2017年04月30日

奉天城日本電信取扱所

奉天城.jpgまた電報の話が続きます。これは昭和4(1929)年に滋賀県の近江八幡から満州・奉天に宛てたものです。1週間ほど前、東京で開かれたスタンプショウのブースで購入しました。

宛先は「奉天小西関」とあります。恐らく奉天旧市街を取り囲む城壁の西側に開けられた大小2つの関門のうち小さい方を入った辺りの地域に当たるのでしょう。

右下部に押された配達日付印は「奉天城/日本電信取扱所 4.7.31」で、D欄に「満」が入っていません。カーボン紙でなく仮名タイプで印字されてもいるので「大正4年」はあり得ず、「昭和4年」です。

すると、昭和になっても満鉄線奉天駅から離れて日本局が存続していたのか、という疑問が出てきます。ワシントン会議の決議に基づいて、満鉄付属地外の日本局は1922(大正11)年末限りで全廃されたはずだからです。それとも、しぶとく生き延びた「秘密局」?

日本電信取扱所は単片上でD欄「満」タイプの印影が知られています。D欄櫛型タイプは、この電報のようなエンタイアはもちろん、印影さえ未発表とされていました(日本郵趣協会『日本郵便印ハンドブック』2007年)。しかも、なぜ「日本」なのか、「日本」が付かない普通の電信取扱所とはどこが違ったのか、など運営実態についての論考は出されていませんでした。

日本電信取扱所は1909(明治42)年1月13日に結ばれた日清電信協約に基づく特殊な独立の電信専業機関です。協約は日露戦争中に日本軍が開設した電信事業を整理し、満州の日清両国の電信網を接続させる目的でした。これにより日本の電信業務は満鉄付属地内だけに縮小し、奉天局の大西関、大北門出張所を含む付属地外9局所の電信業務が廃止されました。

その代償として、清国は6個所の清国電報局で構内の一室を日本側に提供し、日本の電信系に発着する和欧文電報に限定した取扱所の開設を認めました。清国局内に設けられた日本局だから局名に「日本」が入るのです。09年3月16日の奉天城、遼陽城、鉄嶺城を始め、長春城、営口旧市街、安東縣旧市街の各所が開設されました。

この事実は、関東都督府が監督官庁である外務省に4半期ごとに報告した政務状況報告書(「通信事務」の部)に断片的に現れます。6取扱所は在外局一斉撤退とは無関係に存続し、1933(昭和8)年に満州電電会社へ業務移管されました。開設地が中国人街の中だったので日本人はそう多くなく、配達された電報も少なかったはずと思われます。
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2017年04月29日

電報配達は軍事郵便で

石家荘-1.jpg日中戦争の初期、日本軍が占領していた河北省の要衝・石家荘に駐屯した主計(経理)士官に配達された電報です。

送達紙の右下部に応急調製されたらしい丸二型日付印「石家荘/電報局 13.6.11」(左書き)が押されています。昭和13(1938)年6月11日に受信・配達されたことを表します。

東京の中野野方町局で午前11時55分に受付けられ、石家荘で午后11時52分に受信されています。わずか半日で海を渡って大陸の戦地にまで届いた、とても早い電報と言えます。内容は弟か息子の進学・受験問題のようです。

届け先名がとても長いのも、この電報の特徴です。片仮名で64字もあり、本文27字の2倍をはるかに上回ります。漢字に直すと、「石家荘駐屯 北支派遣軍 下本部隊気付 海老名部隊 沢木部隊 主計少尉 笠原チヅル」です。「石家荘駐屯」以外は普通の軍事郵便アドレスと同じ表記法です。

送達紙は満州電電会社のもので、日付印に昭和年号が使われていることから、中国局ではなく日本軍が管理する電報局です。職員が撤退した中国電報局を接収し、満州電電に業務の再建・運営を委託したのでしょう。日本の軍人と在留民の邦文電報に限ったサービスだったと思われます。

石家荘-2.jpg石家荘-3.jpg日中間を結ぶ電信は、日中戦争の以前から芝罘-大連間、青島-佐世保間、上海-長崎間の海底電線3線が敷設されていました。この電信は内地から佐世保経由で青島に送られ、青島で軍用電信線に接続されて北京経由石家荘に送信されたようです。

配達に使われた封筒(左図)も残っていて、興味深いことに「市内軍事郵便」扱いになっています。部隊宛ては電報局で直接配達せず、軍事郵便に託す決まりだったのかも知れません。この電報局は軍事郵便を差し出す権限のある軍衙(軍事官庁)扱いだったことが分かります。

封筒の宛先は漢字で書かれています。片仮名で受信したのに漢字になっているのは、電報局に極秘扱いの部隊配置表が渡されていたからに違いありません。こうなると、表面に押されている検閲者の赤色認印「宮本」は、電報局の課長や主任ではなく、派遣されていた監督将校の可能性もあります。

結果として、この時期の石家荘電報局は限りなく「野戦電信局」に近い性格と言えそうです。38年8月以降、この局は日中合弁の華北電電会社に移管されて中国の石家荘電報電話局となります。満州電電が扱った華北電報は38年前半の短期間だけと考えられます。
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2017年04月28日

たった20日間の欧文印

寛城子-1.jpg寛城子-2.jpg中国天津からパリ宛てカバーです。菊10銭をTIENTSIN 2局1907(明治40)年10月10日の金属印で抹消して引き受けられています。天津2局とは、天津・紫竹林の日本領事館内に開設された天津局紫竹林出張所を表します。

到着印はありませんが、満州・寛城子日本局(所在地は孟家屯)の中継印が封筒裏面に押されています。「KUANCHENGTSU(寛城子)07年10月13日」の欧文黒色ゴム印です。天津から恐らく塘沽-大連間を航送されてわずか3日で到着しています。

日露戦争で日本はロシアに東清鉄道南部支線の南半分を割譲させ、南満州鉄道(満鉄)としました。さらに07年7月、ロシアと満州鉄道接続協約を結んで満鉄線北端の孟家屯駅から軌道を延伸し、ロシア側南端の寛城子駅に接する西寛城子駅を作ります(下の概念図参照)。

これにより、戦争で切断されていた南部支線がkuanchengtsu.JPG日露両線に分かれながらも再接続されました。ただし、ロシア側(東清鉄道)が広軌なのに対して日本側(満鉄線)は日本の列車が走れるよう狭軌に改築したので、双方の列車が互いに乗り入れることはできません。

鉄道の接続に伴って郵便交換も協定され、前年の敦賀-ウラジオストク間に続いて寛城子局とロシア鉄道郵便局との間でも交換が始まりました。実際の交換開始期日はこれまで不明だった(Swenson, I.S.J.P V61-N4, 2006)ようですが、GANの調査では07年10月1日からです。

外務省外交史料館が保管する資料から寛城子の日本領事館07年10月1日発外務大臣宛て第60号電報が見つかりました。「万国郵便条約ニ拠ル東洋欧州間外国閉嚢郵便物ノ交換ハ当寛城子支局ニ於テモ取扱フコトヽナリ本日ヨリ事務ヲ開始セリ」とあります。

この資料のおかげで、「KUANCHENGTSU」という特異な綴りを持つ欧文印は日露郵便交換のために導入され、この日から使われたことが分かります。専ら欧州発着便の内の一部郵便物に押されたのでしょう。この書状のように北清(華北)や満州、朝鮮からの郵便物は寛城子局で閉嚢に締め切ることになっていました。

寛城子長春関係図.jpgところが、寛城子局は交換開始直後の10月21日にまだ計画線だった吉林長春鉄道の起点となる長春駅の付属地に移転し、「長春局」と改称されます。長春市街地の北端部に位置して寛城子駅に近く、日露郵便交換にも便利だったからでしょう。

これにより、郵便交換用の欧文印も新しく「CHANGCHUN(長春)-S」に変わりました。「S」はSTATION(駅)を表すとされます。「KUANCHENGTSU」印は10月1日から20日間使われただけで終わりました。櫛型欧文印としては最短命でしょう。

寛城子、孟家屯、長春各駅と寛城子、長春局のだいたいの位置関係をに概念図として示します。満鉄線が長春駅まで延長されると、東清鉄道はこの図のように長春駅北側に接して引込線ホームを作り、日露郵便交換もここに移りました。孟家屯-西寛城子間は廃線となりました。

これまでに見つかっている10点足らずのKUANCHENGTSU印はすべて欧州発着郵便物への中継印ばかりで引受印はありません。孟家屯は「ド」の付くような田舎集落で、国際郵便を利用するような常住者はいなかったはずです。この印で切手を抹消して引受けられた郵便物は限りなくゼロに近いでしょう。特異な使われ方をして悲運に終わった郵便印です。
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2017年04月20日

4銭貼りは何のため?

莫干山.jpg第1次大戦中に旧ドイツ租借地を占領した日本軍野戦局から発信された絵はがきです。ヤフオクで昨年入手しました。

在外局用の菊4銭切手が貼られ、青島野戦局で大正6(1917)年8月11日に引き受けています。隣り合って中国印も押され、8月14日に天津府局が中継したことが分かります。この間は日本軍が占領していた山東鉄道(膠済鉄道)で運ばれたのでしょう。日中間に安定的な郵便交換が成立していたことを表しています。

菊や田沢の4銭貼りで欧文の宛先が書かれたはがきはよく見る例なので見過ごしがちですが、この宛先MOKANSHANがクセモノです。漢字で「莫干山」は中国浙江省杭州の西北方にある別荘地で外国局など全くない場所、つまりこれは中国国内発着の郵便なのです。

このはがきには問題点がいくつかありますが、最大の問題は中国内国郵便になぜ4銭というUPU料金が適用されているのか。日本の在外局から中国内地宛てなのに、日清郵便約定に基づく中国切手による料金分の「貼り替え」をしていないのも問題です。

当時の日本発中国宛てはがき料金は1.5銭でした。中国郵政の内国料金も1.5分で同額です。本来ならこのはがきも1.5銭で済みそうに思えますが、発信者は何のために余計な料金を支払ったのか--。(ここはGANの勝手な都合で、誤って過払いしたのではない前提で話を進めます。)

実は、このはがきが発信される前の17年3月に、日本軍が占領した青島など旧ドイツ膠州湾租借地と山東鉄道地域について、日中間で郵便と電信の連絡交換協定が結ばれていました。正式なタイトルはとても長いのですが、俗に「日支山東通信連絡協定」と呼ばれます。

協定は全文わずか4条の簡単なもので、郵便事務は1905年のドイツ中国間郵便協定を当分は適用する、と定めています。これを現地でさらに具体化した協定として、17年10月に全5章、延べ36条の詳細な細則と付帯文書が締結され、翌11月1日から実施されました。

細則では旧租借地から中国内地宛ての郵便料金は「日本切手により日支間現行料金で」支払うことになりました(第1章第3条第1項)。これによれば、このはがきは1.5銭が正解ですが、発信されたのは細則の実施より2ヵ月以上前、まだドイツ料金が準用されていた微妙な時期です。

それではドイツ領時代の青島発中国内地宛て料金はいくらだったのか。日本と同じように、ドイツ内国料金並みの1.5プフェニヒ特別料金か、それともUPU料金の4(または5)プフェニヒだったのか。独中郵便協定には具体的な料金率が明示されていず、分かりません。

この問題は、今後ドイツの郵政資料を調査することにより、あるいは同時期の似たような使用例が出現することによって解決されるでしょう。それまでGANは、「ドイツ料金が暫定適用された短期間だけの希少な使用例」として大威張りすることにしています。もちろん、料金過納の可能性などは間違っても言いません。

ところで、第2の問題点、貼り替えがない理由は簡単です。独中協定で膠州湾租借地ドイツ局発中国内地宛て郵便物はドイツ切手のみで有効とされていたからです(第4条)。日中協定にも引き継がれたので、他の在中国日本局とは異なって山東の日本局だけは貼り替え不要となりました。

(この記事については、飯塚博正氏から多大なご教示を得ました。)
posted by GANさん at 15:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日中郵便交換 | 更新情報をチェックする