2016年12月14日

華北郵政に貯金を委託

北ほ01.jpg北ほ02.jpg日本軍占領下の中国・青島郵局が在留日本人のためだけに特別に取り扱った貯金通帳です。最近の関西大手オークションで入手しました。

通帳は褐色大型で表紙に巨樹を描いた日本内地と同じ内閣印刷局製で、下関貯金支局が発行しています。貯金記号「北ほ」は華北郵政総局管内の青島郵局に口座があることを表します。預入人の住所は「青島欧陽路2号」と書かれています。

北ほ03.png受払を証する日付印も日本と同じ為替貯金用櫛型印で、A欄「青島」、C欄「北ほ」です。しかし、印色が極めて特殊で、通常の黒色ではなく朱色です。櫛型印時代では他に類例がありません。昭和18(1943)年4月1日から19年3月9日までほとんど毎月1回、1円ずつ預け入れられています。

中国局で中国人職員が扱っているのに、日付印の年号に民国年号(昭和18年=民国32年)を使わないのはなぜか。この通帳は日本逓信省が占領地の傀儡政権・中華民国臨時政府(北京)に事務委託をして1939(昭和14)年11月16日から始めた日本の郵便貯金だからです。

37年7月に日中戦争が始まると、日本軍は北京・天津地区を始め河北、山東省全域と山西、河南省の一部をたちまち占領しました。占領地に進出した日本人多数の「日本の郵便貯金に加入したい」という要望が理由とされます。中国郵政も儲匯(貯金・為替)業務を扱っていたので、二重制度になります。

ただ、上海にあった国民政府(蒋介石政権)郵政総局に対して、華北政権の華北郵政総局は半面独立・半面従属という態度でした。華北占領地で中国郵政に貯金すると、日本系貯金原資も国民政府の運営に委ねることになります。それを避ける思惑から、日本側は華北政権にこの我が侭な要求を受け入れさせた、という事情があったと思います。

39年10月19日に締結された逓信省と華北郵政総局との間の委託貯金基本協定書案が国立公文書館に残っています(「北支委託貯金 基本協定、細目打合、通知事項」)。

 1、北支記号通帳の預入・払戻事務を委託。貯金原簿は下関貯金支局で所管する。
 2、手続きは日本貯金法令に準拠。通帳・式紙類、法規文書は日本側が提供する。
 3、受払には華北流通の通貨を使い、通帳には日本通貨で金額表示する。
 4、華北通貨と日本通貨の交換レートは両者が協議して決定する。
 5、受払1口につき10銭の取扱手数料を華北側に支払う。
 6、日付印類は印影を日本側が提供し、華北側が調製。通帳には朱肉で押印する。
 7、利用者への責任は日本逓信省が負う。

この「北支委託貯金」の取扱局は当初は、北京(北い)、天津(北ろ)、済南(北は)、太原(北に)、青島(北ほ)、石家荘(北と)の6局だけでした。次第に増加し、5年後の43年11月1日現在では河北、山東、山西、河南、江蘇の各省で合計24局になっています(『大東亜為替貯金取扱局便覧』)。

協定書や前後の往復文書には「日付印は日本年号を使う」という取り決めはありません。しかし、利用者が原則として日本人に限られたことに加え、日付印の版下を日本側が用意したことからそうなったのでしょう。中国局で「昭和」年号の日付印を使用--。通帳1通が日本の占領郵政を象徴していると思います。

関連して、華北占領地で日本郵政が中国側に委託した業務としては、他に口座間送金業務の郵便振替(1941年10月1日開始)があります。為替関係では事務委託はなく、通常・電信・小為替とも中国業務として日本業務との間で取り組まれました。


さらに蛇足を付け加えます。使用済みの行政書類は国立公文書館移管が法律で義務づけられています。が、実際には郵政省関係では貯金局が所管した為替貯金資料があるだけです。それだけでも大変ありがたいことですが、残存は何かの偶然で、意図した結果とはとても思えません。その証拠に、郵便行政の本流である郵務局作成の資料が公文書館にはゼロなのです。

旧逓信省は関東大震災で全焼し、すべての書類を失いました。それでも努力して収集・復元に努めた結果、震災前も含めてかなりの量の資料が現在の郵政博物館に保管されています。これに対し、戦中・戦後の80年間だけでも膨大な分量にのぼったはずの行政書類はすべて廃棄されてしまいました。戦後から現在に至る郵政官僚たちの無能(歴史認識の欠如)と国民に対する無責任を象徴しています。
posted by GANさん at 00:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 中国戦区 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください

この記事へのトラックバック