2018年02月28日

支那駐屯軍の秘密軍郵

支那駐屯軍無料-表面.jpg支那駐屯軍無料-裏面.jpg1900年(明治33)の北清事変以来、日本軍は中国の天津、北京など華北の一部に部隊を駐屯させ続けました。「支那駐屯軍」(俗に「天津軍」とも)と呼ばれるその部隊の一部が1937年(昭和12)7月に盧溝橋事件を起こし、日中戦争の引き金となった事実はよく知られています。

支那駐屯軍に対する無料軍事郵便は、日中戦争に伴って37年8月2日に初めて適用された(逓信省告示第2226号)とこれまで考えられています。しかし、実際にはそれより1年早い36年(昭和11)夏から満州の関東軍と同様に無料軍事郵便が秘密裏に適用されていたことが最近の軍事郵便研究から明らかになってきました。

上図は支那駐屯軍司令部(天津)の兵士が昭和11年夏に発信した無料扱いの暑中見舞いはがきです。このはがきは駐屯軍の定期連絡兵によって天津から山海関まで鉄道で持ち運ばれたと考えられます。山海関には関東軍の軍事郵便取扱所(奉天中央局第7分室)が開設されていました。分室で引き受け、関東軍本来の軍事郵便に紛れ込ませて逓送ルートに乗ったのでしょう。

12年賀状-2.jpg12年賀状-1.jpgこの時期、支那駐屯軍には無料軍事郵便は適用されていないので、本来は1銭5厘切手を貼って有料扱いにしなければなりません。しかし、まったく同じ取り扱いがこの後の昭和12年(1937)年賀状(右図、皇紀2597年は1937年)でも見られることから意図的・組織的に行われたことが明らかです。宛先の内地局で未納料金を徴収された形跡はなく、逓信当局もこれら「不法郵便物」を黙認していたと推定されます。

この事実にGANは着目して、天津や北京の日本在外局が廃止された1923年(大正12)1月以降の支那駐屯軍からの郵便物を時系列で集めてみました。逓送ルートの明らかな変化があることが分かりました。初めは陸軍運輸部の定期連絡船などで大連や門司、神戸局まで運ばれ、普通有料便として発信されています。一部は中国切手を貼って中国郵政を利用したものも見られます。

1933年(昭和8)2月に関東軍が山海関軍事郵便取扱所を開設すると、少量ながら「奉天/7」「奉天中央/7」(共に山海関所在)の取扱所印で引き受けた無料軍事郵便が混じるようになります。そして36年夏からはおおっぴらにスタンプレス(切手も消印もなし)の無料軍事郵便が増加します。これは36年4月から支那駐屯軍が急速に兵力を拡張していたこと、前年12月から関東軍が軍事郵便への消印を省略したことと深い関係があると思われます。

このはがきにはリターンアドレスとして「神戸運輸部気付」が表記されています。内地から支那駐屯軍に宛てた郵便は陸軍運輸部神戸出張所が事実上の「交換局」だったことが示唆されます。運輸部では神戸局から配達された郵便物を郵袋にまとめて中国塘沽へ陸軍定期連絡船で運び、塘沽に着くと駐屯軍自身が軍用トラックで天津・北京へ輸送したのではないかと思います。

いずれにしろ、これらのエンタイアが存在することは、陸軍省と逓信省間で何らかの「裏協定」があったことを強く示しています。その流れの中で37年4月に事実上の野戦局として「支那駐屯軍軍用郵便所」が開設されたのでしょう。文書資料は未発見ですが、日中戦争以前から告示もないまま支那駐屯軍の無料軍事郵便が秘密裏に実施されていったことが分かります。
posted by GANさん at 22:34| Comment(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする

2018年02月22日

ニセ泰緬郵便に310万円

s615839.jpg大手オークションハウス、ゲルトナーC.GAERTNER(ドイツ)の第39回「アジア」部門競売が2月19日にあり、いわゆる「泰緬鉄道郵便」印のあるはがき1枚が16,500ユーロで落札されました。手数料と消費税も加えて日本円に換算すると、ざっくり310万円。大変な高値です。

s615839-1.jpgこの出品物は太平洋戦争中に日本軍が建設した泰緬鉄道沿線に開設された「軍事郵便所」で使われたと称するマライ占領正刷4セントはがきです(右上図。下はその裏面)。カタログは「"死の鉄道"軍事郵便所4局の郵便印押し」「展覧会用に目を見張る逸品」と全文ゴチック活字で説明する煽りぶり。参考値も8,000ユーロと大変強気につけられていました。

落札者には大変お気の毒ですが、これは郵便史に無知なコレクター向けに作られたニセモノFAKEです。2点の致命的な問題があります。第1点はカタログが惹句にしている「4個もの軍事郵便所日付印」自体が郵便取扱の実務上はもちろん、郵便史的にもあり得ないものです。第2点は最高の軍事機密だった泰緬鉄道の路線と列車そのものの写真が絵葉書として使われていることです。

カタログの説明によると、はがきはプランカシー郵便所で1945年1月16日に引き受け、日本軍占領下マライのペナンに宛てられています。コンコイター、カンチャナブリ、ニーケの3郵便所でそれぞれ1月27日、2月6日、2月15日の中継印が押されている、とされています。しかし、これは地理的に大変おかしな「迷走経路」なのです。

泰緬鉄道路線図.jpg左の地図をご覧下さい。これは後述する土屋理義氏の本から引用したものです。プランカシーからマライに向かうには鉄道を地図の下方に南下しなければなりません。しかし、中継印のコンコイターは逆に北上してビルマ方面に向かう沿線にあります。何らかの理由で誤積載してしまったのかも知れず、次は「正しく」南下してカンチャナブリ印が押されました。しかし、その次に何と、再度「誤積載」し、今度は国境のニーケまで行ったというのです。

既存の南方占領切手収集家すべてが見過ごしていることですが、鉄道駅と郵便局とは連携はしていても全く別の存在です。鉄道に載せた郵便物に沿線局の中継印を押すには、列車から郵便物を降ろして郵便局に運び込み、郵袋を開けて検査、区分、押印をした上で再び郵袋に収め、駅まで運んで再び列車に載せなければなりません。

鉄道や郵便職員には大変大きな負担なので、郵便物は事前に区分して郵袋に分け収め、目的地の至近駅まで直送するのが大原則です。国境を越えたり規格(ゲージ=軌間)の異なる鉄道をまたぐ場合は例外で、積み替え、郵袋の開閉、押印が行われることもあります。このはがきの中継印と称する3印は存在自体が矛盾であって、説明がつきません。「紛来印」かも知れない? ナンセンスです。

裏面の写真はカタログが「高架橋上の線路を走る実際の列車」と説明しています。確かに、木材を組み上げて応急速成された泰緬鉄道の橋のように見えます。しかし、当時としては異常に鮮明すぎる写真に客車が写り込んでいます。泰緬鉄道には旅客を運ぶ目的など初めからなく、次期インパール作戦のための武器弾薬や食糧の輸送さえ意のままになりませんでした。実際に運行したのは貨車だけで、客車が走るのは戦後になってからのことです。このはがきは戦後撮影された写真に戦前の日付印が押されているのです。

泰緬鉄道とは、日本軍が独立国のタイ政府と苦心して協定を結んでまで相手国領土内に建設した極秘の作戦鉄道でした。それが戦争の最中に絵葉書写真となって、いくつもの郵便局の間をすり抜けることなど出来るものでしょうか? はがき表面にはプランカシー郵便所の大型角枠検閲印が押されています。サインを入れて盲判を押す検閲官がいたのでしょうか? 日本軍とか「ケンペー(憲兵)」など屁とも思わない、ずいぶん大胆不敵な行為ですね。

実は、このはがきは土屋理義氏著『泰緬鉄道の「軍事郵便所」郵便』(日本郵趣協会、2005年)の中で同氏が実際に調査したエンタイアとして「P-9」のナンバーで紹介し(p.77)、他の泰緬鉄道エンタイアと共にいわばお墨付きを与えていました。土屋氏は南方占領切手の権威として自他共に許し、「泰緬鉄道軍事郵便所のエンタイアはすべて真正品」と主張する人物です。

土屋氏はこの本を国際的に流通させることに配慮したのでしょう。国内の郵趣出版物としては珍しく、英文併記もしていました。効果は確かで実際に外国で広く引用されており、今回のゲルトナーの競売にも多大の影響を与えたはずです。少なくとも超々高額で取引されたこの出品物への疑義に対し、土屋氏には誠実に答える義務があるのではないでしょうか。
posted by GANさん at 03:24| Comment(6) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする

2018年02月13日

預金者に優しい集金貯金

集金貯金-1.jpg集金郵便貯金の通帳を最近のヤフオクで入手しました。「集金貯金票」と呼ばれるシンデレラスタンプの一種、ミツバチを描いた額面入り証紙を使ったことで知られています。ただ、運用の実態はあまり分かっていませんでした。

この通帳は印刷局製の縦型帳面式8ページで、表紙に紫色で富士山が描かれています。1941年(昭和16)8月に東舞鶴局を受持局として発行され、記号番号は「集ちい」、原簿所管庁は京都貯金支局です。予定額100円に対して44年1月までの32回で計101円が預け入れられ、利子86銭が付いています。

集金貯金の歴史は比較的浅く、1938年(昭和13)6月21日から実施されました。制度的には明治以来の逓信省令「郵便貯金規則」に「集金貯金」の項目を付け加える改正をして発足させています。従来からあった積立郵便貯金とは別に、さらに「預金者ファースト」に弾力化させた制度でした。

集金貯金-2.jpg集金貯金は毎月1回、郵便局の職員が預金者の自宅や職場などを巡回して集金する点で積立貯金と似ています。が、積立貯金は預金額が毎回一定ですが、集金貯金には定額がありません。2、3、5、7、10、20、30円のどれかなら毎回ごとに自由でした。

実際、この通帳では2、3、30円と3額面の貯金票(正式には「預入金額票」)が使われています(右図)。預金者の都合で集金日以外に局の窓口で預け入れてもよく、さらに複数月分の前納も後納も可能と自在でした。

この集金貯金制度の大きな特徴が、預入額を証明するために貯金票を貼ったことでした。貯金票には7種の額面があり、うち20、30円の高額2種は1940年7月の追加発行です。貯金票の抹消には集金人印を使ったので、為替貯金用櫛型印は見られません。

制度導入後、一部の地方逓信局から「証紙より金額押印方式の方が簡単」との提案も出ましたが、本省貯金局は「制度設計の際に検討したが、労力もコストもほぼ同じ」と退けています。集金人は出先で不定額の現金をやり取りするわけですから、多種の金額印を用意して押印するよりも携帯した貯金票を貼る方が誤りがより少なかったと思えます。

御奉公.jpg官業で、既に積立貯金制度もあるのに、これほどに預金者奉仕の新制度を導入した理由は何でしょうか。前年7月に始まった日中戦争の厳しい情勢が背景にあったはずです。中国国民政府の首都・南京を占領しても相手の抗戦意思はくじけず、徐州作戦で国府軍主力を包囲しますが殲滅はできませんでした。外交的収拾にも行き詰まり、2年目を迎える戦況は泥沼化が始まっていました。

当局には戦争遂行のため、貯金を勧めて庶民の零細な資金をかき集め、膨れ上がる軍事費を支える必要がありました。同時に、生産が後回しとなる生活用品不足から起こるインフレの予防効果も期待されたでしょう。通帳の裏表紙中央には「貯金は誰も出来る御奉公」とさりげなく刷り込まれています(左図)。わずか一行ですが、この新制度の性格をすべて物語っているようにも見えます。

預金者にとっては融通の利くとても便利な制度ですが、単独事業としては集金コストがかさみ、赤字になりそうです。太平洋戦争末期には戦場や軍需工場にすべての人手を割かれ、継続困難に陥っただろうと思います。しかし、制度の一時停止や廃止の通達などは見当たりません。事実上の運用停止状態のまま戦後を迎え、制度整理の中でひっそりと廃止されたのではないでしょうか。
posted by GANさん at 00:08| Comment(0) | 為替・貯金 | 更新情報をチェックする