2016年09月09日

荻原海一さんを悼む

aSCF1082.jpg大著『南洋群島の郵便史』で知られる昭和期郵便史研究者の荻原海一さんが亡くなり、先日、GANは新井紀元、沢株正始さんと共に逗子のご自宅を弔問してきました。昨春訪問した際は車いすからも離れ、まったく普通の応対をしていました。突然の訃報は悲しい限りです。結果的に、収友の前に現れたのは2013年春の切手研究会総会(左写真)が最後となりました。

早苗夫人によると、体調不良で7月半ばから入院中、8月1日に慢性心不全で亡くなりました。85歳でした。2000年以来、脳梗塞、冠動脈硬化症、胃がん、腸閉塞、尿閉塞、慢性腎炎、腰痛、大腿骨骨折と入退院を繰り返しました。いずれも強固なリハビリ努力で復帰、仲間内で「不死身の男」とささやかれていたのですが……。

荻原さんの業績で真っ先に挙げられるのは、1954年に『独逸建物切手研究』(下写真)を著したことだと思います。オフセット印刷のシリーズ切手をテーマに、版別、保護線、補修、版欠点など今日でこそ常識となっている製版工程を初めとする製造面での切手分類の手法を本格的に導入し、日本郵趣界に衝撃を与えました。

建物切手2.jpg敗戦からまだ10年も経たず、高度経済成長もずっと先という不自由な郵趣環境の中、大学生ながら未知のドイツ切手の解明に打ち込み、本国の専門家をも凌いだ成果は今日でも不滅です。研究の深さに驚愕した三井高陽氏が熱心に出版を勧め、当時破格の40万円の経費まで負担したエピソードが伝えられています。

郵趣人生の後半に当たる1980年代以降は、ドイツ切手の製造面の研究から180度転換して日本郵便史一筋となりました。御尊父が非常に高名な文人で、膨大な来信を几帳面に保存しておられました。亡父の手紙類の整理を始めたことから、たくさんの興味深い使用例のカバーに惹かれていったのでしょう。

震災切手の研究で著名な牧野正久氏から紹介されたという「鎌倉のオギワラ」なる人物からGANの自宅に突然電話がかかってきたのは、80年代の半ばごろでした。「開戦直前にアメリカから我が家に宛てた封書に『大日本憲兵隊検閲済』の封緘紙が貼られている。これは何か」「軍事をやっているそうなので、何か知りませんか」という質問でした。

見たことも聞いたこともないカバーのことでGANには何の解明もできず、1時間を超す長電話をお茶で濁して終えた記憶があります。荻原さんとの深い付き合いの始まりでした。彼にとっても、郵便史の底知れぬドロ沼にはまり込む因縁のアイテムだったと思います。このカバーは荻原さんが20年掛かりの執念で解明し、「切手研究」第431号(2006年)に発表、GANもこのブログの2014年4月18日付で書いています。

荻原さんの日本郵便史研究は時代を昭和切手発行開始の1937年4月から25年間の日本最大の激動期に絞って、集中的、精力的に進められました。成果の大部分は大石隆久さんが主宰した第一郵趣会の「スタンプコレクター」誌を中心に、「切手研究」「全日本郵趣・関西郵趣」「いずみ」「郵便史学」などに総計250編近くにもわたって掲載されています。「南洋」に着手したのは、これらが一段落してからのことでした。

今日、私たちが大戦を挟んだ戦前・戦後の日本郵便史について何かトピックスを書こうとすると、必ずと言ってよいほど荻原さんの築いた先行研究の巨大山脈に突き当たります。今でさえ難かしい、得られる限りの文献と独自の人脈を駆使した徹底的な調査が行われていたことを知ります。

「自分の所蔵品についてだけ書く」が荻原さんの原則でした。自分が書きたいテーマに欠かせないブツを持っている収友に矢が飛びます。大事な品を泣く泣く荻原さんに貢いだ人たちの怨嗟の声は今も絶えません。もっとも、彼らは「献納品」に見合う以上の交換品を入手した事実については、決まって口を拭っているのですが。

荻原さんの享年は、日頃「先生」と慕い尊敬してやまなかった三井氏の82歳をも上回りました。趣味に生きてその成果を社会に還元もできた堂々たる人生と言えるでしょう。切手と郵便史研究の忠実な後継者として、今頃は先生と対話の花を咲かせているのかも知れません。
posted by GANさん at 00:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑観・雑評 | 更新情報をチェックする
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