2016年12月26日

占領下アモイの電報局

KULANGSU.jpg欧文電報の受取証兼電報料金受領証です。KULANGSU局1939年10月5日の日付印で上海宛て電報を発信したことが証明されています。つい最近の東京の大手オークションで入手しました。

KULANGSUとはどこか。台湾型の欧文印が押されていますが、もちろん台湾ではありません。その対岸に当たる中国福建省厦門(アモイ)の鼓浪嶼。受領証は鼓浪嶼電報局で発給したものです。

厦門は1841年のアヘン戦争で勝ったイギリスが上海などと共に開港させ、中国侵略の第一歩とした地として知られます。厦門自体が島ですが、鼓浪嶼は本島の南西部と狭い水道で隔てられた小島です。鼓浪嶼には日本を含む列強の共同租界や領事館が設置され、植民地的な隆盛を誇りました。

現地の福建南部語で鼓浪嶼を「コーロンスー」に近く発音することから、郵便地名としてはKULANGSU(クーランスー)の表記が定着しているようです。日本人は戦前から「コロンス」と呼んでいました。

ちなみに、1922(大正11)年末の在外局廃止時まで存続した厦門日本局はコロンスにあり、本島側には水仙宮分室が置かれました。日付印「AMOY」を使ったのはコロンス本局で、分室は「AMOY 2」を使って区別しました。分室の方は条約に基づかないで開設された、いわゆる秘密局です。

この受領証は上海宛て欧文電報を賴信したことを証明しており、料金は日本通貨で「1円25銭」と表示されています。発・受信人は共に「oversea」とあります。この語を含む企業など固有名詞の略称なのか、単に「海外」を表すのか、よく分かりません。上海は海外ではないので、あるいは前者が正しいのかも知れません。

日中戦争で日本海軍は厦門を東シナ海制圧拠点の一つとして重視しました。1938(昭和13)年5月10日に陸戦隊が占領し、特別根拠地隊を開設しています。陸軍は厦門占領には基本的に関与しませんでした。陸上「援蒋ルート」の封鎖は陸軍、沿岸部は海軍の役割だからです。

海軍は厦門地区の郵便・電信業務も接収し、厦門と関係の深い台湾総督府交通局逓信部に復旧を要請しました。台湾当局は要員を派遣して7月1日に厦門での郵便を再開させます。7月25日に厦門郵局を中国郵政に移管するまでの間は台湾局の出張事務という形式で取扱いました。郵便は基隆局、為替貯金には台北局の名義を使っています。

電信電話業務は郵便より早く、厦門電話局5月30日、厦門電報局6月11日、鼓浪嶼電報局は7月1日に再開しています。この電報受領証には左欄外に小さく「昭和十三年四月新民報社納」と印刷されています。台湾の新聞社で印刷させた最新の式紙を持ち込んで使ったと見られます。

郵便とは違って、厦門、鼓浪嶼の電信電話業務は終戦時まで海軍が管理を続けました。日本海軍が華南で台湾逓信当局と組んで復旧・再開させた電信電話事業は、ほかに広東と海口(海南島)でも同様に行っています。

上記の事実関係は、主として国立公文書館所蔵の旧郵政省文書のうち「南支皇軍占拠地ニ於ケル電政施設ノ概要」、「厦門通信施設ニ関スル件」によりました。いずれもアジア歴史資料センターを通じてネットで検索、ダウンロードできます。
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2016年12月14日

華北郵政に貯金を委託

北ほ01.jpg北ほ02.jpg日本軍占領下の中国・青島郵局が在留日本人のためだけに特別に取り扱った貯金通帳です。最近の関西大手オークションで入手しました。

通帳は褐色大型で表紙に巨樹を描いた日本内地と同じ内閣印刷局製で、下関貯金支局が発行しています。貯金記号「北ほ」は華北郵政総局管内の青島郵局に口座があることを表します。預入人の住所は「青島欧陽路2号」と書かれています。

北ほ03.png受払を証する日付印も日本と同じ為替貯金用櫛型印で、A欄「青島」、C欄「北ほ」です。しかし、印色が極めて特殊で、通常の黒色ではなく朱色です。櫛型印時代では他に類例がありません。昭和18(1943)年4月1日から19年3月9日までほとんど毎月1回、1円ずつ預け入れられています。

中国局で中国人職員が扱っているのに、日付印の年号に民国年号(昭和18年=民国32年)を使わないのはなぜか。この通帳は日本逓信省が占領地の傀儡政権・中華民国臨時政府(北京)に事務委託をして1939(昭和14)年11月16日から始めた日本の郵便貯金だからです。

37年7月に日中戦争が始まると、日本軍は北京・天津地区を始め河北、山東省全域と山西、河南省の一部をたちまち占領しました。占領地に進出した日本人多数の「日本の郵便貯金に加入したい」という要望が理由とされます。中国郵政も儲匯(貯金・為替)業務を扱っていたので、二重制度になります。

ただ、上海にあった国民政府(蒋介石政権)郵政総局に対して、華北政権の華北郵政総局は半面独立・半面従属という態度でした。華北占領地で中国郵政に貯金すると、日本系貯金原資も国民政府の運営に委ねることになります。それを避ける思惑から、日本側は華北政権にこの我が侭な要求を受け入れさせた、という事情があったと思います。

39年10月19日に締結された逓信省と華北郵政総局との間の委託貯金基本協定書案が国立公文書館に残っています(「北支委託貯金 基本協定、細目打合、通知事項」)。

 1、北支記号通帳の預入・払戻事務を委託。貯金原簿は下関貯金支局で所管する。
 2、手続きは日本貯金法令に準拠。通帳・式紙類、法規文書は日本側が提供する。
 3、受払には華北流通の通貨を使い、通帳には日本通貨で金額表示する。
 4、華北通貨と日本通貨の交換レートは両者が協議して決定する。
 5、受払1口につき10銭の取扱手数料を華北側に支払う。
 6、日付印類は印影を日本側が提供し、華北側が調製。通帳には朱肉で押印する。
 7、利用者への責任は日本逓信省が負う。

この「北支委託貯金」の取扱局は当初は、北京(北い)、天津(北ろ)、済南(北は)、太原(北に)、青島(北ほ)、石家荘(北と)の6局だけでした。次第に増加し、5年後の43年11月1日現在では河北、山東、山西、河南、江蘇の各省で合計24局になっています(『大東亜為替貯金取扱局便覧』)。

協定書や前後の往復文書には「日付印は日本年号を使う」という取り決めはありません。しかし、利用者が原則として日本人に限られたことに加え、日付印の版下を日本側が用意したことからそうなったのでしょう。中国局で「昭和」年号の日付印を使用--。通帳1通が日本の占領郵政を象徴していると思います。

関連して、華北占領地で日本郵政が中国側に委託した業務としては、他に口座間送金業務の郵便振替(1941年10月1日開始)があります。為替関係では事務委託はなく、通常・電信・小為替とも中国業務として日本業務との間で取り組まれました。


さらに蛇足を付け加えます。使用済みの行政書類は国立公文書館移管が法律で義務づけられています。が、実際には郵政省関係では貯金局が所管した為替貯金資料があるだけです。それだけでも大変ありがたいことですが、残存は何かの偶然で、意図した結果とはとても思えません。その証拠に、郵便行政の本流である郵務局作成の資料が公文書館にはゼロなのです。

旧逓信省は関東大震災で全焼し、すべての書類を失いました。それでも努力して収集・復元に努めた結果、震災前も含めてかなりの量の資料が現在の郵政博物館に保管されています。これに対し、戦中・戦後の80年間だけでも膨大な分量にのぼったはずの行政書類はすべて廃棄されてしまいました。戦後から現在に至る郵政官僚たちの無能(歴史認識の欠如)と国民に対する無責任を象徴しています。
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2016年12月08日

戦地の病院船へ電報

神戸丸送達紙.jpg日露戦争中の病院船「神戸丸」に収容されていた戦傷者に宛てた電報送達紙と、それを郵送した電報送達の専用封筒です。ごく最近のネットオークションで入手し、到着したばかりです。

神戸丸は日本郵船の貨客船(2,901トン)で、1940年代の日華連絡船とは同名異船です。日露開戦直前の1904(明治37)年1月に海軍省にチャーターされました。開戦と同時にジュネーブ条約に基づく病院船として、僚船西京丸と共にロシア側に通告されています。

聯合艦隊に付属船として編入され、特務艦隊に属しました。詳細な行動記録は見当りませんが、単独で佐世保軍港と戦地との往復を繰り返していたようです。05年夏には陸軍の樺太攻略部隊輸送と支援のため編成された北遣艦隊に随伴しています。

神戸丸封.jpgこの電報ですが、明治37年11月9日に北見紋別局から発信されています。宛先アドレスは「在戦地 病院船神戸丸 第1病室」とあります。電文は「名誉ノ怪我、今ノ様子イカガ」です。発・受信者が同姓なので、親が我が子の戦傷を心配して一刻も早く症状を知ろうと打電したのかも知れません。

同日中に門司局に着信しましたが、神戸丸が門司港に入港しているわけではありません。ただちに専用封筒に「従門司郵便/電信局郵便(門司郵便電信局より郵便)」の印を押し、電信事務として「戦地」に郵送されました。

ところが、名宛人の負傷兵がこの電報を実際に手にしたのは12月11日でした。電報に本人による朱筆の書き込みがあることで分かります。この電報は神戸丸の行方を追跡して1ヵ月もかかってしまったようです。これでは電報としての用をなさず、郵便にしても結果は同じだった可能性があります。

封筒表面下部に12月10日の到着印が押されていますが、残念ながら不鮮明で局名が読めません。ただ、丸一印が使われているので、神戸丸はこの12月当時、「戦地」を後に朝鮮か内地の港湾に入港中だったと推定できます。大連や旅順など戦地の野戦局は丸二型印を使ったからです。

この電報で興味が持たれるのは、「戦地」宛て賴信を、紋別局はなぜ門司局に宛て送信したか、です。海軍関係で戦地との間の郵便なら、佐世保が交換局でした。電信の交換(中継)局は門司局と決まっていたのでしょうか。陸軍宛て電報だったら門司局は野戦局に郵送したのか。調べる余地はまだまだありそうです。
posted by GANさん at 04:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 電信・電話 | 更新情報をチェックする