泰緬鉄道郵便』の真実」と題する記事を載せたところ、意外に反響があることに驚きました。とても一般的とは言えないテーマなのに、本ブログでは珍しくほとんど毎日この記事が閲覧されています。意を強うして続編を記すことにしました。

泰緬鉄道郵便なるものが実在すると主張する南方専門家の人たちは、「クラ地峡横断鉄道(クラ線)でも泰緬鉄道と同じ性格の郵便が行われていた」と言っています。しかし、GANはこのクラ線の郵便も、泰緬鉄道郵便と同工異曲のニセモノと考えています。今回はそれについて考察します。

クラ線とは、マレー半島最狭部である南部タイのクラ地峡を東西に横断してタイ湾とアンダマン海とを直結する鉄道を言います。太平洋戦争中、日本軍がビルマへの軍需物資補給ルートとして泰緬鉄道と共に計画しました。1943年12月にタイ鉄道南部線のチュンポンを起点にカオファーチまで94キロを開通させています。

このクラ線で使われた郵便印として3種が発表されています。まず「クラ線/鉄道郵便」と表示された円形印と楕円形印で、共に西暦による欧米風の日付表示が異色です。それと「チュンポン/クラ線」と表示されて日本紀元(皇紀)の年号に月と日を手書きする、これも特異な二重丸印とがあります。

Kla.jpgクラ線の郵便について日本語の文献としては、南方占領地切手の権威・土屋理義氏が『泰緬鉄道の「軍事郵便所」郵便』(日本郵趣協会)で言及しているだけのようです。土屋氏はクラ線のエンタイア11通を実際に検証したとして、「クラ線/鉄道郵便」印(上図=同書から引用)について次のように解説しています。
「鉄道郵便」という表示から、チュンポン郵便所が扱う郵便は、為替送金や郵便貯金ではなく、鉄道郵便が主体であったと思われる。
短いにもかかわらずとても難解な文章です。その原因は著者(土屋氏)の鉄道郵便についての根本的な認識不足、はっきり言うなら無知のせいだと思われます。強いて著者の意図を忖度すればここは、「チュンポン郵便所は鉄道郵便局的な性格が強く、為替・貯金業務は扱わなかった。消印にある『鉄道郵便』の表示がそれを示している」とでも言いたかったのでしょう。

「鉄道郵便」印とは、基本的に郵便車(室)に乗務する専業の鉄道郵便係員が車中で扱った郵便物であることを示すために使う日付印を指します。そして、車中取扱いとは、具体的には沿線局との郵便物の授受、郵袋の整理や郵便物の区分、鉄道駅構内や列車乗客から直接差し出された郵便物の引受処理などを指します。郵便逓送の速達と積み卸し局での負担軽減が主目的です。

日本郵便史上で鉄道郵便係員が為替・貯金を扱った事実はありません。鉄道郵便は本来為替・貯金業務とは関係なく、技術的常識からも導入が検討された事実は形跡さえありません。恐らく外国でも同じでしょう。「鉄道郵便」印を題材にして為替・貯金取扱いの有無を論ずること自体が無意味で、土屋氏の解説は鉄道郵便への無理解ぶりをさらけ出すものです。

Kla-2.jpg右図は楕円形「クラ線/鉄道郵便」印(上図中央のPC2)の一部が料額印面左下部に押されたはがき(土屋理義氏提供によるM氏展示品コピー)です。土屋氏は「現存1点の使用例」としています。

根本的な問題は、土屋氏がこの消印はチュンポン郵便所で使われたと明記している点です。列車(クラ線)で運ばれた郵便物だから、チュンポン郵便所で「鉄道郵便」表示の日付印を押して引き受けた、と土屋氏が認識していることです。

これは鉄道郵便というものを知らない「トンデモ見解」というほかありません。鉄道郵便印の印顆は鉄道郵便係員しか携行せず、チュンポン郵便所のような定置局にはありません。チュンポン郵便所がこのような日付印を郵便物に押すことも当然ないのです。

前述したように、鉄道郵便印が使用されるには、(1)まず郵便車が運行され、(2)その車中で係員が郵便物を取り扱うこと、が前提です。かりに一般の貨車に積まれた郵袋がチュンポン郵便所に持ち込まれて個々の郵便物に日付印が押される場合があっても、それはチュンポン郵便所印であり、鉄道郵便印ではありません。

ところがクラ線では郵便車を運行した事実自体がありません。日本軍は仏印-タイ-マライを直通する長距離列車も運用し郵便逓送にも利用していました。しかし、それらの本線を含む一切の日本軍支配下の鉄道で車中取扱いはしませんでした。戦時下で車両も要員も制限され、サービスするリソースの余裕がなかったからでしょう。

クラ線は郵便需要の低い行き止まりの「盲腸線」で、わずかな本数の軍用貨物列車しか走りませんでした。日本軍の全占領地中、唯一この路線だけに郵便車を持ち込んで車中取扱いをする理由などありません。クラ線の鉄道郵便取扱などなかったので、「クラ線鉄道郵便」と称する印やそのカバー類はすべて空中楼閣的な意味でのニセモノです。

蛇足になりますが、上図の円形印や楕円形印にある「NOV.」(英語November=11月=の略)や「DEC.」(December=12月=の略)のように日付を欧文で表示することは日本郵便史上の知見に反します。ニセ印であることを示す傍証の一つと言えるでしょう。

マライ・スマトラ占領地の軍政に当たった第25軍は、1942年11月5日に、すべての通信日付印から「敵性言語」であるラテン文字や欧文表示を追放するよう通牒を出しました(『富集団戦時月報』昭和17年11月号)。1年後に新調された日付印がこの通牒に従わず欧米式を踏襲する理由がありません。通牒を知らない者が作った架空印です。

欧米人が紹介した珍奇なアイテムというだけで無批判に受け入れて、こういう郵便史上の誤り、というより「無知」を曝す結果になりました。「南方専門家」を自称する日本人収集家の方々は欧米文献に依存しない独自の郵便史的情報をどれだけ積み上げ、郵趣界に提供して来られたでしょうか。すでに戦後70年も経過しているのに、それが見えないのが残念です。
posted by GANさん at 01:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする

2016年11月11日

山東最終部隊の軍事切手

軍事切手-1.jpg軍事切手-2.jpg第1次大戦後、中国山東省駐屯の青島守備軍の兵士が軍事切手を使って発信した封書です。11月6日のフロア落札品3点目です。

軍事切手は田沢旧毛紙広幅加刷で、青島局が大正11(1922)年11月24日に引き受けています。裏面発信アドレスの「青守歩三ノ一」は「青島守備歩兵第3大隊第1中隊」を表します。

日本は第1次大戦でドイツに宣戦し、山東省の膠州湾ドイツ租借地とドイツ資本の膠済鉄道(山東鉄道)を占領しました。ドイツ権益「横取り」が狙いです。鉄道沿線の守備と占領地の軍政のため歩兵4個大隊の兵力の青島守備軍を開設しました。

1919(大正8)年6月にベルサイユ講和条約が締結されると、逓信省は「戦争は終わった」と青島守備軍に山東での軍事郵便の廃止を求めます。守備軍とその後ろ盾の陸軍省は廃止に強く抵抗し、日露戦争後の満州などの守備隊との間で起きたときと同じ紛争が再燃しました。

軍部には初めから理がなく、結局は逓信省が押し切って無料軍事郵便は1921年3月限りで廃止されます。以後は軍事切手制度(1人毎月2枚支給)に切り替えることになりました。この切り替え時に軍事切手が届かず、現地で臨時の「青島軍事」切手が生まれた事情はよく知られています。

ところで日本の思惑は大きくはずれました。日本の山東領有に対して中国はもちろんアメリカなど連合諸国が強く反対したのです。講和会議で日本代表は孤立し、全面放棄を約束させられてしまいます。最終的には1922年2月のワシントン会議で締結された「中国に関する9ヵ国条約」で中国への返還が確定しました。

これを受け、青島守備軍は22年4月から兵力の大幅縮小を始めます。主力部隊の青島守備歩兵隊は4個大隊のうち3個大隊が5月までに解散されました。第3大隊だけ残りますが、これも22年12月15日に解散し、17日までに全兵力の撤退が完了しました。

郵便機関は部隊の撤退より少し早く、12月10日に全局が廃止されました。結局、山東地区で軍事切手が使用されたのは1年8ヵ月ほどの短期間でした。従って、この封書は最後まで残留した第3大隊の兵士が撤退の約3週間前に発信した最末期使用例となります。

一方、海軍は陸上の小部隊・臨時青島防備隊を開設していましたが、22年3月に撤退しました。防備隊にも軍事切手が交付されたはずですが、使用例の報告はありません。要員が100人単位と少ない上に使用期間が1年間しかないので、残存数は陸軍よりさらに希と思われます。
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2016年11月09日

日露戦の海軍軍事小包

小包.jpg11月6日のフロア落札品2点目です。一見してありふれた小包送票ですが、中央部に「軍事」と大きめに墨書されています。このわずか2文字が、マテリアルの「肝」です。

小包送票には菊10銭ペアが貼られ、美濃・神戸(ごうど)局の明治38(1905)年6月6日の引受印が押されています。佐世保に宛てて送られた470匁(約1.7㎏)の小包に貼られていたものです。

小包送票は普通、貼られている包装紙ごと処分されて残らないものです。この受取人はよほど几帳面な人だったのでしょうか、丁寧にはがして保存していました。おかげで、1世紀をはるかに超えた今日に伝わったのです。

なぜ「軍事」か、送票の右側2行目下部の「配達局」欄に書かれた「佐世保」が物語っています。佐世保局は日露戦争中、海軍軍事郵便の集中局であり、直接交換局でした。小包は海軍軍人に宛てた軍事小包郵便だったのに違いありません。わずかな紙切れですが、現物が残りにくい軍事小包の実在を裏付ける好資料と思います。

しかも、小包の引受日は日本聯合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃滅した日本海海戦からちょうど1週間後です。戦争の帰趨をも決する劇的な勝利に大喜びした差出人が、海軍に従軍している家族か友人に宛てて祝福と激励の心を込めた品物を送ったのではないでしょうか。

軍事小包郵便は開戦直後の1904年4月6日から取扱いが始まりました。しかし、適用されたのは内地から海軍艦船・チャーター船の乗組員宛てに限られました。陸軍宛ては内地への凱旋・帰還が始まりかける頃まで認められませんでした(一部例外はあります)。自前の船舶で輸送できる海軍だからこその特権でした。

この送票に貼られている20銭は、当時の「400匁以上600匁以下」の郵便市外小包料金に相当します。つまり、岐阜県神戸局から長崎県佐世保局の間の料金です。しかし、それから先、受取人がいる海上の艦船までの料金は、いわば「不足」の形ではないでしょうか。

これは、海軍の船舶が輸送するので海上料金は無料という理由から、海軍艦船宛ての特別料金(サーチャージ=割増金)は徴収されなかったのだとGANは考えます。一方の陸軍では満州や朝鮮の兵士宛ての軍事小包郵便がようやく05年12月から開始されましたが、内地料金より割高の日清・日韓小包料金が適用されています。
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2016年11月06日

朝鮮・会寧局の異型印

会寧.jpg日露戦勝記念1.5銭を貼った絵はがきです。朝鮮(韓国)の北東端、咸鏡北道の会寧局が櫛型印で引受け、同じ道内の輸城局が丸一印で配達しています。

東京で開かれていたJAPEX最終日の11月6日に、同じ会場であった大手ディーラーのフロアオークションで落とした内の1点。まだ湯気の立っているホヤホヤ品です。

発・受信者は共に元韓国駐箚軍東部兵站監部郵便部時代の同僚(野戦局員)だったことが別の資料から分かっています。韓国駐箚軍東部の管轄地だった咸鏡北道の城津以北地区は、明治38(1905)年10月末に全野戦局が撤廃され、普通郵便局所に引き継がれました。野戦局員の多くは普通局に転属しています。

朝鮮の野戦局は基本的には38年9月末までに閉鎖され、普通局に引き継がれたのですが、この地区だけは1、2ヵ月遅れました。ロシア国境に接しているためロシア軍に占領され、日本軍の回収が遅れたからです。城津局はロシア軍部隊に侵攻された1904年4月に閉鎖に追い込まれ、翌05年8月まで再開できませんでした。会寧も輸城もロシア軍の占領区域内でした。

このはがきで会寧局の櫛型印は明治39年6月15日、輸城局(正確には共に城津局の出張所ですが、簡略して「局」と表現します)の丸一印は2日後の17日です。とくに輸城局は半月前の6月1日に開設(郵便事務開始)したばかりでした。日付印の配備状況を調べる好資料になると思います。

ここで会寧局の櫛型印がとても異様なのが目立ちます。A欄の局名が印の上方外側弧線に沿って右書きで並ぶべきところ、逆向きになっています。C欄には本来は時刻活字が入るべきなのに、A欄と同じ逆向き局名です。もともと郵便でなく電信用に作られた日付印の下部印体(C.E欄)を郵便用に流用したために異様な印影になりました。

朝鮮では各地に軍の電信部隊である軍用通信所が多数開設されました。主要地では開戦初期の1904(明治37)年4月から民間人の公衆電報も有料で扱いました。朝鮮内に開設される日本普通局は当初から電信(電報)を扱いましたが、未通地区では普通局が軍用通信所の電信事務を移管されて公衆電報を始めています。

城津以北地区では、野戦局や軍用通信所から普通局への切り替えが遅れ、ほとんどが開局した後で軍の電信事務を引き継ぎました。切り替えを急ぐ余り、軍用通信所の名前だけ普通局に変え、郵便を扱わない電信専用局として開設された例もあります。会寧では06年3月31日限りで会寧軍用通信所が廃止され、4月1日から会寧局が電信事務を引き継ぎました。

これらの普通局で丸一印を使っている間は問題なかったのですが、櫛型印が導入され始めると混乱が起きました。上述した地域的な特殊事情もあって、普通局としての日付印が開局に間に合わない局が続出したのです。

兼二浦.jpgそうした普通局では、やむなく軍用通信所時代の電信印を郵便用にもそのまま使ったり、局名活字だけ郵便用に流用して一時しのぎとしました。ところが、その電信印は、A欄「韓」、C欄局所名という形式です(左図はその一例)。郵便印ではA欄の局名文字の並びが上方に凸型なのに、電信印はC欄局名なので下方に凸型と逆です。電信用局名活字をA欄にはめ込むと、局名が逆向きとなってしまいました。

--前説が長くなり過ぎましたが、会寧局で異型な印が使われた背景には、このような複雑で煩瑣な事情があったとGANは考えています。誤って使ってしまったのではなく、正規の形式でないことを承知で敢えて使い続けたという意味で、これはエラー印とは言えません。

会寧局と似た異型印の例は清津、茂山、北青、甲山、長津、堤川の各局でも見られます。ただし、これら咸鏡北道とは無縁の京城西大門や漢江坊、虎島などの局所にも異型印の郵便使用例があります。軍用通信所での丸一印から櫛型印(A欄「韓」、C欄所名)への切り替え時期なども含め、さらに考察が必要です。
posted by GANさん at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 植民地 | 更新情報をチェックする