2018年06月20日

海軍区別符に新タイプ

防空隊.jpg海軍軍事郵便の区別符で、これまでに知られていない表記形式のあるはがきを最近のヤフオクで入手しました。

このはがきは「呉局気付 セ四五 セ四一 ウ三七二」というアドレスで発信されています。「呉局」はこの軍事郵便の交換局で、「セ四五」以下は海軍の郵便用区別符(暗号)です。区別符は戦域別に「ウ」「テ」「イ」「セ」の片仮名4文字のいずれかに漢数字2、3桁を組み合わせた文字列で1セットになります。

区別府は通常2セットを連続して表記し、第1セットで所在地名、第2セットで部隊名を表します。例外的に第3セットまで表記する場合もありますが、それは第2セットの部隊の出先である「支部」「出張所」「支隊」「分遣隊」など分・支の隊を表す場合に限られていました。
区別符.png
このアドレスの場合、「セ45(以下、漢数字はアラビア数字に置換)」はマカッサル、「セ41」は第23特別根拠地隊です。すると、第3セットの「ウ372」は根拠地隊の支隊でしょうか。ところが、所定のコードブックで解読すると、これは第123防空隊です。分・支の隊なら、片仮名は本隊と同じ「セ」でなければなりません。

このように、第3セット目が分・支の隊ではなく独立した別の部隊を表す例はこれまで発表されていず、「新発見」です。すると、すぐに問題が起きます。セレベス島マカッサルに所在する部隊はよいとして、なぜ部隊名が二つもあるのか。発信者は根拠地隊員か、それとも防空隊員か。

これは、パラオとかソロモンなど他地区(ウ戦域)にいた防空隊がバンダ海(セ戦域)のマカッサルに転進し、根拠地隊に編入されたケースだろうとGANは考えます。根拠地隊は陸軍で言えば独立混成旅団に相当する大きな部隊で、地上部隊の他にごく小規模ながら航空、艦船部隊までかかえていました。この防空隊もマカッサルに「流れ着き」、取り敢えず大部隊に身を寄せたのでしょう。

普通、このような場合のアドレスは「呉局気付 セ45 ウ372」として、「セ41」は表記しません。原則を破ってまで敢えて上位部隊名を入れたのは、他戦域からの小規模な転属部隊の常で郵便物が迷子になりがちだったからでしょう。本当は「セ41」に「気付」を付け加えたかったところ、地名符と混同の恐れがありこの形にしたと思われます。

分・支の隊でないにもかかわらず、発信アドレスを区別符3セットで表記するこのような使い方は、海軍の軍事郵便法規集にありません。この時期、この地域限りの極めて例外的な使用例だったはずです。
posted by GANさん at 02:41| Comment(0) | 軍事郵便(海軍) | 更新情報をチェックする

2018年06月18日

局名ペン書きの弁事所印

永安屯-2.jpg永安屯-1.jpg1940年代初めの「満州国」で局名ペン書きの櫛型印が押されたカバーを見つけました。

右図の封筒は奉天北陵4分切手を貼って東安省密山県の永安屯開拓団月山村から山形県に宛て、康徳7年(1940=昭和15)3月21日に引き受けられた、ごくありふれた「開拓団郵便」です。しかし、印影が特異です。AD欄に当たる上部印体がなく、青黒インクのペンで「永安屯」と左書き(左下図)されています。

局名はなぜ手書きされたのか。局名活字が到着しなかったから、とは簡単に推測できます。しかし問題は「開設中の局なのに日付印が間に合わない」、その辺の事情でしょう。臨時開設か、あるいは局名改称直後だったのでしょうか。
永安屯-手書き.jpg
これについてはとても有益な論考が既に発表されていました。穂坂尚徳「満洲開拓移民と郵政機関」(『郵便史学』第5号所載、1975年)です。穂坂氏は満州国の郵便史と郵便切手の専門家&日中交流の達人として知られます。いつも笑顔で愛される昔からの仲間でしたが、残念ながら最近は郵趣から距離を置いておられるようです。

穂坂氏によると、1940年1月に開かれた満州国の開拓庁長会議で交通部郵政総局から開拓地郵政機関の積極整備方針が報告されました。内容は膨大なものですが、その中に「39年度中に開拓地32ヵ所、40年度中に61ヵ所に郵政弁事所の新設」が含まれていました。39年度の一つが「永安屯」だったのです。郵政弁事所は今日の日本の簡易局と同じ委託局でした。

この先はGANの推測です。拓務省第5次移住計画で1936年6月に入植した永安屯開拓団にも郵政弁事所が39年度末ギリギリの40年3月にようやく開設された、しかし弁事所の新設が短期・大量に集中しすぎて局名活字(上部印体)の調製が間に合わなかった、ついに郵便物1通ごとに局名を手書きするのやむなきに至った--、のではないでしょうか。
永安屯-3.jpg
半年ほど後に同じ永安屯開拓団から発信されたはがきをごく最近のヤフオクで入手しました。こちらには既に正規の日付印が押されています(右図)。上述した推測を裏付ける傍証の一つになるかも知れません。

この正規印について識者の教えを乞いたい2点があります。1つはD欄が省名「東安」でなく「赤○」のように見えますが、2字目が読めません。2つ目は永安屯は弁事所のはずなのに、なぜE欄「辨」字ではないのか。普通郵政局用日付印を使っています。これらにつきコメントなどでご教示いただければ幸いです。

黒臺.jpg信濃村.jpg[追記](2018.08.18)細沼茂様に下記コメント(記事の下、最終行の「Comment」をクリックしてご参照下さい)を頂きました。図版を扱う関係で、コメントへのお返事でなく「追記」として対応させていただきます。

細沼様ありがとうございました。ご教示頂いた通り、永安屯印のD欄は「黒臺」で間違いないと思います。念のため手持ちの日付印を確認したところ、「黒臺信濃村」弁事所はD欄に「黒台」と略字を使っていました。「黒臺」局は正字(旧体字)を使っており、まさに永安屯印のD欄と同じです。「黒」は漢数字の「四」の下に「赤」を置いたような独特の字体が使われていました。

この時期、永安屯は東安省密山県に属していました。この例などから、郵政局の日付印は一般的にD欄省名ですが、弁事所はD欄に管轄集配局名を表示していたようです。弁事所で使う日附印の下部印体(E、C欄)が何らかの事情で調製できない場合に郵政局用で代用し、それでもD欄が省名でなく管轄局名であることから弁事所と判別できるのでよしとしたのかも知れません(まったくの推測です)。

ちなみに、弁事所日付印の時刻刻みは「前0-12」と「后0-12」の2種類だけなので、1日4種類以上の時刻刻みのある郵政局日付印と区別出来るはずです。
posted by GANさん at 23:28| Comment(2) | 「満洲国」 | 更新情報をチェックする

2018年06月06日

南洋から「国内軍艦郵便」

沖島-12.jpgつい最近のヤフオクで奇妙な絵はがきを入手しました。南洋から発信されたことが明らかなのに内地局の消印が押されているのです。

左図がそれで、書き込みによると、軍艦「沖島」の参謀が2月4日にパラオから発信し、13日に神奈川局の機械印で引き受けられています。年号部分が不鮮明ですが、裏面(下図)ヤップ局風景印の日付から昭和12年(1937)と分かります。風景印の図案が絵はがきと同じ現地民族の集会所「アバイ」だったので記念押ししたようです。

沖島は5千トンと大型な新鋭敷設艦ですが、巡洋艦並みの性能がありました。36年12月に聯合艦隊直属で第12戦隊が新編制され、旗艦となります。戦隊には水上機母艦「神威」と駆逐艦「朝凪」「夕凪」が編入されました。

沖島-2.jpg12戦隊の任務は「南洋委任統治区域の警備」です。しかし実際は、来たるべき対米戦争に備え、軍備が禁止されてきた南洋群島を海軍基地化することが真の任務でした。

差し当たっては水陸飛行場や艦隊泊地用の適地を探る視察と兵要調査です。米国に知られるのを恐れ、戦隊の全行動は軍機とされました。

12戦隊の沖島以下4艦は37年1月28日、南洋群島、フィリピン、蘭印、ニューギニアに及ぶ初航海へ横須賀を出港します。日本でも稀な総合南方調査だったため、外務省、海軍軍令部、南洋駐在海軍武官らが身分を隠して同行しました。途上で日中戦争が勃発したため、秋までの予定を切り上げて急遽横須賀に7月13日に帰投しています。

海軍は通常、行動する艦船への連絡予定地を例えば「2月10日までに到着する郵便物宛先はサイパン」などと『海軍公報』に掲載しています。しかし、今回の12戦隊の出港後アドレス予定は異例にも「神奈川局気付」とだけされました(37年1月20日付『部内限 海軍公報』雑款)。行き先や目的は内部にさえ一切秘密にしたのです。

南洋定期航路のターミナルは常に横浜港です。南洋との郵便物集中局(=交換局)も当然、当初から横浜局でした。このため、艦船の郵便物アドレスが「横浜局気付」だと南洋で行動することが分かってしまいます。海軍省の要請で1935年(昭和10)7月、南洋への集中局は横浜港直近の神奈川局に変更されますが、この事実は外部には秘密でした。

詳しく調べたところ、アドレスを「神奈川局気付」とした艦船部隊の行動は5回だけありました。36年8月の第3航空戦隊、37年1月の第12戦隊(今回)、38年4月の測量艦「膠州」、40年1月と5月の第4艦隊で、すべて南洋での基地調査と設定のための秘密行動です。36-38年の郵便は有料ですが、40年の2回は無料軍事郵便として扱われています。

さて、前置きが長くなりすぎましたが、この絵はがきの逓送路を推定します。12戦隊ではこのはがきを含む乗員からの有料郵便物を一括して郵袋に納めて閉嚢とし、パラオ局に持ち込んだのでしょう。パラオ局は閉嚢のまま横浜行き最速の便船に搭載したはずです。横浜入港後、閉嚢はただちに神奈川局に運ばれて初めて開けられ、引受押印をしたと思われます。

この方法は、実は軍艦郵便(軍艦閉嚢)とまったく同じ取扱です。ただ、軍艦郵便の適用はUPU加盟の外国港に停泊中の日本艦船に限られます。12戦隊の郵便物は日本領土の南洋群島から発送した点で異なりますが、いわば「国内版の軍艦郵便」でした。軍機保持の必要から生まれたのですが、この時期の南洋でしか考えられない極めて稀なケースでしょう。

以上の逓送路と方法はすべてGANの推定に過ぎません。しかし、当時の軍事情勢と、現実に神奈川局の消印が押された郵便物が存在する事実とを考え合わせると、それほど大きな誤りがあるとは思えません。
posted by GANさん at 09:09| Comment(0) | 軍艦郵便 | 更新情報をチェックする