2017年09月30日

高雄局年賀機械印の誤刻

高雄.jpg台湾の高雄局が年賀特別取扱で引き受けた1936年(昭和11)の年賀はがきです。この年から発行されるようになった年賀切手を貼り、台湾だけで使われた年賀用特別図案の入った大型機械印が押されています。

この機械印の図案は、上部に交差した日章旗の中に「謹賀新年」の文字、その下部に椰子の樹と華風楼閣を配し、波間に飛ぶ海鳥がそれらを結んでいます。台湾の新年を象徴する分かりやすいデザインです。内地など台湾以外で使われた「松喰鶴」図案の小型機械印が地味に感じられてしまいます。

台北年賀2.jpgよく見ると、機械印下部の局名や日付などを表す円形のデータサイクル内で、左右の唐草模様が「・」(中点、黒点)で結ばれています。台湾では「台」字を図案化した台湾逓信の徽章を入れるのが本来で、現に同じ機械印が使われた他の1、2等局10局ではすべて正常な逓信徽章入りを使っています(左図)。この高雄局印は従って、エラーです。

戦前に活躍した高名な収集家の藤堂太刀雄氏は当時、植民地も含めた日本の全郵便局(!!)に郵賴して年賀印を集めました。成果の一つとして、この台湾の年賀機械印は全11局で図案の細部がすべて異なっていることを報告しています(『切手趣味』V.13 N.4=昭和11年4月号)。鋳型で大量生産したのではなく、「手彫り」らしいことを示唆しているのです。

高雄データサイクル2.JPG藤堂氏は高雄局年賀機械印の異常な「黒点」は発表しましたが、原因にまでは踏み込んでいません。GANの解釈では、図案部だけでなくデータサイクル部も手彫りした結果と考えます。年賀特別扱の専用印で日付更埴が不要だからです。「高雄」の字体にも「手彫り感」があります。逓信徽章を彫る際に位置の見当として「仮彫り」し、そのまま「忘刻」となったのではないでしょうか(右図)。

ところでこの年賀状、受取人の「戸田龍雄」は「藤堂太刀雄」(筆名)の本名です。裏面は普通の人からで、藤堂氏が郵賴して返ってきたものではありません。切手、消印、練達の筆書き、それらにプラスして消印のエラー。数十年前に入手しましたが、大事にしている一品です。

追記(2017.11.16)近着の台北発行『環球華郵研究』第4期所載の簡宗鈞「台湾日治時期変異郵戳蒐奇」によると、簡氏はこの「変異」の原因を逓信博物館の練習機を持ち込んで臨時使用したため、としています。逓博は逓信講習所ではないかとも思いますが、GANは基本的にこの見解に賛成です。簡氏は特に根拠を示してはいませんが、確認できれば上記した「手彫りによる忘刻」説は撤回します。
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2017年09月17日

神田『野戦局々名目録』

局名録01.jpg局名録02.jpg100年以上前の郵趣の大先輩がまとめた我が国初の軍事郵便研究書を最近のヤフオクで入手しました。1913年(大正2)に神田柳吉氏が自家出版した『野戦局々名目録』です。存在は知られていましたが、実物が世に出たのは、少なくとも戦後は、初めてではないでしょうか。

これは小型の和本で、上質な和紙に活版印刷され紺色の平紐で綴じられています。判型はJIS規格以前の菊判の半裁というのでしょうか、15.6×11.5㎝でA6判とB6判の間です。表紙を除く本文15葉(30ページ)、うち2葉は挿絵です。奥付に「大正2年5月26日発行、発行者・神田柳吉」と記されています。

局名録03.jpg内容は日清・日露戦争と明治36年大演習で実際に使われた野戦局(艦船郵便所を含む)印の局名リストが主体です。附録として、日露戦争の野戦局で使われた朱色と紫色の色変わり印、記念印のリストもあります。日清戦争で20局、大演習の全6局、日露戦争では164局もの局名が挙げられています。

日露戦争の野戦局が全廃された1907年(明治40)からわずか6年後でこれだけの局種・局名を集めたとは、大きな驚きです。神田氏は他にも郵便日附印、記念日附印(特印)使用の公達、特設局開設告示、郵便税消印番号印(記番印)リスト等々を同じ体裁で続々と自家出版しました。日本郵便印・郵便史研究の偉大な先蹤者です。

印刷技術上の制約からか、この本には印影図が採録されていません。代わりに、軍名、日付、局名を2本の区画線で3段に区切って丸二型野戦局印を説明しています(上図左ページ)。神田氏は後にこの本の増補改訂版とも言うべき「野戦郵便局日附印形式及局名」を郵趣誌『郵楽』に連載(1916-7年)し、そこでふんだんに印影写真を載せました。

この本は神田氏の自家出版本の大部分を収めている郵政博物館資料センター(旧「逓博」)にもありません。吉田景保氏の労作『日本の郵趣文献目録』(1973年)にはタイトルなどが採録されていますが、どうも現物は見ていないようです。題名、編者名がやや不正確な上、消印大好き人間だった吉田氏が内容に一言も触れていないのはヘンだからです。

以上のようなわけで、この『野戦局々名目録』は単に稀覯本というだけでなく、GANにとっては先達の足跡をたどる上で欠かせない第一着の文献です。大事にしたいと思います。
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2017年09月15日

タイ回収領土の軍務知事

Chiengtung-1改.jpgChiengtung-2改.jpgeBayに出品された全文タイ語のカバーに柄にもなく手を出して落札、今日届きました。1文字も知らない外国語なので、次の第2-4段目は出品者による説明を丸写ししたものです。

ビルマ領シャン地方南東部を第2次大戦中に隣国タイ軍が占領して設けた「統合旧領土(Saharat Thai Doem)軍政府」の軍務知事に宛てたタイ軍の公用機密軍事郵便です。

封筒表面中央上部の楕円印は「機密」、角枠印は「至急」を表します。最上部左端のアラビア数字などは文書番号と発信日付ですが、タイ官庁の通常の形式と異なるため、解読できません。裏面はタイ国防省の「陸軍機密」専用シールで封緘されています。

このカバーには一切の郵便印がありません。陸軍のクーリエ(伝書使)によって配達されたと見られるので、厳密には「郵便」とは言えません。明記されていませんが、発信者は同じシャン地方に進出していた陸軍官庁の出先機関か部隊でしょう。国防省のある遠いバンコクから発信された書状なら必ず郵便が利用されたはずだからです。

第2次大戦中のタイは日本軍制圧下で巧妙な二股外交を繰り広げていました。日本と軍事同盟を結んで連合国(英米側)に宣戦する一方、有力な王族や軍人・政治家グループがその連合国と密かに連絡を取って日本軍情報を流し、連合軍スパイの潜入を助けました。離反常ならぬタイの歓心を買うのに懸命な日本は、過去にタイがイギリスなどに蚕食された失地回復の支援を図ります。

そのため、日本は占領下のタイ旧領、マライ北部4州とビルマ領シャン2州をタイに譲りました。2州とはケントン州とモンパン州で、サルウィン河(怒江)左岸のタイ領側にあります。タイ国軍の東北軍は1942年5月に日本軍のビルマ侵攻に合わせて2州を含むシャン地方南東部を占領していました。1943年8月20日にバンコクで日泰間の条約が調印され、2州のタイ編入が承認されます。

Phin_Choonhavan.jpgタイは回収した旧領2州に軍政を敷き、中心の町・ケントンKengtungに統合旧領土軍政府を置いて統治しました。軍政府トップの軍務知事には東北軍第3師団長だったピン・チューンハワンPhin Choonhavan将軍(右写真=英文Wikipediaより引用)が任命されました。このカバーの名宛人で、後に元帥に昇進するタイ陸軍の実力者です。戦後、この統合旧領土はビルマに返還させられました。

当時のケントン州やモンパン州は少数民族が居住する未開の山岳地帯でした。戦前でもビルマ郵政が有効に機能していたかどうか明らかではありません。まして戦時下での主権移動という大混乱期なので、郵便は事実上ないも同然だったでしょう。このカバーはそんな歴史的状況を後世に伝える得がたい史料となっています。
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2017年09月14日

満州国が軍人用はがき?

gg.png「偽満州国の軍事郵便はがき」という触れ込みで、怪しい櫛型印を押したブツが9月17日終了のヤフオクに出品されています。出品者の説明によると、通常はがきと同じ大きさの紙片の表に暗黄褐色で左図のように印刷されているそうです。

中央に大きく、交差させた歩兵銃の下に「軍人専用」の文字のある軍帽が白抜きで描かれ、この図案の上部に「満州帝国軍事明信片」、下部に「康徳十一年・新京」の文字があります。「明信片」は中国語で郵便はがきを、康徳11年は「満州国」年号で1944年を意味します。

裏面は白紙で、中央部に下図のような朱印1個だけが押印されているといいます(裏面全体の画像はありません)。一見して日本の関東逓信局が設置した鳳凰城局の大正5年(1916)か昭和5年(1930)の日付印のような形式をしています。

xx.pngところが、出品者はなぜかこれを「偽満洲国で発行されたはがきに中華民国25年の押印」と説明するのです。民国25年は1936年に相当します。満州国のはがきに日本局の日付印というのに、なぜ突然中華民国の年号が登場するのか。「25」や「1936」などという数字があるわけでもなく、根拠不明です。

仮に民国25年とすると、1936年に鳳凰城局の日付印を押した用紙を保存しておき、8年後に「軍事明信片」などの印刷をしたことになります。あり得ない時間の逆転です。恐らく出品者(=製作者?)は「康徳年号に14を加えると民国年号」と誤って思い込み、印刷の「康徳11年」に合わせたつもりなのでしょう。実際には、14を加えると民国年号になるのは昭和年号なのです。

ニセモノと断定できる決定的証拠は、A欄の「鳳」とD欄「満」が簡体字であることです。簡体字は戦後成立した新中国で1956年に中国人民の知的向上を図って採用された新字体です。日付印の「5」が大正でも昭和でも、あるいは民国や康徳年号であろうと、戦前にこの「鳳」「満」字体は決してあり得ません。また、明らかなゴム製印ですが、満州の和文印にゴム製は存在しません。

そもそも満州国でこんなヘンテコな「はがき」など発行された事実自体がありません。では、この空中楼閣的偽造品はだれが作ったのか。製作者の正体は「語るに落ちる」です。簡体字以外の字体の存在さえ知らない夜郎自大ぶり、特有の「偽満洲国」という表現。--この2点から中国人、それも新中国で生まれ育ち歴史問題に全く無知な中国人の仕業であることが明らかです。

追記(2017.09.18) この品は9月17日夜の締め切りでしたが1人も入札がなく「不落」でした。しかし出品者(製作者?)は直後に臆面もなく再出品しています。ヤフオクには自動再出品のシステムがあるので、カモが食い付くまで繰り返すつもりなのでしょう。公開されている「悪い」評価のやりとりを見る限りでは、出品者はちょっとアブナイ人のようです。
posted by GANさん at 00:21| Comment(0) | ニセモノ列伝 | 更新情報をチェックする