2014年05月03日

ウラジオ居留民会扱い便

VLADIVO-1.jpgVLADIVO-2.jpg日露戦争後の明治43(1910)年にウラジオストク居留の日本人時計商から大阪に宛てた通信です。ステーショナリーは帝政ロシアの外信用4コペイカはがきが使われています。

ロシア語で「日本宛て」と書かれているほか、ロシア側の郵便印や表示類はいっさいありません。1910年8月23日にウラジオストク(浦潮斯徳、浦潮)で発信し、2日後の8月25日に敦賀局で引き受けられています。

はがき表面にはいずれも横型角枠付きの紫色「浦潮居留民會扱」と黒紫色「PAQUEBOT」印が押されています。居留民会で日本向け郵便物をまとめ、ウラジオストク局を経ず敦賀行き定期船に直接持ち込んだのでしょう。

「PAQUEBOT(パクボー)」はフランス語で郵便船の意味です。洋上で船舶内備え付けの郵便箱に投函され、次の寄港地で郵便局に持ち込まれたことを示します。このはがきのPAQUEBOT印はウラジオストク出航後に入港した敦賀局で押されたものです。

原暉之『ウラジオストク物語』によると、日露戦争が終わって1年後の1906(明治39)年には商工業者を中心に日本人は早くも戦前の3分の1に当たる約千人が戻ってきています。外務省によって全員加盟が義務づけられていた居留民会も復活し、領事館業務の一部まで担いました。その中には郵便事務や乗船手続代行も含まれています。

在留邦人は日本向け郵便物はまず居留民会に持ち込んだのでしょう。民会では船便の出航表を勘案してウラジオストク局に差し出す郵便物と日本行き船舶に直接持ち込む郵便物とを仕分けしたと見られます。

VLADIVO-1.jpg日本行き航路には大阪商船会社の敦賀便と小樽便、それにロシア義勇艦隊の敦賀便がありました。それらの仕分けの責任を負うために「浦潮居留民會扱」印が押されたと見られます。GANのコレクションでは、この横型印を使ったのは1910(明治43)年8月までに限られ、翌9月以降は日付入りの紫色丸二型印に替わっています。

日本からの到着便も同様に、ウラジオストク局から郵袋のまま民会に引き渡されたことが考えられます。堀江満智『ウラジオストクの日本人街』によると、民会事務所の廊下は邦人各戸の「私設私書箱」になっていたそうです。便船が入港するとすぐ、邦人は民会事務所に集まったことでしょう。故国の便りを最速で入手できたことになります。

大阪商船は1907(明治40)年4月3日から敦賀浦潮間の直航線を開始し、新造の鳳山丸を投入して毎週1回運航しました。一方の義勇艦隊は歴史が長く、シベリア鉄道・東清鉄道との連絡に優れています。両者の間で激しい貨客の争奪戦が行われ、それはロシア革命後に義勇艦隊が撤退するまで続きました。
posted by GANさん at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ロシア極東 | 更新情報をチェックする
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