2017年11月23日

沖縄本島から最後の便り

沖縄.jpg沖縄 1.jpg沖縄本島守備の軍人から新潟の故郷に宛てたはがきです。最近のヤフオクで入手した同一人発着の満州と沖縄発信ロットの1点です。

鳩兜の軍事郵便はがきに乃木3銭切手を貼り、博多局飛行場分室で昭和20年(1945)3月23日に引き受けられています。受取人の書き込みがあり、3月27日に新潟県の宛先に届いたことが分かります。

この軍人の沖縄からの11通目で、これ以後の通信はありません。沖縄は3月下旬から米軍の大艦隊に包囲されて大規模な艦砲射撃を受け、45年4月1日に米軍が本島に上陸、猛烈な戦闘が始まります。このはがきは沖縄本島からの結果的な「有料最終便」例と言えるでしょう。

発信アドレスは「那覇郵便所気付 台湾第19159部隊」で、第8飛行師団(台北)に属する第21航空通信隊です。沖縄防衛の「天1号作戦」部隊として44年(昭和19)7月に満州の寧安から沖縄本島に転進してきました。第8飛行師団はこの作戦中に第6航空軍(福岡)の指揮下に入り、隷下部隊の多くを南九州や沖縄に展開させました。このような事情から、沖縄と台湾が同居する形の特異なアドレス表記が生まれたと見られます。

沖縄には45年4月10日から無料軍事郵便が適用されますが、沖縄と鹿児島を結ぶ船便は3月上旬頃から途絶していました。郵便物は米軍の目をかすめるわずかな軍用機と潜水艦の連絡便に託して運ばれる程度です。このはがきも通信文に「急に便を得て走り書き……」とあります。福岡・太刀洗の陸軍飛行場に急に飛ぶことになった連絡機に託したと見られます。

4月以降、沖縄本島からの有料郵便は未見で、軍事郵便でも稀です。残存する4月以降の郵便のほとんどは陸上戦闘のなかった先島諸島や大東島方面部隊の軍事郵便です。発信者が属するこの第21航空通信隊は、大内那翁逸編『旧帝国陸軍編制便覧』によると、「玉砕部隊」となっています。
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2017年11月16日

徐州陥落記念印の使い方

徐州裏.jpg徐州.jpgいわゆる「中支野戦局記念印」の一種が押された実逓カバーです。「中北支連絡記念」赤色ゴム印で鳳陽野戦局が昭和13年(1938)6月6日に引き受けています。最近のヤフオクで入手しました。

華中の野戦局で使われたこの種の記念印や風景印は逓信省からの告示類はいっさいありませんが、使用当時から郵趣界に報告されていました。この印の場合は『切手趣味』第17巻第6号(1938年11月)のコラム「中北支連絡記念」に図入りで簡明に紹介されています。筆者の「NA生」は不明ですが、中支那派遣軍野戦郵便本部の関係者と思われます。

「NA生」によると、この記念印は徐州陥落を記念して鳳陽、徐州の両野戦局で使われました。鳳陽は南北からの連絡が通じた5月15日から使用開始し、徐州は攻略した5月19日に日付を固定して更新しなかったといいます。実際の軍事郵便に押されたこの記念印を見ても、確かにこの2種の日付が多く、鳳陽では5月15日以降6月に入っても使われています。

徐州作戦概念図.png徐州攻略作戦は38年4、5月に北方から北支那方面軍(の第2軍)と、南方からの中支那派遣軍が中国軍を挟み撃ちする形で行われました。北支軍は天津-浦口間の津浦線鉄道に沿って済南方面から、中支軍は長江を隔てて浦口対岸の南京方面から、同時に進撃しました(左図参照)。徐州占領により津浦線の打通には成功しましたが、本来の目的だった中国軍主力の包囲殲滅には失敗しました。

ところで、この記念印が表示する「鳳陽野戦局」「徐州野戦局」という名称の野戦局は実際には存在しません。野戦局は移動が前提なので、局名はすべて番号で表示され、原則として地名の野戦局はありません。鳳陽で開設されていた野戦局は中支軍野戦郵便隊の第110局でした。

この隊はさらに徐州陥落翌日の5月20日に第120局を開きますが、23日には撤退して第2軍野戦郵便隊の第61局に引き継ぎました。徐州の野戦局はその後も6月9日に第65局、7月10日に第60局と、激しく交替しています。いずれも第2軍の野戦局です。

この書状は裏面に「13.6.5」、通信文にも「嘉興ニテ六月五日」と発信の日時と場所が明記され、記念印の日付「6月6日」にマッチします。しかし嘉興は上海の南西で、鳳陽とは400㎞ほども離れており、徐州作戦とは無関係です。中支那派遣軍管内で最も徐州に近い野戦局は鳳陽(第110局)にありました。このため記念印に「鳳陽野戦局」名が利用され、第110局以外でも嘉興など管内の他の野戦局で共用されたのでしょう。

一方の「徐州局記念印」はそれほど広範囲に使われた様子が見えません。第2軍管内の野戦局で徐州とは無関係に使われたのではないでしょうか。第2軍は徐州作戦に続いて計画されていた武漢占領作戦に備え、漢口方面に向け次々と西進中でした。

要するに「中北支連絡記念」印は、日付はともかく局名が実際の引受局(発信地)を表していません。このような印を「通信日付印」と呼ぶのは、かなり難しい。「野戦局が自由な使用に提供した単なる記念スタンプ(私印)だが、通信日付印として使われた場合もある」と考えればよいと思います。
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2017年11月10日

バリックパパンの櫛型印

BALIKPAPAN.jpg浅草のJAPEX'17で開かれた大手オークションで落としたばかり、ホヤホヤの南西方面艦隊民政府管内(いわゆる「海軍地区」)の書留カバーです。南ボルネオのバリックパパン局で昭和18年(1943)6月25日に引き受け、セレベスのトンダノ局に7月2日に到着しています。

切手は蘭印新女王30centに赤色左書き「大日本に錨」加刷があります。書状10+書留20centの合計額相当のようです。BALIKPAPAN-裏.jpg加刷タイプはカタログで言う「バンジェルマシン型」となるのでしょう。

南方カバーにお門違いのGANが手を出したのは、海軍地区で櫛型(類似)日付印の使用が珍しいと映ったからです。

この地区の郵便引受印は、旧オランダ製日付印の改造を除けば日付のない丸二型「大日本/局名/帝国政府」の形式が一般的だとこれまで思っていました。日本櫛型印の占領地型バラエティーを検討する格好の材料、とも考えました。

昔むかし大門会でお世話になった故・青木好三氏に頂いた『私録じゃがたら郵便 占領中の旧蘭印での郵便』(1986年)を読み返してみました。日付なし丸二型印が使われたのは海軍地区でもセレベス、セラムの両民政部管内だけでした。残るボルネオ民政部(バンジェルマシン所在)管内、つまり南ボルネオ地区の局では日本式櫛型に似た日付印が使われたことが強く示唆されています。

KAMPON.jpgさらに蘭印専門家の収友・増山三郎氏のご教示では、この櫛型タイプ日付印はVosseの『日本占領期蘭印とインドネシア共和国で使用された消印』(2013年)でも南ボルネオでの類似例が報告されていました。青木氏著書にはバリックパパン局カンポンバル分局印のスケッチ(右上図)があります。この印は局名は右書き、日付だけ手書きで、年号を皇紀(神武紀元2600年+)で「04(昭和19年)」と表しています。

BALIK-2.jpgこのカバーの印は局名左書きで、日付は櫛型印と同じ鮮紫色の数字印を押しています。数字6桁スタンプ「186・25」は「昭和18年6月25日」を表していると考えられます(右下図)。裏面のトンダノ局丸二型印の下部に黒紫色鉛筆「18.7.2」(18年7月2日)の書き込みがあるからです。書留なので証明のため到着印を押して日付を記入したのでしょう。バリックパパン本局でこのタイプの印のカバーはどうやら初出のようです。

バリックパパン局印をさらに詳しく見ると、A欄片仮名局名のうち「ツ」が促音の小字ではなく他と同大なのが特徴です。B欄は日付を書き込めるよう縦2本線で3分割されています。D、E欄は10本の櫛型。C欄はやや不揃いなクロスロード(十字路型)3個です。これだけはオランダ印特有の要素で、日蘭ハイブリッド性の表れと言えます。本来の日本印なら★3個となるところです。

このカバーは、同じ南西方面艦隊民政府管内でも「3個の民政部ごとに郵便印など郵便実務の細部が異なっていた」というGANの勝手な仮説に1つの傍証を加えるものと思います。資料が将来増えて、ボルネオ民政部管内の3支部-ポンチャナック、タラカン、バリックパパン-の各管内ごとに郵便印表示形式の違いも出て来たら、もう言うことはないのですが。
posted by GANさん at 02:12| Comment(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする