2017年01月31日

大阪-東京を4日で飛行

行違遅延1.jpg航空郵便の夜明け前、大正11(1922)年11月に航空普及を図る民間団体の帝国飛行協会が開催した「東京大阪間郵便飛行競技」で運ばれたはがきです。ネットオークションで落とし、つい数日前に到着しました。

この飛行競技の実施状況については園山精助氏の好著『日本航空郵便物語』(1986年)に詳しく載っています。以下、園山氏に全面的に依拠して記述します。

当時はまだ航空機による郵便物の定期輸送はありません。イベントとして開かれる各地での飛行大会などで試験的に委託輸送される程度の段階でした。

帝国飛行協会は郵便の大動脈である東京-大阪間で将来郵便の定期航空を構想していました。まず航空路を開拓し、確実・安定的に定期飛行するためのテストフライトとしてこの競技を企画したのです。郵便飛行を競うイベントは1919(大正8)年以来これが5回目で、最大で最後ともなりました。。

内容は、民間飛行士を募り、数日間にわたって東京・代々木練兵場と大阪・城東練兵場とを互いに発着して所定コース(東京-三島-豊橋-四日市-大阪)を無着陸で飛び、航路の確実さや速さを競う、というものです。14人の飛行士が自分の飛行機ごと、あるいは航空当局提供の機体を借りてエントリーしました。

競技は11月3日から11日の間に延べ7日、27回のフライトが実施されました。うち7回が不時着で、大部分は機体大破で終わっています。優勝者の飛行時間は上り3時間31分、下り2時間54分でした。全フライトを合計して大阪方面に3,612通、東京方面に6,420通の郵便物が輸送されました。

さて、このはがきですが、私製はがきに第2種料金として田沢1.5銭切手が貼られ、大阪天満局で11月4日夜の10-12時に引き受けられています。航空輸送による特別料金の加算はありません。はがき表面左端には赤インクで「飛行郵便」の書き込みがあり、郵便飛行競技に参加した郵便物であることを示しています。

ところが、このはがきは翌5日のフライトに間に合いませんでした。城東練兵場への引き渡し局である大阪中央局で「行違ノ為メ送達方遅延ス」の付箋が貼られ、5日午前10-11時の日付印が押されています。天満局か中央局のどちらかで取扱ミスがあったのでしょう。午前9時28分に出発した島田機に積み遅れてしまいました。

このはがきは練兵場で1日を空費して6日午前8時40分出発の安岡機に搭載されたはずです。災難はさらに続きました。安岡機は半ばも飛ばないうちに油送管が故障し、豊橋に不時着してしまったのです。安岡飛行士はやむなく搭載郵便物を豊橋局に引き渡し、このはがきも汽車便に仕立てられて東海道線を上ったと思われます。

結局、東京中央局への到着は7日早朝の午前0-7時となりました(あるいは6日深夜かも知れません)。それでも青山の名宛人に7日お昼前には配達されたはずです。大阪から足かけ4日がかりで届いた「飛行郵便」はがきは、さぞ驚かれたことでしょう。

--1通のはがきに押された3個の日付印が以上のようなストーリーの存在を推定させています。日本で最初の飛行機が飛んでからわずか12年。機体製造も操縦技術もまだまだ手探りだった時代に、最速の手段で郵便輸送を試みた人たちの悪戦苦闘ぶりがしのばれます。
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2017年01月30日

懲りないニセ乃木書翰

fg1.png明治から昭和までの3代を通じて、乃木将軍は恐らく日本人が最も好きな軍人なのでしょう。「これでもか」とばかりにニセの乃木書翰が出現し、出回っています。ヤフオクでは出品が途切れる間がないと言っても過言ではありません。偽造封筒を添えたばかりに足が付いた最近の2例をご紹介します。

右図は北海道の古書店が入手したという「乃木書翰」です。共同通信が「乃木希典の直筆手紙発見」とさも大ニュースのような記事にして配信し、1月14日付日本経済新聞などに掲載されました。子息の戦死や後継者に関する、素人受けぴったりの「極めて興味深い」内容だそうですが、そちらは置いておきます。

封筒は菊10銭切手を貼って書留扱いとなっています。小さな荒れた写真しかないので引受印の局名などは不明です。将軍が自宅から出した真正の書翰はすべて赤坂局引受になっています。それなのにこの封筒の書留ラベルが「小石川」なのはおかしい。引受印の局名がもし「赤坂」ならニセは決定的です。

fg1a.pngここでは裏面の付箋をはがした跡にわざわざタイするように押されている消印に注目しました。無理した拡大図をに示します。一見してB欄日付部の桁線とD、E欄櫛型の痕跡すらないのが、まず異様です。

局名は「赤坂」とも「広島」とも読めそうな不鮮明さですが、日付活字の「43.7.8」だけはどうにか分かります。ところが、これが箸にも棒にもかからないフォントを使ったゴム製の不出来な偽造印なのです。

赤坂局にせよ広島局にせよ、櫛型印の時刻活字は数字の直前にピリオドを配置する「前点式」のはずですが、「8」の日活字の直前にピリオドはなく、月活字「7」との中間というあいまいな位置にあります。「7」の前のピリオドも同様です。数字活字に付属して一体となっているのではなく、異様に大きな「ピリオド活字」として独立していることが明らかです。

かくして、消印がニセモノ。→もし書翰がホンモノだったらニセ消印をわざわざ作ってニセ封筒まで添える必要はない。→故に、書翰もニセモノ、という三段論法でアウトになります。余計な封筒を偽造しなかったらこの書状はあいまいなまま通っていたかも知れません。「雉も鳴かずば撃たれまいに」の類いの話です。

fg2.png一方、左図は1月31日締め切りのヤフオクに「軍神乃木希典書簡封書軸装」として出品されているものです。両方の封筒の将軍自筆のサインにご注目下さい。同一人の手蹟なのに、これほど違うのはなぜか。両方とも同じ理屈で真っ赤なニセモノだからです。

こちらの封筒では表面の菊3銭切手が赤坂局の日付印で引き受けられています。着印がないところが不自然です。ところで、この極めて明瞭な引受印がまったくいけません。

に示すように、外郭リングが異常に太かったり、「赤坂」の局名活字に「太教科書体」という実在しない異様なフォントが使われているのが、まずダメです。C欄時間帯の「后0-8」はあり得ない刻みで、これは偽造印の証拠として致命的です。

fg2a.pngこの当時、赤坂局を含む東京市内局の時間帯刻みは1時間ごとでした。しかも、櫛型印にはX、Y、Z型の全形式を通じて「后0-8」などという荒っぽい刻みはありません。せいぜい「后0-3」(Y3型)、「后0-4」(Z型)があるぐらいです。

従ってこちらも、消印がニセモノ→封筒が偽造→故に書翰本体もニセモノ、という理屈を累積する結果となりました。もっとも、出品者は商品説明の中で「当方では肉筆の保証できますが、真筆の保証は致しかねます。」とわざわざ断っています。

これを「多少の良心はある」と解すべきなのか、あるいは偽造を承知の巧妙な逃げ口上か。いずれにせよ、2通の書翰は「乃木人気」が世紀を超えてなお盛んな証拠、とは言えそうです。
posted by GANさん at 13:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 乃木将軍 | 更新情報をチェックする

2017年01月29日

満鉄駅の電信取扱所

五竜背1.jpg湯山城1.jpg高麗門1.jpg張臺子1.jpg
萬家嶺1.jpg得利寺1.jpg





五龍背、湯山城、高麗門、張臺子、萬家嶺、得利寺……。聞き慣れない局名ですが、これらは郵便印ではなく、満州の電信専業局所の一種、鉄道停車場電信取扱所の日付印です。大正5(1916)年7、8月ごろ南満州鉄道(満鉄)の支線、安奉線を利用した旅行者が各駅で記念押印したもののようです。

関東都督府通信管理局(関東逓信局の前身)は満鉄と協定を結び、明治42(1909)年8月1日から満鉄本社構内と遼陽、大連、奉天など主要12駅に電信取扱所を設置して公衆電報の取扱いを開始しました。(外務省外交史料館蔵『関東都督府政況報告並雑報』明治42年7-9月期による)

満鉄線路沿いに架設されている鉄道専用電信を一般電信線に接続して旅客の利用に供しました。専任職員は置かず、駅員の兼務です。内地で既に実施されている方式にならったものでした。その後も観光地の駅や安奉線の駅にも増設を続け、明治期末に取扱所は24駅に開設されていました。

満鉄構内.jpg大連駅.jpg鉄道停車場電信取扱所の開設当初、日付印はA欄「満」、C欄駅名という形式でした。満鉄構内と大連の印影が知られています(右図)。

この記事の最初に示したようなA欄駅名、C欄「電信取扱所」という形式には大正初年に切り替わったのでしょう。荒井国太郎氏の諸論考や穂坂尚徳氏の労作『在中国局の和文印』にもこの形式はなく、これまで未発表だったようです

これらの電信取扱所印は電報賴信紙に貼られた料金相当切手の抹消印や駅構内限りで配達される電報送達紙に配達印として押されたはずです。しかし、いずれもエンタイアとしては未発表で、使用状況の実態は分かっていません。

この時期の満鉄駅委託の通信業務というと、もう一つ関連して未解明な問題があります。前記『政況報告』の明治41年1-3月期報告書によると、同年1月16日から「鉄道停車場郵便取扱所」なるものが開設されています。本線では臭水子、南関嶺、三十里堡、得利寺など13駅、安奉線では陳相、渾河、橋頭、孟家など12駅で、いずれも付近に郵便局のない不便地です。

「沿線居留民ノ増加ニ伴ヒ、之ガ(従来の鉄道郵便係員による)取扱ヲ拡張シ」、満鉄と交渉して駅員や一般民間人の便宜のためにこれら各駅で「郵便物ノ引受及留置交付ノ取扱ヲ為サシム」と記述されています。電信取扱所の設置以前に郵便取扱所という先行事例があったことになります。

この郵便取扱所が郵便物の引受に果たして独自の日付印を使ったのか、この種取扱いがいつまで続いたのか。--詳細は不明で、新たな資料の発掘が望まれます。停車場郵便取扱所が扱った、例えば「臭水子駅留置」などと肩書きしたエンタイアもあるはずです。その出現も併せて将来に期待したいと思います。

訂正】この記事の第5段落末尾で「これまで未発表だったようです。」としたのは誤りだったので削除します。委細はこの記事のコメント欄をご参照下さい。
posted by GANさん at 22:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 満洲・関東州 | 更新情報をチェックする

2017年01月28日

関特演に動員の2師団

基.jpg奥.jpg「関特演」とは「関東軍特種演習」の略称です。独ソ戦が1941(昭和16)年7月に突発したのに便乗し、関東軍はかねてからのソ連侵攻計画を実行に移します。

兵力を倍増する大動員を行い、秘匿のため「演習」と呼びました。しかし、この作戦は独ソ戦が膠着状態に陥って、結局中止されます(2016年5月31日記事参照)。

関特演で内地から2個師団が動員され、満州に派遣されました。この2枚のはがきは動員された第51師団(宇都宮)と第57師団(弘前)の兵士が故郷に宛てて発信したものです。最近のネットオークションで入手しました。共に「満洲国」の官葉が台はがきとして使われていますが、偶然です。

左のはがきの発信アドレスは「満州基第2805部隊」とあります。「基」は「通称符」と呼ばれる一種の暗号で51師団を、また「第2805部隊」は捜索第51連隊を表します。51師団は41年8月22日に満洲国西南部の綏中に着いた後、太平洋戦争開戦準備のため9月23日に華南に向け転進しています。満州に駐屯したこのわずか1ヵ月間に発信されたことが分かります。

右のはがきのアドレス「満州奥第7221部隊」の「奥」は57師団の、「第7221部隊」は野砲兵第57連隊の意味です。この師団は黒竜江を隔てたソ連北正面第一線の黒河周辺に配備されました。野砲57連隊の駐屯地は山神府でした。軍事郵便には珍しく「(昭和)16.9.30」と発信日付が明記されています。

アドレスの「基第2805部隊」や「奥第7221部隊」といった表記は陸軍用語で「通称号」と呼ばれ、正式な部隊名や部隊行動を秘匿するため太平洋戦争期に全面的に使われました。その軍事郵便での使用開始がこの関特演だとGANは考えています。つまり、これらのはがきは通称号使用例の第1号なのです。

関東軍は基本的には通称符を採用せず、「満州第○○部隊」と数字2、3桁の部隊番号だけで通しました。しかし、関特演で動員した部隊に限っては、いわば例外的に通称符を使いました。部隊名秘匿の度合いを強化したつもりだったと思われます。結果的に、関東軍の実際の軍事郵便で通称符が使われている例はわずかです。

動員された両師団はその後、大きく明暗を分けます。51師団はソ連侵攻計画中止によって華南に転用され、1年後に更にラバウルに再転用されます。ニューギニア戦線に向かった直後の43年3月に「ダンピールの悲劇」と呼ばれる輸送船団壊滅(ビスマルク海海戦)で大部分が海没し、生存者も悲惨な飢餓の中で敗走を重ねて全滅状態で敗戦を迎えました。

一方の57師団各部隊は山神府、泰安など黒竜江南岸に展開して平穏な駐屯を3年半続けた後、「本土決戦部隊」として45年4月に内地に転用されました。福岡県北岸で防衛陣地構築中、無傷のまま敗戦となります。満州駐屯を続けていたら、8月のソ連軍侵攻による第一撃で全滅を免れなかったでしょう。そのわずか4ヵ月前の離脱が命拾いになりました。
posted by GANさん at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍事行動 | 更新情報をチェックする