2017年05月31日

飛行はがきを被災者に撒く

日航-2.jpg分銅1.5銭はがきに「日本航空株式会社扱/飛行郵便」と76㎜もある大型紫印が押されています。1923(大正12)年の関東大震災の際、被災者支援のために日本航空会社が機上から散布したものです。ヤフオクで入手し、今日届きました。

日本航空は川西機械製作所などを経営する大阪の大実業家・川西清兵衛が1923年6月に設立した航空会社(キャリア)です。大阪・木津川河口に基地を置いて海軍から払い下げを受けた横廠式水上機5機で大阪-別府間の定期飛行を運営していました。俗に「川西系日本航空」と呼ばれ、今日の日航(JAL)とは全く関係ありません。

9月1日の大地震で京浜地方が壊滅し、一切の交通・通信が途絶すると、大阪朝日、大阪毎日の両新聞社は東京への取材記者の送り込みを策しました。両社とも日本航空に飛行を依頼、2日正午に横廠式2機が大阪を発ちます。途中1機が静岡県江尻(清水港)に不時着しましたが、もう1機は夕方に東京・品川沖に無事着水できました。

日本航空の両機はすぐ帰阪はせず、以後18日間にわたってボランティアで品川-江尻間を往復して被災者の郵便を空輸しました。飛行士の手記によると、大阪ではがきや鉛筆を買い集めて送らせ、東京市内各所に石油箱をポスト代わりに置いて郵便を集めました。江尻で応援の従業員と共に宛先を県別に分けて江尻郵便局に引き渡したといいます(小森郁雄『航空開拓秘話』所載)。

日航-1.jpgその間の9月6日、大阪から運んだ官製葉書1万枚を、多数の被災者が避難していた大森海岸上空で機上から散布しました。はがきには日本航空が無料の飛行郵便として運ぶことを示すスタンプがあらかじめ押されていました。無一物の被災者には大変感謝され、無名の関西の航空会社の名前も多少は広まったことでしょう。

このスタンプは封筒に押されたものも発表されているため、大森海岸散布の事前押印か、取り集め後の押印か、これまでは判定が不能でした。今回の未使用はがきの出現により、表面の右上部にまっすぐに押印されているはがきは「大森もの」と断定できることになりました。

その一例を左図に示します。散布の翌7日に大井からの発信で、日付印は不鮮明ながら「静岡・江尻 12年9月9日」と読めます。地理的には、東京湾奥の西岸に沿って品川の南が大井、そのさらに南が大森という関係になります。

このはがきでは宛先が「飛行郵便」の印を避けてその左側から書き出していることからも、印の方が先に押されていたことが明らかです。スタンプは大阪で複数個調製し、運行していた東海道線で社員がはがきと共に江尻に持ち運んだのでしょう。
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2017年05月28日

飛信逓送タダじゃない

飛信逓送.jpg明治初期、公用緊急通信の急送手段として「飛信逓送」という制度がありました。郵便局というハードウエアを利用して書状を送達するので郵便の一部と考えられがちですが、GANは郵便の範疇には含まれない別制度と考えています。飛信逓送の性格を正面から論じたら興味深い大論文ができそうですが、ここは措いておきます。

ただ、性格論と関連する根本問題として、2点を問題提起しておきたいと思います。「飛信逓送は無料の軍事郵便」が「定説」とされていることです。直近では『ビジュアル日本切手カタログ 第4巻』(日本郵趣協会、2015年)にもそう書かれていますが、誤りです。飛信逓送は無料ではなく、軍事郵便でさえありませんでした。

飛信逓送は、特定の公用書状を「脚夫」(ランナー)が昼夜兼行で郵便局間を継ぎ送りし送達する制度です。利用は非常事態下の官庁(公用)に限られ、私用には使えませんでした。郵便切手は使わず、経由する郵便局ごとに「飛信逓送切手」が渡されて飛信書状であることを証明しました。

日本郵趣協会(JPS)は1974年に始まる『新日本切手カタログ』の時代から今日の『日本切手専門カタログ』(日専)まで飛信逓送切手を「その他の切手類」として取り上げてきました。前出の『ビジュアルカタログ』はその最新版ですが、その中で1ページを割いた大型コラム「飛信逓送切手」(p.44、上図)としてこの制度を次のように紹介しています。
飛信逓送はこのような非常事態(士族反乱や農民一揆=筆者注)に際し、緊急の書状を逓送するために、1874年(明治7)に制定された無料の軍事郵便で、……
ところが実際には、この制度を利用できたのは正院(今日の「内閣」に相当)、外務省、内務省、大蔵省、工部省、司法省、宮内省、開拓使、陸・海軍省、各地鎮台・営所と各府県庁でした。陸・海軍省と鎮台・営所以外はすべて軍事と無関係で、むろん、軍隊の運用権はありません。

暴動などが起きた場合、まず鎮圧に当たる警察の指揮権は内務省にありました。どの国の政府でも、軍隊の治安出動は警察力で対応しきれなくなった場合に限られ、あくまで2次的な想定です。制度の利用者、実際の運用の両面から言って、この制度の目的は広義の治安維持にありました。軍事関係者だけに利用を限定してはいず、軍事郵便ではありません。

次に、飛信書状を運ぶ「脚夫」は経由する各局でそのつど部外者を手配するため、脚夫に労賃を支払う必要がありました。局で立て替え払いしておき、後で駅逓寮(郵便所管官庁、10年1月以降は「駅逓局」)に飛信逓送切手を提出して清算する仕組みでした。つまり、利用のたびにコストが発生し、それを駅逓寮が負担する有料の制度です。

この駅逓寮負担は会計原則から言って不合理な処置でした。大蔵省の提議に基づいて、西南戦争のさ中の明治10年7月以降は「各廳ニ於テ飛信ヲ要シ候節、右逓送費ノ儀其廳經費中ヲ以支拂候儀ト相心得」よ、と通達されました(10年8月24日正院達第59号)。脚夫賃は利用した陸・海軍省や内務省などの受益者負担と改められたのです。このように、飛信逓送が無料というのは全くの誤解です。

JPSは1974年に最新の郵趣研究成果を集大成した極めて意欲的な『日本切手百科事典』を刊行しました。その中で「飛信逓送切手」が詳説され、制度について以下のような説明があります(p.209)。筆者として天野安治氏の名が記されています。
不平士族の反乱、農民一揆など明治初期の反政府暴動に対処するために制定された公用の無料軍事郵便で、……
論拠となる出典は示されていず、天野氏の考えと解されます。我が国郵趣界最高権威のこの誤認記事から問題が始まります。『新日本カタログ』は翌1975年版にさっそく天野氏の新説を取り入れ、「飛信逓送は公用の無料軍事郵便」と全面的に書き換えました。このカタログの74年版までは「(飛信逓送は)公用郵便物の特別送達」と書かれていました。「無料」と「軍事」はなく、正しい説明だったのです。

『新日本カタログ』はその後『日専』に発展しましたが、以後えんえん40数年間、天野氏のこの記事は丸写し続けられました。最初の方で示した『ビジュアルカタログ』のコラム記事も、もちろん天野氏記事が祖型です。この間、JPSのカタログ筆者らが根拠となった記事を見直したり精査した形跡は全く見られません。

そもそもJPSが発行する近年のカタログ類には編集・出版上の定見がありません。目立つのは明らかな事実誤認や校閲上の単純ミスばかりです。コレクター仲間の評判が、はっきり言って、とても悪い。営業上の困難は理解できるのですが、一貫性を放棄して縦横無尽にブレまくったり権威に盲従して先人の遺産を食い潰す弁明にはなりません。飛信逓送「問題」は氷山の一角です。

創業理事長を務めた水原明窻氏亡き後、責任ある統括者、監修者がいないのが原因とGANは見ます。名目上の理事長や「責任者」が、あるいはいるのかも知れません。「水原氏並みに」とまでは言いません。少しは使命感と、わずかでも意欲の見える出版物を出してほしいものです。

追記(2017.12.10)今年のJAPEX会場で発売された「日専」の後継カタログらしい『日本普通切手専門カタログ 戦後・ステーショナリー編』で、この記事で「無料の軍事郵便」は誤りと指摘した部分が改訂されました。新しい解説では「……反政府活動に対処するため、……公用の郵便制度が設けられ……」となり、従来の版よりは正しくなっています。
posted by GANさん at 13:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑観・雑評 | 更新情報をチェックする

2017年05月27日

湯崗子分室エラー印

湯崗子分室.jpg本日届いたばかりのヤフオク落札品です。満洲屈指の温泉地として戦前日本人に愛された湯崗子温泉の絵葉書に「満洲国」の4次通常荷馬車2分切手が貼られ、鞍山郵政局湯崗子分室で康徳7(1940)年7月3日に引き受けられています。

湯崗子は夏季限定のいわゆる季節局(定期開設局)です。日本時代は出張所でしたが、康徳4(1937)年に満洲国に移譲のさいに分室に改定されました。委譲後の印影をGANは初めて見ました。

荒井国太郎氏や田中清氏らの各種報文などでもこの印影は紹介されていなかったと思います。穂坂尚徳氏の力作「『満洲国』の消印と使用状況」(『日本郵趣百科』1985年版所載)には詳細な分室一覧表がありますが、なぜか湯崗子分室は洩れています。しかし、移譲は間違いなく、康徳4年12月1日の交通部佈告第329号に掲載されています。

湯崗子出張所印.jpg湯崗子.jpg日本時代の日付印(左図の左)はA欄出張所名、D欄本局名だったのですが、満州国(左図の右)ではA欄本局名、D欄省名(奉天)で、分室名はE欄に表示されています。このE欄に分室名が入る「分室型」印はこれまでに数局が知られています。

湯崗子拡大.jpg湯崗子分室の印影で面白いことは、肝心の分室名が左書きのエラーになっていることです。D欄の上部三分の一ほどが出ていませんが、3文字中の左は「湯」、右は「子」です(右図)。どう見ても、その逆ではありません。C欄時刻が左書きなので、それに釣られてうっかり誤刻してしまったのかも知れません。
posted by GANさん at 22:55| Comment(1) | TrackBack(0) | 郵便印 | 更新情報をチェックする

2017年05月12日

懲りないニセ南洋印

サイパン兵站3.png昨秋、2016年10月2日の記事でテニアンの空中楼閣的なニセ消印について書きました。同じ偽作者が懲りもせずに今度も南洋サイパンのニセ消印を新作して、またヤフオクに出品しています。締め切りまで日がありますが、あまりにも悪質なので敢えて記します。

このニセ印も櫛型印を模していて、上部に「航空兵站」、下部に「サイパン」と左書き(!)で入り、日付は「18.10.17」。櫛型のようなデザインが最上部と日付の下部にあるのが珍妙です。前回テニアンと同じフォントの日付活字を使い回したチープ感あふれるゴム製で、ニセ印はバレバレです。

出品者は「商品詳細」として次のような説明を載せています(原文のママ)。
◆曾祖父が残してくれたものですが、これに付きましては、歴史的符号箇所もそこそこにあるのですが、現時においての言われ等、郵駿諸氏の御洞察を仰ぎたいところです。
◆さてさて、御了承の上、御入札願います。
この人の悲しむべき国語力の貧困ぶりについては、このさい措くとします。許しがたいのは曾祖父という3世代前の人のコレクションだという破廉恥なウソを堂々と書いていることです。「伝世品であり、従って真正品」と誤認を誘い、故人(たぶん)に責任転嫁する逃げ様が卑怯です。

「歴史的符号(日本語『符合』の誤り)箇所もそこそこにあるのです」もまたホラ話。軍事史でも郵便史上でも歴史的事実にマッチする点など全くありません。このようなハンコが使われた実例が他にあるとでも言うのでしょうか。あるなら、ぜひお示し願いたい。謝罪して拙ブログを廃止し、蟄居謹慎いたします。

こんな荒唐無稽な偽造印でも、ネット上では関心を寄せる記事が見られます。「もしかしたら何らかの事情があって現地調達した変種印かもしれない」などと訳知り顔の解説まで現れる始末です。ん? この書き込み、「もしかしたら」偽作者・出品者グループの自作自演だったかな。さもなくばサクラ・ヤラセの類か。ご用心を!
posted by GANさん at 23:20| Comment(2) | TrackBack(0) | ニセモノ列伝 | 更新情報をチェックする

2017年05月08日

郵政移譲示す日満混貼り

奉天隅田町.jpg奉天から吉林に宛てた「満洲国」郵政の書留書状です。日本と全く同じ形式の櫛型印で奉天隅田町局が康徳4(1937=昭和12)年12月13日に引き受けています。

貼られているのは満洲国切手4枚で11.5分と、左から2番目だけ日本切手の5厘(1/2銭)です。これは書状料金4分と書留料金8分の合計額12分に相当します。分は銭と等価でした。料金の支払いに日満両国の切手を混ぜて貼った「混(こん)貼りカバー」ということになります。

満州で日本と中国あるいは満洲国の切手とが1枚のカバーに貼られる混貼り例としては「貼り替え」が知られていますが、それとは本質的に違います。貼り替えは日本切手と相手先切手とで料金を二重払いするものですが、このカバーは両国切手で合算した料金1回払いだけで済んでいます。

2週間足らず前の12月1日、日本は管理してきた満鉄付属地の行政権を満洲国に全面移譲したばかりでした。行政権には、もちろん郵政権も含まれます。日本側の全局は局舎も資器財も日本人職員も、局名まで含めた一切が満洲国郵政の「郵政局」として移管されました。奉天隅田町局もそうした1局です。

郵政移譲に当たり、郵政当局は民間で手持ちされている日本切手・官製はがきの有効期間を3ヵ月と定めました。日本切手は満洲国郵政になっても38年2月末までは有効で、3月から使えなくなるという移行措置でした。日本の切手やはがきなのに康徳年号の消印が押されたものを時に見るのは、このためです。

当然、両国の切手を混貼りした郵便物も期間内なら合法的でした。このカバーも恐らくは収集家か、そうでないにしても移行措置を意識した人が記念のために作ったのでしょう。「普通の民間人が趣味的意図でなく」混貼りしたコマーシャルカバーの例は経験的にまず見ません。郵政移譲を直接示す現物として、これもまあ貴重かと思います。
posted by GANさん at 02:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 「満洲国」 | 更新情報をチェックする

2017年05月05日

モンテンルパへの特便

横山中将.jpg昭和28(1953)年6月12日に栃木局で引き受けた炭坑夫8円2枚貼りの、一見ありふれた印刷物書状です。ただ、宛先の「ヒリッピン モンテンルパ」が目を惹きます。

「モンテンルパ」とは、渡辺はま子の往年の大ヒット歌謡曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」で有名になったフィリピンの日本人戦犯収容所を指します。これは拘禁中の戦犯に宛てた「戦犯郵便」ともいうべき特殊なカバーです。

名宛人の横山静雄氏はフィリピンに派遣された第41軍司令官(中将)として、米軍のレイテ上陸から敗戦時までマニラ首都圏地区防衛の最高指揮官でした。戦後、米軍が開設したマニラ軍事法廷で、マニラ市街戦に多数の市民が巻き込まれ犠牲となった責任を問われました。1949年に死刑判決を受けましたが、未執行のまま4年経過していました。

この封書は「復員局法務調査課気付」でモンテンルパ収容所(正確にはマンティンルパ市にあるフィリピン共和国管理下のニュービリビット刑務所)の横山氏に宛てられています。200グラムの印刷物だと国際料金では25円が必要ですが、この書状は内国印刷物2倍重量料金の16円で済んでいます。

復員局は独立官庁ではなく、厚生省の一局でした。旧陸海軍省の後継官庁として軍人の復員や恩給、戦没者遺族の援護などの事務を取り扱い、現在でも厚生労働省社会・援護局として存続しています。復員局当時、軍事裁判や戦犯に関する事務は法務調査課が担当していました。

モンテンルパへの手紙の英文宛名書きが困難な人が多かったのか、あるいはフィリピンへの郵便輸送が不安定だったためでしょうか。この書状は復員局から定期便で一括して収容所に直送されたと考えられます。あるいは外交行嚢が利用されたかも知れません。収容者たちとの間に何らかの特別な送達ルートがあったことは確実です。

この封書の直後、高位の軍人として受刑者代表になっていた横山氏ら死刑囚を含むフィリピン関係戦犯110人全員は幸いなことにキリノ大統領の特赦を受けました。減刑されて1953年7月22日に帰国し、東京の巣鴨刑務所で服役しました。この年の年末にさらに特赦があり、全員が釈放されて戦後8年ぶりで家族の元に帰ることが出来ました。

横山氏関係の郵便物は数十年前に段ボール数箱分が出回り、先輩収集家の青木四三雄氏が入手して大門会などで収友に分けてくれました。これもその内の1点ですが、このアドレスの郵便物は他にはなかったので、短期間使用だったのかも知れません。見るたびに青木氏の飄々として人懐っこい笑顔が浮かんできます。
posted by GANさん at 02:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 大戦前後混乱期 | 更新情報をチェックする