

検閲で「相手の国籍が書いてない!」とチェックされ差出人戻し。国籍を書き加え、切手も貼り直して再投函し、やっとのこと配達された、戦時下ならではの涙ぐましい現物です。
米英を相手に乾坤一擲の戦争準備が進められていた41年10月4日、信書の検閲を合法化する臨時郵便取締令が施行されました。取締令は細則で、郵便差出人は「自己又ハ受取人ガ日本人ニ非ザルトキハ」その国籍明記を義務づけていました(昭和16年逓信省令第108号)。
取締令の本来の目的は、戦争遂行上で致命的に重要な防衛情報が外国に漏れるのを防ぐことにありました。送・受信者が日本人かそうでないか、外国人だとしたら敵性国か友好国人か、は検閲上の重要なポイントだったのです。しかし、「国籍明記」など日本郵便史上で初めてのことです。初期はこうした「違反書状」が多発したことでしょう。
改めてこの封筒を詳しく検討すると、書状の送達をめぐって次のような経緯が浮かび上がってきます。このうち3~8の過程が検閲体制下でなければ起きなかった「異常事態」です。結局、この書状は差出人と東京中央局の間を往復させられ、到着まで10日間近くを空費したことになります。
1、昭和17年3月21日ごろ差出人が赤坂局ポストに投函
2、赤坂局で取り集め、引き受けて東京中央局に逓送
3、中郵局で検閲課に回り、検閲官が開封検閲し、受取人の国籍記載漏れに気付く
4、検閲官が表面右下部に鉛筆で「国籍不書」と書き込み、左辺の開封部を検閲封緘紙で
再封し、上辺部切手左側に「還付」付箋を貼り付ける
5、赤坂局を経て差出人に差し戻し
6、差出人はめげずに封筒左下部に「白系ロシア人」と万年筆で書き込み、封緘紙の一部に
かかるように東郷4銭切手を再度貼り、「還付」付箋をはがして3月30日に再投函
7、赤坂局で取り集め、再度貼られた切手を抹消して引き受け、東京中央局に逓送
8、中郵局検閲課は国籍記載済みと検閲封緘紙の封緘状況を確認し、再開緘せずにパス
9、中郵局から長崎局経由で中国上海局に逓送
10、上海局で4月10日に到着印を押し、受取人に配達
取締令下で外国郵便の差出は、切手は貼らずに添えて窓口に持ち込むのが原則ですが、「満洲国」と中国(日本軍占領地区)宛てに限りポスト投函が認められていました。窓口持ち込みだったら最初から国籍不記載を注意され、こんな騒ぎにはならなかったでしょう。両国は日本の「友邦」であり、日本人同士の通信が圧倒的に多かったための優遇策が仇となりました。
東京中郵で貼り付けた付箋は再投函のさいに剥がされ、残っていません。恐らくは「臨時郵便取締令ニ基ク左記ノ命令違反ニヨリ差出人戻シ 二重封筒/国籍記載漏レ/通信文手書」といった趣旨が印刷された外国郵便専用のものだったでしょう。「国籍記載漏レ」に○を付けるか、他の2項を抹消して使います。
二重封筒違反はありふれたものですが、「国籍記載漏れ」「通信文手書」は少なく、とくに後者の実例をGANはまだ見たことがありません。タイプライター打ちの文章の方が手書きを判読するよりは検閲の効率がよいということでしょうか。よく分からない規則です。