2014年03月02日

シベリア俘虜の郵便

KRASNAJA-1.jpgKRASNAJA-2.JPG大阪もの第2点目は、日本軍がシベリアで管理したオーストリア軍俘虜発信の俘虜郵便はがき(画像=クリックで拡大できます)です。英・独・仏とチェコ語で印刷された俘虜専用ステーショナリーが使われています。

1919(大正8)年11月27日にハバロフスク郊外のクラスナヤレチカ収容所からウイーンに宛て出されました。収容所の紫色丸型検閲印とMOJI局19年12月14日の引受印があります。

クラスナヤレチカ収容所から門司までは、日本軍の第4野戦局(ハバロフスク)、第1野戦局(ウラジオストク)と敦賀局が逓送に加わっているはずですが、消印はありません。第1野戦局からは門司局宛て閉嚢便で送られたと思います。開嚢した門司局で初めて郵便物として正式に受け付けられました。

この当時、日本はロシア革命への連合干渉に加わって、シベリアに出兵していました。旧帝政ロシア軍は欧州戦線でドイツ・オーストリア軍俘虜を捕獲していましたが、革命の混乱で管理できなくなりました。その俘虜管理は結局、日本軍に押しつけられました。

ロシア軍はシベリアに多数の俘虜収容所を開設していましたが、どの収容所が日本軍に移管されたか、よく分かっていません。しかし、エンタイアなどから、ピェルワヤレチカ、ニコリスク・ウッスリスキー、そしてこのクラスナヤレチカの3ヵ所の収容所を日本軍が管理したことは確実です。

浦潮派遣軍野戦交通部の記録によると、日本軍は大正8年10月から約1年間だけシベリアのオーストリア・ハンガリー兵俘虜の郵便を扱いました。その総数は5万3千通です。内地の各収容所でのドイツ軍の俘虜郵便に比べると、桁違いに少なかったことが分かります。
posted by GANさん at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 俘虜郵便 | 更新情報をチェックする
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