2018年01月31日

満州国省名入り印の悲運

間島1-1.jpg「満州国」の地方行政組織の変更と満華通郵協定の効果が郵便物上の日付印の変化として表れた典型例をごく最近そろえることができました。

右図の書状と左下図のはがきは共に間島省の省都・延吉から差し出されていて、いわゆる「日本製丸二型印」が押されています。年号は共に康徳で、右は「間島省/元年(1934=昭和9)12月24日/延吉」、下は「間島/2年(1935=昭和10)1月19日/延吉」です。つまり、上図の日付印が1ヵ月足らずで下図のように変化したことになります。
間島2-1.jpg
当初は「東北3省」と呼ばれた奉天、吉林、黒竜江省で発足した満州国は、1934年12月1日に地方行政組織の全面改編を実施しました。以後、崩壊までの13年間に複雑な離合集散を何回も繰り返して混乱を極める、その第1回目です。新たな黒河、龍江、濱江、三江、吉林、間島、奉天、安東、錦州、熱河省と興安省が生まれ、11省体制となりました(興安4省問題は省略)。

初めからの吉林、奉天省と中途で成立した熱河、興安省とを除く黒河以下の新設7省にも「○○省」と上部に表示した従来型の「省名入り日付印」が12月1日から導入されました。7省管内の全局が一斉に使用開始できたかはよく分かっていません。しかも、この日付印はすぐ廃止され、わずか40日間の短命に終わっています。

地方組織改編直前の34年11月23日、「満州国」と中国(中華民国)との間で「満華通郵協定」がようやく妥結し、35年1月10日からの両国間の郵便交換再開が正式に決まりました。協定中には「現行の(満州国が定めた)省名のある日付印は使用しない」という趣旨の1項があり、満州国は通郵実施を前に、急遽「省」字のない日付印への切り替えを決めました。

間島2-2.jpg間島1-2.jpg突然のことだったので、恐らく多くの局所では新「省字無し日付印」の配給が間に合わなかっただろうと思われます。その場合、一部の局では旧印の上部印体(活字)の「省」字を鑿や鈩のようなもので削り取って使いました。間島(省)朝陽川、竜江(省)富祐、興安(省)海拉爾局などの例が報告されています。

はがきに押された「省」削り延吉局印(上図右)もこうして生まれたものです。仮に1月末までに新たに調製した正規の「省字無し日付印」が支給されたとすると、「省」削り印はわずか20日間程度の超短命な臨時印だったことになります。書状の「省入り」印(上図左)と並べると、「削り印」の削りっぷりがよく分かります。削り漏れたごく一部が残っているのが見えます。

この丸二型「省字無し日付印」も「大きすぎて使いにくい」という現場の声で、翌36年(昭和11)から日本と同じ櫛型印に切り替えられてしまいます。日本製丸二型印最後の1年強のドサクサぶりは、新国家誕生のそれを見事に反映した結果となりました。

本稿の執筆にあたり、共に満州国切手と郵便史の専門家である織田三郎氏の「満州国の省名入り丸二型日付印について」(『関西郵趣』、1978年)と穂坂尚徳氏の「『満州国』の消印と使用状況」(『日本郵趣百科年鑑85』、1985年)を参考にさせていただきました。
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2018年01月20日

臺中丸船内軍用電信取扱所

台中丸電報.pngアジア歴史資料センター(JACAR)の日露戦争関係資料を調べていて、丸一型「臺中丸」という日付印が押された数通の電報群を見つけました。これまで報告されていないタイプの電信印のようです。

この印はすべて聯合艦隊隷下の第2艦隊司令長官宛て電報送達紙(左図)に受信印として押されています。丸一型上部は単に「臺中丸」だけで国名なし、日付下部に「電信」と入っています(下図)。下部「電信」は電信専業局所を示し、局種は電信取扱所と思われます。時期はすべて明治38年(1905)6月中です。

38年5月27日の日本海海戦で聯合艦隊はロシアのバルチック艦隊を壊滅させましたが、一部のロシア艦艇が中国の上海、厦門などに逃れました。追跡のため第2艦隊が臨時編成した「南遣枝隊」からの報告電です。ほとんどが澎湖局発信の官報で、朝鮮・鎮海湾の松真取扱所か台中丸が受信しています。

丸一型台中丸.png海軍軍令部編『極秘 明治三十七八年海戦史』によると、海軍は日露戦争中、対馬や朝鮮南西岸を中心に29個所の軍用電信取扱所を特設しました。このうち臺中丸取扱所だけが「船舶局」で、臺中丸が聯合艦隊の根拠地となった鎮海湾に進出した38年3月10日に開設されています。臺中丸取扱所の他はすべて「陸上局」なので、この取扱所の特異さが際立ちます。

臺中丸はもと大阪商船の優秀な貨客船(3,300t)です。海軍がチャーターし、俊足を生かして仮装巡洋艦としました。旅順陥落後は聯合艦隊直属の事実上の通信船として改装・運用されたようで、第1艦船郵便所も開設されています。電信取扱所の閉鎖時期は明記されていませんが、臺中丸の解傭が近づいて鎮海湾を去った38年7月29日と見られます。

丸一印は上欄を「国名/局名」と2段で表示するのが大原則ですが、国名がなく局名だけ表示したタイプ(国名省略型)もわずかながら知られています。郵便印としては京都と小笠原島が昔から有名でした。丸一印専集の成田真之氏は電信印で京都、神戸、兵庫、岡山と劔崎、大本営の単片上印影を発表しています(ウェブサイト「趣味の消印」)。

これらの局所が国名表示を欠く理由は色々と考えられますが、いずれも陸上の定置局です。しかし、臺中丸取扱所は船舶内の移動局なので国名がありません。丸一印時代の移動局は国名に代えて「船内郵便」「鉄道郵便」や、野戦局印では軍名を表示しました。これらのどれとも異なる臺中丸取扱所は「表示のしようがない」唯一例だったと思います。

臺中丸を含む海軍の29軍用電信取扱所の開廃について、『逓信公報』には全く記事が掲載されていません。同様に、遠藤英男、成田真之両氏の力作『電信・電話専業局所リスト』(2004年)にもありません。軍用機関として終始し、公衆通信に開放されることがなかったため、共に採録しなかったと考えられます。

これまで日本の無線電信局所の開設は海岸局の銚子無線電信局と船舶局の天洋丸無線電信局の明治41年5月16日が最初とされてきました。しかし、実際にはそれより3年も前の丸一印時代に船舶内無線電信取扱所が開設されていたのです。新たな知見が得られました。
posted by GANさん at 01:39| Comment(0) | 郵便印 | 更新情報をチェックする