2017年10月31日

朝鮮駐屯の軍人無料為替

猪島.jpg日露戦争で日本軍が占領・駐屯した朝鮮には前進する野戦局の業務を引き継ぐため、併合以前から日本の普通局が次々に開設されていきました。ただ、野戦局の軍事郵便為替は普通局では取り扱えない規則だったため、「軍人無料為替」という便宜的な措置が講じられました。1904年(明治37)5月逓信省令第37号で定められています。

指定された普通局で軍人・軍属が振り出す通常為替の為替料(振出手数料)を無料とし、一般では上限のある振出額を無制限とするものです。為替証書は振出局で調製して受取人に直送しました。この点が為替貯金管理所が調製して送る軍事郵便為替と大きく異なります。野戦局から管理所に振出を依頼する手間と時間が省け、早く届きました。

開戦3ヵ月後の04年5月15日にまず京城、仁川両局で取扱が始まりました。以後、軍隊の駐屯地を中心に、朝鮮統監府告示によって取扱局が増えています。同じような事情の満州でも同様の取扱例が見られます。

上図は韓国・猪島局で明治38年(1905)6月9日に振り出された軍人無料為替の受領証です。為替金を受け取った証拠として振出請求者(送金依頼者)に渡されます。為替金を表示する枠内に「軍」の朱印が押されている点で一般の受領証と区別できます。その下の「證書送達」の角印は、猪島局から受取人に為替証書を直送するという意味でしょう。

猪島は釜山の西方にあり、陸軍の鎮海湾要塞司令部が設けられた小島です。全島が軍事施設なので、猪島局の利用者は日本軍人ばかりだったはずです。この受領証の左欄外に「大阪毎日新聞社へ送金」の墨書メモがあります。送金額「96銭」は、要塞勤務の士官あたりが「大毎」紙を取り寄せる月額購読料プラス第3種郵送料だったのかも知れません。
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2017年10月29日

消えた龍岩浦野戦局

丸一龍岩浦2.jpg日露戦争終結後、朝鮮から満州に宛てた公用の軍事郵便です。韓国・龍岩浦局の丸一印で明治39年(1906)8月29日に引き受けられ、即日満州の安東県野戦局に到着しています。つい最近のヤフオクで入手しました。

龍岩浦は朝鮮の最北西端に当たる鴨緑江河口南岸にある港湾です。現代では忘れ去られていますが、日露戦争当時は極めて時事的な地名でした。北清事変で満州を占領したロシアは更に朝鮮進出を目指し、鴨緑江岸の木材伐採を名目に03年8月に租借して砲台を築きます。日露が開戦すると第1軍がただちに龍岩浦を占領し、仁川-大連航路の重要な中継港としました。

その後、鴨緑江軍、遼東守備軍、遼東兵站監部、関東総督府などと所管が目まぐるしく変転しますが、龍岩浦には一貫して野戦局が置かれました。05年11月1日には関東第5野戦局となり、更に06年5月1日から他の野戦局と共に地名を名乗り「龍岩浦野戦局」に改称されています(右下図)。5月21日からは龍岩浦も含む大部分の野戦局で民間人の普通郵便事務も扱い始めました。

龍岩浦野戦局.jpg軍政機関の総督府は06年(明治39)9月1日から民政組織の関東都督府に切り替わります。同日の都督府告示第1号は全野戦局所の普通局への継承を定め、告示第3号で普通局55局の全局名を挙げています。例えば、元の安東県野戦局は安東県支局(正確には関東都督府郵便電信局安東県支局)となりました。しかし、この中に「龍岩浦支局」だけがありません。

この局だけ朝鮮にあったからでしょうか。前後の朝鮮統監府や関東総督府の関係通達類を調べても、龍岩浦野戦局の廃止にかかわる記事はまったく見当たりません。以後、一切の記録から消えているのです。この野戦局は06年8月31日に廃止されたまま継承されなかったと考えられてきました。

龍岩浦電信印.jpg龍岩浦には一方で普通局もありました。06年3月20日に電信だけ扱う新義州局龍岩浦出張所が開設されています。龍岩浦軍用通信所が3月19日に廃止されたのを継承するためです。従って、同じ丸一型「龍岩浦」印でも、06年3月19日までは軍用通信所(左図)、20日以後は普通局(出張所)の日付印として区別する必要があります。

龍岩浦出張所はさらに5月1日から郵便事務も開始し、7月1日には独立局に昇格しました。5月以降の龍岩浦には野戦局と普通局の2郵便局が併存したことになります。朝鮮の丸一印は出張所も独立局も形式上の違いがありませんが、左上図の軍事郵便書状は龍岩浦局時代の取扱いです。

軍事郵便を普通局で引き受けていることから、龍岩浦野戦局はこの8月29日以前に既に廃止されていた可能性が濃厚です。この野戦局はいつ廃止され、普通局との関係はどうだったのか。丸一印時代の龍岩浦のエンタイアは少なく、他には出張所時代の「明治39年6月29日」の軍事郵便1点しか知られていません。今後のエンタイアや新資料の発掘を待ちたいと思います。
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2017年10月25日

仏印特派大使府海軍部

仏印特使府.jpg平凡な海軍用の特別軍事航空はがきに過ぎませんが、発信アドレスがなかなかユニークです。「仏印221野戦郵便所気付 仏印特派大使府海軍部」とあります。発信時期が分かりませんが、1942年(昭和17)秋から翌春にかけての頃と思います。最近のヤフオクで落札しました。

仏印特派大使府は1941年7月の南部仏印進駐後、仏印総督府との間で「政務、経済関係をも一元的に処理する」ための外交機関として10月14日ハノイに特設されました。8月8日に開設が閣議決定されてから2個月も経っており、何か混乱があったことをうかがわせます。第221郵便所もハノイに開設されていた陸軍の野戦局です。

「特派大使府」とは他に聞かない名前です。従来のハノイ総領事館を拡充し、陸海軍代表も加えて事実上独立国の大使館並みに組織されました。特命全権大使には元駐仏大使の大物外交官・芳沢謙吉が任命されています。当時のフランスはドイツ占領下にありました。傀儡のビシー政権には東洋にまで外交権を及ぼす力がなかったための便宜的措置と思われます。

大使府には他の外交公館付属の陸・海軍武官府に相当する「陸軍部」と「海軍部」が領事部や経済部などと並んで置かれました。陸軍は仏印からの援蒋ルート遮断を監視する「西原機関」をハノイに設置していましたが、大使府に吸収されずに残りました。恐らく陸軍省が既得権を手放さず、外務省による「一元化」に抵抗したのでしょう。

このはがきは大使府海軍部からの発信ですが、海軍ではなく陸軍の郵便機関が取り扱っています。陸海軍の反目関係から見て、かなり珍しい使用例と言えます。海軍は第41軍用郵便所をサイゴンのセレター軍港内に開設していましたが、ハノイ方面には郵便機関がありません。やむを得ず陸軍の好意にすがった、ということでしょうか。

逆の例、陸軍側が海軍の郵便機関を利用したケースなら、中部太平洋方面などにたくさんあります。が、こうした場合はいずれも大本営の陸・海軍部間で「通信支援協定」が結ばれていました。1928年の済南事件の際や上海事変後の1935年にも陸海軍省間協定があります。この当時の仏印ではそのような協定は見当たらず、ごく少数の現地限りでの取扱だったと見られます。
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2017年10月19日

満鉄楕円欧文印の使用局

行動局改.jpg畏友・片山七三雄氏が郵便史研究会紀要『郵便史研究』第44号(2017年9月)に新論文を発表しました。「南満州鉄道の欧文鉄道郵便印を使用した『局』は何か ─突然現れて突然消えた翻訳語を追いかけて(1)─」と、とてもアトラクティブなタイトルです。

10ページもある論文は一読して意欲的力作と分かるのですが、高度に難解です。幸い、月初に開かれた郵便史研究会の総会で片山氏の同題の講演があり、傍聴しました。氏の学たるや古今東西に飛躍するに対し1時間の持ち時間はチョー短くて、やはり難解。「何が分からないのかも分からず」状態に陥ってしまいました。

片山氏の問題意識「この欧文印を使った第1・第2行動局とはどういう性格の局か」だけは辛うじて共有できたかと思います。片山氏は主に逓信公報の記事に語学上の考察を加えた形而上学的視点からの解明を試みました。GANは同氏とは別の資料からアプローチして郵便史的には既に結論を得ています。ルートは異なるものの、帰結としては片山氏とほぼ同じだろうと考えます。

その資料とは、関東都督府が外務省に各期ごとに提出した業務報告書です。都督府は関東州租借地と満鉄付属地の統治機関で、外務省(または拓殖局)から政務上の監督を受けました。業務報告書は外務省外交史料館に残り、アジア歴史資料センターでネット公開されています。GANはJAPEX '04に「日露戦争」を出展した際、第128リーフ「日本初の行動局」のカバー(上図)のキャプションをこれに依りました。

関東都督府が報告した『明治44年度自4月乃至9月期 諸般政務状況』中の「通信事務」の部に次の記事があります。
行動郵便事務開始 欧州直通急行便ト連絡スヘキ我南満鉄道急行列車ニ依ル郵便物ニシテ管内及朝鮮北清等ヨリ発スルモノハ交換手続を了スル必要上一応之を長春郵便局ニ持込ミ欧州ヨリノ着便亦一旦長春郵便局ヲ経由セシムル結果共ニ当該便ニ結束ヲ失スルコトヽナリ少ナキハ一日大キハ三日以上ノ遅延ヲ来シ一般ノ不便甚シカリシカ本期九月一日以降上下急行列車便ニ行動郵便事務ヲ開始シ外国郵便交換事務ヲ取扱フコトヽナシタル為叙上ノ不便ヲ全ク芟除スルヲ得タリ
それまで、欧州宛て外国郵便物は満鉄線終点の長春駅に到着後、すべて長春局まで運んで区分・閉嚢処理をしてロシア寛城子局側に引き渡していました。9月からは急行列車搭載の満州、朝鮮、北清(華北)発郵便物に限り、奉天-長春間郵便車の行動局で郵便掛員が区分・閉嚢締切作業を完了させ、寛城子駅でロシア側に引き渡す、というのです。

日本内地からの便は東京、門司などの各交換局で既に完全な閉嚢に締め切って送られて来るので、行動局内ではいっさいの処理作業が不要でした。長春駅と寛城子駅間には連絡線があり、すべての郵袋は寛城子始発ロンドン行き直通急行列車に簡単に積み替えられます。これで1-3日間を短縮できました。欧州発の逆方向便はすべてが長春-奉天間の行動局内で処理されました。

続く明治44年度下半期の報告には「外国郵便交換の車中取扱事務を長春局から分離し、独立の交換局として第1行動局、第2行動局を設置した」との趣旨の記事もあります。この行動局独立は安奉線の広軌化が完工(明治44年11月1日)して奉天が名実ともに満鉄線の中心となったことを受け、鉄道郵便事務を奉天局に集中させるのに合わせて45年3月21日に実施されました。

ここで「行動局」とは「移動局」と同義です。通常の「固定局(定置局)」とは異なり、移動しながら取扱をする郵便機関を指します。日本郵便史上では船舶、鉄道、自動車内のほか野戦郵便局が開設されました。郵便掛員だけが乗務して扱う場合も業務上は「局」と見なすこともあります。外国との接続路線の多くでは外国郵便交換業務も扱いました。「第1、2行動局」の場合は普通名詞でなく、交換局としての固有名詞である点で特異です。

以後、第1、2行動局の鉄道郵便掛員は身分上は奉天局員ですが、外国郵便交換業務に限っては正式な交換局として単独の判断で処理できることとなりました。満鉄線はゲージ(軌道幅)が狭いため広軌の東清鉄道に列車を乗り入れることができません。東清鉄道「ヨーロッパ急行」との連絡を最速でスムーズに行うための「現場ファースト」の処置だったと思われます。

最後になりましたが、上図のカバーは朝鮮・西大門局明治45年(1912)3月15日引受のフランス・マルセイユ宛て書留5倍重量便です。奉天-長春間の第1行動局が3月17日(日曜日)に処理して書留ラベルを貼り替え、封の左上部にこの欧文印を押して閉嚢に納めています。朝鮮発欧州宛て書留郵便物には必ず押される、この印の典型的な使用例です。
posted by GANさん at 02:45| Comment(0) | 論文・文献 | 更新情報をチェックする