郭松齢は奉天軍第10軍の軍長でしたが、11月23日に山海関に近い灤州で「東北国民軍」を名乗って張作霖打倒を宣言します。この名称は中華民国国民政府(広州、南京)中央軍の「国民軍」との連携を表します。5万の郭軍は12月5日に連山で奉天軍を破り奉天に向け進撃しますが、営口に入市する直前、関東軍に阻止されます。
奉天軍はその間に満洲各地から15万の兵力を集めて態勢を立て直し、12月22日に遼河河畔の会戦で郭軍を敗走させます。争乱はわずか1ヵ月、しかも満洲南西部の局地だけで収まりました。一時は下野、敗死まで覚悟した張作霖は、捕らえた郭と妻を直ちに銃殺してしまいます。関東軍(と日本政府)が望む奉天軍閥と日本軍による満洲の二重支配は安泰でした。
郭の反乱は失敗し、事件が短期間に終わったので世間に余り知られていませんが、1931(昭和6)年に起こる満州事変の伏線の一つと言えます。しかし、その関東軍もわずか2年半後、いったんは救った張作霖を謀略に掛けて暗殺してしまいます。日本軍の満洲支配をさらに強めるためで、真相を隠すため「満洲某重大事件」と呼ばれます。
日本政府は郭松齢の反乱事件をつぶすため、朝鮮と日本内地から関東軍への増援部隊を派兵しました。朝鮮軍の第20師団(竜山)で満洲臨時派遣歩兵大隊が、内地の第12師団(久留米)で満洲派遣混成第1旅団が編成されます。それぞれ25年12月17日、19日に奉天に到着し、奉天から長春の間の満鉄沿線主要地で警備につきました。


一方、関東軍本来の駐屯部隊(当時は第10師団)はアドレスを「南満洲奉天駐箚」とか「満洲長春守備」などと表記しています。「満洲派遣」という表記はこの当時ほかでは使われず、張郭戦争の増援部隊であることがはっきりと区別できます。使用例はわずか1ヵ月足らずです。6年後の満州事変初期には「満洲派遣」も多用されますが、そちらは無料です。
張郭戦争の終結からしばらくして、内地と朝鮮からの増援部隊は翌1926年1月中旬に満鉄沿線の警備地から撤退しました。混成第1旅団は1月19日に下関に上陸・帰還しています。