2014年04月06日

露軍俘虜になった英人船長

SADOMARU-1.jpgSADOMARU-2.jpg日露戦争でロシア軍に捕らえられた日本側俘虜がロシア・メドヴィエジの収容所から発信した俘虜郵便です。イギリスの収友K・クラーク氏に数年前に譲ってもらったものです。

ロシア軍の俘虜というと日本人かと思うでしょうが、差出人はGeorge Anderson。イギリス人です。陸軍がチャーターした日本郵船の貨物船「佐渡丸」船長でした。

佐渡丸は1904(明治37)年6月15日、僚船「常陸丸」と共に約1,200人ずつの陸軍部隊や武器・資材を積み、宇品から船団を組んで満洲に向かいました。ところが途中、対馬海峡でロシア海軍のウラジオ艦隊に捕捉されてしまいます。

ロシア艦隊は小銃で激しく抵抗した常陸丸を撃沈し、ほとんど全員が戦死します。佐渡丸も装甲巡洋艦リューリックの雷撃を受けましたが、沖ノ島に漂着して辛くも沈没を免れました。佐渡丸の攻撃前、ロシア艦隊は船員ら非戦闘員に退去を勧告し、応じた者を装甲巡洋艦グロモボイに連行しました。その1人がこのAnderson船長で、俘虜としてメドヴィエジに収容されたのです。

日本の鼻先で起きたこの常陸丸・佐渡丸遭難事件は国民を震駭させ、憤激させ、大きな社会問題にまでなります。近海防衛の任を帯びていた第2艦隊はウラジオ艦隊を追うも成果なく、「露探(ロシアのスパイ)艦隊」とまで呼ばれて非難・攻撃を受けました。

陸軍省発行の「明治三十七八年戦役俘虜取扱顛末」によると、この戦争でロシア軍に捕獲された日本側俘虜は合計2,088人でした。うち欧米人が4人だけいて、いずれも「陸軍所属運送船員」の「将校相当者」となっています。全員が佐渡丸の船長以下高級船員でしょう。その後、欧州で解放されています。

このはがきは無料俘虜郵便として1905年2月13日にメドヴィエジのAnderson船長から故郷スコットランド・エジンバラの息子に宛て発信されています。ロシア赤十字の検閲・承認(右上紫印と赤色丸型印)を受けた後、ペテルスブルグ局で2月23日(露暦では2月10日)に引き受けられました。フランス語による「俘虜郵便」印も紫色で押されています。

クラーク氏によると、このような英人の俘虜郵便は6通だけ知られているそうです。日露戦争に英人俘虜がいたとは。思いがけない、異色の存在です。
posted by GANさん at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 俘虜郵便 | 更新情報をチェックする
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