2017年02月23日

中国宛て料金の最末期例

天竜川丸.jpg大阪から中国(清国)上海に宛てた小判はがきです。U小判1銭切手が加貼りされ、大阪局で1898(明治31)年9月9日に引き受けて14日に上海に届いています。最近のヤフオクで入手しました。

1銭はがきは3ヵ月後の12月1日に菊(紐枠)はがきに切り替わりました。従ってこれは、小判はがきシリーズの外国宛て最終期使用例となります。

官製はがきに1銭切手が加貼りされていることに何となく異和感が感じられます。「中国宛ては内国と同額料金」という常識に反するように見えるからでしょう。

実はこのはがきは「同額常識」が成立する直前、まだ中国宛てに国際料金が設定されていた時代の最末期使用例になるのです。当時の中国(日本局所在地)宛て料金は書状5銭、はがき2銭でした。

逓信当局は外国郵便の規定全般を見直しており、1899(明治32)年1月1日から実施しました。その中で、中国宛て料金をこれまでの国際料金からはずし、内国料金と同額とします。このはがきがもし3ヵ月後に出されていたら1銭切手の加貼りは不要で、印面料額の1銭だけで上海に届いたはずでした。

この改定は、日清間通信の便宜を図り、朝鮮宛て料金がずっと内国並みだったのに合わせた、と説明されました。これは外国である中・朝両国を日本の郵便網の中に取り込む、通信主権の侵害でした。しかし、半植民地状態でU.P.U.(万国郵便連合)にも未加盟だった当時の清国からこの点での抗議はなかったようです。

中国側も後の1903(明治36)年に結んだ日清郵便仮約定で対日料金を日本と同額として日本の料金設定を追認しました。正確には、条文上で「清国から日本宛て料金は、日本の清国宛て料金以下にできない」という表現になっています(仮約定第2条第4号)。先にあげた「同額常識」はこうして完成しました。

ところで、はがきの宛て先をさらに詳しく読むと、「清国上海・日本郵船会社内/大阪商船会社天龍川丸」となっています。通信文面から、受取人はこの船の高級船員のようです。これも日中間郵便史上のエポックを記す点で、見逃せないアドレスです。

逓信省は日本の郵便網を中国沿岸部にとどまらず長江の奥深くまで拡張する意図がありました。そのため、大阪商船会社にこの年、98年1月から上海-漢口間に郵便船の運航を始めさせたばかりだったのです。そこに投入されたのがまさにこの天龍川丸と僚船の大井川丸の2隻でした。大阪商船には補助金年額9万円、保証金1万円という巨額の国費が交付されました。

初航の天龍川丸は98年1月4日に上海を出港し、延べ140人の乗客と貨物121個を運んで7日に漢口に着いています。復航は漢口8日発、上海に16日帰着でした(明治31年2月15日逓信省発海軍省宛「揚子江航路開始以降ノ状況報告」=アジア歴史資料センター公開資料=による)

この航路は4月からさらに上流の宜昌にまで延長され、強力なインフラとして長江沿岸に多数の日本局を開設する基礎を作りました。約7年後の明治37(1904)年12月15日付「逓信公報」告知によると、同日現在で上海のほか鎮江、蘇州、杭州、南京、漢口、太冶、武昌、長沙、沙市の各局所が開設(ほかに宜昌に秘密出張取扱)されています。
posted by GANさん at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日中郵便交換 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください

この記事へのトラックバック