2016年01月30日

通州事件の「当事者」部隊

萱島部隊.jpg通州事件02.jpg1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件(中国でいう「七七事変」)に連続して起き、日中全面戦争の発端ともなった通州事件の「当事者」部隊からの無料軍事郵便はがきです。ごく最近のネットオークションで入手しました。

北京(当時は北平)東方郊外の通州は、当時「冀東防共自治政府」という日本軍の傀儡政権の「首都」となっていました。冀東政府の武装警察隊である保安隊は日本軍の指導、援助を受けていましたが、その日本軍に対して「反乱」したのです。蒋介石の国民政府による抗日の呼びかけに応じたとされます。

盧溝橋事件から3週間後の7月29日、冀東保安隊の千数百名が日本軍の通州守備隊と通州特務機関を急襲し、日本人居留民と併せ約260人を殺害しました。日本の傀儡と見られていた冀東政府首班の殷汝耕は拘束され、失脚します。日本軍の反撃で保安隊は逃亡し、反乱は1日で終わりました。

この事件で、多数の日本人が殺人、暴行、強姦、放火、略奪の被害を受け、殺害方法も極めて残虐だったため、日本の世論は激高します。「偶発事件」の線で収まりかかっていた盧溝橋事件の収拾が宙に浮き、ついに全面戦争に発展する引き金ともなりました。

さて、このはがきですが、発信アドレスは「北支那 萱島部隊平本隊」となっています。「萱島部隊」は支那駐屯歩兵第2連隊(萱島高連隊長、本部・天津)を表します。「平本隊」は中隊名でしょう。派遣地の表示が単に「北支那」で、「北支派遣」ではない点が要注意です。「派遣」のない「北支那」だけのアドレスは1937年以前にしか見られません。

通州は元もと支那駐屯第1連隊(北平)から派遣された1個小隊が守備していました。盧溝橋事件の発生で支那駐屯軍は第2連隊(天津)を7月18日に通州に移動、増強して守備隊主力とします。その第2連隊が北平方面に出動した7月29日に冀東保安隊が100人足らずの留守部隊を襲い、全滅させました。

はがき表面下部の通信面に「絵の中の塔に御大将の殷汝耕が住んでおります」と書かれています。ごく平穏な文面から、事件「当事者」の第2連隊が駐屯開始した7月18日から事件発生の7月29日まで10日ほどの間に通州から発信されたことが明らかです。まさに通州事件当事者部隊の軍事郵便です。

日中戦争によって華北に侵攻した日本軍には1937年8月2日に無料軍事郵便の適用が正式に告示されました。それ以前に実施されていた無料軍事郵便の使用例としても、このはがきは貴重です。

支那駐屯軍はこの年4月1日に2個連隊5,500人の旅団規模に大増強されています。それに合わせて兵営内に「支那駐屯軍軍用郵便所」が開設され、無料軍事郵便が秘密裡に適用されたばかりでした。このはがきも駐屯軍軍用郵便所で取り扱われたに違いありません。

ここで少し触れた日中戦争直前の支那駐屯軍の秘密軍事郵便については、いずれかの機会に詳述したいと思います。また、今回のテーマに関連して、2014年4月22日4月29日の本ブログ記事もご参照下さい。
posted by GANさん at 00:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする
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