2014年04月14日

崩壊した絶対国防圏

SAIPAN-RETOUR.jpg金沢市から南洋群島サイパンに宛てた封書です。しかし、戦局の悪化で南洋に逓送されることのないまま、空しく差し出し人に返送されています。引受印は不鮮明ですが、裏面書き込みから金沢局昭和19(1944)年6月9日と推定されます。

表面に付箋が貼られています。「本郵便物ハ送達不納(不能の誤り)ニ付差出人ニ返戻ス 神奈川郵便局」と謄写版印刷され、昭和19年8月16日の日付印が押されています。

この封書は神奈川局で南洋への便船を待機した後、2ヵ月ほど過ぎたこの日に差出人に宛て返送したと見られます。公表されませんでしたが、神奈川局は南洋群島との交換局でした。

サイパンは日本軍が「絶対国防圏」と位置付けた戦略上の最重要拠点の一角でした。米軍はそこに狙いを定め、44年6月11日から空襲と艦砲射撃を繰り返し、15日に上陸を始めました。激戦の末、サイパン守備隊は7月7日に玉砕します。グアム、テニアンも相次いで陥落しました。

これらマリアナ諸島を奪われると、日本本土は航続距離の長い米陸上爆撃機の攻撃に直接さらされます。事実、B-29重爆撃機の本土空襲基地となり、米軍の翌45年3月の硫黄島占領まで使われました。広島・長崎への原爆投下機もテニアンから発進したことで知られます。

中部太平洋での絶対国防圏の崩壊は、太平洋戦争が「日本敗戦」と決まったことを意味します。衝撃で、開戦以来の東条英機内閣も崩壊しました。大局を理解できない大本営は、今度は「本土決戦」「一億玉砕」を呼号するに至ります。

荻原海一氏『南洋群島の郵政始終』(「切手研究」第395-398合併号)によると、サイパン局は6月13日の艦砲射撃によって局舎が全壊し、局員は各自退避しました。逓信省は7月18日、大本営の「サイパン玉砕」公表に合わせて「サイパン局の一時閉鎖」を内牒しています。しかし、事実上のサイパン局閉鎖(廃止)日は6月13日が妥当でしょう。

この封書は内牒から1ヵ月近くも経った後に返戻されています。その理由は分かりません。サイパン奪回作戦が行われ、局も再開できるという、はかない望みがつながっていた期間と考えるべきでしょうか。
posted by GANさん at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 第2次大戦混乱期 | 更新情報をチェックする
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