2016年06月09日

占領下青島の中国局再開

TSINGTAU.jpg第1次大戦後、オーストラリアから日本軍占領下にあった中国・青島に宛てられたはがきです。当時の日中間の特殊な郵便交換状況を表す興味深い資料と思います。

このはがきはシドニー局で1920(大正9)年12月9日に引受けられ、中国上海局に21年1月10日に着きました。恐らく膠済鉄道(日本の言う山東鉄道)が使われて、青島に着いたのが1月13日。中国青島局はその日のうちに日本青島局に引き渡し、青島市内の名宛人に配達されたことが各郵便印から分かります。

ここで問題となるのは、このはがきがなぜ中国青島局から日本青島局に引き渡されたのか、ということです。中国局でそのまま配達すればよいのに、わざわざ日本局に引き渡した理由は何だったのか。名宛人が日本企業(三井物産の中国法人)の日本人だからでしょうか。

青島は戦前までドイツ領膠州湾租借地の「首都」でした。日本は青島攻略後も租借権の受け継ぎをもくろんで青島守備軍を置き、租借地と膠済鉄道全線の軍事占領を続けました。中国はこれに抗議して国際世論に主権回復を訴えますが、戦後世界秩序再編を目指すワシントン会議まで持ち越されます。

日本軍占領地区と中国との間の不安定な郵便・電信連絡問題を打開するため、両国の外交交渉が行われます。その結果、1917(大正6)年3月に北京で暫定的に「山東日支通信連絡弁法」が、さらに翌18年10月に青島で青島守備軍と中国交通部との間に弁法の細則が、それぞれ協定されました。

上の「」内の弁法の名は通称で、正確には、和文(中文もあり)で次のようにとても長いタイトルになっています。細則の正確なタイトルはこれに輪をかけて長いので省略します。
「帝国ノ管理ニ属スル膠州湾租借地及山東鉄道ニ於ケル日支両国郵便電信事務処理ニ関スル弁法」

この弁法によって日本は占領中の青島での中国局開設を承認し(第1條)、代わりに中国は済南と濰縣に日本局を開設することを公認しました(第2條)。また、細則で中国局は青島宛て郵便物はすべて日本局に引き渡すことが定められました(第1章第1条第5号、第3條第4号)。

こうして、18年11月1日に再開された中国青島局は外国郵便交換局なのに無集配局、という極めて特異な存在となりました。ただし、明文で否定されてはいないので、この時期にも中国青島局が引受けて青島以外の中国各地に宛てた郵便物が存在する可能性はあります。

前置きばかりが長くなりましたが、このはがきに日中双方の青島局日付印が押されているのはこれらの協定があったからです。いったんは中国郵便系に乗った郵便物も、青島ではすべて日本郵便系に託すほかありませんでした。この協定での「青島」の範囲は、文脈からみて膠州湾租借地全体を意味すると思われます。
posted by GANさん at 01:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日中郵便交換 | 更新情報をチェックする
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