2017年03月31日

幻の平海作戦第120局

F.P.O.120-2.jpgF.P.O.120-1.jpg「平海作戦」という、今では戦史でも触れられることのない作戦に動員された台湾の野戦局からのエンタイアです。この野戦局も当局資料から無視され「幻の野戦局」となっています。

日中戦争が全面的に拡大した1937(昭和12)年秋、中国国民政府(国府=蒋介石政権)は上海が攻略され、首都・南京も陥落必至となると、重慶に首都を移して徹底抗戦の構えを示しました。

逆に追い込まれた形の日本軍は、「蒋介石の継戦意欲を挫く」として、支援物資輸送の要の武漢(漢口、漢陽、武昌)と南方の入口、広東(広州)を抑える「援蒋ルート」遮断作戦を立案します。

ところが、日本軍兵力は武漢作戦までで手一杯で、広東の攻略、占領に回す余裕がありません。代替策として広東と漢口を結ぶ粤漢線鉄道沿線の1地点を占領して援蒋ルートを遮断する作戦が立てられました。それが広東省平海半島の小都市・平海を攻略する「平海作戦」だったのです。

この作戦軍として37年12月7日に第5軍が台湾の高雄で編成されました。軍司令官は古荘幹郎台湾軍司令官の兼務です。隷下に第11師団と台湾守備隊(当時は「重藤支隊」として大陸で作戦中)が配属され、高雄や屏東など台湾南部の港湾に集結を続けます。作戦発起(出撃)予定日は12月20日とされていました

まさにその時、日本軍が国際的な大問題を引き起こしてしまいます。12月12日に長江を航行中の中立国である米艦パネー号を爆沈、英艦レディバード号を砲撃してしまったのです。いずれも中国船と誤認しての攻撃でした。大本営はあわてふためき、国際非難をかわすため平海作戦の当面中止が発令されました。

作戦部隊は台湾南部で待機の態勢を維持したまま越年し、38(昭和13)年2月15日になって第5軍は編成解除(解散)されました。平海作戦は再興されませんでしたが、38年10月に改めて本格的な広東攻略作戦が行われることになります。そのため新たに第21軍が編成され、司令官に台湾軍司令官だった古荘幹郎中将がまたも任命されました。

120局1.jpg最初に示した封筒ですが、2月5日(年欠)に「今井部隊兵站本部付 第百二十野戦局」の局員が出身職場(東京・荒川局)の同僚に宛てて発信したものです。発信アドレスの野戦局名は赤色スタンプでも重ねて押されています。通信文が残っており、1月1日に第120(高雄)、121(屏東)、122(潮州)の3野戦局が開設され、「今は待機中」と記されています。右図は通信文の一部です。

「今井部隊」というのは分かりませんが、これら3局こそが第5軍の野戦局であることは間違いありません。作戦発起直前の部隊は通信封鎖されるのが普通なので、恐らく一般兵士の軍事郵便は禁止されていたでしょう。野戦局員という特殊な身分だったからこそ出せた通信と思います。

120局2.jpg左図の第120野戦局印は別の機会に入手した官白に押されているものです。第5軍戦闘序列の解除が下令された翌日の日付なので、野戦局閉鎖の記念押印と考えています。この日付印が押されたエンタイアは未発表で、今後も出現の見込は極めて薄いです。

平海作戦の野戦局については、関雅方氏『大東亜戦争(支那事変を含む)下の軍用郵便施設』を含め逓信当局の記録が全く存在しません。38年6月になって江蘇省徐州で120局が開設されましたが、こちらは半年前に高雄で開設された野戦局とは全く別の存在です。ただし両者の日付印は同じ特徴を持ち、台湾でのものが徐州で流用されたことが分かります。121、122局は平海作戦以外では開局されませんでした。

(本稿で平海作戦についての記述は主として井本熊男『支那事変作戦日誌』(1998年、芙蓉書房出版)に拠りました。同書ではこの作戦名を単に「南支作戦」と表現しています。また、よく知られている満州の第5軍は平海作戦の第5軍とは全く無関係で、39年5月に関東軍隷下で編成された同名の別部隊です)
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2017年03月27日

熱田丸が扱った軍艦郵便

金剛-2.jpg金剛-1.jpg日露戦争後の日本海軍最高のエースとなる超弩級巡洋戦艦「金剛」を引き取るため、1913(大正2)年に発注先の英国へ赴いた回航員の軍艦郵便です。ヤフオクでつい最近入手したばかりです。

これは日本郵船の欧州航路客船「熱田丸」の絵はがきで、菊紫色1.5銭切手に欧文「TSURUGA 10.5.13(敦賀局 大正2年5月10日)」のゴム印が押され引き受けられています。発信アドレスは「横浜局気付 軍艦金剛」です。紫色の角枠「軍艦郵便」印も敦賀局で押されたと見られます。

大正2年2月4日付の「海軍公報」には海軍省内の金剛回航員事務所を閉鎖し、以後の事務を日本郵船会社の熱田丸船内で扱うことと熱田丸の航路予定記事が載っています。同時に熱田丸船上の回航員との間で軍艦郵便を「横浜局気付 軍艦金剛」のアドレスで開始することが告知されました。

「金剛」は当時、英ビッカース社が西海岸のバローにある造船所で建造中で、進水の寸前でした。副長の正木義太中佐(到着後、正式引き渡し直前に事故で交代)が全乗員の半数に当たる約600人の回航員を引率し、13年2月12日に横浜出港の熱田丸で英国に向かいました。

熱田丸はシンガポール、スエズ経由で4月9日、ロンドンに着きます。4月17日にバローに入港し、「金剛」に船体を横付けして回航員を移乗させました。試運転などの手続き完了後、「金剛」は8月16日にビッカース社から引き渡され、日本海軍の軍艦旗が掲げられました。

防衛省保存・アジア歴史資料センター公開の「金剛」回航関係資料により、このはがきの発信者は機関中尉で、文面からバロー到着直後の発信のようです。他の回航員の郵便物と共に閉嚢に収められてロンドン経由ヨーロッパからシベリア鉄道でウラジオストクまで運ばれ、日本海を敦賀に渡ったのでしょう。

「金剛」という軍艦は8月16日の正式引き渡し以前には存在しません。船体のあるバローには英国側との折衝や技術習得などに当たるため艦長の中野直枝大佐以下少数の要員が先発していました。しかし、こちらには軍艦郵便は適用されず、英国の郵便しか利用出来ませんでした。

軍艦郵便を適用された回航員は熱田丸が乗艦だったので、この軍艦郵便は軍艦ならぬ商船熱田丸が取扱いを指定されたと考えることもできます。商船が軍艦郵便を単に輸送しただけなら無数の例がありますが、「商船扱い軍艦郵便」が堂々と実施された例はあまり聞きません。

明治海軍は英国を初めヨーロッパ各国に何隻も軍艦を発注したり買収したりしています。これらの回航員は少数だったり海軍自身の軍艦で運ばれました。客船での大量派遣は「金剛」が初めてだったでしょう。35.6センチ連装砲4基、排水量27,500トンという大艦巨砲主義そのものの巨艦だったからこそのことでした。

「金剛」以降の主力艦はすべて国産化され、回航員を大量派遣すること自体がなくなっていきます。結果として、商船熱田丸が扱ったこの軍艦郵便は極めて希少な使用例となりました。
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2017年03月23日

国籍を書かず還付処分

白系露人-1.jpg白系露人-2.jpg臨時郵便取締令スタートから半年足らずの1942(昭和17)年3月に東京から上海に宛てた封書です。

検閲で「相手の国籍が書いてない!」とチェックされ差出人戻し。国籍を書き加え、切手も貼り直して再投函し、やっとのこと配達された、戦時下ならではの涙ぐましい現物です。

米英を相手に乾坤一擲の戦争準備が進められていた41年10月4日、信書の検閲を合法化する臨時郵便取締令が施行されました。取締令は細則で、郵便差出人は「自己又ハ受取人ガ日本人ニ非ザルトキハ」その国籍明記を義務づけていました(昭和16年逓信省令第108号)。

取締令の本来の目的は、戦争遂行上で致命的に重要な防衛情報が外国に漏れるのを防ぐことにありました。送・受信者が日本人かそうでないか、外国人だとしたら敵性国か友好国人か、は検閲上の重要なポイントだったのです。しかし、「国籍明記」など日本郵便史上で初めてのことです。初期はこうした「違反書状」が多発したことでしょう。

改めてこの封筒を詳しく検討すると、書状の送達をめぐって次のような経緯が浮かび上がってきます。このうち3~8の過程が検閲体制下でなければ起きなかった「異常事態」です。結局、この書状は差出人と東京中央局の間を往復させられ、到着まで10日間近くを空費したことになります。

 1、昭和17年3月21日ごろ差出人が赤坂局ポストに投函
 2、赤坂局で取り集め、引き受けて東京中央局に逓送
 3、中郵局で検閲課に回り、検閲官が開封検閲し、受取人の国籍記載漏れに気付く
 4、検閲官が表面右下部に鉛筆で「国籍不書」と書き込み、左辺の開封部を検閲封緘紙で
   再封し、上辺部切手左側に「還付」付箋を貼り付ける
 5、赤坂局を経て差出人に差し戻し
 6、差出人はめげずに封筒左下部に「白系ロシア人」と万年筆で書き込み、封緘紙の一部に
   かかるように東郷4銭切手を再度貼り、「還付」付箋をはがして3月30日に再投函
 7、赤坂局で取り集め、再度貼られた切手を抹消して引き受け、東京中央局に逓送
 8、中郵局検閲課は国籍記載済みと検閲封緘紙の封緘状況を確認し、再開緘せずにパス
 9、中郵局から長崎局経由で中国上海局に逓送
 10、上海局で4月10日に到着印を押し、受取人に配達

取締令下で外国郵便の差出は、切手は貼らずに添えて窓口に持ち込むのが原則ですが、「満洲国」と中国(日本軍占領地区)宛てに限りポスト投函が認められていました。窓口持ち込みだったら最初から国籍不記載を注意され、こんな騒ぎにはならなかったでしょう。両国は日本の「友邦」であり、日本人同士の通信が圧倒的に多かったための優遇策が仇となりました。

東京中郵で貼り付けた付箋は再投函のさいに剥がされ、残っていません。恐らくは「臨時郵便取締令ニ基ク左記ノ命令違反ニヨリ差出人戻シ 二重封筒/国籍記載漏レ/通信文手書」といった趣旨が印刷された外国郵便専用のものだったでしょう。「国籍記載漏レ」に○を付けるか、他の2項を抹消して使います。

二重封筒違反はありふれたものですが、「国籍記載漏れ」「通信文手書」は少なく、とくに後者の実例をGANはまだ見たことがありません。タイプライター打ちの文章の方が手書きを判読するよりは検閲の効率がよいということでしょうか。よく分からない規則です。
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2017年03月21日

秘密局廃止後の郵便交換

会寧.jpg満州の朝鮮国境に近い間島地区の中心都市・龍井村(龍井市)から日本・東京宛ての中国ジャンクはがきです。

料額印面の1.5分にジャンク半分切手を加貼りした2分は当時の内国料金と同額です。中国・龍井村局が民国15(大正15=1926)年7月4日に引き受けています。名前から、発信者は間島で大多数を占める朝鮮人移住者のようです。

このはがきは中間地の和龍を経て翌5日に豆満江(図們江)を朝鮮側に渡りました。沿岸の朝鮮・会寧局に引き渡され、中継印の欧文「KAINEI」印が押されています。龍井村-会寧の日中間を1日というのは、非常に効率の良い郵便交換を示します。その先は清津港などから日本海を新潟に送られたのでしょう。

会寧局が龍井村局との交換局となったのは1923(大正12)年1月1日のことでした。この日から新しい「日支郵便約定」が実施され、郵便交換が始まったからです。同様に、朝鮮・慶源局も中国・琿春局との交換局に指定されています。会寧、慶源両局の欧文印はこの日中郵便交換のために導入されたものです。

実は、龍井村-会寧間、琿春-慶源間の郵便ルートは日支郵便約定以前からありました。しかし、その時代は、朝鮮総督府逓信局が龍井村に間島局、琿春に慶源局分室を開設し、朝鮮逓信局の職員が国境を越えて郵便物を運んでいました。中国側の許可もなく中国領内に設けた秘密の郵便機関、逓送路でした。

中国には清朝末期から帝国主義列強の郵便局が多数開設されており、中国(中華民国)政府が強く抗議していました。中国の主張は第1次大戦後の新国際秩序を形成する1922年のワシントン会議で認められ、すべての在中国外国局の22年末までの撤廃が「決議第5号」として採択されました。

これにより、日本も秘密局を含む在中国局を廃止せざるを得ませんでした。ただし、日本は関東州と満鉄付属地の郵便局所は決議にある例外規定に該当すると主張して撤廃せずに残します。例外と認めない中国との間で対立し、解決しないまま1945年の敗戦まで引きずり続けました。

余談にわたりますが、「郵便学者」を自称する内藤陽介氏は『満州切手』(角川学芸出版、2006年)などで、中国内の外国郵便局撤退は九ヵ国条約で取り決められたと繰り返し述べています。しかし、条約にそのような文言は全くありません。しかも日本の批准は1925年なので時期も合わず、ダブルエラーです。同書(p.98)から典型的な一例を示します。
この条約は、日本が第一次大戦中に獲得した山東省の権益を放棄させられたことで有名だが、郵便に関しても重要な取り決めが行われている。すなわち、中国国内におかれた外国郵便局の撤退である。
内藤氏が一定の力のある郵趣家のため、この誤記の影響が多方面に及んでいます。たとえばこの本の翌2007年に出版された山崎好是『郵便消印百科事典』(鳴美)も内藤氏を全面的に信じたばかりの「被害者」の一書です。「中国の郵便印」(筆者注:正確には「在中国局の郵便印」)の解説の中で、次のように記しています(p.528)。
中国に設置された郵便局は、ワシントン会議で結ばれた9ケ国条約により、大正11年(1922)12月31日限りで全局が閉鎖された。
九ヵ国条約は以後の中国の主権尊重・機会均等をうたった一般的な精神規定であって、現況の具体的な実務の改善や問題解消を取り決めたものではありません。この「学者」さんは、わずか9条の条約本文にすら目も通さずに「学芸書」を書き上げる手の人だとGANはニラんでいます。

在中国局撤廃という新事態で実施されたのが日支郵便約定であり、それを受けた図們江を挟む2地点での中朝郵便交換でした。ただし、この交換の実態は資料不足でよく分かっていません。毎日欠かさず交換したのか、交換地点は川のどちら側か、あるいは、どちらかの局に相手側が出向いて持ち戻ったのか、などです。

会寧、慶源両局が中国側からの交換郵便物のすべてにこのような欧文印を押したのではないことも、残存エンタイアから明らかです。どういう郵便物に押し、それはいかなる割合となるか。これらも今後知りたい問題点です。
posted by GANさん at 01:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日中郵便交換 | 更新情報をチェックする