2018年05月31日

戦地発の「未納軍事郵便」

旅順未納-4.jpg旅順未納-1.jpg未納の軍事郵便。そんなものってあるのでしょうか。軍事郵便はもともと無料。タダなんだから、料金不足の未納なんて発生するわけがない!

それが、かなりレアな話ですが、日清戦争と北清事変ならあり得たのです。右図は日清戦争中の1895年(明治28)に戦地から発信した無料軍事郵便…のはずですが、「未納」印がペタペタと押され、確かに未納料金が徴収されています。数年前にヤフオクで入手したものです。

書き込みを見ると、発信地は「清国旅順口」で、発信者は「第6師団第24連隊 歩兵1等軍曹」。無料軍事郵便の条件は十分に満たしているように見えますが、封筒には「軍事郵便」の表示が見当たりません。代わって、左側上部に「先払」と書かれていて、これが曲者です。

この書状には野戦局印がなく、日本への輸送船に直接搭載されたようです。内地に着いて最初の揚陸地の福岡局で引き受けられ、明治28年3月6日の褐色丸一印と角枠「未納」印が押されました。同じ日に配達局の大川局で倍額料金の新小判4銭を貼って未納印で抹消しています。料金先払いは未納扱いで、受取人から倍額を徴収する規定でした。

日露戦争以降の軍事郵便は何通出しても無料となりましたが、それ以前の日清戦争と北清事変では厳しい発信通数制限がありました。下士官・兵卒が無料で差し出せるのは月に2通までです。それも、95年1月まではわずか1通だけでした。3通目以上は有料で、2銭切手を貼らなければなりませんでした。輸送船の回数や積載能力が少なかったからと考えられます。

通信文には「先日御送付に相成りし郵便切手なくなり、この先払を以て御無礼申上候也」とあります。「送ってもらった切手は使い切ってしまった。切手なしの料金先払いで出すが悪しからず」という趣旨です。この軍曹さんは野戦局で切手を買う2銭にもこと欠く貧乏状態だったようです。

当時の2銭を現在の郵便料金に相当する100円足らずの価値とすると、「わずかでも給料が出ていたはずなのに、なぜ」と考えてしまいます。「どうしても必要な通信だったら、同僚や上官に事情を話して借りればよかった」とも。いずれにせよ、戦地の兵士が郵便を先払で出すのは非常に稀なケースだったと言えるでしょう。

法令を厳密に当てはめると、この書状は軍事郵便でなく、単に戦地発信の「料金未納の第1種郵便」に過ぎません。しかし、軍事郵便差し出し資格を持つ人からの郵便なので、広義に解釈して軍事郵便と言えなくもありません。なお、北清事変ではこのようなケースはまだ報告されていません。
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2018年05月29日

特高検閲(?)のはがき

ヘルマン・ヘッカー.jpg昨日到着したばかりのヤフオクで落札した絵はがきです。一見して部隊検閲を受けただけのありふれた郵便ですが、二重検閲らしい点に注目しました。

この絵はがきは乃木3銭が貼られ、帯広局昭和19年(1944)9月16日に標語機械印で引き受けられています。裏面は札幌出身の水彩風景画家・繁野三郎が描いた北海道帝国大学のキャンパス風景です。

発信アドレスは帯広市の「北部軍経理部出張所気付 学徒隊第2中隊第4小隊」です。発信者は帯広の陸軍施設に勤労動員された北大学生のようです。

宛名は札幌市の戦時下では珍しい片仮名名前で「ヘルマン・ヘッカ」。わきに「独逸(ドイツ)人」と国籍が書かれています。ヘッカーは北大予科でドイツ語とフランス語を教えていた専任講師でした。

寺島.jpg発信アドレスの右端に角枠「検閲済」印が紫色で押され、枠内に「木村」の赤色認印があります。この検閲印の右隣に単独で紫色「寺島」認印が押されています。「寺島」印は角枠検閲印とは同じ紫色系でも色合いが異なり、別の場所で押されたことを示唆しています。

角枠検閲印は太平洋戦争直前から部隊・軍衙に課された部隊検閲印であることが形式から明らかです。それでは「寺島」印は何でしょう。部隊検閲を2人で行ったのでしょうか。

戦地発信の軍事郵便では部隊検閲が二重に行われた例をよく見ます。戦況から軍機保持が特に必要な場合、郵便担当の下士官による通常の検閲に加えて将校がダブルチェックしました。しかし、このはがきの場合は日本国内での経理事務を扱うだけの軍事官庁で、しかも出先の地方機関です。特別重要で機微な軍機を扱ったとはとても思えません。

あるいは、部隊内でドイツ語で書かれた通信文が翻訳され、その認印が押されているのでしょうか。墨の抹消部分が5ヵ所もあり、そうとも見えます。しかし、その場合も責任者はあくまでも郵便担当下士官なので、翻訳者が捺印することはあり得ません。そもそも検閲に不向きな外国語での通信自体を禁止したはずです。

実は北大では41年12月の開戦直後、特別高等警察(特高)によるでっち上げだったことが戦後になって分かる「レーン・宮沢スパイ事件」が起きていました。ヘッカーの同僚の米国人で英語の専任講師ハロルド・レーン夫妻が教え子の学生宮澤弘幸と共に逮捕され、軍機保護法違反で共に懲役15年という重刑判決を受けた冤罪事件です。

レーン家とヘッカー家は北大構内で隣合う教員宿舎に住み、2人で教師・学生の文化交流サークル「心の会」を運営していました。レーン最大の「同志」ヘッカーはまた、ファシズム反対・ナチス嫌いの言動でもよく知られていました。同盟国のドイツ人なので事件への連座こそ免れましたが、「危険人物」として特高の厳重な警戒・観察下に置かれました。

そうしたヘッカーに発着する郵便はすべて、特高の「要観察者名簿」つまりブラックリストに基づいて発信地か配達先の郵便局で秘密裏に検閲されていたはずです。となると、この「寺島」印は札幌局か帯広局に常駐していた特高の「検閲済」印ではないでしょうか。

戦前の特高が「要観察者」たちの郵便物を秘密検閲していたことは当局側の多くの断片的な資料から明らかです。しかし、その詳しい実態は不明で、検閲印や再封緘紙が使われるなどの「痕跡」はまだ全く知られていません。

ヘッカー宛てのこのはがきが特高による秘密検閲を受けたであろうことは、蓋然性の高い推測です。が、「寺島」印をそれに結びつける直接的な根拠はありません。「特高の検閲印」の可能性は五分五分とGANは見ます。将来、特高(及び憲兵隊)による郵便検閲の資料が発掘、解明されることに期待を託します。

(本稿執筆に当たって上田誠吉『ある北大生の受難 国家秘密法の爪痕』(1987年)、逸見勝亮「宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件再考」(2010年)を参照しました。)
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2018年05月27日

北海道開拓使の青色電報

開拓使電報2.jpg最近東京であった大手フロアオークションで明治初期の北海道開拓使電報を落札しました。

明治12年(1879)7月25日に函館から発信された電信の送達紙で、福山電信分局が即日受信、配達しています。和紙の縦型用紙に福山分局の角型局印と二重丸型「検査済」割印がいずれも朱色で押されています。本州以南で使われた黒色でなく濃青色で印刷されている点が特異です。

当時、全国の電信事業は工部省の所管でした。しかし、北海道だけは北海道開拓使の専管地で、内務省や工部省などと同格の中央官庁である開拓使が行政を一手に握っていました。

東海道筋での郵便開始と同じ明治4年(1871)に工部省は早くも東京-青森間に電信線を設定する計画を立てました。工部電信線は3年後の明治7年10月に青森まで延伸されますが、これに合わせて開拓使も道内の電信線計画を進めました。

太政官達.jpg左図は壬申=明治5年6月28日に太政官(維新政府)が発した布令第133号です。箱館から東海岸回りの千歳経由で札幌までの電信線を開設し、将来は東京-青森線に接続させる構想を公表しています。

開拓使電信線は後に箱館-札幌線に加えて札幌-室蘭線も計画されました。両線は明治8年(1875)に開通し、3月20日に箱館、札幌、室蘭など7電信局を開設して「開拓使電信」が創業されました。福山もその時の1局です。

青森-函館間はこの頃デンマーク資本の大北電信会社が海底線を沈設して接続されました。東京から北海道までが電信で結ばれたことになります。

実は、北海道で開拓使電信が創業した3月20日は、先行した東京-長崎線の支線として小倉-熊本線が完工し、熊本電信局が開業したのと同じ日でした。東京を挟んで北海道から九州まで日本の電信の骨格線が1本に貫通した日本電信史のエポックを画す日だったのです。

この送達紙は刷色が青色であること以外は当時の工部電信(黒色)と全く同じ形式です。開拓使は電信運営技術を始め用紙の調達に至るまで工部省の基準に従ったのでしょう。今後の研究で、工部電信との実務面での運用の違いや独自印影などが分かれば面白いと思います。

福山は渡島半島西南端にあり、明治維新まで蝦夷地唯一の和人支配地だった松前藩の城下町でした。現在は松前町字福山で、町役場が置かれています。電文に「カスある。要るか。返(事せよ)」とあり、漁業関係の問屋同士の商談のようです。2回表れる「カス」とは、松前漬にも使われるカズノコのことでしょうか。

開拓使は「時限官庁」で廃止時期が定められていたため、開拓使の電信施設は工部省に全面移管されることになります。これにより明治15年(1882)3月20日付で函館、札幌、室蘭など全9局が工部省所管の電信分局に改定され、開拓使電信は7年間限りで幕を閉じました。

(本稿中の歴史的事実は、主として逓信省電務局編『帝国大日本電信沿革史』(1892年)に拠りました。)
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2018年05月18日

刑務所の収監者郵便検閲

橘刑務所-0.jpg「郵便物」の定義を「郵便システムを利用して輸送される信書や小型包装物」とした場合、その郵便物(書状・はがきや小包など)の状態が輸送中on routeか、輸送以前や輸送完了後かが問題となる場合があります。GANが特に強い関心を持つ郵便検閲も、その一つです。

左図は最近のヤフオクで入手した封書です。昭和12年(1937)5月31日に大阪中央局で引き受け、神戸市に宛てられています。表面左側中央部に黒紫色の「検閲済」ゴム印、右側下半部に角枠「昭和12年6月1日/第六三六号」(数字は手書き)と「昭和十二年六月四日」のいずれも紫色ゴム印があります。

これらの印が検閲を受けた記録らしいことは想像できます。だれがした、どういう検閲でしょうか。書状の宛先の「橘刑務所内」が手がかりです。正確には「神戸刑務所橘通出張所」といい、1941年に「神戸拘置所」と改称され現在も存続しています。名宛人はここの収監者(名前の姓を画像処理で消してあります)なのでしょう。

橘刑務所-2.jpg桜マーク.jpgそうすると、ゴム印が示す「6月1日」は刑務所が書状を受け付けた日、「6月4日」は検閲が済んだ日付と思われます。刑務所の事務当局者には収監者に書状受け取りを許可する権限はないはずで、この3日間は担当検事の検討期間だったのでしょう。通信文の第1行目右上部に検閲済みの朱印が押されています(右図)。5枚の単弁に10本の蕊が描かれた桜マークです(上図)。

「刑務所検閲の桜マーク」については以前から郵趣界でも興味を持たれ、発表が重ねられてきました。直近では裏田稔氏が「拘置所内の郵便検閲」(北海道第壹郵趣廼會會誌『郵趣記念日』第262号所載、1998年)として東京拘置所以下全国10ヵ所の刑務所、拘置所など行刑施設ごとの桜マークの形式区分を紹介しています。これに「橘刑務所」は含まれていず、もしかしたら今回が新発表かも知れません。

最初の問題に戻ります。この書状のように、宛先に到着後に行われた検閲も「郵便検閲」に入るのでしょうか。GANの考えは「郵便検閲とは言えない」です。名宛人からすれば受け取り前の郵便物を検閲された事実に違いはありません。しかし、書状が刑務所に配達された時点で郵便物としての輸送(逓送)は完了し、狭義の郵便物でなくなっているからです。

浦和高女2.jpgこれは郵便物到着の場合でしたが、逆に差し出しのケースでの典型例が女学生寮の「舎監検閲」です。戦前、女子学生の寮や寄宿舎には舎監という監督者がいて、寮生が発信する郵便物を投函前に検閲していました。検閲を経ない郵便発信は寮の規則で禁止され、許可済み郵便物に「舎監検」などといった印が押されました。左図はその一例で、浦和局昭和9年(1934)4月引受のはがきに浦和高女の「第一寮舎監検」朱印があります。

刑務所検閲が郵便ルートから降りた後の検閲なら舎監検閲はルートに乗る前の検閲で、共にオフルートoff routeでの検閲です。狭義の郵便物状態でないときの検閲という点で両者は同じ意味を持ち、郵便検閲とは言えません。つまり「郵便検閲」とは、郵便システム上の輸送ルートにある(=逓送中の)郵便物に対して行われる検閲をいうべきだとGANは考えます。

もちろん、これらの検閲も郵便に膚接し、郵便検閲を調査する上でも重要で興味深い存在であることに違いはありません。GANの真意は郵便検閲と非郵便検閲との境界を明確にすることにより、郵便史調査研究水準の向上を目指すところにあります。
posted by GANさん at 23:24| Comment(0) | 郵便検閲 | 更新情報をチェックする