2016年11月06日

朝鮮・会寧局の異型印

会寧.jpg日露戦勝記念1.5銭を貼った絵はがきです。朝鮮(韓国)の北東端、咸鏡北道の会寧局が櫛型印で引受け、同じ道内の輸城局が丸一印で配達しています。

東京で開かれていたJAPEX最終日の11月6日に、同じ会場であった大手ディーラーのフロアオークションで落とした内の1点。まだ湯気の立っているホヤホヤ品です。

発・受信者は共に元韓国駐箚軍東部兵站監部郵便部時代の同僚(野戦局員)だったことが別の資料から分かっています。韓国駐箚軍東部の管轄地だった咸鏡北道の城津以北地区は、明治38(1905)年10月末に全野戦局が撤廃され、普通郵便局所に引き継がれました。野戦局員の多くは普通局に転属しています。

朝鮮の野戦局は基本的には38年9月末までに閉鎖され、普通局に引き継がれたのですが、この地区だけは1、2ヵ月遅れました。ロシア国境に接しているためロシア軍に占領され、日本軍の回収が遅れたからです。城津局はロシア軍部隊に侵攻された1904年4月に閉鎖に追い込まれ、翌05年8月まで再開できませんでした。会寧も輸城もロシア軍の占領区域内でした。

このはがきで会寧局の櫛型印は明治39年6月15日、輸城局(正確には共に城津局の出張所ですが、簡略して「局」と表現します)の丸一印は2日後の17日です。とくに輸城局は半月前の6月1日に開設(郵便事務開始)したばかりでした。日付印の配備状況を調べる好資料になると思います。

ここで会寧局の櫛型印がとても異様なのが目立ちます。A欄の局名が印の上方外側弧線に沿って右書きで並ぶべきところ、逆向きになっています。C欄には本来は時刻活字が入るべきなのに、A欄と同じ逆向き局名です。もともと郵便でなく電信用に作られた日付印の下部印体(C.E欄)を郵便用に流用したために異様な印影になりました。

朝鮮では各地に軍の電信部隊である軍用通信所が多数開設されました。主要地では開戦初期の1904(明治37)年4月から民間人の公衆電報も有料で扱いました。朝鮮内に開設される日本普通局は当初から電信(電報)を扱いましたが、未通地区では普通局が軍用通信所の電信事務を移管されて公衆電報を始めています。

城津以北地区では、野戦局や軍用通信所から普通局への切り替えが遅れ、ほとんどが開局した後で軍の電信事務を引き継ぎました。切り替えを急ぐ余り、軍用通信所の名前だけ普通局に変え、郵便を扱わない電信専用局として開設された例もあります。会寧では06年3月31日限りで会寧軍用通信所が廃止され、4月1日から会寧局が電信事務を引き継ぎました。

これらの普通局で丸一印を使っている間は問題なかったのですが、櫛型印が導入され始めると混乱が起きました。上述した地域的な特殊事情もあって、普通局としての日付印が開局に間に合わない局が続出したのです。

兼二浦.jpgそうした普通局では、やむなく軍用通信所時代の電信印を郵便用にもそのまま使ったり、局名活字だけ郵便用に流用して一時しのぎとしました。ところが、その電信印は、A欄「韓」、C欄局所名という形式です(左図はその一例)。郵便印ではA欄の局名文字の並びが上方に凸型なのに、電信印はC欄局名なので下方に凸型と逆です。電信用局名活字をA欄にはめ込むと、局名が逆向きとなってしまいました。

--前説が長くなり過ぎましたが、会寧局で異型な印が使われた背景には、このような複雑で煩瑣な事情があったとGANは考えています。誤って使ってしまったのではなく、正規の形式でないことを承知で敢えて使い続けたという意味で、これはエラー印とは言えません。

会寧局と似た異型印の例は清津、茂山、北青、甲山、長津、堤川の各局でも見られます。ただし、これら咸鏡北道とは無縁の京城西大門や漢江坊、虎島などの局所にも異型印の郵便使用例があります。軍用通信所での丸一印から櫛型印(A欄「韓」、C欄所名)への切り替え時期なども含め、さらに考察が必要です。
posted by GANさん at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 植民地 | 更新情報をチェックする
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