2014年05月19日

仮約定後の日清郵便交換

KAIPING.jpg日露戦争後の日本から清国(満洲)の遼東半島内陸部の岫巌に宛てたはがきです。中継局として日清両国の蓋平局、到着局として清国岫巌局印があり、両国間の郵便交換状況が分かります。

菊紫1.5銭が貼られた私製はがきが下関西局で明治41(1908)年10月19日に引き受けられ、満鉄沿線の日本蓋平局に10月25日に到着しています。即日、清国蓋州(蓋平)局に引き渡されたと見られます。

蓋州局日付印では「9月21日」ですが、当時は太陰暦ですから、太陽暦に直すと10月25日になるのでしょう。翌9月22日に清国岫巌局に着いて、同局で宛先の日本人に配達しています。

岫巌は満鉄線から遠く離れた奥深い小都市で、もちろん日本局はありませんでした。蓋平は岫巌への逓送路の基点に当たります。

日清両国間には初めての郵便交換条約である「日清郵便仮約定」が1903年に結ばれていました。清国は万国郵便連合(U.P.U.)に未加盟だったので、2国間条約で交換条件や料金率などを決める必要があったのです。このはがきには仮約定の結果が反映されています。

仮約定では「相手国の内国料金による郵便切手で自国内を無料で配達する」ことを相互に認め合いました。仮約定以前、日本から中国宛ての料金は内国料金より高く設定されていました。上海や天津、牛荘などの開港地日本局に着いてもその後が複雑で、内陸部への配達には付加料金が発生するのが普通でした。

もし、このはがきが1903年以前だったら日本牛荘局に回され、そこから岫巌までの遠距離は民間配達業者(民局)に託されたはずです。受取人は相当な額の料金を民局から請求されたことでしょう。

仮約定はその後、1910年に改正されて「仮」が取れ、「日清郵便約定」となります。改正交渉で清国側は外国局(客郵)の否認ないし縮小を原則としたため、日清間の郵便交換局が制限され、満洲では安東県、奉天、長春など7局だけとなりました。料金を清国切手で払うための「貼り替え」手続きが導入されたのもこの新約定からです。

このはがきが1910年以後だったら、蓋平では交換できません。指定交換局の奉天か遼陽局に回されて交換されたでしょう。1903-1910年の7年間だけ行われた、指定交換局以外の局での郵便交換を実証する貴重な資料と思います。
posted by GANさん at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日中郵便交換 | 更新情報をチェックする
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