2016年03月22日

「張郭戦争」へ干渉部隊

「張郭戦争」は、1925(大正14)年11月に満洲の奉天軍閥内部で起きた争乱です。軍閥の頭目・張作霖に対し、部下の郭松齢が反乱を起こしたのですが、関東軍が軍事干渉して反乱をつぶしてしまいました。郭が孫文らの国民政府に同調し、その統治が満洲に及ぶのを恐れたためです。

郭松齢は奉天軍第10軍の軍長でしたが、11月23日に山海関に近い灤州で「東北国民軍」を名乗って張作霖打倒を宣言します。この名称は中華民国国民政府(広州、南京)中央軍の「国民軍」との連携を表します。5万の郭軍は12月5日に連山で奉天軍を破り奉天に向け進撃しますが、営口に入市する直前、関東軍に阻止されます。

奉天軍はその間に満洲各地から15万の兵力を集めて態勢を立て直し、12月22日に遼河河畔の会戦で郭軍を敗走させます。争乱はわずか1ヵ月、しかも満洲南西部の局地だけで収まりました。一時は下野、敗死まで覚悟した張作霖は、捕らえた郭と妻を直ちに銃殺してしまいます。関東軍(と日本政府)が望む奉天軍閥と日本軍による満洲の二重支配は安泰でした。

郭の反乱は失敗し、事件が短期間に終わったので世間に余り知られていませんが、1931(昭和6)年に起こる満州事変の伏線の一つと言えます。しかし、その関東軍もわずか2年半後、いったんは救った張作霖を謀略に掛けて暗殺してしまいます。日本軍の満洲支配をさらに強めるためで、真相を隠すため「満洲某重大事件」と呼ばれます。

日本政府は郭松齢の反乱事件をつぶすため、朝鮮と日本内地から関東軍への増援部隊を派兵しました。朝鮮軍の第20師団(竜山)で満洲臨時派遣歩兵大隊が、内地の第12師団(久留米)で満洲派遣混成第1旅団が編成されます。それぞれ25年12月17日、19日に奉天に到着し、奉天から長春の間の満鉄沿線主要地で警備につきました。

長春-2.jpg長春-1.jpgの分銅はがきの引受機械印は大正14(1925)年12月21日の長春局です。久留米から満洲に渡り、長春に配備された直後の混成第1旅団第2大隊の兵士からの発信です。有料であり、発信アドレスに「満洲派遣隊」と表記、の2点が特徴です。GANは朝鮮からの派遣部隊のエンタイアは未見ですが、恐らくこちらにも「満洲派遣隊」「満洲臨時派遣」などの肩書きがあるのでしょう。

一方、関東軍本来の駐屯部隊(当時は第10師団)はアドレスを「南満洲奉天駐箚」とか「満洲長春守備」などと表記しています。「満洲派遣」という表記はこの当時ほかでは使われず、張郭戦争の増援部隊であることがはっきりと区別できます。使用例はわずか1ヵ月足らずです。6年後の満州事変初期には「満洲派遣」も多用されますが、そちらは無料です。

張郭戦争の終結からしばらくして、内地と朝鮮からの増援部隊は翌1926年1月中旬に満鉄沿線の警備地から撤退しました。混成第1旅団は1月19日に下関に上陸・帰還しています。
posted by GANさん at 02:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍事行動 | 更新情報をチェックする
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