2017年07月31日

富士山局の開設はいつ?

富士山頂.jpg今から28年前の平成元年(1989)8月1日に富士山頂局は「開局80周年」と称する左図のような小型記念日付印を使いました。これによると、富士山頂局は80年前、つまり明治42年(1909)に開局したことになります。

ところが、これはトンデモな誤りで、実際の開局はこれより3年前の明治39年(1906)でした。丸一印や季節局・特設局・山岳局印などのコレクターにとってはごく常識的な話で、「明治42年」説など何の根拠もありません。

当時GANは東京にいて、この小型印が使われたことは知りませんでした。しかし、10年後の1999年には静岡県沼津市に移住していて、地元紙の「富士山頂局が開局90周年を祝ってイベントを催す」という記事を読んで仰天しました。富士山39年.png富士山頂局の管理は当時既に御殿場局から富士宮局に移っていたので、その担当者に電話しました。

GAN「今年は開局93年が正しい。90年とする根拠は何か」
富士宮局「郵便局の沿革録に明治42年開局と書いてある」
G「だったらそれが誤り。逓信公報に明治39年開局の告示(右図)がある」
局「調べる必要はない。郵政省が認めており、80年には小型印も使った」
G「自分自身の歴史を間違って、恥ずかしくないのか」
局「間違っていない。明治42年開局が郵政の公式見解だ」

郵政民営化の前だったとは言え、何とも傲慢で官僚体質丸出しの職員の言い分でした。GAN以外にも内外から疑問・抗議の声が出たはずですが、当局はすべてほっかぶりです。日本郵政となった2009年には、「開局100周年」イベントまでやったそうです。現代日本官僚の宿痾である歴史無視・軽視体質がそのまま表れています。

確認しておきますが、「富士山」局が開設されたのは明治39年7月30日のことです。富士山吉田口と須走口の登山道が合流する8合目の石積みの山室が局舎でした。登山口の山梨県吉田局が管理し、丸一型「甲斐/富士山」日付印が使われています。シーズン中だけ営業する、いわゆる「季節局」で、9月10日に閉鎖されました。

富士山局.jpg富士山局局長には吉田局長が兼任で発令されました。8月14日にこの局舎で開局記念祝賀会を開き、袋入り3枚組みの記念絵葉書(右図)まで発行しています。しかも祝賀会記念として、この富士山局印を朱色で押印しました。数少ない丸一色変わり印として人気の高い珍印となっています。ヒゲの豊かな顔写真を絵葉書に大きくあしらっているこの局長氏、なかなかの張り切り屋さんだったようです。

翌40年には富士山局は御殿場口頂上に移転して7月16日に開設され、8月31日に閉鎖されました。元の吉田・須走口8合目には同じ7月16日に別に「富士山北」局が新設されています。この年から日付印形式が櫛型に移行したので、富士山局の丸一型印は前年、39年の1回限りとなりました。

以後毎年シーズンになると、頂上に富士山局、8合目に富士山北局の2局が開設されました。太平洋戦争期の休止をはさんで戦後再開された富士山局は「富士山頂」局と改称されて今日まで続いています。富士山北局は1962年を最後に廃止されました。その代わり、1991年になって山梨県の有料道路「富士スバルライン」終点に「富士山五合目」簡易局が新設されています。

ところで、当局が祝う「明治42年」とは何だったのか。この年に富士山、富士山北両局の開設時期を毎年一定の7月20日-8月31日と定める告示が出ています。以後はいちいち開設・廃止を告示しなくなりました。逓信公報の読み方も知らない戦後官僚たちがこれを「富士山局の開設を確定した告示」と誤解した可能性が考えられます。
posted by GANさん at 23:02| Comment(0) | 静岡県駿東郡 | 更新情報をチェックする

2017年07月05日

病院船に託す日赤ルート

日赤02.jpg日赤01.jpgフィリピン(比島)に派遣された日本赤十字社の従軍看護婦に宛てた特別軍事航空往復はがきの返信です。つい最近のヤフオクで落札しました。

このはがきは航空料金往復無料の特別便で、軍属も利用できました。3銭レートで1944年(昭和19)5月12日に新潟・関山局が引き受けています。宛て先の「渡9766部隊」は第14軍に配属された第138兵站病院を表します。「317班」は医師・看護婦からなる日赤救護班チームの番号です。

はがきには、付箋をはがした形跡も「返戻」印や米軍押収印なども全くなく、キレイなものです。比島現地の名宛人に無事に届き、日本内地に持ち帰られたことを物語っています。

宛先のアドレス表記が類例を見ない特異さなのが目につきます。「横浜市山下町 日赤神奈川支部留置/比島派遣……」と書かれています。通常の軍事郵便アドレスは「派遣方面+部隊名」だけなのに、なぜ「日赤神奈川支部」と余計なものが付くのでしょうか。日赤独自のルートで確実に届けるためだった、とGANは考えます。

大戦末期の44年の段階では公用でもない限り、まして陸軍では航空便などまったく利用できなくなっていました。もちろん日赤が管理する航空機などもありません。しかし、敵国にも安全を保障された、氷川丸など一群の病院船がありました。運航権は陸海軍側ですが、スケジュールや乗務について、日赤は綿密な連絡協議を受けていたはずです。

となると、日赤が前線との通信にもこの希少で確実なルートを利用しない手はありません。病院船の連絡・発着港が横浜だったのでしょう。当時の日赤支部長は県知事が務めるのが慣例でした。これらの関係郵便物は神奈川県庁内の日赤支部に集められ、病院船の入港を待って搭載されたと考えられます。

通信文を読むと、「○○の由、一同喜こんでゐます」「南の国から母国迠遙かな波路一路平安なれ」などと書かれています。「○○」は「帰国」でしょう。当時はマリアナ方面で「絶対国防圏」が崩壊し、次は「比島決戦」必至として大本営で「捷1号作戦」が練られていました。激戦を前に、看護婦やタイピストなど女性軍属の優先帰国が配慮されたのかも知れません。

GANの推測に過ぎないこの「日赤ルート」は、まだ実証する資料がありません。しかし、この特異なアドレス表記は以上のような理解が最も合理的です。いずれにせよ、名宛て人は無事に帰国し、受け取っていたこのはがきを持ち帰ったと見られます。なお、本人が勤務していた第138兵站病院(飯田浩造病院長)は「レイテで玉砕」と記録されています。
posted by GANさん at 23:32| Comment(3) | TrackBack(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする