2014年04月12日

大阪-大連間を試験飛行

DAIREN-AIR.jpg大連を大正15(1926)年9月25日に発信した長野・上諏訪宛て飛行郵便の私製はがきです。大連局9月26日の「大連京城大阪間郵便飛行記念」の紫色記念印で引き受けられています。市場に残るものはコレクターの作成したカバーがほとんどですが、これは非郵趣家便です。

堺市大浜海岸で大正11年6月に設立された井上長一の日本航空輸送研究所は11月から大阪-徳島間で日本初の定期航空を開始しました。同社は国内にとどまらず、満洲・奉天や中国・上海への航空進出という当時としては壮大な夢を抱いていました。

海外進出の第一着として航空輸送研が手掛けたのがこの大阪大連間飛行です。大阪市木津川河口の同社飛行場を基地として福岡・大刀洗飛行場を経由し、玄界灘を越えて朝鮮半島西岸を飛び、旅順郊外営城子飛行場に至るルートが設定されました。

日本航空協会編『日本航空史 明治・大正編』によると、当時航空行政を管轄していた逓信省はなぜか、この試験飛行を快く思わなかったようです。航空輸送研が出した郵便物委託輸送(託送)の申請を却下しました。しかし、関東逓信局と朝鮮逓信局は逆で、同社に郵便物託送を許可しています。

航空輸送研は川西式水上機とマイバッハ陸上機の2機を投入し、往航が1926年9月13日に木津川河口を出発しました。15日に中継地の大刀洗を飛び立って、京城経由で両機とも無事に営城子飛行場に到着しています。大阪、大刀洗からの郵便物搭載はありませんが、京城では大連方面宛て約千通が託送されました。

復航は、まず川西機が9月20日に京城、大阪方面宛て1,493通の郵便物を搭載して大連を出発、22日に大阪に帰着しました。一方のマイバッハ機は9月26日に2,157通の郵便物を運んで大連を発ち、無事大阪に帰っています(到着日時は不詳)。このはがきは26日の復航第2便(最終便)に搭載されたことになります。

このような事情のため、このフライトでは内地発の往航郵便物は存在しません。大連と京城発着の郵便物は、それぞれ記念印で引き受けられました。とくに京城では飛行機型の記念印が使われ、コレクターにはおなじみです。両地のこの航空路にかけた期待の大きさがうかがえます。

せっかく航空輸送研が開拓にかかった大阪-大連線でしたが、結局、定期便の運航には至らず、この1回だけの試験飛行に終わっています。政府側にはこの大幹線を、民間会社でなく国策企業にやらせたい思惑があったのかも知れません。その詳しい事情については、GANは未調査です。
posted by GANさん at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 飛行・航空郵便 | 更新情報をチェックする
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