2014年04月15日

遭難「新高」宛て軍艦郵便

NIITAKA-1.jpgNIITAKA-2.jpg軍艦護衛の下に北洋漁業を強行した1922(大正11)年の「自由出漁」警備のため出動した巡洋艦「新高」に宛てた軍艦郵便です。「新高」は台風で遭難したため、付箋を付けて差し戻されています。最近の入手品です。

日本の漁業者は例年ロシア側と漁場や漁獲量を協定し、鮭鱒漁のため夏期に沿海州やカムチャツカに出漁していました。1917(大正6)年にロシア革命が起こると、それに続く内戦でロシア(ソ連)側当局者が不安定、または不在となります。1921、22年は交渉も協定もないまま、漁期を迎えて出漁しました。

海軍はこの「自由出漁」の日本漁船団に軍艦を付き添わせ、ソ連側の「妨害」から保護しました。「新高」も2年目の自由出漁保護のため派遣されましたが、22年8月26日にカムチャツカ半島西岸で台風のため坐礁して破壊、乗員と共に沈没してしまいます。

一方、函館の栗林汽船会社は22年4月に函館・小樽とカムチャツカのペトロパブロフスク間に毎月1回の定期航路を開設しました。逓信省はこの航路を利用して5月からカムチャツカ派遣艦船の軍艦郵便を開始します。この取扱は翌23年までの2年間(2シーズン)限りで廃止されました。理由は不明です。

このはがきは出動中の「新高」乗員に宛て、新潟県浦佐局で大正11年8月4日に引き受けられています。「軍艦郵便」と紫色インクで記入があります。これは先にこの乗員から通信があり、はがきの発信者に軍艦郵便を利用するように知らせていたからでしょう。

このはがきは小樽で定期船の出航を待つうちに「新高」が遭難してしまったのでしょう。あるいは遭難前にペトロパブロフスク局に着き、「新高」の入港を待っていたのかも知れません。小樽(または函館)局は軍艦郵便の閉嚢を「新高」が所属する舞鶴鎮守府に送り返しました。

舞鶴鎮守府ではわずかな生存者名などと照合・確認の後、郵便物をさらに受持局の新舞鶴局に返しました。同局で返戻理由を印刷したこの付箋を用意し、9月16日に日付印を押して差出人に返送したと見られます。

これまで、栗林汽船の定期船を利用した軍艦郵便が実施されたことは海軍の記録上で知られていました。実際に「軍艦郵便」の記入のある郵便物が出現したのは、このはがきが初めてです。
posted by GANさん at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍艦郵便 | 更新情報をチェックする
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