2014年02月27日

厚生省創設の留守宅通信

HIKIAGE.jpg戦争が終わって内地に帰国して来る引揚者・復員兵のための「留守宅通信」のはがきです。戦後の社会史、郵便史を物語る極めて興味深いアイテムとGANは考えています。

留守宅通信は1946(昭和21)年6月に厚生省の外局の引揚援護院が創設しました。逓信当局ではない官庁が立案した郵便システムとして、極めて異色の存在です。

逓信省(正確には46年7月以前は逓信院)の省令・告示類にこの留守宅通信は表れていません。郵便法令を変更するものではなく、現業の郵便官署の郵便取り扱いを著しく変えるわけでもなかったからと思われます。

当時の日本内地は戦争中の空襲被害や疎開、食糧難などが重なって、居住環境が崩壊していました。旧植民地や戦地からの帰国者がまず知りたい情報は「留守宅の所在」「家族の安否」です。これに応えようと、引揚当局が考案したサービスでした。

外地からの引揚者を待つ留守家族は、引揚者宛ての手紙を上陸が予想される地の引揚援護局気付であらかじめ出しておく。引揚援護局は通信を都道府県別・氏名別に整理し、名簿を調製しておく。引揚者は引揚援護局で名簿を閲覧し、自分宛ての手紙があれば受け取る――という仕組みです。

この制度の最もユニークな点は、郵便物の不特定期間保管と、不幸にも受取人が現れなかった場合の処置にあります。援護院の後身の厚生省引揚援護局は、ソ連抑留者が最終帰国した1958年末、残された53,700通に付箋を貼り差出人に返却しました。それまでも含めた返却総数は約20万通で、受付総数の半数にも達しています。

通常の郵便物は、宛先(この場合は各引揚援護局)に配達した段階で郵政当局の逓送義務は完了します。時に転送・差出人戻しもありますが、それは配達直後だけです。局留めにしても1ヵ月程度で返却されます。留守宅通信の場合は、それを最大で12年後に行いました。空前絶後の保管・返却例ではないでしょうか。

さて、このはがき(画像=クリックで拡大できます)は東京・牛込局で昭和23(1948)年10月8日に引き受けられています。差出人が「引揚者通信」と書き込んでいますが、そういう言い方もされたのでしょう。返戻付箋はなく、付けられた形跡もないので、受取人は無事に帰国し、このはがきを受け取れたと思われます。はがき下部の数字「1542」は、保管整理のための一連番号です。

アドレスの「北方派遣 摧」は南千島守備の第89師団を表し、「第12647部隊」は混成第3旅団通信隊(択捉島)を意味する符号です。この受取人は、北海道が目前というのに遠くソ連に連行され、抑留の苦難をなめ尽くしての生還だったことでしょう。

MIYAO.JPG追記(2015.07.22) この留守宅通信はがきの受取人が発信した軍事郵便がネットオークションに出品されているのを偶然見つけ、落としました。今日到着し、2通の郵便物が敗戦・抑留・帰還をはさんで「再会」を果たしました。

二つのはがきを見比べると、留守宅通信の発信者は本人(軍人)の妻のようです。一方の軍事郵便は昭和19(1944)年10月24日に配達されていて、受取人は本人の妻ではなく妹と見られます。

軍事郵便と留守宅通信ともにアドレスの部隊名は同じ混成3旅団通信隊ですが、部隊通称号が独立混成43旅団(奇)から89師団(摧)に変わっています。この間に部隊の編合があったことが分かります。
posted by GANさん at 13:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 第2次大戦混乱期 | 更新情報をチェックする
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