2017年05月05日

モンテンルパへの特便

横山中将.jpg昭和28(1953)年6月12日に栃木局で引き受けた炭坑夫8円2枚貼りの、一見ありふれた印刷物書状です。ただ、宛先の「ヒリッピン モンテンルパ」が目を惹きます。

「モンテンルパ」とは、渡辺はま子の往年の大ヒット歌謡曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」で有名になったフィリピンの日本人戦犯収容所を指します。これは拘禁中の戦犯に宛てた「戦犯郵便」ともいうべき特殊なカバーです。

名宛人の横山静雄氏はフィリピンに派遣された第41軍司令官(中将)として、米軍のレイテ上陸から敗戦時までマニラ首都圏地区防衛の最高指揮官でした。戦後、米軍が開設したマニラ軍事法廷で、マニラ市街戦に多数の市民が巻き込まれ犠牲となった責任を問われました。1949年に死刑判決を受けましたが、未執行のまま4年経過していました。

この封書は「復員局法務調査課気付」でモンテンルパ収容所(正確にはマンティンルパ市にあるフィリピン共和国管理下のニュービリビット刑務所)の横山氏に宛てられています。200グラムの印刷物だと国際料金では25円が必要ですが、この書状は内国印刷物2倍重量料金の16円で済んでいます。

復員局は独立官庁ではなく、厚生省の一局でした。旧陸海軍省の後継官庁として軍人の復員や恩給、戦没者遺族の援護などの事務を取り扱い、現在でも厚生労働省社会・援護局として存続しています。復員局当時、軍事裁判や戦犯に関する事務は法務調査課が担当していました。

モンテンルパへの手紙の英文宛名書きが困難な人が多かったのか、あるいはフィリピンへの郵便輸送が不安定だったためでしょうか。この書状は復員局から定期便で一括して収容所に直送されたと考えられます。あるいは外交行嚢が利用されたかも知れません。収容者たちとの間に何らかの特別な送達ルートがあったことは確実です。

この封書の直後、高位の軍人として受刑者代表になっていた横山氏ら死刑囚を含むフィリピン関係戦犯110人全員は幸いなことにキリノ大統領の特赦を受けました。減刑されて1953年7月22日に帰国し、東京の巣鴨刑務所で服役しました。この年の年末にさらに特赦があり、全員が釈放されて戦後8年ぶりで家族の元に帰ることが出来ました。

横山氏関係の郵便物は数十年前に段ボール数箱分が出回り、先輩収集家の青木四三雄氏が入手して大門会などで収友に分けてくれました。これもその内の1点ですが、このアドレスの郵便物は他にはなかったので、短期間使用だったのかも知れません。見るたびに青木氏の飄々として人懐っこい笑顔が浮かんできます。
posted by GANさん at 02:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 2次大戦混乱期 | 更新情報をチェックする
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