2017年03月21日

秘密局廃止後の郵便交換

会寧.jpg満州の朝鮮国境に近い間島地区の中心都市・龍井村(龍井市)から日本・東京宛ての中国ジャンクはがきです。

料額印面の1.5分にジャンク半分切手を加貼りした2分は当時の内国料金と同額です。中国・龍井村局が民国15(大正15=1926)年7月4日に引き受けています。名前から、発信者は間島で大多数を占める朝鮮人移住者のようです。

このはがきは中間地の和龍を経て翌5日に豆満江(図們江)を朝鮮側に渡りました。沿岸の朝鮮・会寧局に引き渡され、中継印の欧文「KAINEI」印が押されています。龍井村-会寧の日中間を1日というのは、非常に効率の良い郵便交換を示します。その先は清津港などから日本海を新潟に送られたのでしょう。

会寧局が龍井村局との交換局となったのは1923(大正12)年1月1日のことでした。この日から新しい「日支郵便約定」が実施され、郵便交換が始まったからです。同様に、朝鮮・慶源局も中国・琿春局との交換局に指定されています。会寧、慶源両局の欧文印はこの日中郵便交換のために導入されたものです。

実は、龍井村-会寧間、琿春-慶源間の郵便ルートは日支郵便約定以前からありました。しかし、その時代は、朝鮮総督府逓信局が龍井村に間島局、琿春に慶源局分室を開設し、朝鮮逓信局の職員が国境を越えて郵便物を運んでいました。中国側の許可もなく中国領内に設けた秘密の郵便機関、逓送路でした。

中国には清朝末期から帝国主義列強の郵便局が多数開設されており、中国(中華民国)政府が強く抗議していました。中国の主張は第1次大戦後の新国際秩序を形成する1922年のワシントン会議で認められ、すべての在中国外国局の22年末までの撤廃が「決議第5号」として採択されました。

これにより、日本も秘密局を含む在中国局を廃止せざるを得ませんでした。ただし、日本は関東州と満鉄付属地の郵便局所は決議にある例外規定に該当すると主張して撤廃せずに残します。例外と認めない中国との間で対立し、解決しないまま1945年の敗戦まで引きずり続けました。

余談にわたりますが、「郵便学者」を自称する内藤陽介氏は『満州切手』(角川学芸出版、2006年)などで、中国内の外国郵便局撤退は九ヵ国条約で取り決められたと繰り返し述べています。しかし、条約にそのような文言は全くありません。しかも日本の批准は1925年なので時期も合わず、ダブルエラーです。同書(p.98)から典型的な一例を示します。
この条約は、日本が第一次大戦中に獲得した山東省の権益を放棄させられたことで有名だが、郵便に関しても重要な取り決めが行われている。すなわち、中国国内におかれた外国郵便局の撤退である。
内藤氏が一定の力のある郵趣家のため、この誤記の影響が多方面に及んでいます。たとえばこの本の翌2007年に出版された山崎好是『郵便消印百科事典』(鳴美)も内藤氏を全面的に信じたばかりの「被害者」の一書です。「中国の郵便印」(筆者注:正確には「在中国局の郵便印」)の解説の中で、次のように記しています(p.528)。
中国に設置された郵便局は、ワシントン会議で結ばれた9ケ国条約により、大正11年(1922)12月31日限りで全局が閉鎖された。
九ヵ国条約は以後の中国の主権尊重・機会均等をうたった一般的な精神規定であって、現況の具体的な実務の改善や問題解消を取り決めたものではありません。この「学者」さんは、わずか9条の条約本文にすら目も通さずに「学芸書」を書き上げる手の人だとGANはニラんでいます。

在中国局撤廃という新事態で実施されたのが日支郵便約定であり、それを受けた図們江を挟む2地点での中朝郵便交換でした。ただし、この交換の実態は資料不足でよく分かっていません。毎日欠かさず交換したのか、交換地点は川のどちら側か、あるいは、どちらかの局に相手側が出向いて持ち戻ったのか、などです。

会寧、慶源両局が中国側からの交換郵便物のすべてにこのような欧文印を押したのではないことも、残存エンタイアから明らかです。どういう郵便物に押し、それはいかなる割合となるか。これらも今後知りたい問題点です。
posted by GANさん at 01:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日中郵便交換 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください

この記事へのトラックバック