2017年04月28日

たった20日間の欧文印

寛城子-1.jpg寛城子-2.jpg中国天津の日本局からパリ宛てのカバーです。菊10銭をTIENTSIN 2局1907(明治40)年10月10日の金属印で抹消して引き受けられています。天津2局とは、天津・紫竹林の日本領事館内に開設された天津局紫竹林出張所を表します。

到着印はありませんが、満州・寛城子日本局(所在地は孟家屯)の中継印が封筒裏面に押されています。「KUANCHENGTSU(寛城子)07年10月13日」の欧文黒色ゴム印(左下図)です。天津から恐らく塘沽-大連間を航送されてわずか3日で到着しています。

日露戦争で日本はロシアに東清鉄道南部支線の南半分を割譲させ、南満州鉄道(満鉄)としました。さらに07年7月、ロシアと満州鉄道接続協約を結んで満鉄線北端の孟家屯駅から軌道を延伸し、ロシア側南端の寛城子駅に接する西寛城子駅を作ります(下の概念図参照)。

これにより、戦争で切断されていた南部支線が日露両線に分かれながらも再接続されました。ただし、ロシア側(東清鉄道)が広軌なのに対して日本側kuanchengtsu.JPG(満鉄線)は日本の列車が走れるよう狭軌に改築したので、双方の列車が互いに乗り入れることはできません。

鉄道の接続に伴って郵便交換も協定され、前年の敦賀-ウラジオストク間に続いて寛城子局とロシア鉄道郵便局との間でも交換が始まりました。実際の交換開始期日はこれまで不明だった(Swenson, I.S.J.P V61-N4, 2006)ようですが、GANの調査では07年10月1日からです。

外務省外交史料館が保管する資料から寛城子の日本領事館07年10月1日発外務大臣宛て第60号電報が見つかりました。「万国郵便条約ニ拠ル東洋欧州間外国閉嚢郵便物ノ交換ハ当寛城子支局ニ於テモ取扱フコトヽナリ本日ヨリ事務ヲ開始セリ」とあります。

この資料のおかげで、「KUANCHENGTSU」という特異な綴りを持つ欧文印は日露郵便交換のために導入され、この日から使われたことが分かります。専ら欧州発着便の内の一部郵便物に押されたのでしょう。この書状のように北清(華北)や満州、朝鮮からの郵便物は寛城子局で閉嚢に締め切ることになっていました。

寛城子長春関係図.jpgところが、寛城子局は交換開始直後の10月21日にまだ計画線だった吉林長春鉄道の起点となる長春駅の付属地に移転し、「長春局」と改称されます。長春市街地の北端部に位置して寛城子駅に近く、日露郵便交換にも便利だったからでしょう。

これにより、郵便交換用の欧文印も新しく「CHANGCHUN(長春)-S」に変わりました。「S」はSTATION(駅)を表すとされます。「KUANCHENGTSU」印は10月1日から20日間使われただけで終わりました。櫛型欧文印としては最短命でしょう。

寛城子、孟家屯、長春各駅と寛城子、長春局のだいたいの位置関係をに概念図として示します。満鉄線が長春駅まで延長されると、東清鉄道はこの図のように長春駅北側に接して引込線ホームを作り、日露郵便交換もここに移りました。孟家屯-西寛城子間は廃線となりました。

これまでに見つかっている10点足らずのKUANCHENGTSU印はすべて欧州発着郵便物への中継印ばかりで引受印はありません。孟家屯は「ド」の付くような田舎集落で、国際郵便を利用するような常住者はいなかったはずです。この印で切手を抹消して引受けられた郵便物は限りなくゼロに近いでしょう。特異な使われ方をして悲運に終わった郵便印です。
posted by GANさん at 03:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 満洲・関東州 | 更新情報をチェックする
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