2017年02月28日

鄭家屯事件の出動部隊

四平街2.jpgこの分銅はがきは1916(大正5)年夏に満州で起きた「鄭家屯事件」によって派遣された歩兵第41連隊第10中隊の兵士が発信しました。大正6年の年賀状として「四平街2」局で年賀特別取扱によって引き受けられています。

鄭家屯は満鉄本線の四平街駅から西北方へ約80キロも離れた東部内蒙古と呼ばれる地方の小都市です。16年8月13日に在留日本民間人が中国警官に暴行されるという小さなトラブルが事件の発端でした。

日本領事館警察の警官と日本軍守備隊の兵士が抗議して騒ぎになります。中国軍第27師と28師の大部隊によって守備隊の兵営が包囲され、戦闘の中で日本兵11人が戦死する大事件に発展してしまいました。

関東都督府(関東軍の前身)はただちに増援隊として公主嶺守備の歩兵41連隊から第3大隊を派遣しました。大隊は8月18日に鄭家屯に到着しますが、幸い事態は既に沈静化し、新たな衝突は起きませんでした。この事件では中国側(張作霖軍)が全面的に非を認めて解決したため、大隊は翌17年4月18日に公主嶺に帰還しました。

鄭家屯事件自体は偶発ですが、背景には蒙古の独立運動家パプチャップ(巴布扎布)が日本の「大陸浪人」川島浪速らと結託して挙兵した「満蒙独立運動」がありました。パプチャップ軍は当時、四平街北方の満鉄線郭家店駅付近まで進出、占領していました。鄭家屯の中国軍は、抗議に来た日本守備隊の兵士らをパプチャップ軍の襲撃と誤認して攻撃したようです。

日本は第1次大戦中、中国(袁世凱政権)に迫って悪名高い「21箇条要求」を承認させ、関連して1913年(大正2)10月、日本の借款で建設する「満蒙五鉄道協約」を結びます。その一つの「四平街-鄭家屯-洮南鉄道」計画線で、鄭家屯は重要な通過地点でした。

関東都督府は1914年10月以来、鄭家屯に中隊規模の守備隊を配置しています。満鉄沿線から遠く離れたこんな地点に、なぜ日本軍が進出できたのかは不明です。あるいは、この四洮鉄道計画との関連で、中国側実力者の張作霖と密約でも交わして認めさせていたのかも知れません。

話が後回しになってしまいましたが、このはがきの引受局「四平街2」とは、四平街局鄭家屯分室のことです。中国側には秘密のいわゆる「秘密局」で、鄭家屯事件から2ヵ月後の1916年10月20日に日本領事館内に開設されました。前後の事情から考え、この事件を機に軍隊の利用を主目的に開設されたことは間違いありません。

鄭家屯分室は増援部隊の撤退後も活動を続けますが、1922(大正11)年末の在中国局全面閉鎖のさいに撤廃されます。その間、毎月15回(隔日)という頻度で四平街本局との間で逓送が行われていました。ただ、取り扱う郵便物は軍隊や領事館宛てに限り、それ以外は中国局経由とされました。「四平街2」印が押された郵便物のほとんどが軍隊関係者なのはこのためと思われます。
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2017年02月25日

ラバウル海軍航空隊

204空.jpg銀翼連ねて、南の前線……などと歌っているとお年が知れてしまいますが、戦前世代にとって「ラバウル航空隊」の名はなかなかノスタルジックに響きます。このはがきはまさにその航空隊から差し出されました。ネットで落札し、今日手元に届いたばかりの新入品です。

はがきの発信アドレスは「横須賀局気付 第36海軍軍用郵便所気付 ウ105 ウ159 ④」です(漢数字は洋数字に置換)。「ウ105」はラバウルを、「ウ159」は第204海軍航空隊を表します。④は航空隊内部の区分記号でしょう。

つまり、このはがきは「在ラバウル第204航空隊第4分隊」の隊員が発信したものです。通信文面から、ラバウル進出直後の42年秋ごろに書かれたと推定されます。

「ウ」の前の2つの「気付」は郵便物を発受するために経由する郵便局名を表しています。横須賀局はラバウルを含む南東方面を受け持つ、海軍関係軍事郵便の大交換局でした。第36軍用郵便所はラバウルに開設されていました。

太平洋戦争中、ラバウルは日本海軍最大の前線航空基地でした。しかし、ラバウルを原駐基地とする航空隊は開設されていません。いくつもの航空隊が次々ラバウルに進出し、作戦ごとに出撃して消耗し、解隊されたり交替して還っていったのが実態です。「ラバウル海軍航空隊」という固有名詞の部隊は存在しませんでした。

戦争中に編成された陸海軍の航空隊は数百もあるのに、なぜ海軍の「ラバウル航空隊」ばかりが有名で、歌にまでなったのか。日本映画社のニュース映画「南海決戦場」の好反響もありますが、GANとしてはとりあえず、「歌になったから有名になった」と身も蓋もない解釈を提示しておきます。

さて、くだんの第204航空隊ですが、これは1942(昭和17)年4月に木更津で編成された零戦、「ゼロ戦」と通称される艦上戦闘機による生粋の戦闘部隊でした。ガダルカナル戦が始まったばかりの8月21日に27機で陸上のラバウルに進出、隣のブーゲンビル島ブインをも基地としました。

以後、ガ島をめぐる長期間の航空消耗戦に耐え、ブーゲンビル島攻防戦、ニューギニア・ソロモン方面での航空全面反攻作戦の「い号作戦」などに活躍します。作戦終了後の43年4月、関係部隊の慰労・激励に向かう山本五十六聯合艦隊司令長官の乗る陸攻機の護衛に当たったのも204空でした。長官の機上戦死という海軍史に残る痛恨の悲劇の当事者です。

この部隊も44年初頭まで続いたラバウル航空決戦で消耗、疲弊しきって、ついに44年3月に現地で解隊されます。零戦隊として終始ラバウルにあって米機と渡り合い、守り抜いたエース部隊でした。204空こそ灰田勝彦の大ヒット歌謡でイメージされる「ラバウル航空隊」そのものと言えます。
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2017年02月23日

中国宛て料金の最末期例

天竜川丸.jpg大阪から中国(清国)上海に宛てた小判はがきです。U小判1銭切手が加貼りされ、大阪局で1898(明治31)年9月9日に引き受けて14日に上海に届いています。最近のヤフオクで入手しました。

1銭はがきは3ヵ月後の12月1日に菊(紐枠)はがきに切り替わりました。従ってこれは、小判はがきシリーズの外国宛て最終期使用例となります。

官製はがきに1銭切手が加貼りされていることに何となく異和感が感じられます。「中国宛ては内国と同額料金」という常識に反するように見えるからでしょう。

実はこのはがきは「同額常識」が成立する直前、まだ中国宛てに国際料金が設定されていた時代の最末期使用例になるのです。当時の中国(日本局所在地)宛て料金は書状5銭、はがき2銭でした。

逓信当局は外国郵便の規定全般を見直しており、1899(明治32)年1月1日から実施しました。その中で、中国宛て料金をこれまでの国際料金からはずし、内国料金と同額とします。このはがきがもし3ヵ月後に出されていたら1銭切手の加貼りは不要で、印面料額の1銭だけで上海に届いたはずでした。

この改定は、日清間通信の便宜を図り、朝鮮宛て料金がずっと内国並みだったのに合わせた、と説明されました。これは外国である中・朝両国を日本の郵便網の中に取り込む、通信主権の侵害でした。しかし、半植民地状態でU.P.U.(万国郵便連合)にも未加盟だった当時の清国からこの点での抗議はなかったようです。

中国側も後の1903(明治36)年に結んだ日清郵便仮約定で対日料金を日本と同額として日本の料金設定を追認しました。正確には、条文上で「清国から日本宛て料金は、日本の清国宛て料金以下にできない」という表現になっています(仮約定第2条第4号)。先にあげた「同額常識」はこうして完成しました。

ところで、はがきの宛て先をさらに詳しく読むと、「清国上海・日本郵船会社内/大阪商船会社天龍川丸」となっています。通信文面から、受取人はこの船の高級船員のようです。これも日中間郵便史上のエポックを記す点で、見逃せないアドレスです。

逓信省は日本の郵便網を中国沿岸部にとどまらず長江の奥深くまで拡張する意図がありました。そのため、大阪商船会社にこの年、98年1月から上海-漢口間に郵便船の運航を始めさせたばかりだったのです。そこに投入されたのがまさにこの天龍川丸と僚船の大井川丸の2隻でした。大阪商船には補助金年額9万円、保証金1万円という巨額の国費が交付されました。

初航の天龍川丸は98年1月4日に上海を出港し、延べ140人の乗客と貨物121個を運んで7日に漢口に着いています。復航は漢口8日発、上海に16日帰着でした(明治31年2月15日逓信省発海軍省宛「揚子江航路開始以降ノ状況報告」=アジア歴史資料センター公開資料=による)

この航路は4月からさらに上流の宜昌にまで延長され、強力なインフラとして長江沿岸に多数の日本局を開設する基礎を作りました。約7年後の明治37(1904)年12月15日付「逓信公報」告知によると、同日現在で上海のほか鎮江、蘇州、杭州、南京、漢口、太冶、武昌、長沙、沙市の各局所が開設(ほかに宜昌に秘密出張取扱)されています。
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2017年02月01日

大連局でない「大連」印

大連1.jpg支那字入り菊3銭切手が貼られ、「満・大連39.10.13」の日付印で抹消されている書状です。日露戦後の満州で明治39(1906)年9月に軍政廃止、民政移行によって開設された大連局が引き受けた最初期の郵便--。

素直に見れば、だれでもそういう説明を付けたくなるところです。しかし、これは郵便史的には大きな間違いとなります。なぜか。

民政移管によって関東都督府が発足し、同時に郵便業務全般を管理する関東都督府郵便電信局が06年9月1日に大連で開設されます。従来の野戦局と電信専業の軍用通信所55局所は一律にその支局として改編され、再発足しました。

ところが、旧大連野戦局と大連通信所が統合されてできたのは都督府郵便電信局で、「大連支局」ではありませんでした。この封書が発信された10月13日の時点では「大連局」を名乗れる郵便局は存在していなかったのです(東大連支局は別の局所です)。

この間、大連市内での郵便事務を取り扱っていたのは都督府郵便電信局本局でした。正確には本局の中の通信課郵便掛の担当です。監督官庁が現業事務も兼務したことになります。そんな事情から、後に大連支局が正式に発足すると、通信課長(兼規画課長)の樋野得三が支局長も兼務しています。

これ自体は珍しいことではなく、さかのぼれば、郵便創業当初の「東京局」も駅逓寮の一部門(発着課)でした。満州と同時期で言えば、樺太でも樺太庁郵便電信局発足当時はコルサコフ(大泊)の郵便電信局本局がやはり現業も兼務しています。丸二型「樺太庁/郵便電信局」の日付印が使われたことでよく知られています。

樺太と違い満州では「大連支局」を仮想表示しましたが、やはりムリ筋です。いろいろな矛盾も露呈してきたのでしょう。3ヵ月以上も経った12月10日に、改めて独立現業局としての大連支局を正式に開設しました。郵便印も本局時代と同じものを使いました。従って、同じ「満・大連」櫛型印でも39年9月1日から12月9日までは本局(都督府郵便電信局通信課)の消印であり、大連局(大連支局)のものではない、が結論です。

本局.jpgこれに関連して、未解明の問題があります。正式な大連支局開設後に櫛型「満・大連本局」、丸二型「都督府局(朱色)」という単片上の印影の存在が知られています(左図)。前者は形式から明らかに通信日付印ですが、使用状況が分かりません。後者はどうも料金納付事務などの再確認印のようです。

『関東逓信三十年史』(満州逓信協会、1936年)には「管理事務に限り大連本局にて之を処理したるも……」という断片的な記述(pp.89-90)が見られます。郵便切手に日付印を押すような「管理事務」など果たしてあるのか。または、これらの印影はこの記事とはまったく無関係か。--判断するにはまだ資料不足です。この印影の問題については後考に俟ちたいと思います。
posted by GANさん at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 満洲・関東州 | 更新情報をチェックする