2016年05月31日

「関特演」の無料軍事郵便

寺洞.png朝鮮・平壌郊外の平安南道・寺洞局で1941(昭和16)年12月に引き受けられた無料軍事郵便です。最近のネットオークションで入手しました。太平洋戦争の軍事郵便でしょうか。いや、太平洋戦争中、朝鮮に無料軍事郵便が適用された事実はありません。では……? 

これこそがいわゆる「関特演」、関東軍特種演習の軍事郵便です。引受印は「平南・寺洞 16.12.29」。寺洞は平壌の南東(内陸側)郊外の地名で、平壌からは平壌炭坑線二つ目の寺洞駅が利用できます。発信アドレス「岩部隊」の「岩」は部隊長の姓なのでしょうが、実際の部隊名は不明です。あるいは、平壌駐屯の第20師団歩兵第77連隊かも知れません。

「関特演」は、1941(昭和16)年7月、独ソ戦初期のドイツ軍優勢の状勢に便乗してソ連に侵攻(開戦)する目的で満州の関東軍を増強した動員のことを言います。侵攻企図をソ連に知られると、逆にソ連から攻撃を受けるリスクが避けられません。絶対極秘とするため、「演習参加のための動員」に偽装されました。

動員開始後、戦況は次第にドイツ軍不利に転じたため、41年8月9日に年内の対ソ開戦は断念されます。しかし、陸軍は太平洋戦争の動員と併行してさらに関特演を42年初めごろまで続け、100万人を誇る「精鋭関東軍」に仕上げます。

関特演は戦争ではないので、軍事郵便開始の告示はありません。従って「関特演の軍事郵便」は存在しないと、これまで考えられてきました。しかし、関東軍に対しては満州事変以来、軍事郵便が適用され続けていました。満州事変や日中戦争での動員部隊が朝鮮や関東州に上陸すると軍事郵便が適用されていた事実もあります。

関特演では朝鮮の第19(羅南)、20(京城)師団も41年7月7日に動員されました。両師団とも東部正面の攻撃部隊に加わってソ連・沿海州の南部ウスリー地区に侵攻する計画でした。実は、19師団には1918(大正7)年のシベリア出兵に加わり、この作戦を陸路でなく南方からの海路で実行した経験があります。

それが開戦延期-待機と事態は推移し、「出動できない動員部隊」と臨時編成されたその留守部隊とが兵営内で同居する珍事が起きてしまいます。最終的には両師団の動員が解除され、平時の駐屯態勢に戻りました。

このはがきはそうした待機期間中、「動員部隊無料」としての軍事郵便と考えられます。文面に「実は長い間通信止めの為、心ならずも今日迠延引致して居りました」とあります。20師団の正確な動員解除時期は不明(恐らくは41年末)ですが、それを見越して7月以来続けられた通信封鎖が解除されたのでしょう。

同一人の通信が10数点残されており、1942(昭和17)年1月12日以降はすべて楠公はがきが使われて有料です。関特演で動員されたほとんどの部隊は満州に到着して駐屯していますが、朝鮮の19、20師団だけは動員解除されて平時態勢に復帰しました。復帰後は軍事郵便も適用廃止となったと考えられます。このはがきは通信再開許可後、動員解除となるまでごく短期間だけの希少な使用例と思います。
posted by GANさん at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍事行動 | 更新情報をチェックする
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