2018年04月30日

米検閲解除印に名古屋型

検閲解除印.jpg今月20日から東京で開かれたスタンプショウで、浜松の切手屋さんのブースに米占領軍検閲の検閲解除印が押されたはがきばかりの箱を見かけ、店頭に座り込んで時間を掛け点検(買うための調査です!)しました。

東海地方ばかり1千通ほどの検閲解除印のはがきを調べ、改めて確認できたことが3点あります。

 1、名古屋地区の検閲では、3種に細分できる丸型(円形)検閲解除印が併用されている
 2、うち1種は一見して分かる名古屋地区での検閲だけの特異なタイプである
 3、発信・到着のどちらの地区でも「検閲解除」処理が行われている

敗戦直後の日本に乗り込んだ米占領軍はまずマスコミと通信の検閲から占領行政を開始しました。総司令部(GHQ)で情報を担当する参謀第2部に属する民間情報部の外局として民間検閲局が開設され、その下部機関として45年10月1日に東京、大阪、福岡の各地区検閲局、翌年1月に名古屋分局が設けられて郵便検閲が実施されました。

米軍検閲では、逓送中の全郵便物の1割が無差別に抜き取られて検閲局に提出されました。検閲局は差出人や名宛てなどから簡単な判定をして「検閲すべき」郵便物をさらに2割選びます。残り8割は実際の検閲を解除releaseされて郵便ルートにそのまま戻されました。検閲を解除された郵便物に押されたのが検閲解除印です。

検閲解除印名古屋B型-4.jpgGANが今回確認できたとする「名古屋型検閲解除印」は上図に示したはがき下部に赤色で押されています。昭和22年(1947)9月6日に名古屋中局が引き受け、同じ愛知県内の犬山町に宛てたものです。この検閲解除印を拡大したものが左の図です。櫛型印でいうD、E欄に相当する位置に点「・」が入っているのが特徴です。このタイプの印色には赤のほか紫色もあります。

これを「名古屋型」と呼ぶ最大の根拠は、発信と着信が共に名古屋分局管内(愛知、三重、岐阜県)だけのはがきに押されていることです。この印のあるはがきは、東京や九州など他地区検閲局管内からの発信であっても必ず名古屋分局管内宛てであることも分かりました。これは検閲局提出郵便物の抜き取りが差出地だけでなく、到着地でも行われたことを意味します。この印が名古屋分局のものと確定したことによる三段論法的結論です。

この種の丸型検閲解除印は、既に森勝太郎氏(1955、74年)と裏田稔氏(1982年)が共に4タイプの存在を報告しています。「名古屋型」は第5タイプとなるはずです。GANはこれら各タイプを検閲局別に区別できると考えており、今回の名古屋型の同定はその仮説の明白な端緒になると思います。続きを読む
posted by GANさん at 22:49| Comment(0) | 郵便検閲 | 更新情報をチェックする

2018年04月25日

仏印在留邦人の戦後第1信

在留邦人.jpg在留邦人-2.jpg日本敗戦後の仏印(インドシナ)で、英軍に抑留されていた日本の民間人が発信した第1信の俘虜郵便です。発信アドレスの「南部仏印派遣 印支軍気付/在留邦人」が特異です。最近のヤフオクで入手しました。

仏印駐屯日本軍の全部隊は南北2地区に分かれ、北緯16度以北はハノイで中国軍に、以南はサイゴンで仏軍に降伏しました。戦後の仏印日本軍のアドレスにわざわざ「南部」「北部」が区別して入れられるのはこのためです。ただし、仏軍は実際には進駐できず、代わって南部仏印は英軍が管理しました。

他の資料から、発信者は戦時中にビルマのラングーンに進出していた商社の幹部級社員だったことが分かっています。東南アジアで働いていた若い日本人男性は開戦後、現地召集されて日本軍の部隊に組み込まれる例が多かったのです。年輩者はそれを免れる代わりに軍に協力させられ、資源獲得などに働いていたと思われます。

ラングーンは英軍の攻撃で1945年(昭和20)5月初めに陥落しますが、その直前にビルマ方面軍司令部以下の各部隊は脱出しました。この商社マンもビルマから逃げ、バンコクを経てサイゴンあたりで敗戦を迎えたのでしょう。軍と一体で活動していたので、撤退でも部隊に同行し、さまざまな便宜を受けていたはずです。

このはがきは軍郵ステーショナリーを利用し軍事郵便としての部隊検閲も受けていますが、実際には英軍管理下の俘虜郵便です。民間人は本来、ジュネーブ条約による戦争捕虜の待遇は受けられません。郵便物を無料で発受できるのは捕虜の特権ですが、身分上は捕虜でないこの商社マンも、それまでのいきさつから俘虜郵便を利用できたのでしょう。

はがきの発信時期は分かりませんが、文面から1946年晩冬-春頃のようです。葉書表面左下にある紫色の米軍検閲印、いわゆる「金魚鉢」に日付の記入がないことからも、日本到着は46年前半までです。引揚援護庁編『引揚援護の記録』(1950年)によると、南部仏印からの引揚は46年4月16日に開始され、8月5日に完了しています。

敗戦後、南方占領地の軍人からの通信は俘虜郵便としてある程度存在しますが、民間人の通信となると、GANは未見でした。日本への民間郵便は船舶などの輸送手段が途絶し、郵便連絡は事実上不可能となったからです。このはがきは、軍とのコネが「活用」された特殊で希有な例と言えます。
posted by GANさん at 01:46| Comment(0) | 俘虜郵便 | 更新情報をチェックする